漢詩書庫


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1.漢詩を楽しむーーーーーーー玉井幸久編




書名
講義に現れた書籍の名称を列記します。









淮南子(えなんじ)
 前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年?紀元前122年)が学者を集めて編纂させた思想書。 日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と 読むのが一般的である。『淮南鴻烈』(わいなんこうれつ)ともいう。 劉安・蘇非・李尚・伍被らが著作した。
10部21篇。『漢書』芸文志には「内二十一篇、外三十三篇」とあるが、 「内二十一篇」しか伝わっていない。道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて 書かれており、一般的には雑家の書に分類されている。
注釈には後漢の高誘『淮南鴻烈解』・許慎『淮南鴻烈間詁』がある。
巻二 俶真訓 「天地未だ剖(わか)れず、陰陽未だ判(わか)れず、四時未だ分れず、 萬物未だ生ぜず……」[1]は『日本書紀』の冒頭「古(いにしえ)に天地未だ剖(わか)れず、 陰陽分れざりしとき……」の典拠となった[2]。) ウィキペディア


懐風藻(かいふうそう)
現存する最古の日本漢詩集。撰者不明の序文によれば、天平勝宝3年11月[1](ユリウス暦751年12月10日~752年1月8日の どこか[2])に完成。
奈良時代、天平勝宝3年(751年)の序文を持つ。編者は大友皇子の曾孫にあたる淡海三船と考える説が有力である、 また他に石上宅嗣、藤原刷雄、等が擬されているが確証はない。
近江朝から奈良朝までの64人の作者による116首の詩を収めるが、序文には120とあり、現存する写本は原本と異なると 想像されている。作品のほとんどは五言詩で、平安初期の勅撰3詩集が七言詩で占められているのと大きく異なる。
作者は、天皇をはじめ、大友・川島・大津などの皇子・諸王・諸臣・僧侶など。作風は中国大陸、 ことに浮華な六朝詩の影響が大きいが、初唐の影響も見え始めている。
古代日本で漢詩が作られ始めるのは、当然大陸文化に連なろうとする律令国家へ歩みが反映されている。 『懐風藻』の序文によれば、近江朝の安定した政治による平和が詩文の発達を促し、多くの作品を生んだという。
なお、『懐風藻』には『万葉集』に歌のない藤原不比等の漢詩が収められており、大伴家持は、『万葉集』に漢詩を残すものの、 『懐風藻』には作品がない。大伴家持の「族をさとす歌」は、天平勝宝8歳に、淡海三船の讒言によって 大伴古慈悲が出雲守を解任された時に詠まれたものである。
序文の最後に「余撰此文意者、為将不忘先哲遺風、故以懐風名之云爾」(私がこの漢詩集を撰んだ意図は、 先哲の遺風を忘れないためであるので、懐風とこの書を命名した)とあり[1]、先行する大詩人たちの遺「風」を 「懐」かしむ詞「藻」集であることがわかる。
『懐風藻』完成の前年に死亡した詩人、石上乙麻呂の『銜悲藻』(散逸)を意識したものであるという説もある[3]。



漢詩鑑賞辞典 石川忠久編(かんしかんしょうじてん いしかわただひさ) 三千年前、『詩経』という一筋の川となり、大地を鳥鳴き花咲く沃野と変え、 唐に至って滔々たる大河となった「漢詩」。日本文化の礎ともなった漢詩の汲めども尽きぬ 魅力をどのように味わい、楽しむか。漢の高祖から現代の魯迅まで、 中国の名詩二百五十編に現代語訳・語釈・解説を施し、日本人の漢詩二十四編、 「漢詩入門」も収録する画期的漢詩事典。
古代の『詩経』、漢の高祖から現代の魯迅まで、さらに日本の名詩も鑑賞できる「読む事典」。 「漢詩入門」など付録も充実。教養の基礎、詩情の源泉を味わう必携の事典 古来日本文化の根本であり続けた漢詩。古代の『詩経』、漢の高祖から現代の魯迅まで、 さらに日本の名詩も鑑賞できる「読む事典」。「漢詩入門」など付録も充実。
はしがき

凡例
漢詩鑑賞事典
漢詩入門
日本の漢詩
詩書解題
中国文学史年表
漢詩鑑賞地図
索引

著者等紹介
石川忠久[イシカワタダヒサ]
1932年生まれ。東京大学文学部中国文学科卒業。同大学院修了。桜美林大学教授、 二松学舎大学教授・同学長を経て、顧問・名誉教授。(財)斯文会理事長、 全国漢文教育学会会長、全日本漢詩連盟会長等も務める(本データはこの書籍が刊行された 当時に掲載されていたものです)


漢書(かんじょ)
 中国後漢の章帝の時に班固、班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。
「本紀」12巻、「列伝」70巻、「表」8巻、「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権まで について書かれた。後漢書との対比から前漢書ともいう。
『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史(一つの王朝に区切っての歴史書)の形式をとった歴史書である。 『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。
『史記』と並び、二十四史の中の双璧と称えられ、故に元号の出典に多く使われた。史記と重なる時期の記述が多いので、 比較される事が多い。
特徴として、あくまで歴史の記録に重点が多いので、史記に比べて物語の記述としては面白みに欠けるが、 詔や上奏文をそのまま引用しているため、正確さでは史記に勝る。また思想的に、儒教的な観点により統一されている。
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桓譚新論(かんたんしんろん)
 漢代の思想家・経学者桓譚の著述『新論』は、29篇から成る中国最古の無神論著作の一つ。 原書は早くに戦乱で消え、現存の『新論』は、いずれも後世の学者が様々な著述から集めた輯佚本である。 本書は、清・厳可均の輯本を底本に、その他の学者の研究成果も踏まえ、哲学者・歴史家である朱?之(1899-1972)が編纂した、 最善版の『新論』輯本。1950年代に著された標点本が半世紀後の2002年、『朱謙之文集』(福建教育出版社) の一篇として初公刊され、このたび『新編諸子集成続編』シリーズの一冊として刊行された。



観無量寿経(かんむりょじゅきょう)
観無量寿経(観経)は、「いづれの行もおよびがたき」罪悪の凡夫でも、南無阿弥陀仏のお念仏を称える ことによって救われ、極楽に往生できることを説く経典です。その経典の序文には、 「王舎城の悲劇」と称される、親子の間で繰り広げられた悲劇の物語が説かれています。
この経典のサンスクリット原典は伝えられておらず、〓良耶沙きょうりょうやしゃ(西暦424-453年)と いう西域の人による漢訳『仏説観無量寿経』のみが現存しています。
【仏説観無量寿経の大意】
[序文]
私はこのように聞きました。あるとき仏(釈尊)はインドの王舎城(ラージャグリハ)という国にある 「鷲の峰」(耆闍崛山ぎしゃくっせん、霊鷲山りょうじゅせん)に千二百五十人の修行者たち、 三万二千人の諸菩薩とともにおられた。
ときに王舎城ではマガダ国王の親子の間に、一つの悲劇が起こっていた。マガダ国の太子である 阿闍世あじゃせ(アジャータシャトル)が、調達じょうだつ(デーヴァダッタ、提婆達多)に そそのかされて、父である頻婆娑羅(ビンビサーラ)国王を牢獄に閉じこめたのである。 王の身を案じた妃の韋提希いだいけ(ヴァイデーヒー)は、自分のからだに食物を塗るなどして 牢獄内に食物を持ち込み、ひそかに王に食を与えていた。しかしそれもわが子阿闍世に発覚する ところとなる。阿闍世は怒りのあまり、韋提希を殺そうとするが、家臣に説得されて、 この母親を宮廷にとじこめてしまう。わが子に背かれて囚われの身となった韋提希は憂い憔悴して、 耆闍崛山におられる仏に向かって教えを請う。
この願いに応じて自分の前に仏が現れると、韋提希は地面に身を投げ、号泣しながら仏に訴える -「私は過去になんの罪を犯したことによってこのような悪い子を生んだのでしょうか。 また世尊せそん(釈尊のこと)はどのような因縁があって、提婆達多という悪人と従兄弟なのでしょうか。 世尊よ、私のために憂い悩むことなき処をお説き下さい。もはや私はこの濁悪の世をねがいません」 -と。
そこで釈尊が眉間から光を放って諸仏の浄らかな国土(浄土)を現出されると、韋提希はその中から特に 阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと訴え、そこに行く方法を説き示されるように仏に懇願する。
[本論]
[定善の観法] そこで仏(釈尊)はまず、精神を統一し、心を西方に専念して阿弥陀仏とその極楽浄土を 観想する方法(定善じょうぜんの観法)を説き始められる。まずは太陽が西の空に沈みゆく映像を頭の 中に焼き付くようになるまで観想する「日想観」にはじまり、ないし極楽世界のありさまや阿弥陀仏の 姿やその徳などを観想し、あるいは自分が極楽浄土に往生しているありさまを観想するといった、 十三の観想の段階を説かれる。
[散善の行] つぎに仏は、ひとしく極楽浄土に往生する者といっても、そこには九種の分類 (九品くぼん)があることを説き始められる。九種の分類とは、極楽に往生しようとする者を、 その資質や能力から上品・中品・下品の三つに分類し、さらにそれぞれの品を上・中・下の三種に 分類するものである。
すなわち上品の者には上品上生じょうぼんじょうしょう・上品中生・上品下生の三者があり、 それぞれに資質や能力の上下はあれども、いづれも大乗の教えにしたがい、深く因果を信じて 極楽往生を願う人々である。これを第十四の観想という。
さらに中品上生と中品中生は小乗の戒律を守ることによって極楽往生を願う人々、中品下生は父母を 孝養するなどの世間的な福徳を行うことによって極楽往生を願う人々である。これを第十五の観想と いう。
これに対して下品に属する三種の人々(下品上生・下品中生・下品下生)は、上品や中品の人々が行うよ うな福徳を行うことが出来ないどころか、かえってさまざまな悪行を犯してしまう罪悪の凡夫であるが、 このような人々でも善き人(善知識ぜんじしき)の教えに出会い、南無阿弥陀仏の念仏を称えるならば 極楽往生することができる。これを第十六の観想という。
このように仏が説かれたとき、韋提希とその侍女たちは極楽世界のすがたや、阿弥陀仏および 観音菩薩・勢至菩薩を見て、歓喜の心が起こり、からりと迷いがはれて大悟し(廓然大悟)、 さとりを得ようとする心(菩提心)を起こして、極楽往生を願った。
[結語]
仏(釈尊)は、弟子の阿難あなんからの、この経の「かなめ」は何なのですかとの問いに対して、 念仏すべきことを強調される。すなわち、「念仏をする人は、人々の中の分陀利華ふんだりけ (プンダリーカ、白蓮華、汚泥の中から咲く白蓮華の花のような希有な尊き人)である (若念仏者、当知此人、是人中分陀利華)」と説かれ、そして最後に「あなたはよくこの語を たもちなさい。この語をたもてとは、すなわち無量寿仏のみ名をたもちなさいということである (汝好持是語。持是語者、即是持無量寿仏名)」、つまり念仏せよ、と言って、説法を終えられる。
その後、釈尊は耆闍崛山に戻り、広く大衆に対して上と同じ説法をされた。すると、 これを聞いた大衆はみな歓喜し、礼をなして釈尊のもとを退いた。



耆舊伝(ききゅうでん)
別名 『襄陽記』(じょうようき)『襄陽耆旧記』『襄陽耆旧伝』と呼ばれ、東晋の習鑿歯が編纂した襄陽郡(現在の襄陽市)の 地方志。割合と早く散逸したため、清の光緒32年に呉慶燾が輯本を編した。
内容は、晁公武『郡斎読書志』によれば「前篇で襄陽の人物について記載し、中篇で山川、城邑について記載し、 後篇で牧守について記載している。」としており、地元の人物伝や名勝旧跡について広く記載したものであったと思われる。 呉慶燾の輯本では「人物」「山川」「城邑」「牧守」でそれぞれ巻を分けている。
書名について、『隋書』「経籍志」に「襄陽耆旧記五巻、習鑿歯撰」とあり、『旧唐書』「経籍志」に 「襄陽耆旧伝五巻、習鑿歯撰」とあり、『宋史』「芸文志」に「習鑿歯襄陽耆旧記五巻」とある。また、 『三国志』を始めとする諸書ではしばしば「襄陽記」という名称で引用されており、書名は統一をみない 。前述『郡斎読書志』では「記載内容は雑多であり、伝記の体裁ではない」として、「襄陽耆旧伝」ではなく 「襄陽耆旧記」が正しい書名であるとしている。後代の輯本でも「襄陽耆旧記」を書名としている。



旧唐書(くとうじょ)
中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉?、張昭遠、王伸らによって編纂された歴史書。二十四史の1つ 。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。
当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるように なった。
完成と奏上は945年(開運2年)6月[1]だが、その翌年には後晋が滅びてしまうため、 編纂責任者が途中で交代するなど1人の人物に2つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、 晩唐は記述が薄いなど編修に多くの問題があった。そのために後世の評判は悪く、北宋時代に 『新唐書』が再編纂されることになった。しかし、逆に生の資料をそのまま書き写したりしているため、 資料的価値は『新唐書』よりも高いと言われる。
『旧唐書』東夷伝の中には、日本列島について「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、 「巻199上 列傳第149上 東夷[2]」には「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地[3]」とあり、 倭国が国号を日本に改めたか、もともと小国であった日本が倭国の地を併合したと記述されている。 そして、宋代初頭の『太平御覧』にもそのまま二つの国である旨が引き継がれている。 これについては、編纂過程の影響であると考えるのが日本における通説である。異論も存在していて、 例えば、森公章は「日本」の国号成立後の最初の遣唐使であった702年の派遣の際には国号変更の 理由について日本側でも不明になっており、遣唐使が唐側に理由を説明することが出来なかった 可能性を指摘する[4]。大庭脩は、これを単なる編纂過程のミスではなく「倭国伝」と「日本国伝」 の間の倭国(日本)関連記事の中絶期間には、白村江の戦い及び壬申の乱が含まれており、 当時の中国側には、壬申の乱をもって「倭国(天智政権)」が倒されて「日本国(天武政権)」が 成立したという見解が存在しており、結論が出されないままに記述された可能性があると指摘している。     
「本紀」20巻、「列伝」150巻、「志」30巻の計200巻から成る。紀伝体の書である。



源氏物語(げんじものがたり)
平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説である。文献初出は1008年(寛弘五年)で、 この頃には相当な部分までが成立していたと思われる。
紫式部(詳細は作者を参照)の著した、通常54帖(詳細は巻数を参照)よりなるとされる[7][8]。 写本・版本により多少の違いはあるものの、おおむね100万文字・22万文節[9]400字詰め原稿用紙で約2400枚[10]に及ぶ およそ500名近くの人物が登場し[11]、70年余りの出来事が描かれた長編で、800首弱の和歌を含む典型的な王朝物語である。 物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、 しばしば「古典の中の古典」[12][13]と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされる。
ただし、度々喧伝されている「世界最古の長篇小説」という評価は、近年でも2008年(平成20年)の源氏物語千年紀委員会の 「源氏物語千年紀事業の基本理念」でも、源氏物語を「世界最古の長編小説」と位置づけ[14]するなどしているが、 王朝文学に詳しい作家中村真一郎による、(古代ラテン文学の)アプレイウスの『黄金のロバ』や、 ペトロニウスの『サチュリコン』に続く「古代世界最後の(そして最高の)長篇小説」とする知見[15]や、 島内景二のように日本国内にも「竹取物語」や「うつほ物語」などがあるから最古とは認定出来ないという意見[16]もあり、 学者たちの間でも見解が異なる。20世紀に入り、英訳、仏訳などで欧米社会にも紹介され、『失われた時を求めて』など、 20世紀文学との類似から高く評価されるようになった。
母系制が色濃い平安朝中期(概ね10世紀頃)を舞台に、天皇の親王として出生し、 才能・容姿ともにめぐまれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏の栄華と苦悩の人生、およびその子孫らの人生を描く。 通説とされる三部構成説に基づくと、各部のメインテーマは以下とされ、長篇恋愛小説としてすきのない首尾を整えている。
第一部:光源氏が数多の恋愛遍歴を繰り広げつつ、王朝人として最高の栄誉を極める前半生
第二部:愛情生活の破綻による無常を覚り、やがて出家を志すその後半生と、源氏をとりまく子女の恋愛模様
第三部:源氏没後の子孫たちの恋と人生
平安時代の日本文学史においても、『源氏』以前以降に書かれたかによって、物語文学は「前期物語」と 「後期物語」とに区分され[17]、あるいはこの『源氏』のみを「前期物語」及び「後期物語」と並べて 「中期物語」として区分[18]する見解もある。後続して成立した王朝物語の大半は、『源氏』の影響を受けており、 後世しばらくは『狭衣物語』と並べ、「源氏、狭衣」を二大物語と称した。 後者はその人物設定や筋立てに多くの類似点が見受けられる。
こうした『源氏物語』の影響は文学に限定されず、原典成立後の平安時代末期に物語を画題とした日本四大絵巻のひとつ 『源氏物語絵巻』が制作された。その後も『源氏』を画題とした『源氏絵』は、版本『絵入源氏物語』、 また『源氏物語図屏風』等の屏風や襖などに様々な画派によって描かれた。また、『源氏物語』意匠の調度品、 さらに着物や帯の香の図(源氏香)等にもその影響がみえ、後の文化や生活に多大な影響を与えたとされている。



孝経(こうきょう)
中国の経書のひとつ。曽子の門人が孔子の言動をしるしたという。十三経のひとつ。 孝の大体を述べ、つぎに天子、諸侯、郷大夫、士、庶人の孝を細説し、そして孝道の用を説く。
『孝経』は孔子が曽子に孝について述べる、という形式を取っている。 古文は22章、今文や御注本は18章から構成され、各章の終わりには多く『詩経』の文句を引く(ただし、 朱子は詩の引用を後世の追加とみて削っている)。
親を愛する孝は徳の根本であり、「至徳」であり、上は天子の政治から下は庶民までの行動原理であるとする。 全体は短く、五経のうちには含まれていないが、古くから重要視された。
『孝経』の作者についてはいくつかの説がある[1]。 伝統的には孔子本人の作とされた[2]。これは孔子を語り手としている以上当然ともいえる。曽子を作者とする説も古くからある[3]。 これに対して曽子の門人を作者とする説は宋にはじまり、朱子『孝経刊誤』がこの説を採用している。 ほかに七十子説、子思説、孟子の弟子説などがある。清の姚際恒「古今偽書考」は、『孝経』が『春秋左氏伝』 と多く一致することから、漢代の偽作とするが、『呂氏春秋』が『孝経』を引用しているため、 先秦の著作であることは疑いえない[4]。武内義雄は、『孝経』が「天子・諸侯・卿大夫・庶人」に章を分けているのが 『孟子』の思想と一致しているとして、『孝経』が孟子と同じ学派によるものと考えた[5]。
秦の始皇帝の焚書ののち、前漢の初めに顔芝・顔貞父子によって世に出た『孝経』は、漢代通用の隷書で書かれていたために 今文孝経という。全18章からなる。今文孝経は鄭注(鄭玄かどうかは不明)がつけられた。 これに対して、漆書蝌蚪の古文字によるものを古文孝経という。漢の武帝の末に魯共王が孔氏の書院の壁から得たとも[6]、 昭帝のときに魯国の三老が献じたともいう[7]。『漢書』芸文志の顔師古注に引く桓譚『新論』によると、古文孝経は1872字あり、 今文と400字あまり異なっていた。古文には今文の18章のほかに閨門章があり、今文の庶人章を2章に分け、聖治章を3章に分け、 全22章からなるが、今文と本質的には大きな差はなかった。その後、古文孝経は梁代に散佚した。 隋代に孔安国の伝のついた古文孝経が再発見され、劉炫がこれに注釈をつけたが、劉炫による偽作であるとの噂が立った[8]。 なお、『漢書』は古文孝経については記すが、孔安国が伝をつけたとは述べていない。
唐の玄宗が、今文派と古文派の両派を討論させたが決着がつかなかったため、玄宗みずから注釈し (御注孝経の開元始注本。本文は今文系)両派の争いを収めようとした。その後、御注孝経は改訂された (天宝重注本・石台本)。宋の??の疏がある。
その後中国では御注本のみが行われ、鄭注今文と孔伝古文はともに滅んでしまった。宋代にはいり、 司馬光は秘閣で古文孝経を見ることができたが、文字は古文ではなく、伝もついていなかった。 これをもとに司馬光は『古文孝経指解』を作った。朱子の『孝経刊誤』も基本的にこの古文によっているが、 本文のうち最初の7章(今文では6章)のみが本文で、他は後の人が本文を敷衍解釈した「伝」とする解釈のもとに大胆に 本文を書きかえた。
今文については、『経典釈文』や『群書治要』などに引用されて残っているもののほかに、敦煌から発見された抄本がある。
前漢の宣帝は即位前に『詩経』『論語』とともに『孝経』を学んでいたという[9]。平帝の元始3年(西暦3年) には各学校に孝経師一人を置くようにさせている[10][11]。後漢にはいると『孝経』にもとづく緯書が多く作られ (『孝経援神契』『孝経鈎命決』など)、それらの書では『孝経』を『春秋』と並べて重視した[12]。
南北朝時代の南斉では鄭注本の今文を教科書に採用した[13]。敦煌文書も大部分は今文系である[14]。
唐代には前述のとおり玄宗御注本が行われたが、御注は孝を国家の政治道徳へと転換し、家族的な孝を君に移して忠と すべきことを強調した[15]。
朱子『孝経刊誤』は朱子の名声によって後世への影響が強く、朱子本を元にした元の董鼎『孝経大義』は日本でも大いに流行した。
日本では古くから『孝経』が重視された。美努岡万墓誌(728年ごろ)に古文孝経をもとにした文章が使われている[16]。 また、胆沢城から発見された『孝経』の漆紙文書は奈良時代中期・後半のものとされる[17]。
養老令には学生が『論語』と『孝経』を学ぶべきことを述べている。『日本三代実録』によると、貞観2年(860年)には 御注本を正規の『孝経』としたが、なお孔伝古文の使用も許されていた。後に清原家が孔伝を家本とし、 孔伝古文が公式に採用された。このため、中国と異なり、日本では孔伝古文が滅びなかった。
なお、鄭注今文については、『日本国見在書目録』に孔伝と鄭注がともに見え、永観元年(983年)に奝然が北宋の太宗に 鄭注本を献上した記録があることから[18][19]、中国より遅くまで残ったようだが、現存しない。
古文孝経の古いテキストとしては建久6年(1195年)の奥書をもつ猿投神社蔵本や、仁治2年(1241年)の 奥書をもつ清原教隆校点本(内藤湖南旧蔵、現杏雨書屋蔵)をはじめとして、多くの抄本が日本に残っている。 『時慶卿記』によると、文禄2年(1593年)に朝鮮から銅活字がもたらされたときに古文孝経を印刷したというが(文禄勅版)、 実物は現存しない。 慶長4年(1599年)の古活字版古文孝経(慶長勅版)は現存する[20]。
江戸時代には中江藤樹が特に『孝経』を重視した[21]。 太宰春台は享保6年(1721年)に『古文孝経孔氏伝』を校訂出版した。これが中国に逆輸入されて『知不足斎叢書』 にはいったが、清の学者はこれを日本人による贋作と考える傾向が強かった[22][23]。
隋に古文孝経が再発見されたときに劉炫がつけた注釈である『孝経述義』も日本に1・4巻が残されているのを武内義雄が発見した。林秀一はこれを元に他の巻も復元した。林はまた敦煌本をもとに鄭注今文孝経も復元した。 林秀一はこれを元に他の巻も復元した。林はまた敦煌本をもとに鄭注今文孝経も復元した。
今文(御注本もおなじ)と古文では章の分けかたが異なるだけでなく、応感章の位置が異なる。 朱子の『孝経刊誤』は、全体を経と伝に分け、伝は順序を大幅に入れかえている。
「博愛」は『孝経』を出典とする言葉である。ただし現代とは意味が異なり、親への愛を親以外の人間にも及ぼすことをいう。 冒頭の開宗明義章の「身体髪膚、受之父母。不敢毀傷、孝之始也。立身行道、揚名於後世、以顕父母、孝之終也。」 はとくに有名であり、前半は『千字文』の「蓋此身髪、四大五常。恭惟鞠養、豈敢毀傷。」に使用されているし、 後半は「身を立て名を揚げ」という「仰げば尊し」の文句に使われている。
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江談抄(こうだんしょう)
院政期の説話集。「江談」二字の偏を取って「水言抄」ともいう。漢詩文・公事・音楽など多方面にわたる談話の記録である。
帥中納言大江匡房(1041-1111)の談話を、進士蔵人藤原実兼(黒衣の宰相といわれた信西の父)が筆記したもの。 長治から嘉承にかけて(1104-1108年)成立したと考えられる。現存本は、雑纂形態の「古本系」と、類聚形態の「類聚本系」 に大別される。談話形式を取り、連関性を欠く古本系に対し、中世に改編・加筆されたと思われる類聚本の方では内容に沿って 六部に分けている。
匡房は後三条・白河・堀河三帝の侍読を務め、詩文に秀で、また有職故実にも通じた名高き才子であった。 彼の博学を反映してか、『江談抄』はあまりに雑多な内容を持つ。そのうち、朝儀公事に関する故事や詩文にまつわる逸話が 大半を占めるが、貴族社会の世相を伝える説話も多く、後者は後世の説話文学へ影響を及ぼした。

後漢書(ごかんじょ)
中国後漢朝について書かれた歴史書。二十四史の一つ。本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の全百二十巻からなる紀伝体。 成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)。
范曄は字は蔚宗と言い、幼い頃から学問に長じ、経書に通じて文章・音楽を良くしたという。 宋の創始者・劉裕に仕えて尚書吏部郎となったが、左遷されて宣城太守になり、在任中の432年(元嘉9年)、 『後漢書』を著した。ただし范曄が執筆したのは本紀と列伝のみである。志については、范曄が後に文帝の弟、 劉義康擁立の事件に関ったことで処刑されたので書かれていない。後に南朝梁の劉昭は、范曄の『後漢書』に、 西晋の司馬彪が著した『続漢書』の志の部分を合わせ注を付けた。このため現在伝わるのは、 後述の李賢注と劉昭注の『続漢書』の志を合刻した北宋時代の版本に基づくものである。
范曄著『後漢書』の成立は既述の通り、432年と後漢滅亡から200年以上が経ってからのことであり、 年代的には『後漢書』より後の時代の範囲を記述している『三国志』の方が、范曄の『後漢書』よりも約150年も前に 既に成立していた。後漢滅亡から200年余りの間に後漢についての歴史書を数多くの史家が著している。 後漢がまだ存続していた時から書かれた同時代史書である『東観漢記』、東晋の袁宏の『後漢紀』など。 その他にも数多くの史書が存在していて、これを八家後漢書(あるいは七家)と呼んでいる。
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五経(ごけい・ごきょう)
五経(ごけい・ごきょう)または六経(りっけい・りくけい)は、儒教で基本経典とされる5種類または6種類の経書の総称。 すなわち『詩』・『書』・『礼』・『楽』・『易』・『春秋』の六経から、はやく失われた『楽』を除いたものが「五経」である。 すべて孔子以前からの書物であるが、伝統的な儒教の考えでは孔子の手を経て現在の形になったと考えられている。
ただし、実際に五経として読まれる書物の内容は時代によって異なっており、また孔子以後の儒家たちの注釈である「伝」 を含めた形で読まれた。
現行のいわゆる五経は、唐代の『五経正義』以来の『周易』『尚書』『毛詩』『礼記』『春秋左氏伝』である。
これらの書物がどのように儒家の経典となっていったのかはっきりとした過程はわからない。 『論語』を読んではっきりとわかることは、孔子の杏壇においては『詩』と『書』を学んでいたことだけである。 『春秋左氏伝』によれば、当時の使者たちが『詩』を外交に用いていたことが分かり、 これらを学んでいたのは孔子たちだけではなかったことが伺える。また『論語』では雅言(共通語のことと考えられている) について「『詩』『書』執礼」で用いていたとあり、礼に関する経典があったかはともかく、 儀礼の教育もあったことは確かであろう。また「五十にして以て『易』を学ぶ」というくだりがあり、 後に『易』が儒家経典とされる素地があった。『論語』の記述に、春秋以外の詩書礼楽と易が現れており、 後にこれらの編纂に孔子が関わったとする根拠となった。『春秋』については『孟子』において魯の史書とされるとともに、 孔子が作ったとされている。
これらの書が経としてまとめられたのは戦国時代末期、荀子のころと思われ、 『荀子』勧学篇には礼楽・詩書・春秋と併記されている。ただし、荀子にも「五経」や「六経」という言葉は見えず、 『荘子』天下篇に孔子が老子に述べた言葉として「丘は詩書礼楽易春秋の六経を治む」を初出とする。
このように六経としてまとめられたのであるが、秦の始皇帝による焚書坑儒や楚漢戦争によって書物の伝承が途絶えそうになった。 しかし、一部の経師たちが口頭で伝承したり、竹簡を隠すことによって漢代に経書を伝えた。 この時『楽』は失われて、残りの五経が武帝の時、学官に立てられた。これがいわゆる五経博士である。 なお『礼』として立てられたのは現在の『儀礼』という書物であり、礼の「士礼」部分のみしか伝わらなかったと言われる。 その一方で民間に眠る失われていた書物の採集が行われた。これらは当時の隷書(今文)ではなく、古い文字、 いわゆる古文でかかれていて、「古文経」と呼ばれるが、当時、学官に立てられていた経書(今文経)とは違う 系統のテキストであった。これにより今文を掲げる学者と古文を奉じる学者による闘争が起こり、前漢末、新には劉?によって 『春秋左氏伝』『毛詩』『逸礼』『古文尚書』といった古文経に学官が立てられた。 しかし、新は後漢王朝によって倒され、新を否定するという政治的な理由から後漢では再び今文経に学官が立てられた。 しかし、在野で力を付け、優れた学者たちを輩出した古文学者たちに押されて今文経学は衰退し、 魏晋南北朝を経て唐代になると古文経の優位が確定し、唐朝が勅撰で作った五経の注釈書『五経正義』では古文系統の テキストが採用され、現在に至っている。




山海経(さんがいきょう)
 中国の地理書。中国古代の戦国時代から秦朝・漢代にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられており、 最古の地理書(地誌)とされる。
『山海経』は今日的な地理書ではなく、古代中国人の伝説的地理認識を示すものであり、「奇書」扱いされている。 著者は禹の治水を助けた伯益に仮託されるが、実際は多数の著者の手によるものと考えられる。 劉?が漢室にたてまつった際には18編、『漢書』「芸文志」では13編。『隋書』「経籍志」や『新唐書』「芸文志」では23巻、 『旧唐書』「経籍志」では18巻。『日本国見在書目録』では21巻としている。現行本には、西晋の郭璞の伝を付しており、 5部18巻。各地の動物、植物、鉱物などの産物を記すが、その中には空想的なものや妖怪、神々の記述も多く含まれ、 そこに古い時代の中国各地の神話が伝えられていると考えられている。そのため、後世失われたものの多い中国神話の 重要な基礎資料となっている。河南省の洛陽近郊を中心として叙述されている。山経5書は、時代を追って成立した 本書の中でも最古の成立であり、儒教的な傾向を持たない中国古代の原始山岳信仰を知る上で貴重な地理的資料となっている。 洛陽を中心としている所から、東周時期の成立と推定される。 もともとは絵地図に解説文の組み合わせで、『山海図経』と呼ばれたが、絵地図は失われ、後世に解説文を頼りに想像で 挿絵をつけた。日本へは平安時代に伝わり、江戸時代には刊本として流通していた。
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三国志(さんごくし)
三国志(さんごくし)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の興亡史である。
「三国志」とは、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争覇した、三国時代の歴史を述べた歴史書である。 撰者は西晋の陳寿(233年 - 297年)(詳しくは『三国志 (歴史書)』を参照)。
後世、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、
その説話を基として明の初期に羅貫中らの手により、『三国志演義』として成立した。
「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、日本だけでなく、世界中に広まった。
単に『三国志』と言う場合、本来陳寿が記した史書のことを指す。対して『三国志演義』とは、 明代の白話小説であり、『三国志』を基としながらも説話本や雑劇から取り込まれた逸話や、 作者自身による創作が含まれている。また、登場する地名・官職名・武器防具などは三国時代の 時代考証からみて不正確なものも多い。
『三国志』は、信頼性の乏しい情報を極力排して簡朴明解な記述を行ったため、 「質直さにおいて司馬相如を超える文章」(「陳寿伝」に載せる范?の上表) 「人物評価に見るべきものがあり、記事は公正正確なものが多い」(裴松之「上三国志注表」) などの高い評価を受けた。しかし南朝宋の裴松之がその簡潔すぎる記述を惜しみ、当時存在した 諸種の文献を引用し注釈を作成した。『三国志』とこの裴注、また『後漢書』、『晋書』、 『華陽国志』、『世説新語』などに散見する三国時代の記述が三国志の史実世界を構成している。
『三国志』の戦乱と激動の記録は後世、特に唐宋の文人の詩想を大いに刺激した。『三国志』を モチーフにした詩詞としては杜甫「蜀相」、杜牧「赤壁」、蘇軾「赤壁賦」、陸游「書憤」などが特に 名高い。
三国はそれぞれ正統性を主張したが、魏が蜀を滅ぼした後、魏から禅譲を受けるという形で 司馬炎が建てた晋(西晋)によって、魏が正統であるとされた。 しかし、南北朝時代に入り、 晋が全国政権ではなくなると(東晋)、習鑿歯が蜀漢正統論を唱え、次第に注目されるようになった。 宋代には三国のうちどの国が正統であるかという、いわゆる「正閏論」が盛んになり、 司馬光(『資治通鑑』)・欧陽脩(『明正統論』)・蘇軾(『正統弁論』)らは中国の過半を 支配した実情から魏を正統とした。しかし、「正統」を決めようすること自体が現実的側面よりは 観念的・倫理的な側面の強い議論であり、結局は観念論に基づいた朱子の蜀漢正統論 (『通鑑綱目』)が主流となっていった。この歴史観は朱子学の流布と共に知識人階層に広まり、 劉備を善玉とする『三国志演義』の基本設定に一定の影響を与えた。
清代に考証学が盛んになると、王鳴盛『十七史商?』・趙翼『二十二史箚記』・銭大昕『二十二史考異』 ・楊晨『三国会要』など多くの研究が著された。これら考証学の成果は民国に入って盧弼 『三国志集解』によって集大成された。また、三国志時代の社会経済等については、 同じく民国の陶元珍の『三国食貨志』(上海商務印書館 1934年)がある。
『三国志演義』は通俗歴史小説の先駆となり、これ以後に成立する『東周列国志』『隋唐演義』 『楊家将演義』などに大きな影響を与えている。『三国志演義』自体の続編としては晋代を 舞台にした酉陽野史『続編三国志』がある。また民国に入って、周大荒が蜀漢が天下を統一するように 改作した『反三国志』(卿雲書局 1930年)というパロディ小説がある。
『三国志演義』は、手軽に手に入り読むことができ、また戦略の成功・失敗例が明解に描かれている ため、いわば「素人向け兵法書」としても重宝された。張献忠・李自成・洪秀全らが農民反乱を 起こした際、軍事の素人である彼らは『三国志演義』を「唯一の秘書」としたと言われる (黄人『小説小話』)。毛沢東も『三国志演義』や『水滸伝』を子供時代から愛読しており、 そこから兵法を学んだとされる。また初期清朝は、満州旗人達の教育に有用な漢籍を 「官書」として満州語訳したが、『三国志演義』も順治7年にダハイによって訳されて読まれていた。 ヨーロッパに渡った三国志も満洲語訳をフランス語に翻訳したものであった。 近年の奇書として成君億『水煮三国』(中信 2003年)がある。これは三国志の人物を現代世界に 登場させ、ビジネス戦争を勝ち抜いていくというパロディ小説であり、未曾有の経済発展を続ける 現代中国において『三国志演義』はビジネスという群雄割拠の戦乱を勝ち抜く兵法書とみなされた。
三国志の物語の母体となったのは説話や雑劇、すなわち講唱文芸や演劇などの民間芸能であるが、 これらは『三国志演義』という完成品を生み出した後も引き続き発展し続ける。 演劇では京劇・川劇・越劇など、講唱文芸では子弟書・鼓詞・弾詞などで今も三国志は主要 ジャンルの一つであり、また三国志の登場人物に関する民間伝説も多く生まれ、近年民俗資料と して収集が進んでいる。これらの中には『三国志演義』とは違ったエピソードが語られている ものも多くある(例えば京劇の「三国戯」において貂蝉は「任紅昌」という本名を持っているが、 これは雑劇に由来する設定で『三国志演義』に取り入れられなかったものである)。
現代の大衆文化としては、児童向けの『連環図画三国志』[注釈 1](上海世界書局 1927年)があり、 実写ドラマとして『三国志 諸葛孔明』(湖北電視台 1985年)『三国志』(中国中央電視台 1990年) などがある。また近年は日本のゲーム・漫画市場における三国志ブームが逆輸入されて、 日本の作品を模倣して三国志の漫画・ゲームなどを作成されている。
その他、中国国内での経済的意欲の高まりと共に三国志をテーマにした観光ビジネスの展開が 各地で進み、ゆかりの地では巨大な石像の建立や記念施設が建てられ、中にはテーマパークのような 施設も多い。

  三国志演義(さんごくしえんぎ)
明の時代に書かれた中国の歴史小説で、四大奇書(しだいきしょ) の一つに数えられます。 四大奇書とは、中国で元代-明代に書かれた四つの優れた長編小説のことです。 「奇書」とは「世に稀なほど卓越した書物」の意味です。 奇妙な書ではありません。 日本では四大奇書といえば『三国志演義』、『水滸伝』、『西遊記』、『金瓶梅』 の四つを指しますが、 『金瓶梅』の代わりに『紅楼夢』を入れる説もあります。三国志演義は施耐庵 、あるいは羅貫中が三国時代に関する 講談をもとに創作されたとされています。三国志演義は小説なので、はなしをおもしろくするために信憑性とはべつに ストーリーを組み立てています。 そのため内容のすべてが正しいとは限りません。 また三国志演義の作者は蜀を正統な国としているのでかなり蜀びいきです。 そのため蜀の主役であった諸葛亮孔明のすごさを少し誇張表現しているかもしれません、ていうかかなり誇張表現しています。 諸葛亮孔明より司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)のほうが凄かったなんていう人もいるくらいです。


 

史記(しき)
中国前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。 正史の第一に数えられる。二十四史のひとつ。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ) であるが、後世に『史記』と呼ばれるようになるとこれが一般的な書名とされるようになった。 「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻から成る紀伝体の歴史書で、 叙述範囲は伝説上の五帝の一人黄帝から前漢の武帝までである。このような記述の仕方は、中国の歴史書、 わけても正史記述の雛形となっている。
日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。


詩経(しきょう)(詩経)
中国最古の詩篇である。古くは単に「詩」と呼ばれ、また周代に作られたため「周詩」とも呼ばれる。 儒教の基本経典・五経あるいは十三経の一。漢詩の祖型。古くから経典化されたが、内容・形式ともに文学作品(韻文) と見なしうる。もともと舞踊や楽曲を伴う歌謡であったと言われる。
西周時代、当時歌われていた民謡や廟歌を孔子が編集した(孔子刪詩説)とされる。史記・孔子世家によれば、 当初三千篇あった膨大な詩編を、孔子が311編(うち6編は題名のみ現存)に編成しなおしたという。 孔子刪詩説には疑問も多いが、論語・為政篇にも孔子自身が詩句を引用していることから、 その時代までには主な作品が誦詠されていたことが窺い知れる。
現行本『詩経』のテキストは毛亨・毛萇が伝えた毛詩(もうし)である。そのため現行本に言及する場合、 『毛詩』と呼ぶことも多い。または詩三百・詩三百篇・或いはただ単に三百篇・三百五篇・三百十一篇とも呼ばれる。
四書(ししょ)(詩経)
儒教の経書のうち『大学』『中庸』『論語』『孟子』の4つの書物を総称したもの。 四子(しし)・四子書(しししょ)とも言われる。
南宋の儒学者朱熹が『礼記』中の「大学」「中庸」2篇を単独の書物として『論語』『孟子』と合わせ、 儒教創始期の4人の代表人物、曾参・子思・孔子・孟子(略して孔曾思孟)に関連づけて『四子』または『四子書』と呼んだ。 その略称が『四書』である。朱熹は四書を五経に学ぶ前の入門の書物としている。 『礼記』のうち曾参の作とされた「大学」と子思の作とされた「中庸」を特に取り上げる立場は宋代以前でも韓愈など道統を 重視する学者に見られ、北宋でも程頤・程顥(二程子)ら道学者が特にこれらを重視した。これを受けた朱熹は四書に対する 先人の注釈を集めた『四書集注』を編んだ。
元朝以降、官吏登用試験である科挙の科目とされたので、独自の地位を獲得して「四書五経」と併称されるまでに至った。
大学
伝説上、孔子の弟子曾参(紀元前505年 - 紀元前434年)の作とされた。唐代の韓愈・李?らの道統論によって持ち上げられ、 北宋の二程は「大学は孔氏の遺書にして初学入徳の門」と称した。二程の思想を継承する南宋の朱熹は『大学』を 『礼記』から取り出して、『論語』『孟子』に同列に扱って四書の一つとし、二程の意を汲んで、 四書の最初に置いて儒学入門の書とした。儒家にとって必要な自己修養がいわゆる三綱領八条目の形で説かれているという。
中庸
もともと『礼記』中の1篇。『史記』孔子世家が「子思は「中庸」を作る」とすることから、孔子の孫、 子思(紀元前483年 - 紀元前402年)の作とされる。唐代の韓愈・李?らの道統論によって持ち上げられ、 北宋の二程は「中庸は孔門伝収授心の法」と称した。二程の思想を継承する南宋の朱熹は『中庸』を『礼記』から取り出して、 『論語』『孟子』に同列に扱って四書の一つとした。現在では秦代の儒者の手になるとするのが一般的である。
論語
孔子と弟子たちの言行録である。孔子の弟子たちの手によって整理された。漢代には今文系統のテキストに 「魯論」20篇「斉論」22篇があり、古文系統のテキストに「古論」21篇があったという。 後漢の張禹は「魯論」を中心に同じく今文の「斉論」と校合して作った「張侯論」を作り、 さらに後漢末の鄭玄がこれを「古論」と校合して作ったのが現行の『論語』とされる。
『孟子』
孟子(約紀元前372年-紀元前289年)とその弟子たちの言行録。『漢書』芸文志以降、『孟子』は諸子略や子書、 すなわち諸子百家の書に挙げられており、経書として扱われていなかった。孟子は長らく評価されない書物であったが、 唐末、宋代の道統論によって取り上げられ、朱熹によって四書に『孟子』を入れられたことで現在のような経書としての権威を 確立した。


貞観政要(じょうがんせいよう)
 唐代に呉兢[1]が編纂したとされる太宗の言行録である。題名の「貞観」は太宗の在位の年号で、 「政要」は「政治の要諦」をいう。全10巻40篇からなる。
中宗の代に上呈したものと玄宗の代にそれを改編したものと2種類があり、第4巻の内容が異なる。 伝本には元の戈直(かちょく)が欧陽脩や司馬光による評を付して整理したものが明代に 発刊されてひろまった「戈直本」と、唐代に日本に伝わったとされる旧本の2系がある。 日本以外にも朝鮮・女真・西夏の周辺諸語に訳されるなど大きな影響を与えた。

大要と背景
本書は、唐の太宗の政治に関する言行を記録した書で、古来から帝王学の教科書とされてきた。 主な内容は、太宗とそれを補佐した臣下たち(魏徴・房玄齢・杜如晦・王珪[2]ら重臣45名[3]) との政治問答を通して、貞観の治という非常に平和でよく治まった時代をもたらした治世の要諦が 語られている。
太宗が傑出していたのは、自身が臣下を戒め、指導する英明な君主であったばかりでなく、 臣下の直言を喜んで受け入れ、常に最善の君主であらねばならないと努力したところにある。 中国には秦以来、天子に忠告し、政治の得失について意見を述べる諫官(かんかん)という職務が あり、唐代の諫官には毎月200枚の用紙が支給され、それを用いて諫言した。 歴代の王朝に諫官が置かれたが、太宗のようにその忠告を聞き入れた皇帝は極めて稀で、 天子の怒りに触れて左遷されたり、殺されるということも多かったという。
太宗は臣下の忠告・諫言を得るため、進言しやすい状態を作っていた。例えば、自分の容姿は いかめしく、極めて厳粛であることを知っていた太宗は、進言する百官たちが圧倒されないように、 必ず温顔で接して臣下の意見を聞いた(求諫篇)。また官吏たちを交替で宮中に宿直させ、 いつも近くに座を与え、政治教化の利害得失について知ろうと努めた。 そして臣下たちもこれに応えて太宗をよく諫め、太宗の欲情に関することを直言したり(納諫篇)、 太宗の娘の嫁入り支度が贅沢であるということまでも諫めている(魏徴の諫言)。 太宗は筋の通った進言・忠告を非常に喜び、至極もっともな言葉であると称賛し、 普通の君主では到底改めにくいであろうところを改めた。
また太宗は質素倹約を奨励し、王公以下に身分不相応な出費を許さず、以来、国民の蓄財は豊かに なった。公卿たちが太宗のために避暑の宮殿の新築を提案しても、太宗は費用がかかり過ぎると 言って退けた。太宗を補佐した魏徴ら重臣たちは今の各省の大臣に相当するが、 その家に奥座敷すら無いという質素な生活をしていた。私利私欲を図ろうと思えば、 容易にできたであろう立場にいながらである。
このような国家のため、万民のために誠意を尽くしたその言行は、儒教の精神からくるといわれる。 中国では儒教道徳に基準を置き、皇帝は天の意志を体して仁慈の心で万民を愛育しなければならないと いう理念があった。また臣下にも我が天子を理想的な天子にするのが責務であるという考えがあり、 天子の政治に欠失がないように我が身を顧みず、場合によっては死を覚悟して諫めることがあった。
ゆえに本書は、かつては教養人の必読書であり、中国では後の歴代王朝の君主 (唐の憲宗・文宗・宣宗、宋の仁宗、遼の興宗、金の世宗、元のクビライ、明の万暦帝、 清の乾隆帝など)が愛読している。また日本にも平安時代に古写本が伝わり、 北条氏・足利氏・徳川氏ら政治の重要な役にあった者に愛読されてきた[4][5]。

編纂の動機[編集]
本書の編纂は呉兢[1]によるもので、時期は太宗の死後40から50年ぐらい、つまり武則天が退位して 中宗が復位し、唐朝が再興した頃である。呉兢は以前から歴史の編纂に携わっており、 太宗の治績に詳しいことから中宗の復位を喜んだ。そして貞観の盛政を政道の手本として欲しいとの 願いから、『貞観政要』を編纂して中宗に上進した。その後、玄宗の世の宰相・ 韓休(かんきゅう、672年 - 739年[6])がかつて中宗に上進したその書を高く評価し、 後世の手本となるように呉兢に命じて改編して上進させた。以後、 『貞観政要』が世に広まったのである。
中宗に上進した初進本は中宗個人を対象としたもので、天子が心得るべき篇(輔弼(ほひつ)篇や 直言諫諍(かんそう)篇、第4巻参照)があり、玄宗への再進本は後世の手本とするものなので、 太子や諸王を戒める篇に改められている[7]。

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  浄土三部経(じょうどさんぶきょう)
『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の3仏教経典をいう。ともに,種々のけがれに染まった この世の人々のために,釈尊が阿弥陀仏の救済を説いた経典。浄土三部経という名称は浄土宗の 開祖法然に始るが,それ以来,親鸞の浄土真宗,証空の西山浄土宗,一遍の時宗などは, いずれもこの経典を宗派の根本聖典としている。成立については諸説があるが, 『無量寿経』と『阿弥陀経』は前1世紀頃西北インドで,『観無量寿経』はそれよりのちに, 4~5世紀頃西北インドあるいは中国でつくられたものと考えられている。 また『無量寿経』は『大経』,『阿弥陀経』は『小経』とも呼ばれ,ともにサンスクリット原典が 存在するが,『観経』とも呼ばれる『観無量寿経』は,漢訳とウイグル語訳が存するだけである。

  書経(しょきょう)
 尚書(しょうしょ)とも言う。政治史・政教を記した中国最古の歴史書。堯舜から夏・殷・周の帝王の言行録を整理した 演説集である。また一部、春秋時代の諸侯のものもあり、秦の穆公のものまで扱われている。
甲骨文・金文と関連性が見られ、その原型は周初の史官の記録にあると考えられている。儒教では孔子が編纂したとし、 重要な経典である五経のひとつに挙げられている。
古くは『書』とのみ、漢代以降は『尚書』と呼ばれた。『書経』の名が一般化するのは宋代以降である。
現行本『書経』58篇のテキストは「偽古文尚書」であり、その大半は偽作されたものである。


 貞観政要(じょうがんせいよう)
唐代に呉兢が編纂したとされる太宗の言行録である。題名の「貞観」は太宗の在位の年号で、「政要」は「政治の要諦」をいう。 全10巻40篇からなる。
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  春秋左氏伝(しんじゅうさしでん)
孔子の編纂と伝えられる歴史書『春秋』の代表的な注釈書の1つで、紀元前700年頃から約250年間の歴史が書かれている。 通称『左伝』(さでん)。『春秋左伝』、『左氏伝』ともいうことがある。
現存する他の注釈書として『春秋公羊伝』、『春秋穀梁伝』とあわせて春秋三伝(略して三伝)と呼ばれている。三伝の中で、 左伝は最も基本的だとされている。
『左伝』の作者は、魯の左丘明であるといわれているが、定かではない。一説には、古くからあった史書を前漢の劉?が 「春秋左氏伝」と改めて左丘明の著として宣伝し、自らが擁立していた王莽の漢王朝乗っ取りの根拠にしたのだという康有為らの 有力な異説があるが、これも立証されているわけではない。
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新唐詩選(しんとうしせん)
中国の詩は,世界の詩のなかでも最も美しいものの一つである.とりわけ唐代は, 李白や杜甫をはじめとして,多くのすぐれた詩人が輩出した時代であった. 中国の詩に親しもうとする若い世代のために,中国文学者と詩人の二人の著者が協力して, 主要な唐詩の読解とその味わい方を懇切に説いた唐詩の世界への案内. 著者 吉川 幸次郎著 , 三好 達治 (岩波新書)




西京雑記(せいきょうざっき)
中国の歴史故事集。晋の葛洪 (かっこう) の編。前漢末の劉きんが原著者といわれるが確かではない。 6巻。西京とは前漢の都長安をさし,王昭君の故事など,前漢における有名人の逸話,宮室,制度,風俗などに関する エピソードを簡潔な文章で記録したもの。



世説新語(せせつしんご)
中国南北朝の宋の劉義慶が編纂した、後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた小説集。 今日『四部叢刊』に収めるものは上中下三巻に分かつが、テクストによってその巻数は二、三、八、十、十一等の異同がある。 『隋書』「経籍志」によれば、もとは単に『世説』と称したようであるが、『宋史』「芸文志」に至ってはじめて 『世説新語』の称が現れた。『世説新書』とも呼ばれる。

全唐詩(ぜんとうし)
清・康熙帝の勅命により、彭定求らが編纂した、唐詩のすべてを収載した奉勅撰漢詩集。900巻、 目録12巻、補遺6巻、詞12巻。
1703年(康煕42年)の成立。唐代の詩すべてが網羅され、作者の数は2,900余人、 作品数は4万8,900余首という。
明の胡震亨撰『唐音統籤』『唐音癸籤』を稿本に、内府蔵『全唐詩集』を加え、 残碑・断碣・稗史・雑書から採録している。
江戸時代の日本に輸入されて大評判となったが、市河寛斎は『全唐詩』に漏れた唐詩を集めて 『全唐詩逸』3巻(1804年(文化元年))を出版している。
http://ctext.org/quantangshi/zh




捜神記(そうじんき)
4世紀に中国の東晋の干宝が著した志怪小説集。『隋書』「経籍志」などによると、もとは30巻あったというが、散逸し、 現存する20巻本は、後の人が蒐集、再編して万暦年間に『干宝撰捜神記』と題して刊行したもの。
原書は、著者の干宝が、先立つ書より収録したものと、自身の見聞とを併せたものであるとされる。 本書を著述するようになった機縁は、干宝の父の婢が埋葬ののち10数年後に蘇ったことに感じ入って、 本書を著すようになったという。
現行20巻本は、神仙・方士・徴応・感応・再生・魑魅・妖怪・人間や動植物の怪異などに関係する470余の説話を、 説話の型で巻ごとに分類して収録している。中には後世の作も混入しており、仏教的な説話も含まれている。
後の書にも『捜神記』からの引用とする説話が多くあり、『太平広記』では80数条が収録されている。




宋名臣言行録(そうめいしんげんこうろく)
北宋(960年~1127)時代の政治家、高級官僚の言行録である。朱子学の祖である南宋の朱熹の編纂というが、 多くは当時の随筆、史書、行状記、墓誌銘に基く。また全5集合計75巻のうち朱熹の編纂は初めの2集だけで、あとの3集51巻は 南宋末の李幼武の手になると言われる。
扱われているのは宋代の政治家や官僚であるが網羅的ではなく、王安石系の新法派は、王安石本人を例外としてすべて除かれている。 表題には「名臣」とあるが、採録されている人々は必ずしもそれに値するわけではない。政敵と権力を争い、賄賂を取る者、使う者、 君主に諫言をし、地方に左遷される者、或いは自ら地方の知事に退き難を避ける者、清廉潔白を通す者など様々である。しかしそれ故にこそ、 現代の中国の人々に通ずる行動、裏の裏を読むような処世に尽きぬ興味がある。
たとえば竇儀(とうぎ、914~966)。開宝年間の翰林学士。当時趙普が宰相で専権を振るっていた。太宗はこれを患い、 趙普の落度を聞きたかった。ある日、竇儀を召して、話題は趙普が不法なことばかりしていること、竇儀の才能を早くから嘱望していることに 及んだ。しかし竇儀はそれに乗らず「趙普は建国の元勲であり、公平忠亮で社稷の臣である」と盛んに言い立てたので帝は不機嫌になった。
竇儀は帰って酒を注がせ弟達に言った。「自分は宰相になれないが、海南島の辺境に流されることも無い。我が一族は安泰だ」と。
太宗は竇儀の次に同じ翰林学士である盧多遜を召出した。盧多遜は趙普に恨みがあり、なおかつ自身の出世を願っていた。 そのため趙普の短所を攻撃した。その結果、趙普は宰相を罷免され、生命も危うかったが、昔の功績があったので禍を脱し、 河陽の知事に左遷された。盧多遜は参知政事から宰相となった。
しかし太平興国七年、趙普が宰相に返り咲くと、盧多遜は海南島に流されることとなった。竇儀の言葉どおりとなったのである。
或いは張詠(946~1015)。将来の大臣と期待されたが剛直であることが災いして挫折。地方官として優れ言行に富む。 その彼が陳州にいた頃のこと。
食事中に官報が届く。食べながらそれを読み卓をたたいて慟哭し、指を弾じて罵倒する。彼の属する北方派の領袖寇準が南方派の丁謂に 逐われたからである。そこで張詠は禍が自らに及ぶことを予測し、意図的にイカサマ博打を行い悪評を撒いた。 多少の悪評でどこかに左遷されれば大難を避けることが出来るというのが張詠の読み。しかし丁謂はこれを聞いても害そうとしなかった。 敵の丁謂はその手に乗らなかったというわけである。
朱熹は、張詠の韜晦は知者のやることで、賢者のすることに非ずと評する。賢者には義があるだけ、禍は不可避で避けようとしてはならないと いうのである。
朱子学の祖の評言はひとまず措いて置くが、彼等の行動を読んでいると、中国の政治の裏面で人はどのような思考法をとるのかが伺える。 それは現代の中国を読み取る上でも有効である。このような思考法が通用するところは中国以外あちらこちらにあるであろう。
中国の次の最高指導者としての地位を固めている習近平国家副主席は、現在アメリカを公式訪問中である。その彼に連なり最高指導部入りを 目指す薄煕来書記の側近が突然職を解かれた。汚職が原因で失脚したと言われている。この側近は薄書記がかつて省長を務めた 東北部の遼寧省から重慶市に移る際、公安局長に抜擢して連れてきた右腕である。
やがて共産党大会が開かれるが、大会前には最高指導部の内部で激しい政治闘争が繰り広げられるのが常という。そのため、中国のネットや 香港の新聞には、事件についてさまざまな情報が流れているとのこと。「汚職疑惑で失脚し当局に拘束された」というものから 「アメリカへの亡命を求めたが断られた」という臆測まで出ている。http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/0214.html
宋代の「名臣」の言行を見ていると、激しい権力闘争とともに、蓄財殖財や多少の汚職も当然とするところが見えてくる。 勿論清廉の士がいないわけではないが、総じて日本の感覚とはかなり異なる。汚職が罰せられるのは、それが一般水準からかけ離れているか、 政治的意図があるからと考える方が順当のようである。とすれば、習近平に関係する人物が現在涜職の罪に問われていることに関し、 中国の人々が様々な推測を行うのも首肯できることである。
『宋名臣言行録』に登場する人々のものの考え方や行動様式は、この書名に因み後代の日本で作られた岡谷繁実の『名将言行録』 に出てくる人々のものとは随分異なる。しかし、閑雅な清談とは対極の、権謀うずまく中で熾烈な争いをする士大夫たちを記録するがゆえに、 『宋名臣言行録』は彼の国の今の人の動き方について実に多くのことを教えてくれるのである。



楚辞(そじ)
中国戦国時代の楚地方に於いて謡われた詩の様式のこと。またはそれらを集めた詩集の名前である。全17巻。 その代表として屈原の『離騒(中国語版)』が挙げられる。北方の『詩経』に対して南方の『楚辞』であり、 共に後代の漢詩に流れていく源流の一つとされる。また賦の淵源とされ、合わせて辞賦と言われる。
書物としての『楚辞』の成立は前漢末期の劉向の手によるものであるが、これは散逸しており、現行の『楚辞』はそれに後 漢の王逸が自らの詩を合わせた『楚辞章句』が現在伝わる最古の『楚辞』である。
十七巻で構成され、この内、「離騒」「九歌」「九章」「遠遊」「招魂」が屈原の作であり、「天問」「卜居」「漁父」「九辯」 「大招」が宋玉ら戦国楚の詩人によるもの。「惜誓」・「招隠士」・「七諌」・「哀時命」は前漢の賈誼によるもので、 「九懐」は同じく前漢の王褒、「九歎」は劉向、「九思」が王逸の作である。
注釈本として前述の通り、最古のものは『楚辞章句』であるが、北宋の洪興祖の『楚辞補註』が『楚辞』を読む際の基本であり、 他に朱熹による『楚辞集註』がある。
詩の様式としての楚辞は六言ないし七言で謡われ、元は民謡であり、その源流は巫の歌にあると言われている。 中国北方の文学に対して非常に感情が強く出ており、音律を整えるためのものである兮の字が入ることが特徴 (文章としての意味は無い)。




楚辞・九歌(そじ・きゅうか)
九歌は一種の祭祀歌であると考えられる。湖南省あたりを中心にして、神につかえる心情を歌った ものとするのが、有力な説である。九歌と総称されるが、歌の数は十一ある。
作者は屈原とされるが、異説もある。王逸は、屈原が懐王に追われて、?湘地域に旅した際、 土着の祭祀歌があまりに野卑だったので、優美なものに改作して与えたのだとする。 同時に、その神に対する心情のうちに、自分の王に対する忠誠を寓意として歌いこんだともいう。
これに対して郭抹若は、寓意や進退とは関係なく、屈原若年の頃の、得意の時期の作品だと 解説している。
楚辞・九歌から屈原作「湘夫人」(壺齋散人注)

帝子降兮北渚   帝子北渚に降(くだ)る
目眇眇兮愁予   目眇眇として予を愁へしむ

天帝の御子湘君が北の渚に下り給ふ、目路もはるかに眺めていると、私を悲しませるのです

嫋嫋兮秋風    嫋嫋たる秋風
洞庭波兮木葉下  洞庭波だって木葉下る

   秋風がなよなよと吹き、洞庭の水は波立って、木の葉が落ちる

登白?兮騁望   白?に登って望みを騁せ 
   與佳期兮夕張   佳期を與(とも)にせんとして夕に張る
鳥何萃兮蘋中   鳥何ぞ蘋の中に萃(あつま)れる 
  網何為兮木上   網(あみ)何ぞ木の上に為せる

白いハマスゲに踏み乗って遠くを眺め、君との楽しい逢瀬のために夕べの準備をしましょう、 それにしても何故、鳥が水草の中に集まり、魚の網が木の上にかけてあるのでしょう

元有?兮醴有蘭  元に?(し)有り醴に蘭有り
思公子兮未敢言  公子を思ひて未だ敢へて言はず
荒忽兮遠望    荒忽として遠望し
觀流水兮潺湲   流水の潺湲たるを觀る
麋何食兮庭中   麋何ぞ庭中に食ひ
蛟何為兮水裔   蛟何ぞ水裔に為す

元水のほとりには?(よろい草)があり、醴水のほとりには蘭草があります。 この草のように香ばしい公子を思い慕いながら、まだ口に出していうことができません。 心もうつろに遠望し、さらさらと流れる水を眺めていると、大鹿が何故か庭の草を食べ、 水中に住むはずの大蛇が水辺にいます。

朝馳餘馬兮江阜  朝に餘が馬を江阜(かうかう)に馳せ
夕濟兮西?    夕に西?(せいぜい)に濟(わた)る
聞佳人兮召予   佳人の予を召すと聞き
將騰駕兮偕逝   將に騰駕して偕に逝かんとす

朝には馬を岸辺に走らせ、夕には西の水際を渡りました。君が私を召すと聞いて、 ともに馬に乗っていこうと思うのです。

築室兮水中    室を水中に築き
葺之兮荷蓋    之を葺きて荷もて蓋(おほ)ふ
孫壁兮紫壇    孫(そん)の壁紫の壇
播芳椒兮成堂   芳椒を播(しい)て堂を成す
桂棟兮蘭?    桂の棟蘭の?(たるき)
辛夷?兮葯房   辛夷の?葯の房

お部屋を水中に築き、蓮の葉で屋根を葺き、アヤメの壁、紫の壇、香り高い山椒を播いた堂、 桂の棟、蘭のタルキ、辛夷の梁げた、芍薬の香る部屋を設けましょう、

罔薜?兮為帷   薜?(へいれい)を罔(あ)みて帷と為し
?蕙?兮既張   蕙を?(さ)いて?(めん)とし既に張る
白玉兮為鎮    白玉を鎮と為し
疏石蘭兮為芳   石蘭を疏(し)いて芳と為し
止葺兮荷屋    止(し)もて荷屋に葺き
繚之兮杜衡    之に杜衡を繚(めぐ)らす

カズラを編んで帳にし、蕙草を裂いて幕を作り張ってみました、白玉を重石にし、 石蘭を敷いて香りを振りまき、よろい草を蓮の葉の屋根に刺し、 そのまわりに杜衡(あおい)を葺きました

合百草兮實庭   百草を合はせて庭に實(み)たし
建芳馨兮廡門   芳馨を建(つ)んで門を廡(おほ)ふ
九嶷繽兮並迎   九嶷(きうぎ)繽(ひん)として並び迎へ
靈之來兮如雲   靈の來ること雲の如し

さまざまな草を集めて庭に満たし、かぐわしい花を積んで門を覆いました、 やがて九嶷山の神々が群がり来り、湘君の霊が雲のように降ってこられる

捐餘袂兮江中   餘が袂(へい)を江中に捐(す)て
遺餘?兮醴浦   餘が?(てふ)を醴浦(れいほ)に遺(す)て
搴汀洲兮杜若   汀洲の杜若を搴(と)り
將以遺兮遠者   將に以て遠き者に遺(おく)らんとす
時不可兮驟得   時は驟(しばしば)は得べからず
聊逍遙兮容與   聊く逍遙して容與せん

私の肌着を水中に捨て、?(ひとえの肌着)を醴浦の水に捨て、中州の杜若を取って、 遠くはなれた君に贈ろうと思います、君と会えるときはそう多くはありませんから、 しばらくはここに逍遙して、のんびりとした時を過ごしましょう。

九歌には湘君、湘夫人と題する一対の歌がある。湘君、湘夫人については、諸説あるが、 湘水を収める男女一対の神であるとするのが有力である。

湘夫人と題するこの歌は、男神を迎える女神の気持ちを歌ったものだと考えられる。





中国名詩選 川合康三箸(ちゅうごくめいしせん かわいこうぞう)
内容説明
中国の詩の転換は,中唐に始まり,宋代に定着する.日常のなかに生の意味を見出す白居易, 苦難を越えて生きる意志をうたう蘇軾.視線は雄大な風景から身近な自然へ, 内面は情念の燃焼から理性の輝きへ.さらには,新時代の予感を新たな感性で捉える 元・明・清の詩.長い歴史のなかでの成熟と展開を,選りすぐった名詩を通して読む.[全3冊完結]
目  次
 はしがき
 中唐2
 晩 唐
   晩唐の詩歌
 北 宋
   北宋の詩歌
 南 宋
   南宋の詩歌
 元・明・清
   元・明・清の詩歌
   解説──中国の詩
   年表3
   地図4・5
   あとがき
   詩人・詩題索引





日本書紀(にほんしょき)
奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、 養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体をとる。全30巻。 系図1巻が付属したが失われた[1]。
『日本書紀』は純漢文体であると思われてきたが、森博達の研究では、語彙や語法に倭習(和習・和臭)が多くみられ、 加えて使用されている万葉仮名の音韻の違いなどの研究からα群(巻第十四?二十一、巻第二十四?二十七)と β群(巻第一?十三、巻第二十二?二十三、巻第二十八?二十九)にわかれるとし、倭習のみられない正格漢文の α群を中国人(渡来唐人であり大学の音博士であった続守言と薩弘恪)が、倭習のみられる和化漢文である β群を日本人(新羅に留学した学僧山田史御方)が書いたものと推定している[20]。 またα群にも一部に倭習がみられるがこれは原資料から直接文章を引用した、もしくは日本人が後から追加・修正を行ったと 推定されている。特に巻第二十四、巻第二十五はα群に分類されるにもかかわらず、 乙巳の変・大化の改新に関する部分には倭習が頻出しており、蘇我氏を逆臣として誅滅を図ったクーデターに関しては、 元明天皇(天智天皇の子)、藤原不比等(藤原鎌足の子)の意向で大幅に「加筆」された可能性を指摘する学者もいる。
『日本書紀』は欽明13年10月(552年)に百済の聖明王、釈迦仏像と経論を献ずるとしている。しかし、 『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』は欽明天皇の戊午年10月12日(同年が欽明天皇治世下にないため538年(宣化3年)と 推定されている)に仏教公伝されることを伝えており、こちらが通説になっている。このように、 『日本書紀』には改変したと推測される箇所があることがいまや研究者の間では常識となっている。


 佩文韻府(はいぶんいんぷ)
中国清代の蔡升元らが康熙帝の勅を奉じて編纂した韻書、106巻。補遺である汪?ら撰の韻府拾遺 (いんぷしゅうい)106巻と共に用いられる。前者が1711年(康熙50年)、後者が1720年(康熙59年) の成立。
内容は、経・史・子・集の四部の書物から、2~4字の語彙を集めて来て、末尾の字の韻母によって 平水韻の106韻に分類排列し、なおかつその語彙の出典を注記したものである。「韻府拾遺」では、 「佩文韻府」には欠けていたものを補足している。
「佩文」とは、康熙帝の書斎名である。
編纂上は、まず、元の陰時夫撰『韻府群玉』および明の凌稚隆撰『五車韻瑞』という先行する韻書 から語彙を集めたため、この二書にある語彙は、「韻藻」として最初に掲げ、それ以外のものは、 「増」として後に記している。
元来は、漢詩の作詩の便に供せられたものではあるが、中国古典の語彙の出典を検索する上で、 大変に便利な書物である。ただし、末字の韻によって検索する必要があり、平水韻を知らない現代人 には不便である。
刊本としては、清朝内府武英殿本、海山仙館本、1889年(光緒15年)活字本があり、日本では、 大槻如電の索引が付された吉川弘文館活字本(1908年(明治41年))がある。

 白氏文集(はくしもんじゅう)
中国唐の文学者、白居易の詩文集。数次の編集を経て、最終的に75巻本として会昌5(845)年に完成、 現在は71巻本が通行する。最初のものが長慶4(824)年に成り、『白氏長慶集』と名付けられたため、 後世もその名を以て呼ばれる。白居易自身は『文集』とのみ称した。
白居易は有能な官僚であり、詩のほか策林(政治問題を論ず)、百道判(官僚の裁決模範集)、制誥(詔勅)、奏状、 墓誌銘など史料的価値の高いものを多く残している。また新楽府・秦中吟などの諷論詩には、 当時の社会問題を反映したものが多い。白居易が親友である元?に送った書によれば、 自身の詩を諷論・閑適・感傷・雑律に分類し、特に民衆の生活苦などを描き、詩による為政者への諷諫を目的とした諷論詩に 重きをおいたという(巻28「元九に与うる書」)。

 陌上桑(日出東南隅行)(はくじょうそう)
日出東南隅、照我秦氏樓。 秦氏有好女、自名為羅敷。 羅敷善蠶桑、採桑城南隅。 青絲為籠系、桂枝為籠鉤。 頭上倭墮髻、耳中明月珠。 ?綺為下裙、紫綺為上襦。 行者見羅敷、下擔?髭須。 少年見羅敷、?帽著?頭。 耕者忘其犁、鋤者忘其鋤。 來歸相怨怒、使君從南來。 五馬立踟?、使君遣吏往。 問此誰家?、秦氏有好女。 自名為羅敷、羅敷年幾何。 二十尚不足、十五頗有餘。 使君謝羅敷、寧可共載不。 羅敷前致辭、使君一何愚。 使君自有婦、羅夫自有夫。 東方千餘騎、夫婿居上頭。 何用識夫婿、白馬從驪駒。 青絲系馬尾、?金絡馬頭。 腰中鹿盧劍、可?千萬餘。 十五府小史、二十朝大夫。 三十侍中郎、四十專城居。 為人潔白皙、髯髯頗有須。 盈盈公府?、冉冉府中趨。 坐中數千人、皆言夫婿殊。 東南の隅から出た朝日が、まず、わが秦氏の高殿を照らす。その秦氏の美しい娘がいて自ら羅敷と名乗っている。羅敷は養蚕が上手、城郭の南隅で桑つみをする。そのいでたちは青い糸を籠のひもにし、桂の枝を籠のさげ柄にし、頭の上に垂れ髪のまげをむすび耳には明月の珠をかざり、浅黄色のあやぎぬを裳にし、紫のあやぎぬを上衣としている。 その美しい姿に道行く男は荷物をおろして見とれ、ひげをひねって体裁ぶり、若者は彼の女を見ると帽をぬいて、髻をつつんだ頭をあらわして気どって見せる。田を耕す人は犂を忘れ、畑をすく人は鋤を休めて見とれる。家に帰ってから怨んだり怒ったり、夫婦争いをするのも、じつはただ羅敷を見たことがもとなのだ。 ある日、国の太守が南の方からやって来て羅敷を見とめ、五頭立の馬車もそこに立ちどまって進もうとしない。太守は下役をよこしてたずねる。「これはどこの娘さんか」と。人々が答えた。 「秦家の美しい娘、その名は羅敷と申します」「年はいくつか」「二十にはまだならぬが、十五は大分過ぎています」 太守はそこで羅敷にあいさつし、「どうだ、わしの車で一緒に行くことはできぬか」と。羅敷が進み出て申しあげる。「太守さまはほんとにおばかさんだ。あなたさまにはもともと奥さまがいらっしゃるし、わたしにも夫があります。東地方千余騎の軍隊、わたしの夫はその頭にいます。 夫を何で見わけるかといえば、白い馬に黒の若駒を従え、青糸の紐をしりがいにし、黄金のおもがいをかざり、自分の腰には鹿盧の剣をおびている。その価は千万金余もする名剣。十五の歳に役所の書記だった夫は、二十で朝廷の大夫、三十では侍従職、四十では一城の主となりました。生まれつきのすっきりした色白、ふさふさとしたあごひげ、堂々と役所を歩み、さっさと役所内を急ぎまわる。威風あたりをはらって同坐の人々数千人、みなわたしの夫が目立ってすぐれていると申します」 と。


 法華経(ほけきょう)
初期大乗仏教経典の1つである『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』 「正しい教えである白い蓮の花の経典」の意)の漢訳での総称。
梵語(サンスクリット)原題の意味は、「サッ」(sad)が「正しい」「不思議な」「優れた」、 「ダルマ」(dharma)が「法」、「プンダリーカ」(pu??ar?ka)が「清浄な白い蓮華」、 「スートラ」(s?tra)が「たて糸:経」であるが、漢訳に当たってこのうちの「白」 だけが省略されて、例えば鳩摩羅什訳では『妙法蓮華経』となった。さらに「妙」、 「蓮」が省略された表記が、『法華経』である。「法華経」が「妙法蓮華経」の略称として 用いられる場合が多い。
漢訳は、部分訳・異本を含めて16種が現在まで伝わっているが、完訳で残存するのは 『正法華経』10巻26品(竺法護訳、286年、大正蔵263) 『妙法蓮華経』8巻28品(鳩摩羅什訳、400年、大正蔵262)[3] 『添品妙法蓮華経』7巻27品(闍那崛多・達磨笈多共訳、601年、大正蔵264) の3種で、漢訳三本と称されている。漢訳仏典圏では、鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』が、 「最も優れた翻訳」として流行し、天台教学や多くの宗派の信仰上の所依として広く用いられている。
迹門
前半部を迹門(しゃくもん)と呼び、般若経で説かれる大乗を主題に、二乗作仏 (二乗も成仏が可能であるということ)を説くが、二乗は衆生から供養を受ける生活に余裕のある 立場であり、また裕福な菩薩が諸々の眷属を連れて仏の前の参詣する様子も経典に説かれており、 説法を受けるそれぞれの立場が、仏を中心とした法華経そのものを荘厳に飾り立てる役割を担っている。
さらに提婆達多の未来成仏(悪人成仏)等、“一切の衆生が、いつかは必ず「仏」に成り得る” という平等主義の教えを当時の価値観なりに示し、経の正しさを証明する多宝如来が出現する 宝塔出現、虚空会、二仏並座などの演出によってこれを強調している。 また、見宝塔品には仏滅後に法華経を弘める事が大難事(六難九易)であること、 勧持品には滅後末法に法華経を弘める者が迫害をされる姿が克明に説かれる等、 仏滅後の法華経修行者の難事が説かれる。
本門
後半部を本門(ほんもん)と呼び、久遠実成(くおんじつじょう。釈迦牟尼仏は今生で初めて悟りを 得たのではなく、実は久遠の五百塵点劫の過去世において既に成仏していた存在である、 という主張)の宣言が中心テーマとなる。これは、後に本仏論問題を惹起する。
本門ではすなわちここに至って仏とはもはや歴史上の釈迦一個人のことではない。 ひとたび法華経に縁を結んだひとつの命は流転苦難を経ながらも、やがて信の道に入り、 自己の無限の可能性を開いてゆく。その生のありかたそのものを指して仏であると説く。 したがってその寿命は、見かけの生死を超えた、無限の未来へと続いていく久遠のものとして 理解される。そしてこの世(娑婆世界)は久遠の寿命を持つ仏が常住して永遠に衆生を救済へと 導き続けている場所である。それにより“一切の衆生が、いつかは必ず仏に成り得る” という教えも、単なる理屈や理想ではなく、確かな保証を伴った事実であると説く。 そして仏とは久遠の寿命を持つ存在である、というこの奥義を聞いた者は、 一念信解・初随喜するだけでも大功徳を得ると説かれる。
説法の対象は、菩薩をはじめとするあらゆる境涯に渡る。また、末法愚人を導く法として 上行菩薩を初めとする地涌の菩薩たちに対する末法弘教の付嘱、観世音菩薩等のはたらきによる 法華経信仰者への守護と莫大な現世利益などを説く。


 枕草子(まくらのそうし)
平安時代中期に中宮定子に仕えた女房清少納言により執筆されたと伝わる随筆。 ただし本来は、助詞の「の」を入れずに「まくらそうし」と呼ばれたという。「枕草紙」「枕冊子」「枕双紙」とも表記され、 鎌倉時代に書写されたと見られる現存最古の写本・前田本の蒔絵の箱には『清少納言枕草子』とある。 古くは『清少納言記』、『清少納言抄』などとも称した。


 万葉集(まんようしゅう)
7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、 防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。
日本文学における第一級の史料であることは勿論だが、方言による歌もいくつか収録されており、 さらにそのなかには詠み人の出身地も記録されていることから、方言学の資料としても非常に重要な史料である。


 名臣言行録(めいしんげんこうろく)
中国,宋の学者朱子とその弟子李幼武とが著わした伝記集。「前集」 10巻,「後集」 14巻 (以上朱子の著) ,「続集」8巻,「別集」 26巻,「外集」 17巻 (以上李幼武の著) から成る。北宋初期~南宋中期の著名人の文集や紀伝のなかから,世教に益するものを選び, その要を綴ったもの。


 迷樓記(めいろうき)
作者未詳。宋代の劉斧「青瑣高議」という書に所収しているため、唐代から宋以前と推定される。 煬帝の生涯を描く伝奇小説。迷楼は作中に現れる、晩年の煬帝が莫大な費用と1年の歳月を かけて作らせた大規模な複数の迷宮型楼閣の名。真仙も一日中迷い続けるという意味で 煬帝自らが名付けたという。今も揚州市にその跡とされる迷楼址がある。


 蒙求(もうぎゅう)
伝統的な中国の初学者向け教科書である。日本でも平安時代以来長期にわたって使用された。 日本で広く知られている「蛍雪の功」や「漱石枕流」などの故事はいずれも「蒙求」に見える。
『蒙求』の著者である李瀚については、ほとんど何もわかっていない[1]。上表文に「天宝五年」 (746年)と記されていることから、8世紀前半の成立と考えられている (ただし、この日付を疑う説もある)。
題名は『易経』の「蒙」卦辞「匪我求童蒙、童蒙求我」による。
本文は四字一句の韻文で、596句2384字からなる。偶数句の句末で押韻し、結語にあたる最後の 4句以外は8句ごとに韻を変えている。内容は古人の逸話をきわめて短い言葉で羅列したもので、 実際の逸話そのものは注に書かれている。
宋代には蒙求は代表的な教科書であり、蒙求に範を取った『十七史蒙求』[2]なども作られた。
明末になると、学習書の主流は三字経などに移り、蒙求は忘れられていった。
現存の写本でもっとも古いのは敦煌の唐五代残巻である。印刷物としては山西省の応県仏宮寺木塔 から発見された遼刻本が古い[3]。 『日本三代実録』の元慶2年(878年)に貞保親王(清和天皇の第四皇子、当時数え9歳)がはじめて 蒙求を読んだという記事が見える。これが日本で蒙求が読まれた最古の記録である。平安時代以降 代表的な学習書として珍重され、「勧学院の雀は蒙求をさえずる」(宝物集などに見える)と言われる ほどであった。
中国では明代以降ほかの学習書に蒙求は淘汰されてしまったため、敦煌の残巻などを除くと古い テキストはほとんど日本のものである。
現存最古のテキストは東京国立博物館蔵の長承3年(1134年)奥書本で[4]、冒頭の8句以外の 本文が残っており、10世紀の声点と主に12世紀の仮名による音が付されている。
伝統的に蒙求の本文は漢音で音読する習慣があり、音注がつけられているテキストが多いため、 『理趣経・大孔雀明王経』などと並んで、古い漢音を知るための資料として重要である。 有坂秀世が正倉院蔵の蒙求につけられた仮名を利用して、従来の韻書から演繹的に求めていた 漢字音や字音仮名遣いの問題点を指摘したことはよく知られている。
鎌倉時代初期に源光行は『蒙求和歌』を著した。これは蒙求から250の故事を選んで内容別にまとめ 直し、故事の内容を和文で記した上で和歌を加えたものである。
16世紀には『蒙求抄』という抄物(講義記録)が作られた。室町時代の日本語の口語研究資料として 重要である。
テキストは注の内容によって、本文のみのもの・古注本・補注本などに分かれる。 補注は南宋の徐子光によるもので、日本には16世紀に伝来し、江戸時代にはもっぱら補注本のみが 行われるようになった。

    文選(もんぜん)
中国南北朝時代、南朝梁の昭明太子によって編纂された詩文集。全30巻。春秋戦国時代から梁までの文学者131名による 賦・詩・文章800余りの作品を、37のジャンルに分類して収録する。
隋唐以前を代表する文学作品の多くを網羅しており、中国古典文学の研究者にとって必読書とされる。収録作品のみならず、 昭明太子自身による序文も六朝時代の文学史論として高く評価される。
『文選』の撰者である昭明太子蕭統は、梁の武帝の長子として生まれた。武帝は南斉の宗室の出身 であり、学問・文才にも長じ、即位前は竟陵王蕭子良のもとで、沈約・謝?ら当時を代表する 文学仲間である「竟陵八友」の一人に数えられていた。太子はこのような学問好きな父の方針により、 他の兄弟と同じく、幼い頃から当代一流の学者・文人を教師として学問や文学を学んだ。 こうした環境のもとで育てられた太子は、学問と文学を愛好するのみならず、 文化の保護や育成にも心を砕くようになった。太子の居所である東宮には約3万巻もの書が集められ、 その周囲には多数の学者・文人たちが、学問研究や著作活動に従事することになった。
『文選』が編纂されたのには、こうした昭明太子の文化的環境が大きな役割を果たしていた。 『文選』の撰者名は昭明太子1人に擬されているが、実際の編纂には劉孝綽ら彼の周囲にいた文人 たちが関わっていたとされている[2]。
隋唐以降、官吏登用に科挙が導入され、詩文の創作が重視されると、『文選』は科挙の受験者に詩文の 制作の模範とされ、代々重視されてきた。唐の詩人杜甫は『文選』を愛読し、 「熟精せよ文選の理」(「宗武生日」)と息子に教戒の言葉まで残している。また宋の時代には 「文選爛すれば、秀才半ばす」(『文選』に精通すれば、科挙は半ば及第)という俗謡が生まれて いる[3]。このため『文選』は早くから研究され、多くの人により注釈がつけられた。
『文選』の注釈として文献上最も古いものは、隋の蕭該(蕭恢の孫、昭明太子の従甥)の『文選音』 である。少し後の隋唐の交代期には、江都(現在の江蘇省揚州市)の曹憲が『文選音義』を著した。 曹憲のもとには魏模・公孫羅・許淹・李善ら多くの弟子が集まり、以後の「文選学」(「選学」) 隆盛のきっかけとなった。
曹憲の弟子の一人である李善は、浩瀚な知識を生かして『文選』に詳細な注釈をつけ、658年 (顕慶3年)、唐の高宗に献呈した。これが『文選』注として最も代表的な「李善注」である。 李善注の特徴は、過去の典籍を引証することで、作品に用いられている言葉の出典とその語義を 明らかにするという方法を用いていることにある。また李善が引用する書籍には現在では散佚し ているものも多く、それらの書籍の実態を考証する際の貴重な資料にもなっている。
李善注の後の代表的な注釈としては、呂延済・劉良・張銑・呂向・李周翰の5人の学者が共同で 執筆し、718年(開元6年)、唐の玄宗に献呈された、いわゆる「五臣注」がある。 五臣注の特徴は、李善注が引証に重きを置きすぎるあまり、時として語義の解釈がおろそかになる (「事を釈きて意を忘る」)ことに不満を持ち、字句の意味をほかの言葉で解釈する訓詁の方法を 採用したことにある。そのため注釈として李善注とは異なる価値があるが、全体的に杜撰な解釈や 誤りが多く、後世の評価では李善注に及ばないというのが一般的である。
宋代に入り木版印刷技術が普及すると、李善注と五臣注を合刻して出版した「六臣注」 (「六家注」)が通行し[4]、元来の李善・五臣の単注本は廃れることとなった。現行の李善単注本は、 南宋の尤袤が六臣注から李善注の部分を抜き出し(異説あり)、1181年(淳熙8年)に 刊行したものの系統であるとされる。これを清の胡克家が、諸本を比較して校勘を加えた上、 嘉慶年間に覆刻した。この「胡刻本」が、今日最も標準的なテキストとして通行している。
このほか重要なものとして、日本に写本として伝わる『文選集注』(120巻、存23巻)がある。 これは李善・五臣の注釈のほか、これらの注釈が通行することによって散佚した唐代の注釈が 保存されており、『文選』研究にとって不可欠の資料となっている。
太子の書いた『文選』の序文には、作品の収録基準を「事は沈思より出で、義は翰藻に帰す」とし、 深い思考から出てきた内容を、すぐれた修辞で表現したと見なされた作品を収録したとある。 また収録する分野についても、四部分類でいうところの経部・子部・史部[5]を除く、 集部に相当する文学作品をもっぱら選録の対象としている点で、文学の価値を明確に意識した 総集となっている。 『文選』は古くから日本に伝わり、日本文学にも重大な影響を与えている。すでに奈良時代には、 貴族の教養として必読の対象となっており、小島憲之など『日本書紀』や『万葉集』などに 『文選』からの影響を指摘する見解もある[6]。その後の平安時代から室町時代でも、 「書は文集・文選」(『枕草子』)、「文は文選のあはれなる巻々」(『徒然草』)とあるように、 貴族の教養の書物としての地位を保ち続けた。『文選』の中の言葉は、日本語の語彙で活かされ、 故事教訓として現在でも使用されている。 http://www.guoxue.com/jibu/wenxuan/wx_ML.htm


 離騒(りそう)
楚の屈原の作と伝えられる長編の詩。楚辞の代表作であり、世に容れられない人物の悲憤慷慨と 神話的幻想世界への旅行が多数の比喩や擬態語を散りばめて歌われている。
題名
『離騒』という題名の意味はよくわかっていない。『史記』の屈原の伝では『離騒』の「騒」は 「憂」という意味であるとし、王逸『楚辞章句』でも「離別の愁思」の意味に解釈している。 これに対し、班固の「離騒賛序」(王逸注に見える)では「離」とは「遭」という意味であるとし、 「憂いに遭う」という意味と解釈している。これは応劭[1]や顔師古[2]も同様である。 近代以降では游国恩『楚辞概論』(1926)で楚の曲名と解釈したのをはじめ、多くの説が唱えられた。
後漢の王逸の『楚辞章句』以来、『離騒経』と「経」つきで呼ばれたが、これは『九歌』以下の 楚辞を『離騒』の「伝」と考えたものである[3]。『文選』、洪興祖『楚辞補註』、 朱熹『楚辞集註』などでも踏襲しているが、洪興祖は古い文献には「経」がついていないとして 「経」をつけることに反対している[4]。
作者
伝統的に讒言によって流刑となった屈原が作ったといい、たとえば司馬遷の『史記』太史公自序 および『報任少卿書』には「屈原放逐、著『離騒』。左丘失明、厥有『国語』。」とある。 劉向『新序』節士篇の屈原伝、班固「離騒賛序」でも同様である。
しかし、胡適は『史記』の屈原伝の信憑性を疑い、聞一多も『史記』に述べられている屈原と 『離騒』から見られる人物像に差が見られるとした[5]。日本では岡村繁が『離騒』を屈原の作とは 見なせないとし、屈原は楚辞文学のヒーローであって、その作者ではないとした[6]。 小南一郎は『離騒』を「一人語りによる物語、英雄叙事詩」であり[7]、「人々に共通する 心意が生み出した叙事詩的主人公像」を描いたものであって[8]、自叙伝的な作品ではないとした。 矢田尚子も後半を自叙伝的に解釈するのは無理があるとし[9]、本来は自ら王者たらんとする 人物を主人公とした叙事詩だが、漢王朝下では受け入れがたく、悲劇の忠臣とする解釈が 行われたのではないかとする[10]。
形式
『離騒』は374句からなる(『長恨歌』の約3倍)。各句の長さは必ずしも同じでないが、 大体において奇数句が「□□□△□□兮」、偶数句が「□□□△□□」の形式をしている。 ここで「△」は「于、以、与、而、其、之」などの助辞である。偶数句で脚韻を踏むが、 4句ごとに韻が変わる。
末尾には4句からなる「乱」と呼ばれる部分が附属する。
あらすじ
『離騒』は名を正則、字を霊均という人物の一人称によって記述されている。冒頭、霊均は 自分が??の子孫であり、寅年寅月寅日の生まれであって優れた才能を持つことを誇る。 霊均は古の先王の理想を実現しようと主君のために奔走するが、かえって讒言にあって遠ざけられる。
利権のみを追いもとめる世間に容れられない霊均は妥協を拒否し、遠方へと旅立とうとする。 女?(伝統的には屈原の姉とされる)はそれを止めるが、霊均はまず?水・湘水を渡って南方の 蒼梧に住む舜に会いに行く。聖哲のみが天下を治めるという説を舜のもとで述べて涙を流した 霊均は自説に確信を持ち、空を飛んで崑崙の県圃へ到り、そこから望舒(月の御者)、 飛廉(風神)、鸞皇、雷師などの伝説的な神々を従えて天界を旅行するが、天帝の門番によって 拒まれる。また、?妃、有?の佚女(?の妃)、有虞の二姚(少康の妃)らに求婚しようとするが 失敗する。
霊氛の占いや巫咸の言葉によってさらに遠くへ行くことを勧められた霊均は世界の果てまで旅行し、 8頭の竜の引く車で天上高く昇って女を求めるが、そこからふと故郷が見え、 悲しみのあまり先へ進めなくなる。



 列 子(れっし)
春秋戦国時代の人、列御寇(河南鄭州人)の尊称(「子」は「先生」というほどの意)だが、一般的には、 列御寇の著書とされる道家の文献を指す。別名を『冲虚至徳真経』ともいう。
列御寇は、先秦の書物に紀元前400年の前後70年に生存したとあるものの、『史記』にはその伝記はなく、 その実在を疑う向きもある。
『荘子』等の内容を引くなど、古来より単独の著者により記述されたものではないと見られている。 現存の8巻には仏教思想も含まれており、この部分はのちに混入されたともいうが、 現存本は魏晋代以降に成立した偽書であるとの説も根強い。  

    列女伝(れつじょでん)
前漢の劉向によって撰せられた、女性の史伝を集めた歴史書で、女性の理想を著した唯一の教訓書 とされた。
劉向の原著は7篇構成で、のちに本文の7篇を上下に分け、劉?の撰と伝わる頌1巻を加えた15巻構成 となり、曹大家(班昭)の註が加えられた。現行本は南宋の蔡驥による再編本で、原著の7巻に頌文を 分かち加え、『続列女伝』を加えた8巻構成となる。
漢の班昭・馬融、呉の虞?の妻の趙氏、晋の?毋邃らによる註があったが、いずれも散逸した。 清の王照円の『古列女伝補注』、顧広圻の『古列女伝考証』、梁端の『列女伝校注』がある。
日本では、明治時代に松本万年の注釈『参訂劉向列女伝』がある。
他の列女伝
劉向のもの以外にも、皇甫謐の『列女伝』など、数多くの『列女伝』が作られたが、その多くは 散逸した。
また、『後漢書』をはじめとして正史の中にも列女伝が収められるようになった。
日本で『列女伝』の形式を襲ったものに、江戸時代の『本朝列女伝』『本朝女鑑』などがある。 また、北村季吟『仮名列女伝』は、劉向の『列女伝』を日本語に直したものである。

 
 和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)
藤原公任が漢詩・漢文・和歌を集めた詩文集である。寛仁2年(1018年)頃成立した。 『倭漢朗詠集』、あるいは巻末の内題から『倭漢抄』とも呼ばれる。
もともとは藤原道長の娘威子入内の際に贈り物の屏風絵に添える歌として編纂され、 のちに公任の娘と藤原教通の結婚の際に祝いの引き出物として贈られた。 達筆の藤原行成が清書、粘葉本に装幀し硯箱に入れて贈ったという。
国風文化の流れを受けて編纂された。往時、朗詠は詩会のほかにも公私のさまざまの場で、 その場所々でもっともふさわしい秀句や名歌を選んで朗誦し、その場を盛り上げるものとして尊重されていた。 こうした要請に応ずる形で朗詠題ごとに分類配列し撰じたものである。。
上下二巻で構成。その名の通り漢詩および漢文588句(多くは断章、日本人の作ったものも含む)を主とし、 それに和歌216首を合わせたものである。和歌の作者で最も多いのは紀貫之の26首、漢詩では白居易の135詩である。 『古今和歌集』にならった構成で、上巻に春夏秋冬の四季の歌、下巻に雑歌を入れている。
漢字と仮名文字の両方で当時の流行歌が書いてあることから、寺子屋などで長年読み書きの教科書としても用いられた。 宋に渡った日本の修行僧が寺に入山するときにも納めている。 また、イエズス会によって出版されたキリシタン版の上巻が、スペインのエル・エスコリアル修道院に残っている。

  



Last modified 2021/08/01 First updated 2014/04/28