漢詩用語



講義に現れた用語を中心にした漢詩の用語集です。
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あざな(字)
中国など東アジアの漢字圏諸国で使われる人名の一要素である。 昔、中国で成人男子が実名以外につけた名。 日本でも学者・文人がこれをまねて用いた。 また、実名以外に呼び習わされた名。あだな。
歴史的に、中国人は個人に特有の名として姓(氏)と諱(名)と字の三つの要素を持った。日本では大抵の中国人は 「姓-諱」の組み合わせで知られる。ただし例外的に「姓-字」の呼称が通用している人物もいる。伍子胥(諱は員) 、項羽(諱は籍)、諸葛孔明(諱は亮)、司馬仲達(諱は懿)、蒋介石(諱は中正)など。
例えば「諸葛-亮」は「諸葛」が姓、「亮」が諱であり、字を「孔明」という。諱は軽々しく用いられることは忌避され (そのため日本に入って「忌み名」と訓じられた)、同時代人に対しては[1]、親や主君などの特定の目上の人物だけが 諱を使用し、それ以外の人間が諱で呼びかけることは極めて無礼なこととされていた。逆にそういった諱で呼びかけられる 立場にある者がわざわざ字で呼びかけることは、立場とは別に一定以上の敬意を示すことになる。諸葛亮を例に取れば、 三国志演義の訳本において劉備であっても「孔明」と呼ばせているものは一定以上見受けられるが、関羽、張飛をそれぞれ雲長 、翼徳(益徳)と呼ばせているものはまずない。『礼記』曲礼篇に「男子は二十歳で冠を着け字を持った」「女子は十五歳でかんざしを着け字を持った」とあり、成人した人間の呼び名としては原則として字が用いられた。 なお、その人物が官職に就いた場合は官職名で呼ぶことが優先された(諸葛亮なら「諸葛丞相」。
丞相が官職名である)。この場合、親しい間柄以外は、字で呼ぶことは、諱ほどではないにしても少々無礼なこととされていた。 前述のとおり、字は諱を呼ばないために使うものであるので、基本的に相手に対して「劉-備-玄徳」 のように姓・諱・字を連結して呼ぶことはない。しかし文書の中では姓・諱・字を連結して書く場合がある。


あし(足)


阿房宮(あぼうきゅう)
秦の始皇帝が建てた宮殿である。首都の咸陽からは渭水をはさんで南側に位置していた。 現在の陝西省西安市の西方13kmの阿房村から遺跡が出土している。
始皇帝が天下を統一し、秦国の領土が広がり、咸陽の人口も増えると、かつて孝公の建てた咸陽の 宮殿は手狭になった[1]。そのため始皇帝は渭水の南にあたる上林苑に朝宮を建てる計画を立て、 阿房の地にその前殿を造ろうとした。受刑者70万人あまりが動員されて、前殿(阿房宮)と驪山陵 (始皇帝陵)の建造にあたらせた[2]。阿房宮は紀元前219年に着工[3]し、始皇帝の死後も 工事が続いた[4]が、秦の滅亡によって未完のままに終わった。阿房宮の名称は、当時の人々が 地名にちなんで呼んだ[5]ものという。あるいは宮殿の形が「四阿旁広」であることから 阿房宮と名づけられた[6]ともいう。あるいは「宮阿基旁」であることから阿房宮と 名づけられた[7]ともいう。
阿房宮の規模については、諸説がある[8]。その殿上には1万人が座ることができ、殿下には 高さ5丈の旗を立てることができた。殿外には柵木を立て、廊下を作り、これを周馳せしめ、 南山にいたることができ、複道を作って阿房から渭水を渡り咸陽の宮殿に連結した。これは、 天極星中の閣道なる星が天漢、すなわち天の川を渡って、営室星にいたるのにかたどったものである。 なおも諸宮を造り、関中に300、関外に400余、咸陽付近100里内に建てた宮殿は270に達した。 このために民家3万戸を驪邑に、5万戸を雲陽にそれぞれ移住せしめた。各6国の宮殿を?造し、 6国の妃嬪??をことごとくこれに配し、秦の宮殿を造って秦の佳麗をこれに充てた。 そこで、趙の肥、燕の痩、呉の姫、越の女などそれぞれ美を競って朝歌夜絃、「三十六宮渾べて これ春」の光景をここに現出せしめた。唐代詩人の杜牧「阿房宮賦」(zh)に詠われたのは、 必ずしも誇張ではない。
なお『史記』項羽本紀に「項羽が咸陽に入り、秦王子嬰を殺害すると、秦の宮室は焼き払われ、 3か月間にわたって火が消えなかった」とする記述があり、このとき阿房宮は焼失したものと みなすのが長らく通説であった。しかし、2003年に「項羽によって焼かれたのは咸陽宮 (中国語版)であり、阿房宮は焼かれていない」とする新説が公表された[9]。 これが事実であれば、阿房宮は秦王朝の滅亡後も漢王朝によって使用されていた可能性が高い と言える。
阿房宮遺跡は、1961年に中華人民共和国全国重点文物保護単位の第1次全国重点保護文化財に 指定された。



あんしのらん(安史の乱)
安史の乱(あんしのらん)・安禄山の乱(あんろくざんのらん)とは、755年から763年にかけて、 唐の節度使・安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱。
755年、唐の節度使の安禄山が起こした反乱。反乱軍は一時都の長安を陥れ、唐は滅亡寸前まで行ったが、 安禄山が内紛で殺され、その仲間の史思明が反乱軍を指揮したので、 「安史の乱」という。ウイグルなどの支援を得た唐が立ち直り、763年、反乱軍を鎮圧し、収束された。 乱の直接的原因は、唐の玄宗の寵愛を受けた楊貴妃とそのおいの楊国忠一族と対立した節度使安禄山が反乱を起こしたことで あったが、背景には唐の律令制度の行き詰まりという社会不安があった。唐はその後も1世紀に渡って存続するが、 安史の乱以後は各地の節度使(藩鎮)が自立し、朝廷の力は弱体化した。





いけん(遺賢)
民間に埋もれている有能な人物のこと。有能な人物は、見出されて大抵政府の要職に就いていて、民間に取り残されている者 はいない、という意味。政治が良く行われていることをいう言葉。
《「書経」大禹謨から》すぐれた人物はすべて官について民間に残っていない。人材が集まって正しい政治が行われていることを いう。「野(や)」は民間の意。「のにいけんなし」とは読まない。




いん(韻)



いんがいろう(員外郎)
中國古代官職之一,原指?于正員、定員以外的郎官。
三國曹魏末年,設員外散騎常侍。晉武帝?,始設員外散騎侍郎。隋唐以後,直至明清, 各部均設有員外郎,位次郎中。員外郎簡稱「員外」。隋朝于尚?省二十四司各置?外郎一人, ?各司之次官(相当于副司?,郎中是正司?)。
唐朝永徽六年(655年),以?孝璋為尚藥奉御,員外特置,仍同正員。自是員外官復有同正員者, 其加同正員者,唯不給職田耳,其祿俸賜與正官同。單言員外者,則俸祿減正官之半[1]。
在貞觀時期之前,吏部考功?外郎是科舉考試的主考官。在開元年間後,因唐玄宗覺得此官職過低, 而改由禮部侍郎主持科舉考試,並一直延續下來。
在清朝,此官職配置於朝廷或地方之輔助部門,品等為從五品。該官職一般為閒職,常有商賈、 仕紳捐納八千兩[2]獲得此官職,如權?李蓮英過繼兒子李德福就捐過員外郎在兵部任職。至此, 「員外」成為富有地主的?一種稱呼。1910年代,清朝滅亡後,該官職廢除。
日本亦有員外官(權官),作為律令官制?定員以外的官,律令定員變得有名無實。比如「權大納言」、 「權少納言」、「權中納言」、「權近衛大將」等為令外官,不作單純的員外官看待。


いんようごぎょうせつ(陰陽五行説)
中国の春秋戦国時代ごろに発生した陰陽思想と五行思想が結び付いて生まれた思想のこと。 陰陽五行論(いんようごぎょうろん)ともいう。陰陽思想と五行思想との組み合わせによって、 より複雑な事象の説明がなされるようになった。
陰陽五行説の基本は、木、火、土、金、水、(もく、か、ど、ごん、すい、金は「きん」でなく「ごん」と読ませる) の五行にそれぞれ陰陽二つずつ配する。
甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸、は音読みでは、 こう、おつ、へい、てい、ぼ、き、こう、しん、じん、き、と読む。音読みでは陰陽と五行にどう対応しているか分かりにくいが、 訓読みにすると、きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと、となり、 五行が明解になる(かのえ、かのと、は金)。
陰陽は語尾の「え」が陽、「と」が陰である。 語源は「え」は兄、「と」は弟である。「えと」の呼び名はここに由来する。「えと」は本来、十干ないし干支の呼称だった。 きのえ、は「木の陽」という意味。
十二支にも五行が配されている。その前提として、季節に対応する五行(五時または五季)は、 春が木、夏が火、秋が金、冬は水である。土はどこへ来るかというと、四季それぞれの最後の約18日(土用)である。 有名な「土用の丑の日」は夏の最後の時期(土用)の丑の日(丑は土の五行)ということである。
各季節に十二支を配すると、
春は、一月寅、二月卯、三月辰(五行は木、木、土)
夏は、四月巳、五月午、六月未(五行は火、火、土)
秋は、七月申、八月酉、九月戌(五行は金、金、土)
冬は、十月亥、十一月子、十二月丑(五行は水、水、土)
となる(月は旧暦の暦月または節月)。
十二支の陰陽は、子から数えていき、奇数番目は陽、偶数番目は陰となる。 十干と十二支が組み合わさるとき、陰と陽の組み合わせはなく、陽と陽、陰と陰の組み合わせのみとなる。 そのため、10×12=120とはならず、半分の60通りになる。甲寅はあっても乙寅はない、乙卯はあっても甲卯はない。





うえいそつふちゅうそうさんぐん(右衛率府胄曹参軍)
長安駐在の近衛軍の武器の管理に従事する職である。



うみのしるく(海のシルクロード)
欧州から東アジアへと至る航海路で、陸のシルクロードに対して呼ばれる。 聖武天皇(701~756)の遺愛品などを納めた正倉永奈良市)にはペルシャ風の水差しなどがあり、 軽量の宝物は陸路が使われたとみられる。海のシルクロードは重い物資の大量輸送に適し、 中国の絹や陶磁器、インドの象牙、香料などが運ばれたとされる。
(2009-07-04 朝日新聞 朝刊 2社会)



うりん(羽林)
羽林は、前漢に設立された皇帝直属の部隊名で、明代まで置かれた。
前漢の武帝の太初元年に光禄勲の下に「建章営騎」が設立されたことに始まる。皇帝に従うことを職と した。後に「羽林騎」と改称された。
羽林には令、丞が置かれたが、宣帝は中郎将(秩比二千石)と騎都尉(秩比二千石)に羽林を 監督させた。
また従軍して戦死した者の子を引き取って羽林で養い、武器の使い方を教え、これを「羽林孤児」と 称した。
後漢においても光禄勲に属し、羽林中郎将(秩比二千石)が宿衛侍従を職とする羽林郎(秩比三百石) を司った。羽林郎は漢陽(天水)、隴西、安定、北地、上郡、西河の六郡の人間から選抜された。
また中郎将とは別に羽林左監と羽林右監(各秩比六百石)がおり、それぞれ羽林左騎、羽林右騎を 司った。



うんぼうのたく(雲夢澤)
中国古代に湖北省から湖南省にかけて存在したという大湿地。揚子江中流の武漢付近の湖沼群はその跡といわれる。





えきせいかくめい(易姓革命)
古代中国において、孟子らの儒教に基づく、五行思想などから王朝の交代を説明した理論。
天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、 革命(天命を革める)が起きるとされた。それを悟って、君主(天子、即ち天の子)が自ら位を 譲るのを禅譲、武力によって追放されることを放伐といった。王朝交代は多くの場合放伐によって なされるが、禅譲の例も見受けられる。ただし、堯舜などの神話の時代を除けば禅譲の事例は実力を 背景とした形式的なものに過ぎないとされる。後漢から禅譲を受けた魏の曹丕は 「堯舜の行ったことがわかった(堯舜の禅譲もまたこの様なものであったのであろう)」 と言っている。
後漢(劉氏)から魏(曹氏)のように、前王朝(とその王族)が徳を失い、新たな徳を備えた 一族が新王朝を立てる(姓が易わる)というのが基本的な考え方であり、本来、 日本で言われているような「単に前王朝の皇室が男系の皇嗣を失って皇統が断絶する」 ような状況を指す概念ではない。中国においても別姓の養子に皇帝の位を継承した五代の後周や、 同姓の皇族によるクーデターで王朝を改めた南北朝時代の南朝斉→梁のような例もあり、 血統の断絶ではなく、徳の断絶が易姓革命の根拠となる。
ほとんどの新王朝の場合は史書編纂などで歴代王朝の正統な後継であることを強調する一方で、 新王朝の正当性を強調するために前王朝と末代皇帝の不徳と悪逆が強調されるが (有名な桀・紂以外にも、煬帝のように悪い諡号を送られたり、そもそも諡号や廟号を送られない 場合もある)、形式上は明に対する反逆者である李自成を討って天下を継承した清のような場合は、 明の末代皇帝崇禎帝を一応は顕彰し、諡号や廟号も与えられている。
このように、易姓革命論は実体としては王朝交代を正当化する理論として機能していたと言える。 またこのような理論があったからこそ朱元璋のような平民からの成り上がり者の支配をも正当化する ことが出来たとも言える。これは西洋において長年に渡る君主の血統が最も重視され、 ある国の君主の直系が断絶した際、国内に君主たるに相応しい血統の者が存在しない場合には、 他国の君主の血族から新しい王を迎えて新王朝を興す場合すらあるのとは対照的である。 また、日本では、山鹿素行などの江戸時代の学者が「易姓革命は結局臣が君を倒すことで、 そのようなことがたびたび起こっている中国は中華の名に値しない。建国以来万世一系の日本こそ 中華である」と唱えた。素行の著「中朝事実」はそのような思想によって記された日本史の本である。
五行思想面からの説明では、万物には木火土金水の徳があり、王朝もこの中のどれかの徳を 持っているとされた。たとえば、漢の末期を揺るがした184年の黄巾の乱は、 「蒼天已死 ?天當立 ?在甲子 天下大吉(蒼天已に死す、黄天当に立つべし、歳は甲子に在りて、 天下大いに吉とならん、『後漢書』71巻 皇甫嵩朱鑈列傳 第61 皇甫嵩伝[1])」 のスローガンが掲げられた。漢朝は火の徳を持っているとされ、漢朝に代わる王朝は土の 徳を持っているはずだとの意味である。
なお、古来漢字文化圏では革命といえば易姓革命のことであったが、 近代以降に清教徒革命・フランス革命などレボリューションの訳語に革命をあてたことから 区別のため易姓革命と呼ぶようになった(レトロニムに似た例だが漢魏革命・魏晋革命など 王朝の交代を革命と呼ぶ用法も残っている)。








がいかのたたかい(垓下の戦い)
中国楚漢戦争期の紀元前202年に項羽の楚軍と劉邦の漢軍との間の垓下 (現在の安徽省宿州市霊璧県南部と安徽省蚌埠市固鎮県北部)を中心に行われた戦い。 この戦いで項羽が死んだことによって劉邦の勝利が完全に決定し、楚漢戦争が終結した。 なお、近年佐竹靖彦らによって戦いの存在自体が疑われ始めている[1]。
紀元前203年、広武山で長く対峙していた楚漢両軍であったが、楚軍は食糧不足、漢軍は劉邦の 負傷や劉邦の父・劉太公が楚軍に捕らわれていたことなどの理由があり、両軍とも戦いを止めることを 願うようになった。漢軍から弁士・侯公[2]が楚軍へ使者として送られ、 天下を二分することで盟約が結ばれた。
楚軍は本拠地の彭城(現在の江蘇省徐州市)への帰還を始めたが、劉邦は張良・陳平の 「弱っている楚軍を滅ぼす好機」との進言を容れ、盟約を反故にして追撃を行なった。
漢軍は楚軍を追って固陵(現在の河南省淮陽県の西北)という所まで進み、同時に韓信と彭越に それぞれの兵を率いて共に楚軍を討つように命じ、陽武(現在の河南省周口市太康県)に兵を進めた。 しかし両者は姿を見せず、一方で裏切りに気づいた項羽は漢軍へ反撃、大きな被害を受けた 漢軍は城の中に入り、塹壕を深くして守りに徹した。
張良は劉邦に対して韓信・彭越が来ないのは2人に恩賞の約束をしていないからだと言い、 韓信には陳から東の海に至るまでの全ての土地を与え、彭越に対しては?陽より北・穀城に至るまでの 土地を与え、梁王(魏王)とするようにと進言、劉邦もこれを容れ、韓信・彭越に使者を送った。 その結果、2人は即座に軍勢を率いて劉邦に合流した。さらに劉賈の軍も彭越と合流、 楚の大司馬周殷も寝返り、これらの軍勢は次々と垓下の劉邦の下に集結した。
漢軍は、韓信が30万の兵を率いて先鋒となり、孔?と陳賀が側面を固め、総大将の劉邦の後ろに 周勃と柴武が陣取った。対する楚軍は項羽が率いる兵は10万ばかりであった。
韓信は自ら先頭に立ち項羽ら楚軍と戦ったが、劣勢になり後方に下がった。しかし、 孔?と陳賀が楚軍を攻撃すると、楚軍は劣勢になり、さらに韓信がこれに乗じて再び楚軍を攻撃すると、 楚軍は大敗した。
敗れた楚軍は防塁に籠り、漢軍はこれを幾重にも包囲した。夜、項羽は四方の漢の陣から故郷の 楚の歌が聞こえてくるのを聞いて、「漢軍は既に楚を占領したのか、外の敵に楚の人間のなんと多い ことか」と驚き嘆いた。この故事から、敵や反対する者に囲まれて孤立することを四面楚歌 (しめんそか)と言うようになった。[3] 形勢利あらずと悟った項羽は、別れの宴席を設けた。 項羽には虞美人という愛妾がおり、また騅(すい)という愛馬がいた。これらとの別れを惜しみ、 項羽は自らの悲憤を詩に読んだ(垓下の歌)。
虞美人もこれに唱和し、項羽は涙を流し、臣下の者たちも全て涙を流した。
宴が終わると、項羽は夜を突いて残る八百余りの兵を連れて出陣し、囲みを破って南へ向かった。 漢軍は夜明け頃にこれに気がつき、灌嬰が五千騎の兵を率いてこれを追った。八百の兵は次第に 数を減らし、東城(現在の安徽省定遠県の東南)に辿りついたときには項羽に従う者わずか 二十八騎になっていた。
ここで数千の漢軍に追い付かれた項羽は、配下の者に「ここで私が滅びるのは天が私を滅ぼそうとする からで、私が弱いからではない。これから漢軍の中に入ってこれを破り、 それを諸君に知らしめよう」と述べ、二十八騎を七騎ずつに分けて、それぞれ漢軍の中に斬り込んで いった。項羽は漢の都尉を討ち取り、兵士八、九十人を殺した。配下が再び集結すると脱落したのは わずか二人だけであった。配下の者は項羽の言った通りだと深く感じ入った。
項羽たちは東へ逃れ、烏江という長江の渡し場(現在の安徽省馬鞍山市和県烏江鎮)に至った。 ここを渡れば項羽たちがかつて決起した江東の地である。烏江の亭長(宿場役人)は項羽に 「江東は小さいですが、土地は方千里、人口も数十万おります。この地で王となられよ。 この近くで船を持っているのは私だけなので、漢軍が来ても渡ることはできません」と告げた。
しかし、項羽は笑ってこれを断り、「昔、江東の若者八千を率いて江を渡ったが 、今一人も帰る者がいない。江東の者たちが再び私を王にすると言ってくれても何の面目があって 彼らに会うことが出来るだろうか。」と答えて亭長に騅を与え、部下も全て下馬させて、 漢軍の中へ突撃した。項羽一人で漢兵数百人を殺したが、項羽自身も傷を負った。 項羽は漢軍に旧知の呂馬童がいるのを見て、「漢は私の首に千金と一万邑の領地をかけていると聞く 。旧知のお前にひとつ手柄をやろう」と言い、自ら首をはねて死んだ。項羽の遺体に 恩賞が掛けられていたため、周囲にいた漢軍の兵士たちは項羽の遺体を巡って味方同士で殺し合いを 起こしたほどであった。結局遺体は5つに分かれ、呂馬童を含む5名それぞれに5等分された 領地が渡された後に劉邦は項羽を手厚く葬った。
項羽の死によって約5年続いた楚漢戦争は終結し、劉邦は天下を統一して前後約400年続く 漢王朝の基を開くのである。




かいげんじ(開元寺)
唐の9代玄宗が両京(長安・洛陽)諸州ごとに設置した仏教寺院。開元26年(738)6月1日、 玄宗は、勅を下し、州ごとに既存の観と寺を選び、額を与えて開元観と開元寺とした。当時、 既に中宗が定めた龍興観・龍興寺が各地にあったが、玄宗は、それらを祖先祭祀の道観・仏寺とした 一方、開元観・開元寺は皇帝の等身大の像が奉安され、祝寿が行われた。日本の国分寺・国分尼寺にも 通じる制度である。




かいげんのち(開元の治)
中国唐(618年 - 907年)の第6代皇帝・玄宗李隆基の治世、開元(元年 - 29年)年間(713年 - 741年)の政治を指す。 貞観の治と並び称せられる中国史上の政治の安定期の一つで、唐は絶頂期を迎えた。しかし、 後に玄宗が楊貴妃を寵愛し政治を放棄したため唐は混乱し、安史の乱が起こったため崩壊した。




かいしょう(海嘯)
河口に入る潮波が垂直壁となって河を逆流する現象である。潮津波(しおつなみ)とも呼ばれる。昭和初期までは、地震による津波も海嘯と 呼ばれていた。波形から段波(だんぱ)[1]と呼ばれる形状構造をとっているため、波の前面での破壊力が大きい。
海岸でこの現象が起こるのは、河口が広い三角江であり、発生する代表的な河川はブラジルのアマゾン川(これを特にポロロッカという)、 パキスタンのインダス川、中華人民共和国の銭塘江、イギリスのセヴァーン川である。
銭塘江の海嘯
銭塘江の海嘯は「銭塘江潮」とも呼ばれる。中国語では「?塘江大潮」であり、現在の中国語の「海?」は専ら津波を指す。
朔か望のあとに発生することが多く、したがって太陰太陽暦の日付で1日から3日、および15日から18日ごろに発生する[2]。 とくに中秋節と重なる中国暦8月18日ごろの潮が古来有名であり、そのため、杭州では月餅を食べながら見物する伝統がある。
この現象は銭塘江の河口がラッパ状に開いていることや、その先に舟山諸島が点在し、潮流を複雑にしていること、 さらに東シナ海では台湾海峡から流れ込む潮流のスピードが海峡の幅が狭まるにつれ強くなることが原因となって現れると考えられる。




かいほう(開封)
 後梁以降の五代と北宋の都。河南省の古都でかつての汴州。黄河と大運河の交差する要地にあり、商業上の繁栄した都市であった。 1126~27年の靖康の変で金に占領され、衰退した。
 かいほう、とよむ。現地の読みではカイフォン。現在の地名は河南省開封市。隋の煬帝が建設した大運河の拠点の一つであり、 黄河中流域の華北と長江流域の江南地方を結ぶ交通の要地で、物資の集散地となって大いに繁栄した。
 後梁を建国した朱全忠が汴を首都と定め、東都開封府として以来、五代(後唐を除く)の各王朝の都であった。 引き続き宋(北宋)の都となり東京開封府(とうけいかいほうふ)といわれた。この地は古く汴州といわれたので汴京(べんけい、べんきょう) とも言われる。
 開封の繁栄
 唐の長安や洛陽などの都市は、官営の「市」だけで取引が行われ、それに参加できる商人も「行」という同業組合に属していなければならず、 また市での営業は昼間しか認められなかったが、宋代の都市では同業組合の支配力は衰え、市以外にも自由に商店を開くことが出来るようになり、 また盛んに夜市も開かれるようになった。そのような都市には人口が集中し、貨幣経済が発展した。その代表的な都市が開封である。
 『清明上河図』
 宋(北宋)の都開封の栄華を物語った書物が『東京夢華録』(とうけいむかろく)であり、絵画が張択端の描いた『清明上河図』 (清明とは3月3日のこと。市民たちが街に出て春を祝う日)である。
 清明上河図』の一画面は、運河にかかる虹橋。当時、橋の上に店を出すことは禁止されていた。その重みで橋が沈下すると船が通れ なくなるからだ。開封にくる江南からの物資は莫大な量で、年間600万石にもなる。しかもこの図に見るようにかなり大きな船で運ばれる。 その船が通れなくなれば大変なので出店禁止令が出されているが、人々はそんな禁令はどこ吹く風と橋の上に陣取って屋台を出しているのだ。 <伊原弘『中国中世都市紀行』1988 中公新書 p.130>
 参考 旅人の見た開封
 宋の開封は人口約100万、さまざまな人々が住み、訪れた。
 (引用)はじめて見る開封の景色はなにもかも珍しかっただろう。運河、とりわけ汴河を通行する沢山の船は、人々を驚かせたはずである。 その混雑ぶりに驚きつつ、入城すると、そこはもう世界有数の大都会で、宏壮な建物が並んでいる。荷物を宿においた人々は、 なにをおいても城内のそこかしこに出かけたことだろう。例えば宮城。日本からの旅人である成尋もただちに宮城のまわりを歩いている。 「我が国の御所のごとし」。これが彼の感想である。実際、宋の宮殿は小さい。『水滸伝』を読むと、密かに忍び込んだ宋江の手のものの 柴進がまるで天国かなにかのように感嘆しているが、じじつはそれほどでもない。……<伊原弘『同上書』 p.130>
 経済的に繁栄し、人々が密集すれば、盛り場ができる。これも定石どおりのことである。……開封が真に開封らしい姿を見せるのも 歓楽街であった。これは瓦子(がし)とよばれる。ほかにも瓦、瓦市、瓦舎などとよぶ。人が集まるときには瓦のようにひしめき、 散るときは瓦のように砕けるからというのが語源という。……<伊原弘『同上書』 p.131>
 その他、同書には開封の年中行事や、水滸伝の舞台となった街の様子などが紹介されている。
一時、金の都となる
 1126~27年の靖康の変で東北地方に興った女真の金に占領され、北宋が滅亡してから開封の衰退が始まった。 北宋の残存勢力は南方に逃れて建国した南宋は、1138年に長江下流の臨安(杭州)を都とし、金は1153年に都を燕京(現在の北京) に移したので、開封は政治的中心地ではなくなった。
 金は華北を支配するに当たり、当初は二重統治体制をとっていたが、次第に漢民族の制度を採り入れるようになり、いわゆる漢化が進み、 むしろ北方の遊牧民との対立を深めていった。そのようなとき、北方の遊牧社会に登場したのがモンゴル人であった。 1211年、チンギス=ハンが金に対する攻撃を開始、金はやむなく1214年に都を開封に移した。1230年、 次のオゴタイ=ハンが大軍を率いて開封に迫り、激戦となった。開封は多くの難民が餓死する惨状となり、1232年についに落城し、 逃れた金王朝は間もなく滅亡した。
開封の衰退
 元代には新たに江南と北京を直接結ぶ運河が建設され、開封は経済の繁栄から取り残されていった。明末には黄河の大洪水で 泥土の下に埋もれてしまった。現在の開封市は宋の時代のものではなく、清代に建設されたものである。→ 宋代の商工業の発達
長安と開封の比較
 東京(とうけい)と言われた開封は、人口が60~70万人で、世界でも有数な都市であった。
 唐の都長安と比較して、どのような違いがあるか考えよう。
長安と同じく、城壁に囲まれた城壁都市である。大内を中心として、内城、外城がある三重構造。
長安の碁盤の目のような区画がない。長安は整然とした坊市制で区画されていたが、開封ではより広い範囲を含む廂に区画されている。
商業区画は長安では東西の市だけであったが、開封では市場や繁華街が広がっている。なお、長安の市は昼しか営業できなかったが、 開封では図のように夜市や暁市が開かれた。
開封では?河を通じて外の商業網に通じていた。水路は実際にはさらに多く張り巡らされていた。
開封の市内にある瓦市(瓦肆)とは、娯楽施設で、戯曲、雑伎、武術、講談などが演じられていた。
(上図は『中国中学校歴史教科書』明石書店 p.452 をもとに作成した)




かきょ(科挙)
中国で598年~1905年、即ち隋から清の時代まで、約1300年も行われた官僚登用試験である。 科挙という語は「(試験)科目による選挙」を意味する。選挙とは郷挙里選や九品官人法などもそう呼ばれたように、 伝統的に官僚へ登用するための手続きをそう呼んでいる。「科目」とは現代の国語や数学などといった教科ではなく、 後述する「進士科」や「明経科」などと呼ばれる受験に必要とされる学識の課程である。 北宋朝からはこれらの科目は進士科一本に絞られたが、試験自体はその後も“科挙”と呼ばれ続けた。 賢帝として知られる隋朝の楊堅(文帝)が初めて導入した。古くは貴族として生まれた者たちが高位を独占する時代が続いたが、 家柄ではなく公平な試験によって、才能ある個人を官吏に登用する制度は、当時としては世界的にも非常な革新といえる。 しかし隋から唐までの時代には、その効力は発揮できていなかった。これが北宋の時代になると、科挙によって登場した官僚たち が新しい支配階級“士大夫”を形成し、政治・社会・文化の大きな変化をもたらしたが、科挙はその最も大きな要因だと言われて いる。士大夫たちは、科挙によって官僚になることで地位・名声・権力を得て、それを元にして大きな富を得ていた。 生まれに関係なく学識のみを合否の基準とする科挙ではあるが、科挙に合格するためには、幼い頃より労働に従事せず 学問に専念できる環境や、多数の書物の購入費や教師への月謝などの費用が必要とされた。そのため、実際に科挙を受験できる者 は大半が官僚の子息または富裕階級に限られ、士大夫の再生産の機構としての意味合いも強く持っていた。 ただし、旧来の貴族の家系が場合によっては六朝時代を通じて数百年間も続いていたのに比べ、士大夫の家系は 長くても4~5代程度に過ぎず、跡取りとなる子が科挙に合格できなければ昨日の権門も明日には没落する状態になっていた。 科挙の競争率は非常に高く、時代によって異なるが、最難関の試験であった進士科の場合、最盛期には約3000倍に達することも あったという。最終合格者の平均年齢も、時代によって異なるが、おおむね36歳前後と言われ、中には曹松などのように70歳を 過ぎてようやく合格できた例もあった。無論、受験者の大多数は一生をかけても合格できず、経済的事情などの理由によって 受験を断念したり、失意のあまり自殺した鍾馗の逸話など悲話も多い。試験場でカンニングなどの不正行為が発覚すれば 死刑を含む重刑が科せられるにも関わらず、数十万字にも及ぶ細かい文字をびっしり書き込んだカンニング下着が現存するなど、 科挙が廃止されるまでの約1300年間、さまざまな手段を駆使して不正合格を試みる者は後を絶たなかった。 このような試験偏重主義による弊害は、時代が下るにつれて大きくなっていった。科挙に合格した官僚たちは、 はなはだしきは詩文の教養のみを君子の条件として、現実の問題は俗事とみなし、経済や治山治水など政治の実務や 人民の生活には無能・無関心であることを自慢するにいたり「ただ読書のみが尊く、それ以外は全て卑しい」 (万般皆下品、惟有読書高)という風潮が、科挙が廃止された後の20世紀前半になっても残っていた。 こういった風潮による政府の無能力化も、欧米列強の圧力が増すにつれて深刻な問題となっていた。 また、太学や書院などの学校制度の発達を阻害(そがい)した面を持っていることは否めない。これに対しては、 王安石などにより改革が試みられた例もあったが、頓挫した。それ以後もこの風潮は収まらず、欧米列強がアジアへ侵略すると、 科挙官僚は“マンダリン”と呼ばれる時代遅れの存在となり、清末の1904年(光緒30年)に科挙は廃止された。




かざん(崋山)
陝西省華陰市にある山。中国五名山の一つとして、西岳とも呼ばれる。
中国において、花崗岩が露出した険しい山肌が続く景勝地として知られ、国家級風景名勝区(第1期) に指定されている[1]。道教や仏教などの修行地として利用され、歴史的な建造物が点在する。
華山は最高峰である南峰(2,154m)の他に、北峰(1,614m)、中峰(2,037m)、東峰(2,096m)、 西峰(2,082m)の5つから構成されている。
山頂周辺へのアクセス手段には、北峰側の三特索道と、西峰側の太華索道がある。 このうち太華索道は、2013年に開業した全長4,211mの世界最長クラスのロープウェーである[2]。
花崗岩の岩場を削って、無数の石段が作られており、一部には断崖絶壁の上に作られた20cmほど しかない足場や桟道を通って行かねばならない場所があり、宗教聖地として、格段の険しい山 として知られる。




がふ(楽府)
漢詩の一形式で、古体詩の一種。その文体を楽府体(がふたい)ともいう。
前漢の時、民間歌謡の採集のため楽府という音楽官署が設立されたが、楽府において集められた歌謡そのものをさす言葉となった。 以後、民間歌謡全般を楽府と称することがあり、宋元の詞や曲も楽府と呼ばれることがあった。 文学史上のいわゆる楽府の形式は晋代以降に呼ばれるようになったもので、漢魏の古曲に基づく楽府を楽府古辞、 六朝時代の民間歌謡にもとづくものを楽府民歌といい、これらを古楽府という。
唐代になると古楽府はほとんど演奏されなくなり、古楽府の形式に沿って作られたりし、朗読される詩歌となっていった。 また中唐以降になると、白居易を始めとして新しい題(新題)を創始して楽府が作られるようになり、これを新楽府という。
北宋の郭茂倩の『楽府詩集』では漢から唐に至るまでの歌謡、または文人がその題(古題)を借りて創作したり、 その体裁を模倣して作った歌詞、新楽府が収録されている。




かんおん(漢音)
日本漢字音(音読み)の一つ。古くは「からごえ」とも呼んだ。7, 8世紀、奈良時代後期から 平安時代の初めごろまでに、遣隋使・遣唐使や留学僧などにより伝えられた音をいう。 中国語の中古音のうち、唐中葉頃の長安地方の音韻体系(秦音)を多く反映している。 他の呉音や唐音に比べて最も体系性を備えている。また唐末に渡航した僧侶たちが持ち帰った 漢字音は中国語の近世音的な特徴を多く伝えており、通常の漢音に対して新漢音と呼ばれることがある。 漢音の普及
持統天皇は、唐から続守言を音博士として招き、漢音普及に努めた。また、桓武天皇は延暦11年 (792年)、漢音奨励の勅を出し、大学寮で儒学をまなぶ学生には漢音の学習が義務づけられ、 また仏教においても僧侶の試験に際して音博士が経典読誦の一句半偈を精査することが行われ、 また漢音を学ばぬ僧には中国への渡航が許されなかった。漢音学習者が呉音を日本なまりの発音として 「和音」と呼び、由来もはっきりしない発音として「呉音」と呼んで蔑んだように、 漢音は正統の中国語音で発音することが求められたものであった。このようなレベルの高さから 日常語として定着した呉音を駆逐するような力は持ちえず、江戸・明治にいたるまで漢音が一般に 普及することはなかった。
江戸時代には漢字を仮名で書き写す字音仮名遣の研究が始まった。その際には日常的に使われていた 呉音よりも最も体系的な字音資料をもつ漢音を基礎として進められた。字書や韻書をもとに漢音がほぼ すべての漢字について記述されるようになり、漢音で読まれない漢字はほとんどなくなった。 こうして日本語音としての漢音を発音することが可能となり、明治時代、西洋の科学・思想を導入する 際の訳語(和製漢語)に使われたことで広く普及することになった。また、和製漢語に使われた ことにより、明治期の一時期に漢音での読みが進んだ印象を持たれるようになり、学生を中心に 本来は呉音読みする熟語をあえて漢音読みすることが流行した。
特徴
声母
頭子音の特徴として、呉音で鼻音だったものが濁音、濁音だったものが清音となっていることが あげられる。それは以下のような理由による。 ディネーザリゼーション
漢音は当時の長安地方で起こった中国語の音韻変化、非鼻音化現象 denasalization (鼻音の後半部が口音化する現象)を反映している。子音を表す字母である三十六字母の鼻音のうち、 明母は[m]から[mb]となり、微母は[?]から[?v]、泥母は[n]から[nd]、疑母は[?]から[?g]、 日母は[?]から[??]となった。漢音はこれを反映して、中古音の鼻音を、馬(バ)、微(ビ)、 泥(デイ)、疑(ギ)、日(ジツ)と口音で伝えている。このため、呉音に比べて漢音では鼻音が 極端に少なくなっている。ただし、明(メイ)や寧(ネイ)のように韻尾が[?]のものは鼻音の まま伝わり、韻尾が[n]のものも面(メン)や年(ネン)のように鼻音のまま伝わったものが 少なくない。しかし、明の新漢音が「ベイ」、寧の新漢音が「デイ」という変化もある。 全濁の無声音化
漢音は、当時の長安で清濁の対立がなくなりはじめていたことを反映していると言われる。 このため漢音では中古音の清濁の区別をあまり反映しておらず、呉音で全濁であったものが、 清音として伝わっているものが多い。例えば、婆(呉音:バ→漢音:ハ)、定(呉音:ヂャウ→漢音: テイ)、勤(呉音:ゴン→漢音:キン)、禅(呉音:ゼン→漢音:セン)、従 (呉音:ジュ・ジュウ→漢音:ショウ)、胡(呉音:ゴ→漢音:コ)などである。 匣母
三十六字母の匣母で表される頭子音(推定音:[?])は、呉音ではワ行で表されるが、 漢音ではカ行で表される。例えば、和(呉音:ワ→漢音:クヮ)、話(呉音:ワ→漢音:クヮイ)、 惑(呉音:ワク→漢音:コク)、会(呉音:ヱ→漢音:クヮイ)、黄(呉音:ワウ→漢音:クヮウ) 韻母
呉音でア段音(-a)とエ段音(-e)に分けられていたものが、ア段音(-a)に統一された。例えば、 呉音で歌はカ、家はケであるが、漢音では両者ともカとなっている。
呉音でア段音+イ(-ai)で表されたもののうち、エ段音+イ(-ei)になったものがある。 弟(呉音:ダイ→漢音:テイ)、礼(呉音:ライ→漢音:レイ)。
鼻韻尾の[?]を表すため呉音でア段音+ウ(-au)であったものが、エ段音+イ(-ei)になったものがある。 例えば、平(呉音:ビャウ→漢音:ヘイ)、青(呉音:シャウ→漢音:セイ)、 令(呉音:リャウ→漢音:レイ)。
呉音でオ段音+ン(-on)であったものが、漢音ではイ段音+ン(-in)、エ段音+ン(-en)に 変化したものがある。例えば、隠(呉音:オン→漢音:イン)、勤(呉音:ゴン→漢音:キン)、 建(呉音:コン→漢音:ケン)、言(呉音:ゴン→漢音:ゲン)など。
漢音で読まれる仏教経典
仏教経典は原則として呉音で読まれるのだが、天台宗における「妙法蓮華経(法華経)」のうち 「安楽行品第十四」や「阿弥陀経」、真言宗で読まれる「理趣経」などは漢音で読まれる。 (例えば「如是我聞」を「ニョゼガモン」と読まずに「ジョシガブン」と読み、 「釈迦牟尼仏」を「シャカムニブツ」と読まずに「セキャボウジフツ」と読む、など)
天台宗における経文の漢音読みは、天台宗開宗以来1200年の伝統に則って、上記の2つの経文などは、 昔から漢音読みされる。西山浄土宗など、浄土宗西山三派は阿弥陀経を漢音読みする。 また、浄土真宗でも一部の法要の場合のみ阿弥陀経を「漢音小経」として漢音読みする。 ただし現在の漢音ではなく新漢音読みが入っており、「国」を普通の漢音の「コク」ではなく 「クヱキ」あるいは「ケキ」と読んだり、「法」を「ホウ」ではなく「ハ」あるいは「ハツ」、 「極」を「キョク」ではなく「キク」あるいは「キ」、「名」を「メイ」ではなく「ベイ」、 「百」を「ハク」ではなく「ハキ」、「明」を「メイ」ではなく「ベイ」(場合によっては 「ビ」)と読むなどである。新漢音読みは現代にはあまり伝わらなかったが、 これらの一部経典の漢音読みでは現代でも使われているわけである。
真言宗における「理趣経」では、この経典の内容が「煩悩即涅槃」を説き、完全に経文の真意を 理解しないうちに文面だけを読んでしまうと、単に「男女の情愛」をも肯定している エロティックな内容との誤解を招きかねない。そのため「わざと漢音で読む」ことによって経文を 読みなれた人にさえも聞いただけでは意味をつかめないようにしているという説もあるが、 他の経も漢音読みする場合があり、この説は俗説である。




かんかそうどう(浣花草堂)
杜甫草堂は成都から西に5km離れており、浣花渓の畔に位置するので浣花渓堂と呼ばれています。 また少陵草堂、工部草堂という名称でも呼ばれています。敷地面積は約20ヘクタールに達する杜甫草堂は、 かつて唐の時代の「詩の聖」と呼ばれた杜甫が唐乾元2年(759年)に勃発した安史の乱を逃れるために 、現在の陝西省、甘粛省から家族を連れて、景色の綺麗な浣花渓の畔に建てた簡易的な建物(草庵)でした。 当時、杜甫はここに4年ほど住み、約240首の漢詩の創作に取り組みました。 杜甫がこの地を離れた後この草庵はなくなってしまいましたが、五代に入ると前蜀の詩人である韋庄が この跡地に草庵を造り直し、それ以来文物遺跡として保存されてきました。 元、明、清の時代にわたり幾度かの修繕や増築が行われてきましたが、 最も大規模な工事が行われたのが1500年(明弘治13年)と1811年(清嘉慶16年)に行われた工事で、 これを通して現在の杜甫草堂の規模と配置が定着し、詩人の風情を重んじる旧居、 また詩人を祭る記念的祠としても形成されました。現在では建物も古めかしく閑静な園林式博物館として 一般公開されているほかに、有名な文化聖地として1961年3月には、中国の重要文物保護財に指定されています。 杜甫の生前の名残りとして、もっとも規模の大きく完璧に保存された有名な観光スポットとなり、 国内外から多くの人々が訪れています。
杜甫草堂に保管されている各分野の資料は合わせて30000冊に上り、文化財が2000点も納められています。 そして、宋、元、明、清の時代にわたる歴代の杜甫の作品についての精刻本、謄写本などもある上、 日本語など15か国語で翻訳された詩作が多く保存されています。杜甫草堂は博物館として文物観光区域(草堂遺跡)、 園林観光区域(梅園)、サービス区域(草堂寺)に分かれています。草堂遺跡区域では照壁、玄関、ホール(客間)、 詩史堂、柴門(簡易扉)、工部祠(杜甫祠)が順に中間線に並び、両側には回廊や建造物が対称的に配置されています。 その間には水が流れ、橋で渡ることができます。さらに竹林の中に隠れて古風な風情があふれ、 静寂した雰囲気を醸し出しています。工部祠の東側にある「少陵草堂」の石碑を納められた亭が杜甫の草庵をイメージし、 「詩聖」への思いを忍ばせる記念物となり、杜甫草堂のシンボルとされています。 詩史堂は杜甫草堂を記念する祠の中心的存在で、真ん中には中国の著名彫刻家である劉開渠の制作した杜甫像が安置されています。堂内には歴代の著名人の書いた対聯、横額が陳列されています。工部祠の裏には1997年に造られた「茅屋景区」があり、杜甫の詩作の息吹きと明の時代の造園を伴い、四川省西部の民居風格あふれる田園となっています。いずれも杜甫詩人の旧居ならではの風貌を感じさせます。1999年に盆栽園に造られた「杜詩書法木刻廊」は楠の木に刻んで出来た作品の展示場で、これらの作品は杜甫博物館に収蔵されている作品の中から厳選されたもので、詩作、書道、用いられた材料等、非常に鑑賞価値が高いものになっています。また、2005年に楠木林に造られた万仏楼が高くそびえ、杜甫草堂の新たなシンボルとして注目されています。




かんかのまい(干戚之舞)
古代樂舞的一?。操干戚的武舞。




かんがん(宦官)
 宦官とは、去勢された男子のこと。ペニスと睾丸を切除してしまうのだ。もちろん、麻酔などない時代である (書いているだけで恐ろしい…)。こんなことがなぜ行われたのか。おそらく、家畜を去勢して飼い慣らすのと同じ感覚なのだろう。 つまり、異民族の戦争捕虜をおとなしくさせてこき使ったのだ。これは最古の王朝である殷からすでにはじまっている。
 また、周の時代から刑罰として去勢が行われている。これを「宮刑」といい、死刑の次に重かった。  しかし、あろうことか、宋のころから自分で去勢手術を受ける者があとをたたなかったという。貧しい庶民にとって、 宦官になって宮廷に入ることは、一攫千金のチャンスだったからだ。
 宦官は、男子禁制の後宮(皇帝のお后がたくさんいるハーレム)での雑用がおもな仕事だった。新米宦官は、 ベテラン宦官のもとで宮廷のしきたりをたたきこまれる。宦官社会は階級が絶対で、先輩にいじめられても逆らうことができない。 しかし、どんなにつらくても、もはや一般社会にはもどれない。悲惨な境遇から抜け出すためには、 ピラミッド組織の上にのぼっていくことだ。首尾よく出世し、皇帝に気に入られれば、大臣さえあごでつかうほどの権力を 握れたのだから。
 ここで注意しなければならないのは、本来は雑役夫にすぎない宦官が、政治を左右する力を持ったのはなぜか、 ということである。それは、君主である皇帝がひどく孤独だったためである。部下や身内すら信用できない独裁君主にとって、 つねに身近にいて言うことをきいてくれる宦官はなにかと便利な存在だったのだ。
 こうして、宦官は歴史の表舞台にあらわれる。有名な宦官としては、大歴史書『史記』を著した司馬遷(しばせん)、 紙を発明した蔡倫(さいりん)、大艦隊を率いてアラビアまで行った鄭和(ていわ)があげられる。 ただし、このような立派な業績を残した者は少なく、たいていは権力欲にまみれた俗物として登場する。
 中国史の中で、とくに宦官の専横が激しかったのは後漢、唐、明である。これらの王朝では、宦官は皇帝を意のままにあやつり、 親衛隊を勝手に動かすわ、有能な政治家や軍人を追放するわ、はては皇后を殺して幼い皇帝をたてるわ、やりたい放題だった。
 こんなにひどい害があるなら宦官なんて廃止してしまえばいいのに、と思うだろう。しかし、かの三国志のヒーロー、 曹操はこう言っている。「宦官の制度は昔からあってその存在が悪いわけではない。君主が権力を与えすぎるからこんな 事態になったのだ。」
 たしかに、中国の王朝にとって、宦官は切っても切れないくされ縁だった。後漢と唐では、あまりのひどさに我慢できなく なった将軍が宮廷に乱入し、宦官を全滅させた。しかし、それと同時に、王朝そのものも滅亡してしまったのだ。




かんこう(漢江)
漢江(かんこう)または漢水(かんすい)は、長江の最大の支流である。延長は1,532km、流域の面積は17.43万km2。
漢水は陝西省漢中市寧強県の?冢山を水源とする。東に流れ湖北省に入り武漢市で長江に合流する。 支流として胥水河、旬河、堵河(最大)、丹江、唐白河等を併せる。流域の主要な都市として 漢中市、安康市、十堰市、襄陽市、武漢市などがある。漢水の上流に丹江口ダムがあり、 南水北調工程(南方の水を北方へ引く国家プロジェクト)の水源となっている。 『書経・禹貢』に「?冢導漾東流為漢。」とあり、清代の『嘉慶一統志』漢中府・山川に 「漢水,在寧羌州北,源出?冢山。東流経?県南,又東経褒城県南,又東経府治南鄭県南...... 東南流入興安府石泉県界。」とある。地形の変化のため、安康より上流は航行することができない。 また支流は冬季には断流することがある。
漢水の中・下流の流域では都市は川床よりも低い位置にあり、漢水の氾濫は大きな災難をもたらす。 1983年に安康市は漢水の氾濫で巨大な損失を被った。




かんさつぎょし(監察御史)
官吏を監察し、また、地方を巡察して行政を監視した官。秦代に設けられた御史を隋代に 改称したもので、清代まで受け継がれ、中華民国成立後は監察院となった。
御史(ぎょし)は秦、前漢以降の官職名。
前漢においては、副宰相である御史大夫に所属し、定員45人であった。そのうち15名は侍御史と 呼ばれて殿中におり、二人の丞(副官)のうちの一人である御史中丞に統率された。 残りの30人は御史大夫の役所に居た。
御史は秩600石で、百官の事を仕事とした。
秦においては各地の郡に御史が派遣されて監察しており、監御史と呼ばれた。漢では丞相史が 郡を監察するようになったが常置はされず、のちに刺史が置かれるようになった。
また、監軍御史が置かれて軍を監察することもあった(『漢書』胡建伝)。
侍御史は公卿の上奏を受領し、内容を調べて弾劾した。侍御史には繍衣直指という、 武帝により置かれた大事件や討伐の際にのみ任命される職もあった。
前漢の哀帝元寿2年(紀元前1年)に御史大夫を大司空と改称して御史大夫を廃止して以降、 侍御史以外の御史は確認できない。
明代になって御史台が廃止され監察機関が都察院に改組された後は、都御史・副都御史・ 監察御史・僉都御史などの階級が区別された。




かんしょく(寒食)
寒食節(かんしょくせつ、かんじきせつ)は、東アジアの年中行事。古代中国で成立し、現代では大韓民国などで春の農耕の始まりを祝うとともに 祖先を祭り墓参が行われる一方、中国では清明節に吸収される形でほぼ消滅している[1][2]。
伝統的な寒食節においては数日(時代によって期間は異なる)火を使わずに過ごし、冷たい食事だけで過ごす[3]。後者については「寒食」 という名前にあわせて後から生じた風習とみられる[3]。これらは焼死した介子推を弔うため、という伝説が有名である[3]。
各国における風習
韓国の墓。寒食節には手入れをして芝生を張り替える。
バイン・トイ。ベトナムでは寒食節に食する。
現代の大韓民国では、寒食節は元旦や端午、秋夕と並ぶ4大名節(朝鮮語版)の1つとして、節祀や茶礼と呼ばれる先祖の祭祀を行う[3]。 茶礼は墓のメンテナンスであり、寒食節と秋夕は多くの韓国人が墓参に行く[4]。寒食は特に冬の間に円形の封墳に生じた裂け目や窪みなどを 補修して表面の芝を張り替えるが、近年は公園墓地の管理機関に作業を任せるケースも少なくない[3][4]。その後に供物を捧げ、 寒食の際に移葬や改葬を行うこともある[3]。寒食節は冬至から105日目とされて太陽暦で4月5日頃にあたり、植樹に適当な時期のためこの日は 植樹日(???、シンモギル)という記念日になっている[5]
また、ベトナムでは北部を中心に旧暦3月3日にテットハントゥック(T?t Han th?c)という寒食節由来の行事があり、 バイン・チョイおよびバイン・トイ(Banh troi - banh chay)という餅菓子を食べる[6]。墓参りなどの風習は特にない[6]。
起源
『周礼』秋官には「仲春(旧暦2月)に木鐸を鳴らして一斉に火を消す準備をし、改火に備える」という記述があり、 これが火を使わずに過ごす寒食節のルーツとみられる[7]。古い火を消して新しい火を得る火改は、カトリック教会の復活祭前夜やインカ帝国の インティ・ライミ、スコットランドやアイルランドのベルテーン祝祭(英語版)、イランのサデー(英語版)など世界各地に古くから存在し、 中国のものもその中の一つと考えられる[8]。火改の祭にはイースターファイヤー(英語版)のように焚火をともなうものも多く、 介子推の焼死という伝説が寒食節に採用された背景には山焼きや人身御供などの風習が火改に存在した可能性が示唆される[9]。
伝承の成立
寒食節は介子推の焼死を弔って火を使わず冷たい食事だけで過ごすようになった、という伝説が広く知られている[3]。この伝説では 「晋の文公に仕えた介子推は論功行賞に漏れたことをきっかけに母と綿山の山中に隠棲し、文公からの呼び出しに応じなかった[3]。 文公は下山させるために綿山に火を放ったが、介子推は母を抱いたまま山中の洞窟で焼死した。憐れんだ文公は、山に廟を建てて介子推を 祀るとともに命日から3日間は火を使わずに過ごすよう命じ、これが寒食節になった。」とされる[3]。 しかし、介子推について最も古い記述とみられる先秦の『春秋左氏伝』の僖公二十四年の記述では「介子推が母とともに遁世して亡くなったのち、 文公は介子推を探索したが見つけられず、処遇の過ちを後悔して綿上の地を介子推に封じた」とあり、焼死の要素は全くない[10]。これに対し、 戦国時代に書かれた『荘子』の雑篇・盗跖第二十九では神話的な描写が強くなり、「介子推は飢えた文公に自分の腿肉を食べさせるなど忠誠を 尽くしたが隠遁し、呼び出しに応じず最後は樹木に抱きついたまま燔死した」と焼死という結末が出てきており、 これが後代に影響を及ぼしたとみられる[10][11]。また、戦国末期の『呂氏春秋』の巻十二・季冬紀第十二、および前漢に成立した『史記』 の晋世家第九における記述には、春秋左氏伝と同じく焼死のエピソードはない[12]。
一方で、前漢の『新序』の巻七・節士の條は「介子推は論功行賞の不満を歌に仮託し、文公の謝罪を受けたが綿山に隠棲し、 呼び出すために山に火をかけられ焚死した」という内容になっており、呂氏春秋にあった歌など各書物の要素を取り入れながら、 焚死までの流れを完成させた形となっている[13]。後漢前期に書かれた『新論』には介子推の伝説と寒食の風習が合致したとあり、 さらに後漢後期に蔡?が著した『琴操』龍蛇歌の條では「介子推の焚死後、文公は後悔して禁火令を施行した」というストーリーが描かれ、 介子推の焼死と寒食節の関連が明示されている[13]。このため、後漢期に寒食節と介子推の弔いを紐づける見方が一般化したとみられる[13]。
なお、宋代に書かれた『歳時広記』が引用した唐代の『朝野僉載』では、介子推の妹とされる妬女とともに兄妹を祀った妬女廟が并州にあると 記録されている[9]。また、2008年には介子推の故郷とされる山西省の介休市綿山で中国清明(寒食)文化祭が催されるなど、 伝説は現代でも関心を引いている[3]。 六朝期
曹操は3世紀の明罰令において「太原など北方では冬至後の105日間にわたり寒食のため火を使わないと聞くが、特に幼児や高齢者への 負担が大きすぎるため寒食は不可とする」という詔を発した、と『芸文類聚』巻四や『玉燭宝典』二月の候に引用されている[14][15]。 ここでは寒食節の行われる地域として、太原郡・上党郡・雁門郡・西河郡という現代の山西省にあたる并州内の地名が挙げられている[15]。
他にも六朝期の書物では晋代の『?中記』、南朝宋代の『後漢書』などに寒食節についての記述が見られ、 并州内で行われる地方風俗として認識されている
寒食で火を使わない期間は当初1か月ほどもあったが、死者が続出して6世紀の梁の時代までに3日間に短縮されたと考えられる[16]。
また、6世紀頃の『荊楚歳時記』には、「冬至を去ること105日を寒食といい、3日間火を使わずに冷えた飴湯と大麦の粥を食べる」 とある[7]。実際に冬至から105日目にあたる寒食節後の清明と時期について混同しているとみられ、宋代の『歳時広記』が引用した 『?中記』でも「冬至から100日目に并州では3日間火を断って乾粥を作る」と記されている[7]。
隋・唐時代
唐代は特に中期以降に漢詩の題材として寒食が取り上げられる機会が増え、沈?期は嶺外には寒食がないこと、初唐期の崔融(中国語版)や 盛唐期の陳潤は江南(長江南部)における寒食をそれぞれ詠みこんでおり、北方や中原だけでなく浙江省周辺まで寒食節の風習が伝わっていたと みられる[17]。また、8世紀の開元年間に玄宗によって寒食節に墓参することが勅許され、10世紀半ばの後周では墓で紙銭を焼いていた、 と19世紀に朝鮮で著された『東国歳時記』に記述されている[9]。
日本から唐に渡った円仁は9世紀半ばの『入唐求法巡礼行記』で寒食節について触れ、開成4年(839年)の2月14日から2月16日、 および翌開成5年(840年)の2月23日から2月25日の3日間は、いずれも「世間では煙を出さず、全て寒食を食べる」と記している[18]。なお、 日本には寒食節の風習がないことが18世紀の『和漢三才図会』に書かれているが、小正月のとんどは寒食節の火祭りの影響を受けているという 見方がある[19]。
宋代以降
宋代には寒食節が西域のトルファン盆地まで伝わり、9日間に渡って行われていた[16]。11世紀には蘇軾によって行書黄州寒食詩巻の書が 書かれている。明代に入って禁火の習俗が廃れるとともに寒食は名称が実態に合わなくなり、中国では冬至後105日目の清明祭に統合され ていった[20]。
一方、朝鮮では寒食節が現代まで続き、李朝では柳の木で錐揉みして火を起こして宮中に進上し、国王が臣下に頒賜したという記述が 19世紀前半の『洌陽歳時記』にある[9]。『東国歳時記』には、同じく李朝で寒食後の清明に楡の木に火を灯して官庁に頒賜するとあり、 改火の後の新しい火の頒与の風習が長期にわたって続いていたことがわかる[9]。




かんちゅう(関中)
函谷関の西側の地域を指す。現在の中国陝西省渭水盆地(同・渭河平原)の西安を中心とした一帯である。 春秋戦国時代の秦の領地であり、その後の前漢や唐もこの地に首都を置いた。
範囲については時代によって異なっている。
『史記』においては、戦国時代当時の秦の領国(函谷関以西)を漠然と指しており、隴西・漢中・巴蜀に至る現在の 中国北西部から西部一帯にかけての広範な地域を指す場合もある。狭義においては、函谷関より西、隴関(ろうかん) より東の平野部である渭河平原を指す言葉としても使われるようになり、古い時代には両方の使い方が併用されていたものの、 後世においては後者に対してのみに用いられるようになる(ちなみに、中華民国時代に渭水盆地地域に短期間のみ 「関中道」という行政区が置かれていたことがあるが、これが行政区分として関中の語が公式に使われた唯一の例である)。 ちなみに、東の函谷関、西の隴関・大散関、北の蕭関、南の武関に囲まれていることからその名があるともいうが、 前述の経緯から見ると後付であると言わざるを得ない。
四方を険しい山で囲まれていて守備に適し、しかも渭水盆地の生産力は関中の人口を養うのに十分だった。 『史記』の中の関中を評した言葉として「関中は沃野千里」「王城の地」「秦(関中)は敵の百に対して一の兵力で対抗できる」 という言葉がある。秦や漢が天下を統一できた要因の一つとして、関中の地の利が必ず挙げられる。
しかし、新末期の赤眉の乱や魏晋南北朝時代の大動乱によって次第に荒廃し、同時に華北の動乱を避けた人々が 長江流域に移住し、開発を進めたことで江南の経済力が飛躍的に上昇すると、関中の経済的な優勢は覆された。 とは言え、西域への交通の要所としての重要性は変わらずにいたために、隋・唐は長安に都を置き、 西域との交流を続けた。だが、「百万人」と言われたかつてない規模の大都市に成長した長安の人口を狭い 関中地域の生産だけで支えていくことは、たとえ戦乱による荒廃が無かったとしても不可能な話であった。
さらに、安史の乱・黄巣の乱によって再び荒廃すると、唐を滅ぼした朱全忠は東の開封へ都を移した。 その後は航海術の発達もあって中国の中心は東へ移り、明末には関中を含めた陝西一帯が李自成率いる 反乱軍の発生拠点になるほどまでの衰退ぶりを見せた。しかし現在でも、中央アジアへの玄関口としての役割は失っていない。




かんりんぐぶ(翰林供奉)
翰林院発足の当初は翰林待詔もしくは翰林供奉と称されていた。李白が翰林院入りした天宝元年(742)には翰林学士と 呼ぶように改められていた。李白は翰林学士に採用されたが、学士と称するのを嫌い、旧い供奉という言い方を 好んだ。翰林学士は令外(りょうげ)の官で、天子の特命に応じていろいろなことができる自由な官職であった。




かんろのへん(甘露の変)
唐の大和9年(835年)、文宗および官僚が企図した宦官誅殺未遂事件。本件が失敗したことにより 中唐期以降、唐における宦官勢力の権力掌握がほぼ確実となった。 元来、唐では玄宗期の高力士以降、粛宗、代宗期の李輔国、程元振ら宦官が政治権力を振るう土壌が あった。高力士は玄宗の私的秘書として隠然たる権力を行使するだけであったが、李輔国は安史の乱後 の政治的混乱に乗じ権力を増大させ、一時は「尚父」と号し司空、中書令に就く程の権勢を振るった。 李輔国以降、宦官は皇帝の秘書に留まらず表立って権力を行使させるようになった。
これらの宦官優遇策がとられた理由は、
子孫を残せない宦官は帝位を窺う恐れが無いこと
皇帝の私的な家臣(家奴)として日常的に接するため皇帝権力に近かったこと
等である。このため、特に国家の混乱期など人心が叛服常無い状況では、通常の家臣よりも謀反を 起こす恐れが低いため、軍権を持つ軍閥など軍事勢力に対抗するため、しばしば宦官に権力を 掌握させることがあった。
文宗は即位当初より、文宗を擁立した宦官の王守澄に権力を握られており、その専横を憎んでいた。 その文宗の意を受ける礼部侍郎李訓及び太僕卿鄭注は仇士良という宦官を王守澄と対立させ、 両者を抗争させ共倒れさせるという謀議を献策した。この下準備として鄭注は軍を動員できる節度使 (鳳翔節度使)となった。
この策は当初順調に推移し、王守澄は実権を奪われ冤罪により誅殺された。この後、返す刀で王守澄の 葬儀に参列した仇士良及び主立った宦官勢力を、鄭注が鳳翔より兵を率いて粛清する予定であったの だが、功績の独占を目論んだ李訓は、鄭注が出兵する王守澄の葬儀前に宦官を一堂に会させる機会を 作るため、「瑞兆として甘露が降った」ことを理由に宦官を集めようとした。これは瑞兆の真偽の 確認には宦官全員が確認することが慣例であったからである。
太和9年11月壬戌の日、左金吾衛大将軍の韓約が朝会にて、「左金吾役所(左金吾衛)裏庭の石に 昨夜、甘露が降った」と上奏、慣例に従いほとんどの宦官が確認に赴いた。
この時、左金吾衛の裏庭には幕が張られ、その陰に郭行余、羅立言らが兵を伏せていた。しかし、 幕間から兵が見えてしまい、事態に気づいた仇士良らは文宗を擁して逃亡、宦官に取り囲まれた 文宗は李訓、鄭注らを逆賊とする他なく、李訓らは腰斬により処刑された。
この事件以降、宦官は文宗を傀儡にし権力を行使、失意の文宗は「朕は家奴(宦官)に制されている」 と嘆き4年後に病死した。






きょうじょう(筇杖)
筇竹杖。筇竹:竹名。因高節實中,常用以為手杖,為杖中珍品。




きゅうしゅう、くしゅう(九州 (中国))
中国全域の古称。古代、中国全土を九州に分けたことに由来する雅称のひとつである。 中国では天下、世界全体の意味で用いられる場合もある。
九州は天下を構成する9つの州のことであるが、何をもって九州とするかは文献によって異なる。
『尚書』禹貢による九州は、冀州、?州、青州、徐州、揚州、荊州、豫州、梁州、雍州を指した。
『爾雅』釈地による九州は、冀州、豫州、雍州、荊州、揚州、?州、徐州、幽州、営州を指した。
『周礼』職方氏による九州は、揚州、荊州、豫州、青州、?州、雍州、幽州、冀州、并州を指した。
この三者をすべてあわせたもの(禹貢による九州に幽州、并州、営州の3つを加えたもの)を十二州と呼ぶ[1][2]。
戦国時代の鄒衍は、禹貢にいう九州は実際には世界の1?81にすぎず、中国全体が赤県神州という名前のひとつの州にすぎないとした[3]。
前漢の武帝は紀元前106年に全国を13州(11州と、朔方と交阯の2郡)に分け、 各州に刺史を設置した(漢代の地方制度を参照)。漢代の州は禹貢の九州のうち雍州・梁州がなく、 かわりに涼州・益州・幽州・并州を加えて、後に司隸を直轄としたものである。その後も「九州」 という言葉は具体的な9つの州ではなく、中国全土の雅称として使用されつづけた。
新羅でも第31代の神文王の687年には九州制を布いている。
唐代に王維が阿倍仲麻呂を日本に見送るときに作った漢詩、『送秘書晁監還日本国』に「九州何処遠」という句がある。
日本でも保元の乱直後に出された保元新制(1156年)の第一条の冒頭に「九州之地者一人之有也」という一文が掲げられたが、 これも中国の例にならって国土全体の雅称として用いられたもので、 日本の国土全体は公領・私領(荘園)を問わず全て天皇(治天の君)の治める土地であるという意味で ある。




きゅうぼくのきん(九牧之金)
《漢書》卷二十五上〈郊祀志上〉。“禹收九牧之金,鋳九鼎,象九州。"相傳禹收九州之金鋳九鼎, 后因以”九金“指九鼎。 古代傳節夏鋳九鼎,




ぎゅうりのとうそう(牛李の党争)
中国唐代の憲宗期から宣宗期(808年から849年)にかけて起こった政争。
牛僧孺・李宗閔の牛党と李徳裕の李党の間で激しい権力闘争が行われ[1]、政治的混乱をもたらし、 唐滅亡の要因となったと評される。

魏晋南北朝時代は貴族制[2]の時代であり、貴族は門地と血統を基にして官僚の上部職を独占していた。 これに対して隋では試験により官僚を登用する科挙制度を開始し、貴族に対する皇帝権の強化を狙った。 しかし隋およびその後の唐初期に於いては貴族の勢力が強く、科挙官僚の進出は抑えられた。
この頃の貴族勢力は、最上格を後漢以来の長い伝統を誇る山東貴族、中でも崔・盧・李・鄭の四姓が占め、 鮮卑の名族を母体とし、隋・唐の皇帝を出した関隴集団がそれに次いだ。これら貴族勢力は官僚人事を司る尚書吏部を掌握し、 科挙官僚が中央政界に進出することを妨害した。
玄宗朝に勃発した安史の乱により唐の国勢は大きく傾き、地方に節度使が半独立状態で割拠した藩鎮が跋扈するようになった。 この状況に対して憲宗朝に於いて杜黄裳・武元衝・李吉甫らの主導により藩鎮に対して武力を使って政府に反抗的な 藩鎮を討伐する強硬策が行われ一定の成果を収め、唐は中興時代を迎えた。しかし武力討伐に使われた費用は財政を悪化させ、 また藩鎮に対抗するために作られた神策軍は宦官の勢力に組み込まれ、朝廷における宦官の勢力は極めて大きなものとなった。
その最中の元和3年(808年)、牛李の党争の発端となる事件が起こる。この年の科挙進士科に牛僧孺・皇甫湜・李宗閔の3人が 合格した。この時の論策にて三人は時の失政に対して批判を行い、これが一旦は憲宗に受け入れられた。 しかしこの時の宰相[3]李吉甫と宦官とが憲宗に泣訴し、逆に牛僧孺たち3人は中央を追われ、 辟召[4]を受けて地方に転出させられた。
李吉甫は元和9年(814年)に死去し、その後を受けて宰相となったのが裴度である。この時に同じく宰相職にあったのが 李逢吉であったが、李吉甫の後を受けて主戦論を唱える裴度と藩鎮勢力との妥協を唱える李逢吉とは激しく対立し、 李逢吉は宰相職から追われた。
憲宗は元和15年(820年)に宦官の王守澄・梁守謙によって暗殺され、穆宗が擁立される。 これと共に牛僧孺は庫部郎中知制誥から御史中丞に昇り、李宗閔は元和7年(812年)に監察御史となっている 。一方、李吉甫の息子の李徳裕は穆宗の即位と共に翰林学士になった。
牛僧孺の祖は隋の時に僕射であった牛弘であったが、牛僧孺の祖父・父ともに低い官職で終わり、 牛僧孺のころには関隴集団の末流と位置づけられていた。一方李宗閔は太宗の弟李元懿の子孫であり、 関隴系でも最上に位置づけられる。これに対して李徳裕は山東四姓の一つ趙郡李氏[5]の出身であり、 貴族の中でも最高の家格とされる。
李徳裕は父吉甫が牛僧孺らによって攻撃されたことを恨んでいた。その折の長慶元年(821年)、 李宗閔が科挙に関して不正を行ったので、これを攻撃して李宗閔を地方に追いやった。これより後、40年にわたって 牛李の党争が行われる。
翌長慶2年(822年)に李逢吉が宰相に復帰すると裴度・李徳裕はそれぞれ地方に転出させられた。 代わって翌長慶3年(822年)には李逢吉の引き立てで牛僧孺が宰相となる。この後、長慶4年(824年)に敬宗に代替わりし、 牛僧孺は鄂州刺史・武昌軍節度使として赴任した。この時期、李逢吉は李紳ら政敵をことごとく排斥し、 自らの派で朝廷を固めその党派は八関十六子と呼ばれた。
宝暦二年(826年)に敬宗が宦官の劉克明らによって殺され、王守澄によって文宗が擁立される、 そして同年、裴度が宰相に復帰する。李逢吉は裴度の排斥を試みるが失敗し、宰相職を去った。 裴度は大和3年に李徳裕を中央に呼び戻して兵部侍郎とし、さらに宰相に推薦した。 しかし先に宰相になっていた李宗閔がこれに反対し、李徳裕・裴度は地方に出された。
翌年に李宗閔は牛僧孺を呼び戻して宰相とし、再び牛党の世となった。
この中で大和5年(831年)に維州事件が起こる。吐蕃が安史の乱のさいの混乱に乗じて首都長安を陥落させるということが あったが、唐が体勢を立て直した後に和約を結んでいた。この時に吐蕃側の領土であった維州の長官が唐に帰順を申し出てきた。 李徳裕はこれを受け入れるように朝廷に上奏したが、牛僧孺は「維州一つで吐蕃との和約を破るべきではない」 と述べてこれを退けた。これにより李徳裕はますます牛僧孺を恨んだという。
ところが翌6年(832年)になると文宗は維州を失ったことを悔やむようになり、 牛僧孺が維州を放棄したことに対して批判が相次いだ。これにより牛僧孺は宰相を退き、同7年(833年)、 李徳裕が宰相に返り咲いた。宰相となった李徳裕は李宗閔ら牛派を朝廷から一掃するが、翌年には再び李宗閔が返り咲き、 李徳裕は宰相を追われる。
このような党争の有様に文宗は「河北の賊を鎮めるのは難しくないが、朝廷内の朋党を収めるのは難しい。」と嘆き、 党争に嫌気が差した文宗は牛党にも李党にも属しない中立派の李訓(李逢吉の甥)・鄭注を重用するようになった。 皇帝の信任を受けた李訓・鄭注は牛派・李派双方を朝廷から追い出した。
牛党・李党、双方が相手を追い落とすために宦官を利用したこともあり、この時期には宦官の勢力はますます増大していた。 李訓と鄭注は9年(835年)に仇士良を初めとする宦官勢力を一気に滅ぼしてしまおうと画策するがこれに失敗、 両名は殺される(甘露の変)。以後、皇帝は完全に宦官に掌握されるようになり、文宗は「朕は家奴(宦官)に制されている。」 と嘆いた。
李訓・鄭注の死後、朝廷では牛李双方の宰相が並立し、争いを繰り返していた。開成5年(840年)に文宗が崩御、 文宗は陳王李成美を後継としていたが、甘露の変の際に仇士良により文宗の弟である李炎が擁立され、武宗となる。 これと共に陳王擁立にかかわっていた牛派の李?・楊嗣復は宰相を追われ、代わりに李徳裕が宰相となる。
更に年号が改まった会昌元年(841年)には李?・楊嗣復を、3年には李宗閔を、4年には牛僧孺をそれぞれ地方へと追いやる。 また四年には李宗閔を封州へと流し、李宗閔はその2年後に死去する。
専権を振るう李徳裕は内政・外征に積極策を打ち出す。2年に廃仏を上奏し、5年より本格的な廃仏が始まる(会昌の廃仏)。 また進士派が党を作る温床となっていると考えられた「呈榜・曲江之宴」を廃止した。 外征に於いては2年から3年にかけてウイグルを討伐し、これに成功を収めた。
しかし李宗閔が死去した6年に、武宗が崩御。宣宗が宦官馬元贄により擁立される。宣宗は李徳裕の専権を憎んでおり、 李徳裕は再び地方へと送られ、それに代わったのが牛派の白敏中である。
翌年に白敏中は李派を朝廷より一掃するが、その翌年の大中2年(848年)に牛僧孺が死去、更に翌3年(849年)に李徳裕も死去。 ここに党争は終結した。この間、牛党が勝てば李党は全て排除され、李党が勝てば逆が行われ、 その度に政策は入れ替わり、国政に大きな混乱をもたらした。
この後の朝廷では官僚と宦官との対立が激しくなり、官僚間での党争どころではなくなる。更には874年には黄巣の乱が勃発。 この乱は何とか収束したものの中央朝廷の力は大幅に減退し、朝廷の内部で争うということ自体がかつてとは違い 朱全忠ら藩鎮勢力の代理戦争となったのである。
中国の貴族は魏晋南北朝時代がその全盛期であり、安史の乱から著しく衰退し、朱全忠による白馬の禍により完全に滅亡、 新興勢力である士大夫に取って代わられたと考えられている。牛李の党争もまた新興勢力の進出を促した 一面があると考えられるが、どのような理由をもって促したのか。
陳寅恪のように牛李の党争を「新興勢力」対「山東士族」の争いと考えるならば、 牛党が勝った結果新興勢力が新出するようになった、と簡単に考えられる。 しかしこのようなマルクス主義の階級闘争史観からの党争理解は既述のように否定的に捉えられている。 李党は存在しないという岑仲勉の考えは退けられているが、両派の出自の点が党争の決定的要因ではないと考えるのが 多数派であり、そのなかでも「李徳裕は進歩的・積極的な政治家、牛派は姑息な現状維持派」 「李徳裕のレッテル張りによる牛李を排斥しようとしたもの」「党争とは結局官僚大地主内での権力争いに過ぎない」 とおのおの評価が分かれている。
中国での研究はこのように、牛派・李派どちらが是でどちらが非かということに力点が置かれており、 新興勢力が進出を果たした要因については言及が薄い(このような傾向に中国の政治状況が反映されていることにも 留意すべきであろう)。この点を明確にしたのが礪波の論稿である。礪波は既述のように両派は出自の上に於いては 本質的な差は無く、両派が行った辟召が新興勢力の進出を促したとする。



きょうし(郷試)
中国古代で行われた科挙の中の地方試験である。
唐や宋の時代には「郷貢」「解試」といった。明・清代では3年に一度、すなわち子・午・卯・酉の年の8月に省城で行われた。 このため「秋?」ともいう。3年に一度の正科のほかに新帝の即位など国家の慶事があったとき、 特別に恩科と称して郷試がおこなわれることもあった。
試験の際には、朝廷から正副の主考官が派遣され、四書五経・策問(時事論述)・八股文などを試験した。 郷試の行われる場所を貢院という。合格者を挙人といい、首席合格者を解元といった。
生員・貢生・監生に受験資格があったが、過失によって罷免された官吏・街頭芸人・妓館で働く者・父母の 3年の喪が明けていない者は、受験を認められなかった。





きょうど(匈奴)
紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって 興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を 築いた。
「匈奴」というのは彼らの自称した(もしくは他称された)民族名の音訳と考えられており[1]、 その語源については諸説ある。[2]
葷粥(くんいく)の古代音「ヒュエンツュク」からきているとする説[3]。
「匈奴(Chiung-nu)」という名称はその始祖である「淳維(中国語版)(Chiun-yu)」 からきているとする説[4]。ただし史記の説に従えば、四方に住む全ての異民族は夏の末裔となる、 あくまで根拠の示されないお伽話であり信憑性はない[5]。
「匈」「奴」ともに中国語における悪字で、匈は胸に通じ「匈匈」は喧騒・騒乱を意味する、 奴も下に見た呼び方で、「匈奴」は騒乱を起こす連中の意、これを周・春秋戦国時代の北方民族の 音写「葷粥」「胡貉」「昆夷」「??」に当てたとする説[6]。
匈奴という族名はそのトーテム獣の名称であり、匈奴のトーテム獣はノヨン・オール(ノインウラ) 匈奴王侯墳出土の縫込刺繍毛織物に見られる豕形奇獣がそうではないかとする説[2]。
また、中国の史書にでてくる「匈奴河水」という河川名が匈奴の語源なのか、匈奴が割拠していた からついた河川名なのかは不明である。
武帝の登場
匈奴で軍臣単于(在位:前161年 - 前127年)が即位し、漢で景帝(在位:前156年 - 前141年)が即位。 互いに友好条約を結んでは破ることを繰り返し、外交関係は不安定な状況であったが、 景帝は軍事行動を起こすことに抑制的であった。しかし、武帝(在位:前141年 - 前87年)が 即位すると攻勢に転じ、元朔2年(前127年)になって漢は将軍の衛青に楼煩と白羊王を撃退させ、 河南の地を奪取することに成功した。
元狩2年(前121年)、漢は驃騎将軍の霍去病に1万騎をつけて匈奴を攻撃させ、匈奴の休屠王を撃退。 つづいて合騎侯の公孫敖とともに匈奴が割拠する祁連山を攻撃した。これによって匈奴は重要拠点で ある河西回廊を失い、渾邪王と休屠王を漢に寝返らせてしまった。さらに元狩4年(前119年)、 伊稚斜単于(在位:前126年 - 前114年)は衛青と霍去病の遠征に遭って大敗し、 漠南の地(内モンゴル)までも漢に奪われてしまう。ここにおいて形勢は完全に逆転し、 次の烏維単于(在位:前114年 - 前105年)の代においては漢から人質が要求されるようになった。
太初3年(前102年)、漢の李広利は2度目の大宛遠征で大宛を降した。これにより、漢の西域への 支配力が拡大し、匈奴の西域に対する支配力は低下していくことになる。
その後も匈奴と漢は戦闘を交え、匈奴は漢の李陵と李広利を捕らえるも、国力で勝る漢との差は 次第に開いていった。





きょくこう(曲江)
曲江は、長安城の東南にあった池の名。はじめ漢の武帝が造築し、その水流が曲がりくねっているところからこの名がついた。 玄宗のときに改修され、長安随一の行楽地としてにぎわった。





きょくこう(曲水)
水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、 盃の酒を飲んで次へ流し、別堂でその詩歌を披講するという行事である。流觴(りゅうしょう)などとも称される。 略して曲水、曲宴ともいう。
中国においては、古い時代から上巳に水辺で禊を行う風習があり[1]、それが3月3日に禊とともに盃を水に流して宴を行うようになったとされる。 中国古代、周公の時代に始まったとも秦の昭襄王の時代に始まったとも伝えられている。 永和9年(353年)3月3日、書聖と称された王羲之が曲水の宴を催したが、 その際に詠じられた漢詩集の序文草稿が王羲之の書『蘭亭序』である[2]。




ぎょくじゅこうていか(玉樹後庭花)
 中国の絵画に仕女画という分野がある。仕女というと堅苦しく聞こえるが、いわゆる美人画のことで ある。たいていは神話伝奇や歴史故事、詩歌小説に基づいて描かれているので、お題がなくとも構図で おおよその見当がつく。琵琶を抱えた馬上の美人は王昭君、梅花の下にまどろむのは寿陽公主と 相場が決まっているのである。満月のように丸くくり抜かれた門の前に佇む美人、桂の木の下で 一匹の兎が杵を手にして臼に向かっていれば、これは南朝最後の王朝陳(557~589)の後主の 寵妃張貴妃である。
 張貴妃は名を麗華という。もとは兵家の出身だというが、彼女が生まれた時には貧しい筵織りを 家業としていた。名に恥じない、類まれな美貌の持ち主であった。よく美人は男に好かれる努力を しないと言われるが、この張麗華は男心を掴んで離さない厭魅(えんび)というテクニックの持ち 主であった。見つめる目にものを言わせたり、相手の気を逸らさない話術をマスターしていたのである。 太建元年(569)に陳叔宝(553~604)が皇太子に立てられた時、宮女に選ばれて入宮した。 時に十歳。入宮後、麗華は別の妃嬪の侍女となった。
 ある時、この妃嬪のもとを訪れた陳叔宝が張麗華に目を止めたことから、彼女の人生は変わる。 厭魅の術を発揮するコケティッシュな美少女に、陳叔宝は一目でポ~ッとなってしまった。 陳叔宝は早速、自分に許された権利を誰はばかることなく行使した。お手つきとなった張麗華は 幸運なことに皇子を生み、後宮内での己の立場を確立した。
 582年、陳叔宝が即位する。陳朝最後の皇帝後主である。張麗華は貴妃に立てられ、 寵愛はますます深まった。その寵愛の証として後主は即位の翌々年、高さ数十丈もある宏壮な臨春、 結綺、望仙の三つの楼閣を築いた。一丈は3メートル弱だから、とてつもない高層建築である。 こしらえも豪華で窓や欄干は高価な香木造り、内外の調度は豪奢を極めた。下には奇石を積んで 築山をなし、池を掘って水を満たした。微風が吹くとえも言われぬ香りが立ち昇り、 その香りは数里先まで漂った。また、朝日が昇ると装飾の金銀珠玉に照り映え、 まばゆいばかりに輝いた。自身は臨春閣に住み、張貴妃を結綺閣に、他の寵愛の二人の妃嬪を 望仙閣に住まわせた。この三つの楼閣は中空に架け渡された廻廊でつながれ、互いに往来しては 交歓したのである。 結綺閣に移った麗華の美貌はますます冴えわたった。背丈ほどもある自慢の 黒髪を高々と結い上げ、窓辺で鏡に向かって化粧している姿はまるで仙女が天下ったかと思われた。 後主は臨春閣からその姿を眺めて楽しんだ。
 麗華の微笑みに後主のインスピレーションは刺激された。後主は寵妃の艶麗を讃えてうたうのである。

   妖姫臉似花含露    妖姫の臉(かお)は花の露を含むに似て
   玉樹流光照後庭    玉樹の流光は後庭に照る

 時には自作の詩にメロディをつけて千数百の宮女達に舞い歌わせて楽しんだ。
 張麗華に溺れきっていた後主は片時も彼女なしには過ごせなかった。実際、後主の皇后はとっくに 寵愛を失い、念仏三昧の日々を送っていたから、張麗華が事実上の皇后のようなものであった。 後主は政務を処理する時も、寵妃のしなやかな体を膝に抱いて放さなかった。張麗華は聡明怜悧で 抜群の記憶力の持ち主だったから、後主の膝の上で百官の上奏を聞き、一緒に目を通した上奏文の 一言一句漏らさず憶えていた。後主や百官が細かい事務処理をうっかり忘れると、 彼女はニッコリ笑って指摘するのである。政務の大嫌いな後主はこれに喜び、国事を決裁する時には 膝の上の張麗華に、
「貴妃よ、これはどうじゃ?」
 と意見を求めるまでになった。おそらく張麗華は玉を刻んだような指を頬にあて、後主の顔を 見上げながら答えていたのであろう。しまいには大臣の進退にまで口を出すようになった。
 さて、陳朝の国事が後主の膝の上で決裁されていた頃、北では隋の文帝が南北統一を目指して 着々と準備を進めていた。この文帝、後主とは正反対の人物で放蕩などには見向きもせず、 ひたすら国力の充実に努めたのである。

 588年の暮れ、遂に陳朝討伐軍が編成された。五十一万八千の大軍が怒濤のように南下し、 長江の北岸に布陣した。この危機状態にあって、当の陳側は年末年始の祝賀行事の準備に忙殺され、 迎撃どころではなかったのだから笑ってしまう。
 前線から「隋軍至る」の飛報が届けられた時、陳叔宝は大晦日に催された盛大な忘年会で すっかり酔いつぶれて眠っていた。新年の宮廷祝賀に出席するのも忘れ果てて眠りこけていたのである。 飛報は開封されないまま枕元に捨ておかれ、そのまま忘れられた。抜群の記憶力を誇る張麗華がわざと 見せなかったのである。前線の方でも兵士達が正月の振る舞い酒ですっかり酔っぱらっていたので、 隋軍は易々と長江を渡ることができた。
 正月二日、ようやく目が覚めた後主はやっと状況を知った。翌三日に公卿を招集、四日に諸将を 派して防戦態勢を敷いた。後主としては急ぎに急いだのである。しかし、万全の準備を整えた隋軍の 前に手も足も出ず、却って投降者が続出する始末であった。あれよあれよと言う間に首都の建康 (注:現在の南京)は包囲されてしまった。成す術も知らない後主は張麗華を抱き締めて、 日夜泣き続けるばかりであった。
 二十日、首都防衛の南面が突き崩されると、陳軍は一挙に瓦解した。宮城内では文武百官が遁走し、 後主の側には僅かに近侍の者が数人残っているだけであった。呆れたことに、 この期に及んでも彼の頭の中にあるのは張麗華や他の寵愛の妃嬪のことであった。近侍の一人が、
「かくなる上は玉座に端座なさって、敵軍の入来をお待ちになるがよろしい」
 と忠告したのに対して、後主の答えはこうであった。
「朕には朕の考えがあるのじゃ」
 袖を掴んで引き留める近侍を振り切って、後宮へと駆け込んだ。そして張麗華と別の寵妃、 孔貴人の手を引いて、井戸へと走った。縄目の恥辱を避けるために、井戸に身を投げるのではない。 中に隠れて隋軍をやり過ごそうというのである。ほとほと情けない人である。呆れながらも 近侍達はなおも井戸の前に立ちはだかって引き留めたのだが、それを押し退けると、 とうとう井戸の中に入ってしまった。
 間もなく宮城に乱入した隋軍は略奪暴行を働きながら、後主の姿を探し求めた。玉座はもぬけの殻 であった。臨春閣ももぬけの殻であった。ここで隋軍は後主の寝台の下から未開封の飛報を見つけた。
 別の宮殿の扉を蹴破って中に飛び込むと、そこには一人の少年が静かに坐っていた。 少年は将士の姿を見ても慌てることなく、ただ、
「まだ作戦は終わっていないのだろう。ご苦労なことだ」
 とねぎらいの言葉をかけたので、その場に居合わせた隋の将士は皆、感服したという。
 実はこの少年は前年に、皇太子に立てられた張麗華の生んだ皇子深であった。時に十五歳。 同じ頃、彼の父親は冷たい井戸の底で母親を膝に抱いて生きた心地もなく震えていたのである。
 後主が後宮の井戸に隠れているという情報が将士のもとにもたらされた。兵士達は井戸を囲んで 誰かいるかと呼びかけた。返事はなかった。そこで石を投げ込もうとすると、
「待ってくれ!」
 と悲鳴が聞こえた。急ぎ、長い綱が投げ込まれた。いざ引き揚げようとすると異様に重い。 不思議に思いながら引き揚げた一同は唖然とした。何と綱の先にはずぶ濡れの後主と張麗華、 孔貴人がぶらさがっていた。道理で重いはずである。
 これが南朝陳のあまりにも情けない最期であった。
 討伐軍の総司令官である晋王楊広は後主捕獲の報を受けると、張麗華を生かしておくよう伝令を 遣わした。だが、この指令を受けた指揮官は、
「昔、周が殷の紂王を征伐した時、周公旦は顔を覆って妲妃を斬った」
 と主張すると、張麗華を引き出して斬殺させた。これが結綺閣の主、張麗華の最期であった。
 この報告を受けた楊広は血相変えて怒ったという。
「この仕返しはいつかしてやる」
 この予言は後に実現する。楊広はやがて文帝の後を継いで即位して悪名高い煬帝になったのだから。
 さて、張麗華と兎の関係についてである。
 正史には書かれていないが、陳叔宝は張麗華のために結綺閣以外に桂宮を建ててやったそうである。 桂宮は月にあるという宮殿の名前である。宮門は満月をかたどり、水晶の屏風をめぐらした。 庭に鳥が入らないよう、スッポリと網で覆った。庭には桂の木が一本植えられただけで、 常に綺麗に掃き清められた。桂の下には玉製の杵と臼が置かれ、よく仕込まれた白い兎が一匹、 薬を搗いていたのである。それを眺めているのは白衣をまとった張麗華。陳叔宝はこの桂宮を 月に見立て、張麗華を月の女神嫦娥に見立てたのである。
 日本の兎は餅をつくが、中国の兎は仙薬を搗くという。きっと兎は彼女の美貌を保つ妙薬を ひたすら搗き続けたのであろう。




ぎょほ(漁父)
漁父は漁父辞とも称され、楚辞の諸篇の中でも最も有名なものだ。司馬遷も史記の中で、 屈原の孤高を象徴する詩として引用している。
作者は屈原とされているが、内容や形式が屈原のほかの作品とは著しく異なっており、 叙述の仕方も屈原を第三者的に歌っているところから、屈原に仮託した後世の作であろうと する見方が有力である。
同じような内容の詩が、孟子のなかにも童謡として出てくる。あるいは楚国の民謡であったの かもしれない。滄浪とは長江の支流漢水のことであり、楚を流れる川である。

楚辞から屈原作「漁父」(壺齋散人注)
屈原既放       屈原既に放たれて
遊於江潭       江潭に遊び
行吟澤畔       行くゆく澤畔に吟ず
顏色憔悴       顏色憔悴し
形容枯槁       形容枯槁す
漁父見而問之曰  漁父見て之に問ひて曰く
子非三閭大夫與  子は三閭大夫に非ずや
何故至於斯     何の故に斯(ここ)に至るやと

屈原既に放逐されて、川の淵に遊び、行く行く沢のほとりに吟ず、顔色はやつれ、 姿かたちは骨と皮、漁夫これを見て問うていうには、子は三閭大夫ではござらぬか、 何故かかる目にお会いになられたかと、

屈原曰        屈原曰く
舉世皆濁      世を舉げて皆濁り
我獨清        我獨り清めり
衆人皆醉      衆人皆醉ひ
我獨醒        我獨り醒めたり
是以見放      是を以て放たると

屈原曰く、世を舉げて皆濁り、自分ひとりだけが清んでいる、衆人は皆酔い、 自分ひとりだけが醒めている、だから放逐されたのだと、

漁父曰         漁父曰く
聖人不凝滯於物   聖人は物に凝滯せずして
而能與世推移    能く世と推移す
世人皆濁       世人皆濁らば
何不其泥而揚其波 何ぞ其の泥を濁(にご)して其の波を揚げざる
衆人皆醉       衆人皆醉はば
何不餔其糟      何ぞ其の糟を餔(くら)ひて
而啜其麗       其の麗(り)を啜(すす)らざる
何故深思高舉    何の故に深く思ひ高く舉がりて
自令放為       自ら放たれしむるを為すと

漁父曰く、聖人は物にこだわらず、時流に沿って推し移る、世人が皆濁っているなら、 なぜ自分もその泥を濁して濁流をあげないのか、衆人が皆酔っているなら、 なぜ自分もその糟を食らって、その汁をすすらないのか、なぜ深く思い高く身を持して、 自ら放逐される種を播いたのかと

屈原曰         屈原曰く
吾聞之         吾之を聞く
新沐者必彈冠    新たに沐する者は必ず冠を彈き
新浴者必振衣    新たに浴する者は必ず衣を振るふ
安能以身之察察  安んぞ能く身の察察たるを以て
受物之文文者乎  物の文文(もんもん)たる者を受けんや

屈原曰く、自分は聞いたことがある、新たに髪を洗うものは必ず冠の塵をはたき、 新たに水浴するものは必ず衣のよごれを払うという、どうしてこの潔白な身をもって、 汚れたものにまみれることができようぞ、

寧赴湘流        寧ろ湘流に赴きて
葬於江魚之腹中    江魚の腹中に葬らるるとも
安能以皓皓之白    安んぞ能く皓皓の白を以て
而蒙世俗之塵埃乎  世俗の塵埃を蒙むらんやと

むしろ湘流に赴いて、江魚の腹中に葬らるるとも、この真っ白い身に、世俗の塵埃を こうむることなどどうしてできようかと、

漁父莞爾而笑    漁父莞爾として笑ひ
鼓枻而去       枻(えい)を鼓して去り
乃歌曰         乃ち歌ひて曰く
滄浪之水清兮    滄浪の水清(す)まば
可以濯吾纓      以て吾が纓を濯(あら)ふべし
滄浪之水濁兮    滄浪の水濁らば
可以濯吾足      以て吾が足を濯ふべし
遂去不復與言    遂に去って復た與(とも)に言はず

漁父はにっこりと笑い、船端を叩いて去り、このように歌った、滄浪の水清まば、 我が冠の紐を洗うがよい、滄浪の水濁らば、我が足を洗えばよいと、 遂に去って再び言葉を交わすことはなかった




きん(金 (王朝))
(1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国の北半を支配した女真族の征服王朝。
国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。 都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省ハルピン市)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。
金建国前の女真(ジョシン)は、現在の中国東北地区(満州)黒竜江省の松花江の支流・按出虎水(中国語版)(アルチュフ川)流域にいて、 遼に対して服属していた。しかし遼の支配者たちは奢侈が募り、女真に対して過酷とも言える搾取を行っていた。これに対し、 女真族の完顔部から出た阿骨打が反乱を起こし、1115年に按出虎水の河畔で即位し、「金」(女真語でアルチュフ)を国号とした。 この国号は、女真族が按出虎水から産出する砂金の交易によって栄えたことによるとされる。最初の首都となった会寧(上京会寧府)は 按出虎水の河畔にあり、現在のハルビン市阿城区にあたる。
金は1120年に北宋と「海上の盟」と称される盟約を結び、遼を挟撃して分割し、宋側には燕雲十六州を引き渡すことを約束した。 しかし、宋は攻略にてこずったために金が燕京(現在の北京)を落とし、宋に割譲した。阿骨打は1123年に死去するが、 弟の呉乞買(太宗)が後を継いで遼との戦いを続け、1125年に逃れていた遼の最後の皇帝天祚帝を捕らえ、遼を完全に滅ぼして 内モンゴルを支配した。
一方、燕京を手に入れた宋軍は、遼の残存勢力と手を組んで金を牽制するなど、盟約に従って燕京を割譲した金に対する背信行為を 繰り返したので、これに怒った太宗は1125年9月宋に侵攻し(靖康の変、1125年9月 - 1127年3月)、華北を席捲し、宋の首都開封を包囲した。 宋では欽宗が新たに即位して金の包囲に耐え、金もいったん和議を行い北に引き揚げた。しかし金軍がいなくなると、 またしても宋は背信して和約を破ろうとしたので、1127年に金軍は再び南下して開封を陥落させ、欽宗を北方に連行し北宋を滅ぼし、 中国の北半を征服した。またこの時金軍は、欽宗のみならずその父の上皇徽宗、および多くの皇族や妃、公主たちをも連行し、 妃や公主たちは全員が金の後宮に送られるか、洗衣院と呼ばれる売春施設に送られて娼婦とさせられた[1]。
こうして金は北宋を滅ぼしたが、中国への急速な拡大は金の軍事的な限界点をあきらかにした。太宗は過度の負担を避けるため、 華北に漢人による傀儡国家を樹立させて宋の残存勢力との間の緩衝体にしようとした。太宗ははじめ宋の宰相であった張邦昌を皇帝に据え、 国号を楚とさせた。しかし張邦昌は、金軍が引き上げるとすぐに退位を宣言し、欽宗の弟の趙構(高宗)を皇帝位につける運動に加わった。
その後、趙構らは南に逃れ、南方の北宋残存勢力を糾合して南宋を立てた。金は、1125年から南宋に対する懲罰を名目として再度の 南征を開始し(宋金戦争(英語版、中国語版)、1125年 - 1234年)、淮河の線まで南下して岳飛らが率いる義勇軍と戦った。
1130年、金は南宋の力を弱めるために、宋の地方知事であった劉豫を皇帝に立てて斉を樹立し、今度は安定した傀儡国家を作ることに成功した。 同年、宋の官僚秦檜が捕虜となっていた金から南宋に帰国し、金との和平推進を唱えて実権を握った。金と南宋双方での和平派と 戦争継続派の勢力交代の末、1142年に両国の間で最初の和約が結ばれた(紹興の和議)。この和約は宋は金に対して臣下の礼をとり、 歳幣を毎年支払うことを定めるなど、金にとって圧倒的に優位な内容であった。
1149年に先代の熙宗を殺して帝位についた4代海陵王は宗室や有力者を大量に殺して独裁権を確立し、都を会寧から燕京に遷都して 中央集権国家樹立を目指す改革を進めた。1161年、海陵王は中国の再統一を企図し、南宋を滅ぼすために南征の軍を起こした。金軍は60万と 号する大軍であったが、慣れない水戦に苦戦した。その間に各地で契丹族の反乱が勃発した。海陵王はその知らせを聞いても強硬に 宋征服を続けたが、海陵王の恐怖政治をきらった有力者たちが東京(遼陽)にいた皇族の烏禄(世宗)を擁立し、金の人々は雪崩を打って 烏禄に味方した。海陵王は軍中で殺害され、烏禄が即位した。
世宗は海陵王の死後に北進してきた南宋軍を撃破し、1164年に和約を結んだ(乾道の和約(中国語版))。そして契丹族の反乱を速やかに 収めて国内を安定させた。さらに世宗は海陵王の遠征で大量に消費された財政の再建をめざし、増税や官吏の削減を行った。
同時期に南宋で、こちらも南宋随一の名君とされる孝宗が立ち、その後40年にわたって両国の間では平和が保たれたので、 金は繁栄と安定をきわめ(大定の治)、世宗は「小堯舜」と称えられた。一方で、重税や社会的な引締めによって民衆生活は圧迫され、 この頃から金末の衰亡に繋がる反乱が頻発するようになったとする指摘もある。
世宗は海陵王の死後に北進してきた南宋軍を撃破し、1164年に和約を結んだ(乾道の和約(中国語版))。そして契丹族の反乱を速やかに 収めて国内を安定させた。さらに世宗は海陵王の遠征で大量に消費された財政の再建をめざし、増税や官吏の削減を行った。
同時期に南宋で、こちらも南宋随一の名君とされる孝宗が立ち、その後40年にわたって両国の間では平和が保たれたので、金は繁栄と 安定をきわめ(大定の治)、世宗は「小堯舜」と称えられた。一方で、重税や社会的な引締めによって民衆生活は圧迫され、この頃から 金末の衰亡に繋がる反乱が頻発するようになったとする指摘もある。
そのような中で7代衛紹王が即位すると、チンギス・カンはこれに対する朝貢を拒否して金と断交し、1211年に自らモンゴル軍を指揮して金領に侵攻した。 内モンゴルにいた契丹人を服属させたモンゴル軍は金軍を破って長城を突破し、2年あまりにわたって金の国土を略奪した。 1212年には契丹人の耶律留哥が叛乱を起こして分離、現在の吉林省から遼寧省にかけて広がり、モンゴル勢力下に入った(東遼)。 敗北を重ねた金では、1213年にクーデターが起こって将軍胡沙虎によって衛紹王が殺され、さらに胡沙虎自身が殺された。 敗北を重ねた新帝宣宗は、同年にモンゴルに対する和議に踏み切り、モンゴルに対する君臣の関係を認めて歳貢を納めることを約束し、 公主(廃帝・衛紹王の皇女)をチンギスに嫁がせる内容の講和を結んだ。
講和によりチンギスは撤兵するが、金は翌1214年にモンゴルを避けるため河南の開封に遷都した。このとき、金の南遷に動揺した 契丹の一部が中都(燕京)で反乱しモンゴルに援軍を求め、チンギスも金の南遷を和約違反と責めて金に対する再侵攻を開始した。 1215年夏、半年以上モンゴル軍の包囲にさらされた末に中都は陥落し、金は故地東北を含む黄河以北の大部分を失った。同年、 耶律留哥の叛乱鎮圧を担当していた蒲鮮万奴が分離して大真国(東真国・東夏国)を建て、遼東半島の一部から沿海州南部までを支配した。
金は開封を都とし、河南地方で辛うじて命脈を保ったが、その後もモンゴルの南進を食い止められず、1232年、三峰山の戦いで大敗し、 軍主力が消滅した。以後は抵抗もままならず、1234年に開封を包囲、占領された。皇帝哀宗は開封から脱出し蔡州に逃れるところを、 モンゴルと南宋の連合軍に挟撃されて自殺、後を受けた末帝も即位からわずか半日でモンゴル軍に殺害され、ここに金は滅亡した。
なお、17世紀になって同じ女真族が「金」を名乗る王朝を建てたが、これは「後金」と呼ばれて区別される。後金はのちに「清」と改称し、 大帝国を築いた。




きんこくだろうのひと(金谷墜樓人)
金谷園:西晋の石崇が洛陽の北の金谷に建てた別荘の庭園で、石崇は。ここで愛妾の緑珠と 暮らしていた。
「墜樓人」身投げをした人。石崇の愛妾の緑珠のこと。「晉書・石崇傳」では「孫秀は、 石崇の愛妾である緑珠の美しさに惹かれ、緑珠をくれるように石崇に要求したが、 『あれは私が愛しているので、だめだ』と断ったので、孫秀は罪に陥しいれて、 石崇を捕らえようとしたところ、緑珠は涙を流して泣きながら、『ご主人様の前に命を捧げましょう』 と言ってたかどのから身を投げて死んだ。」「崇有妓曰綠珠,美而艷,善吹笛。孫秀使人求之。 崇時在金谷別館,方登涼臺,臨淸流,婦人侍側。……(石)崇勃然曰:「綠珠吾所愛,不可得也。」 ……(孫)秀怒,乃勸倫誅崇…。崇…亦潛知其計,乃與黄門郞潘岳陰勸淮南王允、齊王冏以圖倫、秀。 秀覺之,遂矯詔收崇…。崇正宴於樓上,介士到門。崇謂綠珠曰:「我今爲爾得罪。」綠珠泣曰; 「當效(效:いたす)死於官(官:きみ。主人)前。」因自投于樓下而死。」とある。
「墮樓人」ともする。杜牧の「題桃花婦人廟」にも「至竟息亡縁底事,可憐金谷墮樓人。」 と出てくるが、それも同義。平仄からだけでいうと「墜」が●となり、都合がいい。






くちゅうつい(句中対)
漢詩で、一句中に対句のあるもの。

ぐんこう(羣后)
四方諸侯及九州牧伯。

ぐんけんせい(郡県制)
古代中国の地方統治制度。郡と県の2段階で地域が区画され、中央から派遣された官吏によって その統治がおこなわれた。世襲制の封建制に代わる支配制度で、王朝の中央集権体制の強化に役立った。 日本列島や朝鮮半島などの東アジア地域の古代王朝にも制度的影響を与えた。
春秋時代末期から戦国時代に、晋や秦・楚で施行された。初めは直轄地を県、辺境地域を郡とした ようであり、中央から王の任命する官吏を派遣して統治した。
秦の国内では、紀元前4世紀の孝公の時代に郡県制が実施されていた。始皇帝は全国を36郡 (のち48郡)に分け、郡の下に県を置き、皇帝任命の官吏を派遣した。郡の長官は郡守と呼ばれ、 警察担当として郡尉、監察担当として郡監が置かれた。県の長官は大県は令、小県は長と呼ばれた。 県の警察担当として県尉、県令の補佐役として県丞が置かれた。
前漢は郡国制を採用したが、中央直轄の郡県においては、秦の制度を踏襲した。紀元前148年に 郡守を郡太守、郡尉を郡都尉と改称した。紀元前106年、武帝は全国を13州(11州と2郡)に分け、 各州に刺史を設置した。これにより郡県は州・郡・県3段階の地方制度に改まった。
魏晋南北朝時代を通じて、州・郡・県の数は増大しつづけ、南北朝末期には1州に1郡しかない 地方も現れて、行政上の非効率も問題化してきた。
583年に隋が郡を廃止し、州・県2段階の地方制度に改められた(州県制)。607年(大業3年)に 州が廃止されて郡が置かれると、郡県制が復活した。
618年に唐が隋を滅ぼすと、郡を州に改め、再び州県制が採用された。627年に全国が10道に 分けられると、道・州・県3段階の地方制度となる。742年に州が郡に改められて、 一時的に郡県が復活したが、758年に郡が州に改められて、郡は姿を消した。



けいかちんしゅ(桂花陳酒)
白ワインにキンモクセイの花を3年間漬け込んだ中国の混成酒である。甘味が強く、香り高い。 アルコール度数は13 - 18%。
他の中国果実酒同様、サワーやロックで飲むのが一般的である。日本のメーカーから赤ワインに 漬けたものも販売されている。楊貴妃が好んだ酒という言い伝えがあり、 カクテルの楊貴妃にはこの酒が使用されている。

けいせいけいこく(傾城傾国)
絶世の美女のたとえです。その美しさの故で、人心を惑わすことになり、国や城を傾け滅ぼすことを 表す。 出典は『漢書』外戚:孝武李夫人伝。
前漢の武帝(B.C.140~B.C.88)の時代。李延年(リエンネン)という宮廷楽士が、妹を推薦する ために歌った詩に基づく言葉です。あるとき、李延年は武帝の前で次のような歌をうたいました。
  北方有佳人、絶世而独立。
  北方に佳人有り、絶世にして独り立ち、
  一顧傾人城、
  一たび顧(かえり)みれば人の城を傾け、
  再顧傾人国。
  再び顧みれば人の国を傾く。
  寧不知傾城与傾国、
  いずくんぞ傾城と傾国を知らざらんや。
  佳人難再得。
  佳人再びは得難し。
武帝はこれを聞くとため息をついて、『いいなあ、この世に本当にそのような美人がいるのか』といいました。 すると、武帝の姉の平陽公主が、『李延年の妹のことよ』と教えました。武帝がさっそく召しだして 見ると、まさしく絶世の美女で、舞も見事であった。こうして彼女は武帝に寵愛されるようになりました。
春秋時代、呉王夫差は西施の色香に惑わされて「呉」を傾けてしまいました。 唐の玄宗皇帝は楊貴妃を寵愛して、国政を疎かにして「安禄山の乱」を招いてしまいました。

けいせつのこう(螢雪功)
出典:『蒙求』孫康映雪・車胤聚螢、『晋書しんじょ』列伝五十三・車胤 解釈:苦学して学問を修めた成果。蛍窓雪案とも。
〔蒙求、孫康映雪 車胤聚螢〕
孫氏世録曰、康家貧無油。常映雪讀書。少小清介、交遊不雜。後至御史大夫。
そんしせろくに曰く、康(こう)、家貧にして油無し。常に雪に映らして書を読む。 少小より清介にして、交遊雑ならず。後に御史大夫(たいふ)に至る。

けいれきのち(慶暦の治)
慶暦の治(けいれきのち)は、北宋第4代皇帝仁宗の治世を評価した語。慶暦は当時の元号による。
仁宗の治世になると、同平章事(宰相)の呂夷簡の下で社会が安定し、また建国以来の文治主義の浸透によって見識の高い 政治家・文人が続々と登場した。韓琦・范仲淹・富弼・司馬光・欧陽脩・張載・蘇洵・曾鞏・胡?・邵雍・周敦頤・梅堯臣・孫復・石介・ 余靖・尹洙・呂誨らがその代表格である。
その一方で、契丹・西夏との対外的な緊張は続き、毎年の歳幣・歳賜によって平和を維持し、財政問題から冗官・冗兵の 整理が課題となっていた。だが、慶暦の党議・慶暦の新政と政治的議論とそれに伴う政府攻撃ばかりが盛んとなり、 北宋衰退の遠因が生み出された時代でもあった。

けいれきのわやく(慶暦の和約)
1044年、中国統一王朝の宋(北宋)とチベット系王朝の西夏によって締結された和議。
宋を君、西夏を臣と位置付け、宋は西夏に毎年銀5万両、絹13万匹、茶2万斤を贈ることなどが約された。
この頃の北宋は建国者である趙匡胤(太祖)からの文治主義政策が軍隊の弱体化を招き北方民族の侵入に苦しんでいた。 そこで宋はそれらの民族たちに財貨を支払うことで和約し、異民族の侵入を防ぐ方針を採った。 宋の第3代皇帝の真宗は1004年契丹族の 遼との戦争を?淵の盟により多額の財貨を毎年支払うことで終わらせた。 しかしこの多額の財貨も宋の国力からみれば大した額ではなく、 この後両国の平和が続き、経済的に大いに繁栄した。
ところが1038年李元昊が中国北西部に西夏を建国すると、再び国境に緊張が生じる。西夏はたびたび宋の領内に侵入を繰り返し、 宋は撃退に手を焼いた。 そこで、宋の第4代皇帝仁宗は1044年、西夏と慶暦の和約を結ぶ。これにより宋を君、西夏を臣と位置付け、 宋は毎年銀5万両、絹13万匹、茶2万斤を贈ることなどが約され、和議が成立した。 また宋と西夏との争いに乗じて遼が宋に 領土の割譲を求めたが、支払う財貨の増額により両国は妥結した。
和議の成立で宋の北方異民族に対する安全保障が確立され、その後しばしば小さな小競り合いは発生するものの国境の治安が 安定するようになった。それにより宋の国内も概ね平和が続き文治主義の下、仁宗の治世は有能な家臣にも恵まれ慶暦の治と呼ばれる政治的な 安定期を迎えた。しかし、文治主義による官吏の増加は周辺異民族への多額の歳幣とともに宋の財政を圧迫し始め、 これに建国当初の970年頃には50万人にも満たなかった兵士数が1040年代には120万人に達するなど軍隊の拡張による軍事費の増加も重なり、 1048年以降財政は急速に悪化し1060年代に入ると財政支出は赤字に転落した。この財政赤字からの再建の方法を巡り1070年代の 新法・旧法の争いと呼ばれる一連の政争が起こり、政治の混乱と停滞を招き宋の衰退の一因となった。
一方、同年に西夏と遼の間で武力衝突が発生すると、西夏は宋・遼と対等な地位を獲得するに至った。

げんけいはくぞく(元軽白俗)
唐の元稹(げんしん)の詩は軽々しくて重厚さがなく,白居易の詩は卑俗で品がないという意。唐代の詩風を酷評した言葉。
蘇軾「祭二 柳子玉一 文」

けんずいし(遣隋使)
推古朝の時代、倭国(?國)が技術や制度を学ぶために隋に派遣した朝貢使のことをいう。 600年(推古8年)~618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されている。なお、日本という名称が 使用されたのは遣唐使からである。
大阪の住吉大社近くの住吉津から出発し、住吉の細江(現・細江川)から大阪湾に出、難波津を経て 瀬戸内海を筑紫(九州)那大津へ向かい、そこから玄界灘に出る。
倭の五王による南朝への奉献以来約1世紀を経て再開された遣隋使の目的は、東アジアの中心国・ 先進国である隋の文化の摂取が主であるが、朝鮮半島での影響力維持の意図もあった。 この外交方針は次の遣唐使の派遣にも引き継がれた。
この派遣第一回 開皇20年(600年)は、『日本書紀』に記載はない。『隋書』「東夷傳?國傳」は 高祖文帝の問いに遣使が答えた様子を載せている。
「開皇二十年 ?王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩?彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言?王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」
開皇二十年、?王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩?弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ) に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、?王は天を以て兄と為し、 日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴く。日出ずれば、 すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。 是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。
?王(通説では?は倭の誤りとする)姓の阿毎はアメ、多利思北孤(通説では北は比の誤りで 、多利思比孤とする)はタラシヒコ、つまりアメタラシヒコで、天より垂下した彦 (天に出自をもつ尊い男)の意とされる。阿輩?弥はオホキミで、大王とされる。『新唐書』では、 用明天皇が多利思比孤であるとしている[1]。
開皇20年は、推古天皇8年にあたる。この時派遣された使者に対し、高祖は所司を通じて?國の風俗を 尋ねさせた。使者は?王を「姓阿毎 字多利思北孤」号を「阿輩?彌」と云うと述べている。 ところが、高祖からみると、?國の政治のあり方が納得できず、道理に反したものに思えたので あろう。そこで改めるよう訓令したというのである。
第二回は、『日本書紀』に記載されており、607年(推古15年)に小野妹子が大唐国に国書を持って 派遣されたと記されている。
倭王から隋皇帝煬帝に宛てた国書が、『隋書』「東夷傳?國傳」に「日出處天子致書日沒處天子無恙 云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されていた。 これを見た煬帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、 また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという[2]。
なお、煬帝が立腹したのは?王が「天子」を名乗ったことに対してであり、「日出處」「日沒處」 との記述に対してではない。「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』 に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語である。ただし、 仏教用語を用いたことで中華的冊封体制からの離脱を表明する表現であったとも考えられている。
小野妹子(中国名:蘇因高[3])は、その後返書を持たされて返されている。煬帝の家臣である裴世清を 連れて帰国した妹子は、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明している[4]。 百済は日本と同じく南朝への朝貢国であったため、その日本が北朝の隋と国交を結ぶ事を妨害する 動機は存在する。しかしこれについて、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったので これを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったのではないかとも 推測されている。
裴世清が持ってきたとされる書が『日本書紀』にある。
「皇帝、倭皇に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、 すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。 倭皇は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。 こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。」
「皇帝問倭皇 使人長吏大禮 蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 境?安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」『日本書紀』
これは倭皇となっており、倭王として臣下扱いする物ではない。『日本書紀』によるこれに対する 返書の書き出しも「東の天皇が敬いて西の皇帝に白す」(「東天皇敬白西皇帝」『日本書紀』)とある。これをもって天皇号の始まりとする説もある。また、「倭皇」を日本側の改竄とする見解もある[5]。 なお、裴世清が持参した返書は「国書」であり、小野妹子が持たされた返書は「訓令書」ではないか と考えられる。 小野妹子が「返書を掠取される」という大失態を犯したにもかかわらず、 一時は流刑に処されるも直後に恩赦されて大徳(冠位十二階の最上位)に昇進し再度遣隋使に 任命された事、また返書を掠取した百済に対して日本が何ら行動を起こしていないという 史実に鑑みれば、 聖徳太子、推古天皇など倭国中枢と合意した上で、「掠取されたことにした」 という事も推測される[5]。

けんとうし(遣唐使)
日本が唐に派遣した使節である。日本側の史料では唐の皇帝と対等に交易・外交をしていたとされるが、 『旧唐書』や『新唐書』の記述においては、「倭国が唐に派遣した朝貢使」とされる。
中国では618年に隋が滅び唐が建ったので、それまで派遣していた遣隋使に替えてこの名称となった。
寛平6年(894年)に56年ぶりに再開が計画されたが、遣唐大使の菅原道真の建議により休止され、 907年に唐が滅び、そのまま消滅する形となった[1]。
遣唐使船には、多くの留学生が同行し往来して、 政治家・官僚・僧にも多くの人材を供給した。留学生井真成の墓も中国で発見された。
遣唐使の目的
中国の先進的な技術や政治制度[注釈 1]や文化、ならびに仏教の経典等の収集が目的とされた。 白村江の戦いで日本が大敗した後は、3回にわたり交渉が任務となった。旧唐書倭国伝には、 日本の吉備真備と推察される留学生が、唐朝から受けた留学手当は全て書物に費やし、 帰国していったと言う話が残されている[3]。
第一次遣唐使は、舒明天皇2年(630年)の犬上御田鍬の派遣によって始まった。 本来、朝貢は中国の皇帝に対して年1回で行うのが原則であるが、以下の『唐書』の記述が示すように、 遠国である日本の朝貢は毎年でなくてよいとする措置がとられた。
貞観5年、使いを遣わして方物を献ず。太宗、その道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して、 歳貢せしむることなからしむ。(『旧唐書』倭国日本伝)
太宗の貞観5年、使いを遣わして入貢す。帝、その遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して、 歳貢にかかわることなからしむ。(『新唐書』日本伝)
なお、日本は以前の遣隋使において、「天子の国書」を送って煬帝を怒らせている。 遣唐使の頃には天皇号を使用しており、中国の皇帝と対等であるとしているが、 唐の側の記録においては日本を対等の国家として扱ったという記述は存在せず天皇号の使用自体を 伏せていたとされる。むしろ天平勝宝5年(753年)の朝賀において、新羅の使者と 席次を争い意を通すという事件が起こる。しかし、かつての奴国王や邪馬台国の女王卑弥呼、 倭の五王が中国王朝の臣下としての冊封を受けていたのに対し、遣唐使の時代には日本の 天皇は唐王朝から冊封を受けていない。
その後、唐僧・維躅(ゆいけん)の書に見える「二十年一来」(20年に1度)の朝貢が 8世紀ごろまでに規定化され、およそ十数年から二十数年の間隔で遣唐使の派遣が行われた。
遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の日本への 伝播に大いに貢献した。
回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。12回説:藤家禮之助 20回説:東野治之、王勇  他に14回、15回、16回、18回説がある。
1 舒明2年 (630年) 舒明4年 (632年) 犬上御田鍬(大使)・薬師恵日 唐使高表仁来日、僧旻帰国。
8 大宝2年 (702年) 慶雲元年 (704年) 粟田真人(執節使)・高橋笠間(大使)・坂合部大分(副使) 山上憶良(少録) ・道慈 4 701年に粟田真人を執節使(大使より上位)として任じられるも風浪が激しく渡海できず。 翌702年6月に改めて出立するも、高橋笠間は別の任に充てられ渡航せず、 参議となっていた粟田を大使として出立。701年の出立の際に粟田は文武天皇から節刀を授けられた。 これが天皇が節刀(遣唐使や征夷将軍などに軍事大権の象徴として授けられた)を授けた初例とされる。 また「日本」の国号を使用し、白村江の戦い以来の正式な国交回復を目的としていた。 慶雲元年(704年)、白村江の戦いで捕虜になっていた者を連れて五島列島福江島に漂着帰国。
9 養老元年 (717年) 養老2年 (718年) 多治比縣守(押使)・大伴山守(大使)・藤原馬養(藤原宇合)(副使) 残留 阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・井真成 4 前回の倍以上となる総勢557人。 残留した留学生を除き、使節は全員無時に帰還。藤原馬養は唐滞在中に「宇合」と名を改めた。
10 天平5年 (733年) 天平6年 (734年) 多治比広成(大使)・中臣名代(副使) 平群広成(判官)・秦朝元(判官)・ 大伴古麻呂(留学生)・栄叡・普照 4 多治比広成は前回大使の弟。4隻の船で難波津を4月に発つ。 往路は4隻無時で蘇州に到着。734年4月に唐朝に拝謁。大伴古麻呂は帰国にあたって唐人の 陳延昌に託された大乗仏典を日本にもたらす[4]。帰路、734年10月に出航するも各船遭難し、 第1船の多治比広成は12月に種子島に帰着(吉備真備・玄昉帰国)。第2船の中臣名代は唐に 流し戻され、735年3月に長安に戻された。唐の援助で船を修復し11月に唐人・ペルシャ人ら[5]を 連れて帰国。736年8月には都に帰還している。第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国、 南ベトナム)に漂着し、襲撃を受けて100余名が4人となり、さらに抑留されるが脱出。 唐に滞在していた阿倍仲麻呂の奔走・仲介により、唐から海路渤海国に入り、 天平11年(739年)5月、渤海大使胥要徳と共に2隻で日本海を渡るも、1隻が波にのまれて転覆し 胥要徳ら40人が死亡。残った船は広成や渤海副使の将軍己珍蒙と共に7月出羽国へ到着、 10月27日に帰京。第4船は行方不明。
12 天平勝宝4年 (752年) 天平勝宝6年 (754年) 藤原清河(大使)・吉備真備(副使)・大伴古麻呂(副使) 高麗大山(遣唐判官) ・藤原刷雄(留学生) 4 752年に唐に入り、長安で皇帝の玄宗に拝謁。753年の正月に 長安の大明宮にて玄宗臨御の、朝貢諸国の使節による朝賀に出席。 当初、日本の席次は西畔(西側)第二席、第一席吐蕃の下であり、 東畔第一席が新羅(二席大食国の上)であった。すなわち新羅より下位に置かれていたことから、 大伴古麻呂は「長く新羅は日本に対して朝貢を行っていることから席順が義に適っていない」 として抗議し、日本と新羅の席を交換させている[6]。753年11月、4隻で帰路に就く。 この際に鑑真が来日を図るが、明当局に鑑真の搭乗を禁止された。このため第1船の清河は 鑑真を船から降ろすが、第2船の古麻呂が鑑真を秘密裏に乗せる。 また、在唐35年で唐の高官となっていた阿部仲麻呂が帰国の途に就いた。 第1・第2・第3船は琉球に到達する。ここから3隻は本土を目指し、まず種子島を目標とするも、 藤原清河と阿倍仲麻呂らの第1船は出航直後に座礁、その後暴風雨に遭い安南 (現在のベトナム中部)に漂着、現地民の襲撃に遭いほとんどが客死する中、 清河と仲麻呂らは755年に長安に帰還し、その後は唐に使える。 大伴古麻呂・鑑真らを乗せた第2船は屋久島、薩摩国などを経由して帰還。 吉備真備の第3船は屋久島までは第2船と同行するも漂流、紀伊国に漂着。 帰還に成功した船2隻は「播磨」「速鳥」の名を持ち、758年にこの2船に対して 従五位下の位が与えられた。第4船は途上で船が火災に遭うも、舵取の川部酒麻呂の勇敢な行動もあり 鎮火。
13 天平宝字3年 (759年) 天平宝字5年 (761年) 高元度(迎入唐大使使)・内蔵全成(迎入唐使判官) 1 藤原清河を迎えるために 派遣された。そのため、通常の4分の1である遣唐使船1隻、総勢99名の規模。 安史の乱の混乱の影響を考え、渤海経由で入唐を図る。大使の高元度は高句麗王族系の渡来人。 渤海使・楊承慶の帰国と共に渤海路より渡航するも、乱の影響により唐に入る 人数をさらに減らすこととなり、副使の内蔵全成らは同年10月に渤海から帰国するも 暴風で遭難し対馬に漂着、12月に難波津に到着。高南申は清河が渤海に依頼していた 上表文を携えていた。一方の高元度ら11人は渤海国の遣唐使節と共に入唐するも、 乱による混乱および政治的駆け引きなどのため清河の帰国・渡航を止められ、目的は果たせず。 高元度は唐に船を新造してもらい、送使沈惟岳と共に蘇州から761年8月に出発、 南路で大宰府に帰国。帰国に際し唐の皇帝・粛宗より、安史の乱で不足した武器類の (材料の)補充を日本側は求められているため、清河の身柄は交換条件にされた可能性がある。 この唐の要請を受けて日本側は10月から安芸国で4隻の船を建造すると共に、 武器材料となる牛角の徴発と備蓄を始めている。『遣渤海使』項目も参照。 また渤海経由とした理由については、藤原仲麻呂が推進していた新羅征討計画を 渤海国と連携して進める目的もあったとされる。






ごいさぎ(五位鷺)
『平家物語』(巻第五 朝敵揃)の作中において、醍醐天皇の宣旨に従い捕らえられたため正五位を与えられたという故事が 和名の由来になっている[1]。また、能楽の演目「鷺」はその五位鷺伝説に由来するものである[2]。
夜間、飛翔中に「クワッ」とカラスのような大きな声で鳴くことから「ヨガラス(夜烏)」と呼ぶ地方がある。 昼も夜も周回飛翔をして、水辺の茂みに潜む。夜間月明かりで民家の池にも襲来して魚介類・両生類を漁る。 主につがいや単独で行動する。都市部の小さな池にも夜間飛来し、金魚や鯉を漁ることもある。

こういん(広韻)
北宋の大中祥符元年(1008年)陳彭年(ちんほうねん)らが、先行する『切韻』『唐韻』を増訂して 作った韻書。正式名称は大宋重修広韻。
『切韻』系韻書の一つであり、清朝に再発見されて以降、古音を知るための重要な書として利用されて きた。またカールグレンによる中古音の復元にも利用された。『広韻』以前の切韻系韻書は長く 失われていたが、第二次大戦後に王仁?『刊謬補欠切韻』の完本が発見された。
成立
北宋の真宗のとき、従来の韻書に誤りが多く、科挙の標準として差し支えがあったため、 勅命によって『広韻』が作られた。
内容
『広韻』巻首の記載によれば26,194字を収め,注解191,692字に至る。ただしこれはひとつの字が 複数の音を持つときに重複して数えており、異なり字数は16,000字ほどであるという[1]。 5巻からなり、韻目は平声57韻(上平声28韻、下平声29韻。平声のみ上下に分けるのは編纂上の 都合にすぎず、音韻的には他の三声と変わらない)、上声55韻、去声60韻、入声34韻の合計206韻である。 しかし、それと同時に隣り合う2つないし3つの韻について同用、つまり押韻しても構わないという 規定も儲けられており、同用をひとつにまとめると平声31・上声30・去声33・入声19の113韻になる (ただしこの同用規定には『広韻』編纂時より後の変更がはいっており、本来は平声32・上声32・ 去声34・入声19の117韻であったという[2])。これは平水韻の106韻とそれほど変わらない。
もとの『切韻』より13韻多いが、その内訳は
真韻に開口と合口の両方が属していたのを2つに分けたため、「諄・準・?・術」が増加[3]
寒韻に開口と合口の両方が属していたのを2つに分けたため、「桓・緩・換・曷」が増加
歌韻に開口と合口の両方が属していたのを2つに分けたため、「戈・果・過」が増加
厳韻に対応する上声と去声の韻がなかったのを追加したため「儼・?」が増加
である。最後のものは8世紀はじめの王仁?による追加であり、それ以外はひとつの韻を開合で分けた だけで音節の種類自身が増えたわけではないので(しかも同用なので分けたもの同士で押韻しても 構わない)、本質的な変化ではない。
反切に使われている漢字は、諱を避けるなどの特別な理由があるものを除いて基本的に『切韻』の ものを踏襲しており、そのために『広韻』を『切韻』の代用として使うことができる。 しかし『切韻』の反切は『広韻』が作られた当時の音とは乖離していたため、各巻の末尾に 「新添類隔更音和切」として、改訂した反切を載せている。そのほとんどは『切韻』の時代には 区別のなかった重唇音と軽唇音に関するものである。たとえば支韻「卑」を「府移切」としているが、 巻末では「必移切」に直している。
訓釈は『切韻』に比べるとかなり長くなっている。しかし固有名詞や姓の由来に関する説明に 偏っているきらいがあり、『集韻』の序で批判されている[4]。
巻末に「双声重韻法・六書・八体・弁字五音法・弁十四声例法・弁四声軽清重濁法」を載せる。
問題点
『広韻』の反切はもとの『切韻』に基本的に従ってはいるものの、ところどころおかしな箇所がある。 たとえば脂韻「尸」が「式之切」になっているが、「之」は之韻の字であり、正しくは「式脂切」 でなければならない。これは『広韻』の時代にすでに字によっては脂韻と之韻がどちらかと 同音になっていた場合があったための誤りである。また、各韻の終わりの方に例外的な反切が 集中するが、これらはもとの『切韻』に対して新たに追加したための例外が集中してなったもので ある(参照:切韻考)。 --126.76.124.53 2014年9月29日 (月) 13:35 (UTC)
テキスト
『広韻』は明代には忘れ去られていたが、顧炎武が再発見してその重要性が注目されるようになった。 しかし顧炎武が発見した明内府本は節略本であり、顧炎武の没後にようやく本来の『広韻』が 発見された。南宋刊本に監本である高宗本・寧宗本と[5]私家版である南宋巾箱本および「鉅宋広韻」 と題する本がある。宋本をもとにした清代の刊本には沢存堂本・曹楝亭本(部分的に節略本で補う) ・古逸叢書本がある。現在では沢存堂本を影印してその上に周祖謨による校正を加え、 部首索引を附したものが広く利用されている。


こうかくろう(黄鶴楼)
黄鶴楼(こうかくろう)は、現在の中華人民共和国武漢市武昌区にかつて存在した楼閣。 現在はほぼ同位置に再建された楼閣がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%B6%B4%E6%A5%BC

こうけいきゅう(興慶宮)
中国陝西省の古都、長安(西安市)において、唐代に造られた宮殿。唐の玄宗の時代に政務が行われたことで知られる。
現在は、建築物はなくなっており、礎石が一部残るだけである。跡地に「興慶宮公園」ができており、 阿倍仲麻呂の記念碑などがある。
長安の東端にある「隆慶坊」に位置し、唐の睿宗が皇子であった五人の息子に賜った邸宅が元となった。 当時、皇太子であった李隆基(後の玄宗)も他の四人とともに住んでいた。
玄宗が皇帝となった後、「隆慶坊」は、「興慶坊」と改められ、714年(開元2年)、坊名にちなんで、 一坊全てを「興慶宮」とする。その後、数次に渡る工事が行われ、720年(開元8年)、 宮城の南西部に突き出す形で「勤政務本楼」と「花萼相輝楼」が建造されている。 728年(開元16年)正月に、玄宗は興慶宮で政務を行うようになった。興慶宮は北にある「太極宮」、 「大明宮」と区別するため、「南内」と呼ばれた。南北1.3キロメートル、東西1.1キロメートルあり、 北側が宮殿、南側が庭園となっていた。南には、「竜池」という湖が存在し、船を浮かべることもあった。 732年(開元20年)には、興慶宮と長安の東南隅にある曲江池の付近にある離宮「芙蓉園」、 北部にある「大明宮」へとつなぐ皇帝専用の通路である「夾城」が完成している。 「夾城」は、二重城壁で挟まれた通路であり、住民たちに知られることなく、皇帝たちが移動するためのものであった。
興慶宮の正門は中国の宮殿には珍しく西側にあり、「興慶門」といった。 その内にあった興慶宮西北部にある「興慶殿」が正殿となった。その南が「大同殿」であり、横に鐘楼と鼓楼が立ち、 老子の像が祀られていた。また、「竜池」の近くには、沈香木で作られた「沈香亭」があった。 「勤政務本楼」と「花萼相輝楼」は、直接、大路に接するようにつくられた高層建築物であった。
「竜池」には、雲気がただよい、黄竜が現れ、玄宗が皇帝に即位する前兆となったという伝承があり、南側に、 竜を祀る「竜堂」や「五竜壇」があった。また、東北側に「沈香亭」があり、牡丹の名所で知られ、 玄宗と楊貴妃が花見を行ったこと、李白がこれを題材に詩を詠い、それを李亀年が歌にしたというエピソードで知られる。 近くの「金花落」に衛士の屯所があったと伝えられる。
「大同殿」は、呉道玄と李思訓の山水画が描かれたことで知られる。 「花萼相輝楼」は、興慶宮の西側にある「勝業坊」に住む兄の寧王・李憲、弟の薛王・李業 、西北の「安興坊」に住む兄の申王・李撝、弟の岐王・李範と親しむために、造られた (玄宗をいれるこの五人で「五王」と呼ばれていた)。玄宗は彼らを呼び、歓楽と親愛を示すと同時に、 彼らの動静を調べて遊楽に溺れているのを知り、喜んでいたと伝えられる。
「勤政務本楼」は、玄宗を政務を行う中心的な場となり、重大な儀式を行う場ともなった。 玄宗の誕生日である8月5日には、千秋節が行われ、臣下や民衆に酒や肉がふるまわれ、直接、接する春明門大街では、 様々な見世物が開かれ、多くの見物人でにぎわった。この時のエピソードとして、宮女の永新の説話が知られる。 また、100匹に舞馬が杯を口にくわえて、拝舞するという催しも行われた。
安史の乱後は、急速に衰え、皇帝の来訪もまれとなり、「竜池」も明代に耕地となっている。

こうこく(高國)
晁衡在中國一待就是36年,其間儲光羲、趙?、李白、王維等出入朝廷, 也和晁衡結為了知交。

儲光羲曾贈詩"洛中貽朝校書衡"讚美晁衡的品貌才學。
萬國朝天中 東隅道最長 吾生美無度 高駕仕春坊
出入蓬山裏 逍遙伊水傍 伯鸞遊太學 中夜一相望
落日懸高殿 秋風入洞房 ?言相去遠 不覺生朝光

而最初的"萬國朝天中 東隅道最長", 也?明了日本派遣隋使、遣唐使來華的由來已久。 有人懷疑這是一首祝賀晁衡新婚的詩,因為裡頭提到"落日懸高殿 秋風入洞房", 晁衡有沒有在中國成家,史料並無記載, 但之後王維送他東歸的"送祕書晁監還日本國"詩序中亦有?到晁衡,
"名成太學,官至客卿。必齊之姜,不歸娶於高國",
所以後人以這兩首詩,結合日本"續日本紀"的記載,推斷他曾在唐結婚。
http://cafemilk.blogspot.com/search/?q=%E4%B8%8D%E6%AD%B8%E5%A8%B6%E6%96%BC%E9%AB%98%E5%9C%8B&x=13&y=8

こうざん(恒山)
道教の五岳の一つ、北岳。中国山西省渾源県にあり、北を司るとされる。最高標高は2,017m。 中国本土では五指に入る最高峰である。八仙のひとり張果老が住まうとされている。
五岳の他の山々と同じく周時代から道教の聖地とされていたことが記録に残るが、 他の四山ほど重要視されず、主要な巡礼地となることもなかったようである[1]。 漢時代には現在の北岳廟の前身となる寺院が山腹に建設されたが、 遼がこの地を支配するようになると、宋朝の皇帝は恒山から南へおよそ150キロメートル離れた 曲陽県に北岳を祀る廟を別に建設した[1]。
今日、恒山にある最も有名な寺院は道教寺院ではなく、仏教寺院の懸空寺である[1]。 懸空寺は恒山のふもとに近い絶壁に築かれた木造寺院である。創建は491年であるが、 明時代 (1368年 - 1644年) および 清時代 (1644年 - 1911年) に大規模な修復が行われている。 また、1900年には解体修理も実施された。40の木造堂宇が数々の柱や梁、廊などで巧みに繋がれている。





こうざん(衡山)
道教の五岳の一つ、南岳。中国湖南省衡陽市にあり、南を司るとされる。 最高峰は祝融峰の1,300.2m[1]。
古名を「寿岳」といい、二十八宿のうち人間の寿命を司るという軫星(軫宿)と対応づけられていた。 また、神農氏がここで薬となる植物を採ったとの伝説がある





こうしょろう(校書郎)
後魏時,秘書省始置校書郎,在唐朝,屬秘書省,官??从九品上,主要做文章的校?和專門典校藏書的工作。 擔任過秘書省校書郎的唐代詩人有白居易(803年)、王昌齡、李商隱、錢起、元?、李德裕、薛隆、李端、朱慶餘等人。







こうし(高士)
人格高潔の人。官に仕えないすぐれた人物。(大漢語林)







こうしゅ(公主)
中国において皇帝の娘のこと、またその称号をさす。
現代中国語および韓国語では、日本語の「姫」とほぼ同じ意味で用いられている(中国語の「姫」は 宮庭女官の呼び方に使うのが多い)。「公主」の称号の由来は、天子の娘の婚儀を三公が主宰したこと による。単に主とも呼ばれた。
古くは化粧領として拝領した土地の地名を取って「○○公主」と呼んだ(例:太平公主、安楽公主)が、 明代・清代の称号は多く雅称(もしくは一種の儀礼称号)であった。
また皇帝の長女を元公主(げんこうしゅ)と呼んだ(例:魯元公主 - 劉邦の長女)。 唐・宋以後、今上の姉妹は長公主(ちょうこうしゅ)、今上の伯叔母や数代前の公主は大長公主 (だいちょうこうしゅ)(例:秦魯国賢穆明懿大長公主)と呼んで今上の娘と区別し、 受けた待遇も公主より上だった。清代になって、公主も階級が分けられ、生母が皇后の場合は グルニ・グンジュ(gurun i gungju、固倫公主、こりんこうしゅ)、妃嬪の場合は ホショイ・グンジュ(ho?oi gungju、和碩公主、わせきこうしゅ)と呼ばれるなどの区別がされた。
また、北宋ではごく短い一時期、公主の称号を廃し、周王朝風の呼び方だという帝姫(ていき)の 称号を用いていた(例:嘉徳帝姫)。臣下が公主を娶る(中国や朝鮮では原則的に同姓不婚である ため、公主の結婚相手は臣下の者に限られる)ことを「尚公主」といい、その夫は?馬都尉 (清朝ではエフ、efu、額?)と呼称した。漢では、化粧領の等級によって、皇帝の娘を郡主 (ぐんしゅ、正式名称は郡公主)または県主(けんしゅ、正式名称は県公主)と呼んだ。 晋後、郡主・県主の称号に降格する。親王の娘を郡主、郡王の娘を県主と呼んだ。 三国魏や北魏では、皇帝の娘以外の皇族・宗室の娘を郷主(きょうしゅ)とも呼ばれた。







こうしゅう(黄州)
北斉により設置された衡州を前身とする。南朝陳により衡州は廃止されたが、北周により再び設置された。
585年(開皇5年)、隋により衡州は黄州と改称された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、黄州は永安郡と改称された[1]。
618年(武徳元年)、唐により永安郡は黄州と改められた。742年(天宝元年)、黄州は斉安郡と改称された。758年(乾元元年)、 斉安郡は黄州の称にもどされた。黄州は淮南道に属し、黄岡・黄陂・麻城の3県を管轄した[2]。
宋のとき、黄州は淮南西路に属し、黄岡・黄陂・麻城の3県を管轄した[3]。
1275年(至元12年)、黄州は元に降った。1277年(至元14年)、黄州は黄州路総管府と改められた。黄州路は河南江北等処行中書省に属し、 録事司と黄岡・黄陂・麻城の3県を管轄した[4]。1364年、朱元璋により黄州路は黄州府と改められた。
明のとき、黄州府は湖広省に属し、直属の黄岡・黄陂・麻城・黄安・?水・羅田の6県と?州に属する広済・黄梅の2県、 合わせて1州8県を管轄した[5]。
清のとき、黄州府は湖北省に属し、黄岡・麻城・黄安・?水・羅田・広済・黄梅・?州の1州7県を管轄した[6]。
1913年、中華民国により黄州府は廃止された。







こうしゅう(杭州(臨安))
 杭州(こうしゅう)は、中国にかつて存在した州。隋代から清末にかけて、現在の浙江省杭州市に設置された。
 隋代
 589年(開皇18年)、呉州より杭州が分割設置された。607年(大業3年)、郡制施行に伴い杭州は余杭郡と改称され、下部に7県を管轄した。
 唐代
 621年(武徳4年)、唐が李子通を平定すると、余杭郡は杭州と改められた。742年(天宝元年)、杭州は余杭郡と改称され、江南東道に属した。 758年(乾元元年)、余杭郡は杭州と改称され、浙江西道節度使の管轄に置かれた。唐代の杭州は南北を連絡する運河か流れ、 貨物の集散地とし発展、貞観年間(627年-649年)には人口が15万人であったものが、開元(713年-741年)には58万人を数え、 広州・揚州と並ぶ経済の中心となった。
 また822年(長慶2年)には白居易が杭州刺史として赴任、西湖の大規模水利事業を行っている。
 五代十国時代
 五代十国時代には呉越が成立し杭州はその国都とされ西府(西都)と称された。
 北宋
 北宋が成立すると杭州は両浙路の路治が設置され、1107年(大観元年)には杭州府に昇格した。当時は20万戸を数える江南地区最大の 都市となっていた。1089年(元祐4年)には蘇軾が杭州知州に任じられ、西湖の浚渫事業、水利事業を行っている。
 南宋
 南宋になると杭州はその全盛期を迎える。1129年(建炎3年)、行宮が杭州に置かれると杭州府は臨安府と称され、 1138年(紹興8年)には正式な遷都が行われ、杭州は宋朝の政治・経済の中心地となった。また都城の防衛のために城壁の拡張工事が行われている。 国都となった臨安府の人口は急増し、咸淳年間(1265年-1274年)には124万人にまで増加している。
 元代
 1276年(至元13年)、宋朝を滅ぼした元朝は両浙都督府(後に江浙行省に移管)を設置、1278年(至元15年)に杭州路総管府が設置され 杭州路と称されるようになった。下部行政区に関しては宋代のものを沿襲、塩官県が海寧州に改編されるなど小規模な異動にとどまっている。
 1335年(後至元元年)、杭州城内で大規模な火災が発生し15,755軒を消失し、元末に杭州城は大規模な再建事業が実施された。 1358年(至正18年)、張士誠による杭州城再建が行われ、周囲64,020尺、高さ30尺、厚さ40尺というそれまでの規模を上回る杭州城を再建している。
 明清代
 元末の動乱期、軍事作戦を進める朱元璋は杭州行省を設置している。元末には度重なる戦火により杭州城にも被害が及び経済は衰退、 西湖も泥土の堆積により農業灌漑に支障を来たすなどの被害を受けた。
 明代が成立すると杭州府が設置され、明代は浙江布政使司の、清代は浙江省の治所とされた。
 1895年(光緒21年)には日清戦争に敗北した清朝は下関条約により杭州を日本に対し開港、また租界の設置を認めている。
 中華民国以降
 「銭塘道」および「杭州市」も参照
 中華民国が成立すると府制が廃止となり杭州府は廃止、杭州府管轄県はその後設置された銭塘道の管轄とされた。 1927年(民国16年)に道制も廃止、浙江省直轄とされた。その後の行政変革に関しては杭州市を参照のこと。







こうじんをはいす(拝後塵)
『晋書』石崇伝より
廣城君毎出、崇降車路左、望塵而拝。其卑佞如此。
広城君(こうじょうくん)出(い)ずる毎(ごと)に、
崇(すう)車路(しゃろ)の左に降(お)り、塵(ちり)を望みて拝す。
其(そ)の卑佞(ひねい)なること此(かく)の如(ごと)し。
広城君 :時の権力者である賈充(かじゅう)の後妻。
崇(すう):石崇(せきすう:249-300)。字(あざな)は季倫(きりん)。西晋の政治家。
(解説)
後漢末の戦乱から三国時代を経て、魏晋南北朝時代へと、 中国は貴族制の時に大きく展開してゆきます。
高級官僚を輩出する名門貴族の力が 皇帝の力をもしばしば凌駕(りょうが)する時代の訪れです。
曹操(そうそう)が基盤を築き、曹丕(そうひ)が建国した魏(ぎ)は、 やがて家臣の司馬一族の専権にあい、 建国からわずか四十五年で晋(しん)の武帝・司馬炎(しばえん)に 帝位を禅譲(ぜんじょう)することになります。
魏王朝では、曹丕と弟の曹植(そうしょく・そうち)の後継者争いの 禍根(かこん)から、謀反を恐れて皇族に大きな権力を与えず、 結果として王朝が短命に終わってしまいました。
そのことに鑑(かんが)みて、晋王朝は皇族を各地の王に封じて 権力の強化を図ったのですが、皮肉なことに、 その一族が権力闘争に明け暮れ、王朝が衰退しました。 世に言う「八王の乱(はちおうのらん:290?306)」です。
「八王の乱」の混乱に乗じて、「五胡(ごこ)」と総称される 北方の遊牧系の諸民族が中国内地でも勢力を伸ばしました。 316年、「五胡」の一つである匈奴(きょうど)の侵攻によって、 晋の首都・洛陽はあえなく陥落してしまいます。
その翌年、皇族の一人である司馬睿(しばえい)が、 江南地方の建康(現在の南京)で即位し、晋王朝の復興を宣言します。
一般的に、それまでの晋を西晋(せいしん)と呼び、 司馬睿以後の晋を東晋(とうしん)と呼びます。
一種の亡命政権である東晋王朝は、もとから江南の地域に 土着する貴族を、どのように政権に取り込むかで苦慮します。 その危うい舵取(かじと)りを見事にこなしたのは、 北来貴族の代表格である政治家・王導(おうどう:267?339)と、 その一族で軍事力を握っていた王敦(おうとん:266?324)の二人でした。
王導・王敦の尽力によって船出を果たした東晋王朝の国是(こくぜ)は、 もちろん北方の故郷を異民族から奪回することです。 しかし実際には、南方でのひとときの安寧(あんねい)を享受し、 文化的で奢侈(しゃし)な生活に流れてゆく貴族が多くなりました。
さて、当時の為政者(いせいしゃ)や文化人の言行録に、 南朝・宋の劉義慶(りゅうぎけい:403?444)が編纂した 『世説新語(せせつしんご)』があります。
そこには、著名人のすぐれた振る舞い、容姿、 放逸(ほういつ)で奇矯(ききょう)な言動、醜聞(スキャンダル)まで、 様々なトピックが記されています。
そのなかで、人も無げな数々の振る舞いを記されている人物の一人に、 石崇(せきすう:249?300)がいます。
石崇の父・石苞(せきほう:??272)は、もとは洛陽の鉄売りでしたが、 能力を認められ、司馬一族に抜擢されて魏の大臣にまで昇り詰めた人物です。 その石苞は死に臨んで、末っ子である石崇には 財産を分与しないよう遺言しました。
「彼は自分で金儲けをできるだろうから」 というのがその理由です。(※1)
その言葉通り、石崇は己(おのれ)の才覚によって出世し、 巨万の富を築きます。 時には人を殺してまで豪商から劫略(ごうりゃく)しての 蓄財であったとも伝えられます。(※2)
石崇の屋敷の絢爛豪奢(けんらんごうしゃ)な様は、 時の貴族たちも度肝(どぎも)を抜かれるほどでした。 珍しい南方産の香を焚(た)きしめ、 真紅の薄絹(うすぎぬ)をめぐらせた厠(かわや)を見て、 訪れた客人が石崇の部屋だと勘違いした話などが伝えられています。(※3)
また、石崇の屋敷の厠には、美しい服を着飾った侍女が十数人控えており、 用を足した客に新しい衣服への着替えを促しました。
それを恥ずかしがる客が多いなかで、 ひとり王敦のみが傲然(ごうぜん)として、衣服をあらためるのを見て、 侍女たちは「あのお方は、いまに謀反でも起こされるに違いありません」 と噂(うわさ)しあったといいます。(※4)
王敦が後に東晋王朝に反旗を翻したことは、 史書に見える通りです。(※5)
石崇は客を招いての宴会の際には、美女に酒を勧めさせましたが、 酒を飲み干さない客がいると、次々と美女を斬り殺させました。
下戸(げこ)の者も注がれた酒を必死で飲み干すなかで、 王敦は決して酒を飲もうとせず、そのため三人の美女が斬られましたが、 「石崇が自分の家人を殺しているだけのことだ」といって、 顔色一つ変えなかったといいます。(※6)
当時と現在では法律や常識が全く異なるとはいえ、 貴族社会の横暴な乱脈ぶりが窺(うかが)える一幕です。
あるとき、太学(たいがく)に飾られている孔子の弟子の像を見て、 王敦が「孔子の弟子のなかでいうならば、商才に長(た)けた 子貢(しこう)が最も石崇に近いだろう」と揶揄(やゆ)すると、 石崇は色をなして、「立派な人物たる者は、財産も名声もともに 備わっていなければならないものだ」と喝破(かっぱ)したと言います。(※7) 悔し紛れの言葉とはいえ、石崇の確信犯的な蓄財哲学が垣間見えるようです。
こうした王敦とのエピソードのほかにも、 石崇が王ガイ(「りっしんべん」に「豈」)と 様々な奢侈(しゃし)競べをしたエピソードが、 『世説新語』には記されています。
さて、富と地位を手に入れるためなら、なりふり構わぬ石崇は、 時の権力者の一人である賈謐(かひつ)に取り入りました。 賈謐は伯母(おば)の賈皇后(かこうごう)とともに権勢を手にした人物です。
石崇の阿(おもね)りは徹底しています。 賈謐の祖父の後妻・広城君(こうじょうくん)が外出する際、 石崇は自分の車を降りて路の端によけて立ち、 広城君の車の後塵(こうじん:通り過ぎた後にたつ砂塵)に 拝礼していたといいます。
石崇のこの振る舞いから、権勢のある人に媚(こ)びへつらうこと、 また人に先んじられて後れをとることを 「後塵を拝す(こうじんをはいす)」と言うようになりました。
官途にあっては高官を歴任し、巨万の富を築いた石崇ですが、 「八王の乱」で司馬倫(しばりん)が帝位を簒奪(さんだつ)すると、 よりどころとする賈謐が政争のなかで誅殺(ちゅうさつ)されてしまいます。
しかも悪いことに、司馬倫の寵臣である孫秀(そんしゅう)が、以前 石崇のもとにいる緑珠(りょくじゅ)という妓女(ぎじょ)を 譲って欲しいと頼んだのを、にべもなく断ったという因縁がありました。
追い込まれた石崇は司馬倫を誅殺しようと図りますが、 事が露見して、逆に一族十五人が誅殺されてしまいます。
時に石崇は五十二歳でした。(※8)
多くの美女を殺した石崇が、一人の女性を惜しんで一族の命を失ったのは、 せめてもの歴史の裁きであったと言えるかも知れません。
さて、世俗にまみれた石崇の言動は、地位と財産にものを言わせて 常軌を逸したものではありましたが、当時の人々の感覚では、 さほど否定的な評価ばかりでもなかったようです。
石崇は、贅(ぜい)を尽くした金谷園(きんこくえん)という別荘で 詩作の宴(うたげ)を催し、その詩集に自ら 「金谷詩序」という序文をものしました。(※9)
王導の甥にあたり、書聖と仰がれる王羲之(おうぎし)にも、 詩作の宴での「蘭亭集序」があります。 人々が「蘭亭集序」を「金谷詩序」になぞらえ、 また王羲之を石崇に匹敵する人物として評価してくれたのを、 王羲之は非常に喜んだといいます。(※10)
また、怪異な事柄を記した干宝(かんぽう)の 志怪小説『捜神記(そうしんき)』には、 宋定伯という男が幽霊をだまして羊に化けさせ、 その羊を市場で売って金儲けをする話があり、その話の末尾には、 「当時、石崇が「宋定伯は幽霊を売って銭千五百を儲けた」と言った」 という一節がつけ加えられています。(※11)
唐突にも見えるその一節は、金儲けといえば石崇、 というのが常識として知れ渡っていたことを伝えてくれるのと同時に、 石崇の蓄財のすさまじさは、現実的なイメージを透過(とうか)して、 幽霊がだまされるという非現実的な滑稽さにもふさわしいものとして とらえられていた、という側面があったことも示していると言えるでしょう。
誅殺された石崇は、あの世で幽霊となっても 存外、思うままに蓄財に励んでいるのかも知れませんね。
-------------------------------------------------- (※1)『晋書』巻三十三・石苞伝。
(※2)『世説新語』汰侈篇注引 王隠『晋書』、『晋書』巻三十三・石崇伝。
(※3)『世説新語』汰侈篇注引『語林』。
(※4)『世説新語』汰侈篇。
(※5)『晋書』巻九十八・王敦伝。
(※6)『世説新語』汰侈篇。なお『晋書』巻九十八・王敦伝には、
   王ガイの宴席の話として同工異曲の逸話が記されている。
(※7)『世説新語』汰侈篇、『晋書』巻三十三・石崇伝。
(※8)『世説新語』汰侈篇、『晋書』巻三十三・石崇伝。
   緑珠の逸話は後世の『蒙求』等にも引かれている。
(※9)『世説新語』品詞篇。潘岳「金谷集作詩」は『文選』巻二十に見える。
(※10)『世説新語』企羨篇、『晋書』巻八十・王羲之伝。
(※11)『捜神記』巻十六、参照。なお「宋定伯」の話は『列異伝』にも見えるが、
   そこでは「当時はこう言われた」と記されるのみで、
   石崇の名は記されていない。






こうどうかん(弘道館)
江戸時代後期に日本の常陸国水戸藩に作られた藩校である。所在地は、茨城県水戸市三の丸1丁目6番内。
天保12年(1841年)7月に完成し、8月1日(9月15日)に仮開館(本開館は安政4年5月9日 (1857年5月31日))。第9代水戸藩主の徳川斉昭によって水戸城三の丸内に作られた (弘道館設立の前は、山野辺家などの重臣層の屋敷地であった)。初代教授頭取には、 会沢正志斎と青山拙斎が就いた。建造は戸田蓬軒が務めた。また、経営にあたる学校奉行には 安島帯刀が任命された。八卦堂の『弘道館記』の碑には藤田東湖草案の建学の精神が漢文で 書かれている。武道のほかにも、広く諸科学、諸学問が教育・研究された。
学問の教育・研究としては、当時広く行われていた文系のほかにも、一部の自然科学についても 行われていた。また、第2代水戸藩主の徳川光圀が編纂を始めた大日本史の影響を受けた 水戸学の舞台ともなった。当時の藩校としては規模が大きく、また水戸藩も財政が潤っていた とはいえなかったことから、当時の水戸藩の教育政策がうかがえるといわれている。 通常卒業の概念が設けられているものが多いが、学問は一生行うものであるという考え方に 基いて特に卒業の概念を設けず、若者も老人も同じ場で学んだといわれている。
また、藩学出席強制日数という形式的な基準を設定していた。文武のうち、文館への入学には 一定水準以上の学力が要件となったが、武館への入学は無試験であった。一方で、家格と実力が 合致するような人材を育成するという目的から、家柄に基づいた出席日数の制限が行われ、 家柄が低い者へは出席すべき日数が少なく設定されていた[4][5]。
明治維新の際、水戸藩では改革派(天狗党)と保守派(諸生党)が激しく争い、弘道館もその舞台 となった。慶応4年(1868年)4月、謹慎中の徳川慶喜は江戸開城の合意事項に沿って水戸に引き移り、 弘道館の至善堂に入った。しかし当時水戸藩では藩主慶篤が病没して藩主不在の混乱状態であり、 慶喜が紛争に担ぎ上げられることが予測されたため、7月慶喜は静岡に移った。 改元して明治元年10月1・2日(1868年11月14・15日)には会津戦争で敗走した諸生党が水戸に 舞い戻って弘道館に立てこもり、水戸城に入った本圀寺党・天狗党の残党らと大手門を挟んで 戦闘する事態となり、文館・武館・医学館等多くの建物が銃砲撃により焼失した(弘道館戦争)。 1872年(明治5年)12月8日[6]に閉鎖され、その後は太政官布告により公園とされた。
弘道館が有していた蔵書の多くは国有とされ、後に設立された官立の旧制水戸高等学校が引き 継いだが、昭和20年(1945年)8月1日から2日未明にかけての水戸空襲により国有化された 蔵書は焼失した。そのほかの蔵書については、弘道館の伝統を引き継ぐために関係者によって 作られた自彊舎に引き継がれ、その後は、弘道学舎、水戸塾、水戸学院、茨城中学校・ 茨城高等学校と続いている。現在、約1万冊程度の蔵書が現存し、茨城県立歴史館が委託などで 管理を行っている。
また、徳川斉昭の意向により設立当初から多くの梅樹が植えられ、その由来が『種梅記』の 碑に記されている。斉昭の漢詩『弘道館に梅花を賞す』には「千本の梅がある」とある。 現在、敷地跡は梅樹約60品種800本が植えられており、梅の名所となっている。 なお、弘道館と同じく梅の名所である偕楽園は、弘道館に対し、心身保養の場として対に 作られたものである。




こうとしして(狡兎死良狗烹)
楚(そ)の覇王項羽(こうう)が亡びて天下は漢に帰し、漢王劉邦 (りゅうほう)が帝位について、漢の高祖(こうそ)となった。 その翌年(前201年)のことである。詔(みことのり)がおもおもしく 諸侯に下された。
「朕(ちん)は、これより雲夢湖(うんぼうこ)に遊幸する。汝ら、  随行すべく楚の陳(ちん)に集合せよ」。
これには理由がある。当時、韓信(かんしん)が楚王に封(ほう)ぜ られていたが、その韓信のもとに、項羽の勇将であった鐘離? (しょうりばつ)がいた。かつての戦闘で、鐘離?のためにしばしば 苦しめられた高祖は、彼を憎むことはなはだしく、その逮捕を韓信 に命じたのだが、以前から鐘離?と親しかった韓信はその命をき かず、かえって彼をかくまっていたのだ。
このことを知って、「韓信には謀反の意がある」と上書した者が あったので、高祖は陳平の策略にしたがって、遊幸を口実に して諸侯の軍を召集したのである。
事態がこうなると、韓信は本気で叛旗をひるがえそうかと考え てみたが、「自分には何の罪状もない」と思いかえして、進ん で拝謁(はいえつ)しようとした。しかし、のこのこ出ていくと、 捕らえられそうで、どうも不安である。
そうしたある日、小賢(こざか)しい家臣が韓信に囁いた。 「鐘離?の首をもって拝謁なさいましたら、陛下もお喜びになられ、  わが君におかれましても憂慮すべき事態がなくなりましょう」。
もっともだと思って、韓信は、その由を鐘離?に告げた。すると、 鐘離?は、
「劉邦が楚を襲撃しないのは、君のところに僕がいるからだ。  それなのに君が僕を殺して劉邦に媚態を示すようなことをすれば、  君もたちまちやられるぞ。君としたことが情けないことを考えた  ものだ。僕は君を見そこなったよ。よし、僕は死んでやろう。  だが、君はとても、人に長たる器ではないな」。
と言って、自ら首を刎(は)ねてしまった。その首をもって、韓信は 陳に赴(おもむ)いたのだが、果たして謀反人として捕縛されてしまった。
韓信は口惜しがった。
「ああ、狡兎(こうと)死して良狗(りょうく)烹(に)られ、高鳥尽きて  良弓蔵(かく)れ、敵国敗れて謀臣亡ぶ、と言われるが、まったく  その通りだ。天下が平定されて、恐るべき敵があとをたったいま、  狡(ずる)い兎(うさぎ)が狩り尽くされると忠実な猟犬が主人に烹て食われる  ように、さんざん漢に尽くした自分が、今度は劉邦に斃(たお)されるのだ」。
ところが、高祖は韓信を殺さなかった。しかし、楚王から淮陰(わいいん)侯 に左遷されたので、これ以後、韓信は淮陰侯と呼ばれるのである。
(史記、淮陰侯列伝)




こうぶせいいん(洪武正韻)
明代に編纂された韻書の一つ。明の太祖洪武8年(1375年)楽韶鳳や宋濂など11人の学者によって 勅撰された官方韻書。16巻。 隋の陸法言『切韻』から宋代の『礼部韻略』に至る詩韻の体系は明代の実際の音韻体系とは かけ離れていた。このため宋濂は序において編纂の基準を「中原雅音によって定められる」 としており、通常の韻書で採られた平水韻とは大きく異なり、元の『中原音韻』19部に似て、 22部の韻部が設けられている。
『中原音韻』に似るものの入声韻と全濁声母をなお有しており、議論を呼ぶところである。 王力などは『洪武正韻』の編者たちが旧来の韻書の体系から抜け出すことができなかったことと、 南方出身者が多かったため中原の音に精通していなかったという見解を示し、 羅常培などは当時の北方音には文語と口語の両系統があって文語では旧来の発音が遵守されて いたといった見方を示している。




こうぶんぼく(好文木)
好文木考







こうもんのかい(鴻門の会)
紀元前206年、楚の項羽と漢の劉邦が、秦の都咸陽郊外(現在の陝西省西安市臨潼区)で会見した故事。 楚漢の攻防の端緒となった。
紀元前207年、倒秦に立ち上がった楚の懐王は関中を初めに平定したものを関中の王とすると諸将に 約束した。懐王は、項羽らを趙の救援後に函谷関より関中へ進軍するよう北上させ、一方劉邦 (当時は沛公)には南方ルートの武関より関中へ進軍するよう命じた。命を受けた劉邦は軍を進めて 秦軍と戦った。一方、秦の宰相である趙高は、二世皇帝を殺害し、関中を二分しようと提案してきた。 劉邦はこれを謀略と断じ、張良の建策に従って秦の将軍を買収し、武関を攻略。関中に侵入し 秦軍を撃破した。その際に秦王の子嬰が降伏し、劉邦は遂に軍を率いて秦都咸陽へ入る。
この時項羽はまだ関中に至っていなかった。劉邦に後れて函谷関に至った項羽は、関を守る劉邦軍の 兵を見る。更に、劉邦がすでに秦都咸陽を陥落させたと聞いて大いに怒り、当陽君らを派遣して 函谷関を攻撃し、関中へ入って戯水の西に軍を進めた。劉邦に謀反の罪を問い、撃滅してしまおう としたのである。項羽軍は劉邦軍に比べて兵力のみならず勇猛さでも圧倒的に上であり、劉邦の 命運は風前の灯となった。
項羽の叔父の項伯は夜密かに馬を走らせ、劉邦に客将として従っていた張良に会った。 項伯は張良とかねてより親しく、また仇持ちとなった際に匿ってもらった恩義があった。 事の顛末を話し、君だけは助けたいと共に脱出するよう誘うが、張良はそれを拒否し一部始終を 劉邦に伝えた。劉邦は驚き、項伯と会って姻戚関係を結ぶことを約束し「咸陽に入って以来、 宝物などを奪う事もせず、項羽将軍を待っていました。関に兵を置いたのは盗賊と非常時に 備えたものです。これを項羽将軍に伝えて下さい」と言った。項伯は納得するがそれを項羽へ 伝える条件として、劉邦が明朝項羽の陣営へ直接来て謝罪する必要があると言い、劉邦はこれを 受け入れた。一方の項羽も項伯の取り成しにより怒りを和らげ、弁明を聞くことにした。 そして翌日、後に言う「鴻門の会」が行われることとなった。
翌朝、劉邦は鴻門に項羽を訪ねた。しかし護衛の兵は陣外に留め置かれ、本営には劉邦と張良だけが 通された。劉邦はまず項羽に謙って謝罪し、「私達は秦を討つために協力し、項羽将軍は河北に、 臣[1]は河南に戦いました。思いもよらず先に関中に入りましたが、小人の讒言によって 、互いの関係にヒビが入っているのは残念でなりません」と弁明した。それに対して項羽は、 「それは曹無傷が言った事だ」と返した。
項羽は宴会を始め、項羽・項伯は東に向いて上座に座った。范増は南向き、劉邦は北向き、 張良は西向きにそれぞれ座った。宴会中、范増は項羽に目配せして、劉邦を斬るよう合図を送った。 そもそも劉邦を陣中に入れたこと自体が謀叛を大義名分として斬ることを目的としたもので、 彼を項羽のライバルとして警戒する范増が強く進言したものだった。しかし、劉邦が卑屈な 態度を示し続けていたので、項羽は討つ気が失せ、一向に動かなかった。三度合図を送っても全 く動かなかったので、范増は一旦中座して項荘を呼び、祝いの剣舞と称して劉邦に近づき、 斬るよう命じた。これを受けて項荘は剣舞を始めたが、企みに勘づいた項伯も相方として 剣舞を始め、項荘を遮り続けた。
この時、張良も中座し、陣外に待機していた樊?に事態の深刻さを伝えた。樊?は髪を逆立てて 護衛の兵士を盾ではじき飛ばし宴席に突入。「戦勝の振る舞いがない!お流れを頂戴致したく 願います!」と項羽をにらみつけ、その凄まじい剣幕に剣舞が中止となる。項羽はその豪傑ぶりに 感心し、大きな盃に酒をなみなみと注いで渡すと、樊?はそれを一気に飲み干した。 更に、豚の生肩肉を丸々一塊出すと、樊?は盾をまな板にして帯びていた剣でその肉を切り刻み、 平らげた。ここで項羽がもう一杯と酒を勧めると、樊?は「私は死すら恐れませんのに、 どうして酒を断る理由がありましょうか。秦王は暴虐で、人々は背きました。懐王は諸将に、 先に咸陽に入ったものを王にすると約束しました。沛公は先に咸陽に入りましたが、 宝物の略奪もせず、覇上に軍をとどめ、将軍(項羽のこと)の到着を待っていました。 関に兵を派遣したのも、盗賊と非常時に備えるためです。未だに恩賞もないのに、 讒言を聞き入れて功ある人を殺すというのは、秦の二の舞ではありませんか」と述べた。 これに対して項羽は返す言葉がなく、「それほど心配なら、ここに座っても良いぞ」 と言うのみだった。
その後、劉邦が席を立ったまま戻ってこないので、項羽は陳平に命じて劉邦を呼びに行かせたが、 劉邦は樊?と共に鴻門をすでに去り、自陣に到着していた。この際、張良は、劉邦が 酒に酔いすぎて失礼をしてしまいそうなので中座したと項羽に謝罪し、贈り物を渡す と自らも辞去した。
贈り物を前にした項羽はご機嫌だったが、范増は情に負けて将来の禍根を絶つ千載一遇の機会を 逃した項羽に対し「こんな小僧と一緒では、謀ることなど出来ぬ!」と激怒し、 贈り物の玉斗を自らの剣で砕く。さらに深い嘆息をもらして、劉邦を討ち取る事ができなかったので、 「そのうち天下は必ず劉邦に奪われ、我らは捕虜となってしまうだろう」と嘆いた。 劉邦は自軍に戻ると、さっそく項羽に讒言をした曹無傷を誅殺した。
鴻門の会において劉邦の釈明を受け入れた格好になった項羽は、劉邦を討つ大義名分を失う。 天下を平らげ劉邦を蜀巴の地へ左遷はしたものの、ここで劉邦を討てなかったことが後の敗北に つながった。
また范増も項羽が劉邦を討たなかったことに憤慨し、後々の離間の遠因となる。范増を失った 楚軍は張良・陳平の策謀に対抗する力も失った。
この鴻門の会は劉邦最大の危機であったが、劉邦は臣下の進言を受け入れてその通りに行動し、 また臣下も身命を賭して主君の危機を救った。これと対照的に、自らに実力があり自信もあったが 故に臣下の進言を聞かなかった項羽は、その後の破滅を招く事となった。 「鴻門の会」は、司馬遷の著した『史記』の項羽本紀や、『十八史略』に記述され、古くから日本人に親しまれてきた。高校の教科書等にも、漢文の教材として必ずといっていいほど掲載されている部分である。 現在の中国のことわざに「項荘舞剣、意在沛公(項荘の舞剣、意は沛公にあり)」というものがあり「もっともらしい名目(余興のための剣舞)を掲げているが、真意は他(劉邦の暗殺)にある」という意味である。2016年に王毅外相が米国の韓国へのTHAADミサイル配備を「朝鮮半島の安定という名目を掲げているが、目的は別のところにある」とこの表現を使い、批判した。 後の文学『三国志演義』では劉備が蜀(益州)へ入る際に剣舞に乗じて劉璋が暗殺されかける「鴻門の会」を意識したシーンがある。劉備の入蜀の際、劉璋の忠臣張任は同僚たちと共に劉備の危険性を説き、入蜀に反対するが劉璋には聞き入れられない。劉備軍の軍師である?統が、宴会の席で劉璋を殺害しようと魏延に剣舞を舞わせた際には、陰謀を察知し劉璋を守るため、魏延と共に舞うなど鴻門の会宛らの立ち回りを見せる。







ごおん(呉音)
日本漢字音(音読み)の一つ。当時の南朝(日本では大和時代)の首都 建康(南京)付近の 漢字音をいう。中国語の中古音の特徴を伝えている。
一般に、呉音は仏教用語をはじめ歴史の古い言葉に使われる。 慣用的に呉音ばかり使う字 (未〔ミ〕、領〔リョウ〕等)、漢音ばかり使う字(健〔ケン〕、軽〔ケイ〕等)も少なくないが、 基本的には両者は使用される熟語により使い分ける等の方法により混用されている。
特徴
呉音は雑多なものを含んでいると考えられ、漢音ほどの整った体系を備えていないが、 以下のような特徴がある。
頭子音の清濁の対立構造を反映し、清音と濁音を区別している。
頭子音(声母)の鼻音 /n/, /m/ については、漢音がダ行、バ行で伝えられたものが多いのに対し、 ナ行、マ行のまま伝えられている。
末子音(韻尾)、とくに /?/ を表す規則が一定していない。呉音でも -ウ や -イ が添えられること が多いが、公(ク)のように省略されているものもある。双六(スゴロク)のようにガ行音を 充てたものもいくらか見受けられる[1]。
/t/ の末子音を持つ入声には -チ が使われることが多い。漢音では -ツ が使われるところである。
切韻の音韻体系のうち、等呼の違いを一等韻にはア段音を使い、二等韻にはエ段音を使うことで 区別している。漢音では両者ともア段音として区別していない。
歴史
漢音を学び持ち帰る以前にすでに日本に定着していた漢字音であり、いつから導入されたものかは 明確ではない。雑多なものを含むため、様々な経路での導入が想定される。仏教用語などの呉音は 百済経由で伝わったとされるものがあり、対馬音や百済音といった別名に表れている (「呼称について」に後述)。
呉音は仏教用語や律令用語でよく使われ、漢音導入後も駆逐されず、現在にいたるまで漢音と 併用して使われている。『古事記』の万葉仮名には呉音が使われている。
呼称について
呉音しか読音がない時代には名称などなく、後に漢音が導入されて以降につけられた名称 (レトロニム)である。かなり定着していたことから古くは和音(やまとごえ・わおん)と呼ばれ、 平安時代中期以降、呉音と呼ばれるようになったが、これらの語は漢音の普及を推進する 側からの蔑称であったらしい。中国の唐代、首都長安ではその地域の音を秦音と呼び、 それ以外の地域の音、特に長江以南の音、首都建康(南京)ではその地域の音を「呉音」とか 「呉楚之音」と呼んでいた。
また対馬音(つしまごえ・つしまおん)・百済音(くだらごえ・くだらおん)という名称もあるが、 欽明天皇の時、百済の尼僧、法明が対馬に来て呉音で維摩経を読んで仏教を伝えたという伝承に よるものである。
音のあいまいさについて
常用字でない漢字音について、漢音はその認定が中国の韻書などの反切資料を中心に行われるのに 対して、呉音は日本に古くから伝わる仏典資料や律令などの歴史的史料が中心になるため、 その認定が難しい部分があり、各漢和字典ごとに異なっている場合が多い。

漢音と呉音の異なる字のうち、ほんの一例を以下に掲載する。対応が把握しやすいように字音仮名 遣いを使って表示した。 前述のとおり、呉音にはあいまいな部分もあり、以下の例も、 これが絶対というものではない。
“分類”は厳密さに欠けるものではあるが、参考までに添えた。 「漢音 / 呉音」の形で示している。
* は「いろいろ」というほどの意味。 以下例略







ごがく(五嶽)
中国の道教の聖地である5つの山の総称。五名山とも呼ばれる。陰陽五行説に基づき、 木行=東、火行=南、土行=中、金行=西、水行=北 の各方位に位置する、5つの山が聖山とされる。
東岳泰山(山東省泰安市泰山区)(世界遺産)
南岳衡山(湖南省衡陽市南嶽区)
中岳嵩山(河南省鄭州市登封市)(世界遺産)
西岳華山(陝西省渭南市華陰市)
北岳恒山(山西省大同市渾源県)
神話によると万物の元となった盤古という神が死んだとき、その五体が五岳になったと言われている。
この五岳を象徴図形にしたものが五岳真形図(「五嶽眞形圖」)である。







ごぎょうせつ(五行説)
五行思想(ごぎょうしそう)または五行説(ごぎょうせつ)とは、古代中国に端を発する自然哲学の 思想。万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという説である。
また、5種類の元素は「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、 循環する」という考えが根底に存在する。
西洋の四大元素説(四元素説)と比較される思想である。
中国の戦国時代末期の書物『呂氏春秋』は五行の相剋の説を使って王朝の継承を解釈した。 それぞれ王朝には五行のうちの一つの元素に対応した「徳」が充てられた。そして、 その王朝の正色もそれに対応して、元素としてその「徳」の色になった。
例えば、殷王朝の徳は金徳で、その正色は白だった。前の王朝が衰え、新しい王朝が成立した時、 新しい王朝の徳が前の王朝の徳に勝ったことにより、前の王朝から中国の正統性を受け継いだ。 例えば、周王朝の火徳は殷王朝の金徳に勝ったとされた。
しかし、後漢王朝以降、中国の王朝は五行の相克の代わりに相生の説を使って王朝の継承を解釈した。 例えば、隋朝の火徳は唐朝の土徳を生み出したとされた。
漢族以外の民族によって建国された征服王朝も五行の相生の説を使って中国での彼らでの統治の 正統を解釈した。例えば、女真(ジョシン)民族によって創建された金朝は中国の北半分を征服し、 宋朝から中国の正統を受け継いだと宣言し、彼らの金土徳は宋朝の火徳によって生み出されたと 宣言した。後に、モンゴル民族によって創建された元朝は中国の北半分の金朝と中国の南半分の 南宋を征服した。しかし、元朝は正統を宋から継承したのではなく、 金からの継承を選択した。故に、元朝は正色として白を選び、 その金徳は金朝の土徳から引き継がれた。元朝は自らを、過去の征服王朝の継承者として 認識していたからである







ごこ(五湖)
太湖はかつて、震澤、又の名を五湖と呼ばれた。中国で三番目に大きな淡水湖である。 太湖の面積は2000平方km、大小48の島があり、周囲の峰は72を数える。湖面は山肌を映し、 山水は幾重にも相照らし、光輝く、自然美を呈し、「天下一秀麗な太湖」と称される。 太湖の湖岸線は405km、平均水深は1.89mである。







こたいし(古体詩)
漢詩の詩体の一つ。近体詩に対立する。漢魏六朝の詩体の通称でもあり、唐以後、漢魏六朝の詩体に準拠して作られた詩体のことでもある。 近体詩に対して形式的にも自由であり、韻律の制約も少ない。
古体詩には文人が作った詩とともに『詩経』、楽府なども含まれる。古詩(こし)は広義では古体詩と同義であるが、 狭義では漢魏六朝の文人たちが作った詩のみを指す。
1首の句数の形式は不定である。句の字数には四言、五言、六言、七言、雜言の諸形式があるが、唐代以降は五言、七言が多く、 五言古詩、七言古詩と言われる。
近体詩が平声のみで押韻されたのに対して、古体詩は平声のみならず、仄声で押韻してもよい。しかし、上声・去声・入声といった 声調を分けて押韻しなければならない。
また、近体詩では一韻到底が普通であるが、古体詩では換韻も多く見られる。
押韻の位置も偶数句末とは限らない。
唐以前の古詩は平仄に対して全く自由であったが、唐以後は近体詩との区別を明確にするため、平仄も重視された。 つまり、近体詩の規則から外れるような平仄が意識的に行われた。
古体詩に特殊な平仄の形式として「三平調」があり、最後の3字が平声になるものをいう。その他に平仄平となるものもあり、 また珍しいものとして仄仄仄、仄平仄がある。







ごじゅうげん(五十弦)
「史記」孝武本紀: 其年,既滅南越,上有嬖臣李延年以好音見。上善之,下公卿議,曰:「民閒祠尚有鼓舞之樂,今郊祠而無樂,豈稱乎?」 公卿曰:「古者祀天地皆有樂,而神祇可得而禮。」或曰:「泰帝使素女鼓五十弦瑟,悲,帝禁不止,故破其瑟為二十五弦。」 於是塞南越,?祠泰一、后土,始用樂舞,益召歌兒,作二十五弦及箜篌瑟自此起。







ごたんのぎょく(五瑞之玉)
公侯伯子男の諸侯が天子に見ゆる時、玉で作つた圭といふものを執るのを礼とした、 謁する時之を天子に渡し、還る時又之を天子より受くるもの、『書経』舜典に
輯五瑞既月乃日、観四岳群牧、斑瑞于群后
また、漢の時代には
黄竜、白鹿、喜楽、甘露、木連理
の五つを五瑞としたと漢書に見え、又、花卉では
葵、菖蒲、蓮、石榴、又は枇杷
を以て五瑞とすと、一に又、これを菖蒲、石榴、葵、艾、萱草に作る。









さんきょう(三峡)
長江本流にある三つの峡谷の総称。重慶市奉節県の白帝城から湖北省宜昌市の南津関までの193kmの間に、 上流から瞿塘峡(くとうきょう、8km)、巫峡(ふきょう、45km)、西陵峡(せいりょうきょう、66km) が連続する景勝地である。三峡を船で上り下りするクルーズは中国内外の多くの観光客を集めており、 重慶から宜昌・武漢・上海までの間を運航している。三峡の下流部分には国家的事業である三峡ダムが 建設され、三峡の景観や環境が大きく変化した。



さんこのれい(三顧礼)
目上の人が格下の者に対して三度も出向いてお願いをすることであり、 中国で劉備が諸葛亮を迎える際に三度たずねたとする故事に由来する。 黄巾の乱の鎮圧で関羽、張飛とともに天下に名を揚げていた劉備に対して、 諸葛亮は司馬徽など一部の人にしかまだ名前を知られていなかった。 しかも劉備の40代に対し諸葛亮は20代であり社会通念上明らかな上下関係があるにもかかわらず、 それに捉われない応対をしたことから有名になった故事である。 この逸話は後世の日本にも影響を与えており、木下藤吉郎が竹中重治を配下に加えるくだりで使われている。



さんごくじだい(三国時代)
広義では黄巾の乱の蜂起(184年)による漢朝の動揺から、西晋による中国再統一(280年)までを指す。 狭義では後漢滅亡(220年)から晋が天下を統一した280年までを指す。最狭義では三国が鼎立した222年から 蜀漢が滅亡した263年までを指す。
229年までに魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立、 中国国内に3人の皇帝が同時に立った。三国時代については、陳寿が著した『三国志』、明代に書かれた『三国志演義』および、 さらに後世の三国時代を扱った書物によって、広く知られている。



さんだいれいふ(三大禮賦)
杜甫は、天寶の初め、進士科を受けたが、及第できなかった。天寶の末、「三大禮賦」を 献上すると、 これが玄宗の目に留まった。玄宗は、甫を召し出して文章を試した。その 結果、甫を京兆府兵曹參軍に任命した。(旧唐書)





しこうさんぐん(司功参軍)
庶務課長級か?。祭祀取り締まり、学校取り締まり、雑用取り締まり。



しし(刺史)
刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。 日本では国守の唐名として使われた。 唐代に入った武徳元年(618年)に郡を廃して州とし、刺史と雍州牧を置いた。しかし天宝元年(742年)に再び郡とした。 粛宗の時代に再び州とした。



ししん(詩籤)
刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。 日本では国守の唐名として使われた。 唐代に入った武徳元年(618年)に郡を廃して州とし、刺史と雍州牧を置いた。しかし天宝元年(742年)に再び郡とした。 粛宗の時代に再び州とした。



しば(司馬)
地方官の掾(じよう)の唐名。 掾は副。



しもさんれん(下三連)
各句の下の三字の平仄が同じになること。絶句においては「下三連を忌む」と称して避ける。
すなわち句の末尾を○○○(平三連)●●●(仄三連)としてはならない。ただし、「挟み平」と称する例外がある。



  しもさんれん(下三連)
各句の下の三字の平仄が同じになること。絶句においては「下三連を忌む」と称して避ける。
すなわち句の末尾を○○○(平三連)●●●(仄三連)としてはならない。ただし、「挟み平」と称する例外がある。


じゃくか(若華)
古代神話中若木的花。



しゅう(周)
周(しゅう、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛陽遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる[2]。



しゅうい(拾遺)
本義は漏れ落ちたものを拾い集めてくる意。
拾遺 (官) - 中国古代の官名。左と右に分かれる。唐の時代において品秩は従八品と決して高くないが、 皇帝に直言して失政を諫める職掌は重んじられた。詩人杜甫が任ぜられたことがある。 大宝令が定める官職「侍従」の唐名。東百官のひとつ、正遺の語源ともなった。




しゅういん(集韻)
集韻(しゅういん)とは、宋代に作られた韻書の一つ。景祐6年(1039年)丁度らによって作られた 勅撰の韻書である。平声4巻・上声2巻・去声2巻・入声2巻の全10巻。
『広韻』の206韻を踏襲しているが、順序や韻字に一部違いがみられる。諸橋轍次の『大漢和辞典』の 主な反切は集韻によっている。
成立
『集韻』の引例によれば、『広韻』はすでに成立から30年近く経ち、内容が古く、字体も不適切な ものが多かったため、これを修正、補充する目的で編纂が命じられた。『集韻』と同時に 簡略化された『礼部韻略』も編纂され、景祐4年(1037年)、先に完成した。
概要
引例によれば、『集韻』は『広韻』よりも27,331字多い53,525字を収めているとあるが、これは多くの 異体字を収めたことによるところが大きい。また、一つの字が複数の韻に属する場合に 分けて数えており、異なり字数は32,381字である[1]。
『集韻』には古体・或体・俗体などに限らず、典拠があるものすべてが収められ、ある種の 異体字字典としての価値を持っている。
解釈は『説文解字』にあるものを優先して載せる。
『広韻』と『集韻』はともに206韻に分けるが、『広韻』が『切韻』の改訂版として作られたのに対し、 『集韻』は反切用字が『広韻』と29%しか一致せず[2]、訓釈や小韻の並び順も異なっているため、 通常は切韻系韻書には含めない。
テキスト
『集韻』はあまり利用されず、宋代のうちにすでに稀覯書となっていた[3]。南宋の刊本が3種類現存 しており、出版された場所によってそれぞれ金州本・潭州本・明州本と呼ばれる。元・明には 刊行されていない。『広韻』を再発見した顧炎武も『集韻』は見ることができなかった。
のちに明州本の毛?による抄本を元にした曹寅の楝亭五種本が刊行され、清朝の学者はこれを利用した。
類篇との関係
『集韻』の配列を部首順に改めて作られた字書が『類篇』である。『類篇』は治平4年(1067年)に 完成した。45巻からなり、31319字を『説文解字』の部首にしたがって配列している。 同じ部首の文字の配列はおおむね『集韻』の出現順になっている。
『集韻』以前の切韻系韻書と『玉篇』とを共せて「篇韻」というが、『集韻』は『類篇』とあわせて 「篇韻」という。
*********************************** 宋の時代、宝元2年(1039)に成立した韻書。『廣韻』と同様206韻に分かれているが、 異体字や一字の異読を多く載せているのが特徴である。『大漢和辞典』昭和59年4月鎌田正・ 米山寅太郎の修訂版序文には、『大漢和辞典』親字の字音は『集韻』に基づき、のちに編纂した 『広漢和辞典』では『廣韻』を基本としていること、修訂に当って『広漢和辞典』編纂の成果を 反映したことを述べている。
当書は上海の中華書局による『四部備用』という叢書の1冊。康熙45年(1706)に楊州詩局から 出版された『楝亭五種』という叢書中の『集韻』と校訂したことが刊記からわかる。 版心の下部に「中華書局聚/珍倣宋版印」と見えるが、「聚珍」版とは活字本のことで、 清の乾隆帝が珍書を木活字で刊行した際に雅称とし、のちに日本でも活字版の異称として使用された。 当書は宋版に倣った活字を使用しており、小型本ながら堂々とした字体である。
******************************** 宋の丁度らの撰。 10巻。宝元2 (1039) 年撰。『広韻』を増補改訂したもので,韻目数は 206で 変らないが収録字数はほぼ2倍で,異体字や異読を多く収める。当時の発音に近づけるようにしたため, 『広韻』とは小韻の所属,および反切用字法のうえで差異が生じている。



しゅうさい(秀才)
郷挙里選で秀才が設けられたのは、漢代のことである。後漢の時期は、光武帝の諱を避けて「茂才」と呼ばれた。
隋代に科挙が始められると、科挙の科目になった秀才は科挙中でも重視され、及第者は10名にしか過ぎなかった。
初唐の科挙では、明経・進士・明法などの科目の中で、科挙の筆頭科に位置づけられていた。 その試験科目としては、方略策を5道課し、その文理の精粗によって判定された。貞観年間(627年 - 649年)に、 地方から推薦された学生が不合格になった際には、推挙した州県官に罰則が下される規定が新設された。 これによって、推薦者・受験者が無くなってしまった。開元年間(714年 - 741年)に一時的に復活したが、 及第者が現われず、遂に廃止された。
以後、科挙に応募した者を秀才と称するようになった。
明・清の時代になると、府学・州学・県学からの生員を秀才と称した。




しゅうなんざん(終南山)
陝西省西安市(長安)にある仏教と道教の霊山。南山、圭峰、太乙山とも呼ばれる。 仏教では南山律、善導流浄土教、華厳宗、三論宗の発祥地、また鳩摩羅什の墓地として、 道教では、老子の墓所として知られる。三階教の聖地でもある。(参考:同名霊山南山)




しゅうなんしょうけい(終南捷径)
正規の試験などをすることなく官職につくこと。または、終南山には仕官への近道があるということ。 「終南」は長安の南にある山の終南山のこと。 「捷径」は近道、最短距離の道のこと。 終南山で隠居していた盧蔵用が、則天武后に召されて官職を得た故事から、 終南山で隠者のふりをすることで名声が上がって仕官への近道になるという意味。 『新唐書』「盧蔵用伝」



しゅうほ(秋浦)
中国の安徽省南部、揚子江の南にある貴池の入江。



しゅゆ(茱萸)
正規の試験などをすることなく官職につくこと。または、終南山には仕官への近道があるということ。 「終南」は長安の南にある山の終南山のこと。 「捷径」は近道、最短距離の道のこと。 終南山で隠居していた盧蔵用が、則天武后に召されて官職を得た故事から、 終南山で隠者のふりをすることで名声が上がって仕官への近道になるという意味。 『新唐書』「盧蔵用伝」



しょうとしょう(簫と笙)

唐代以前は、単に簫と言った場合はパンパイプ型を指した[3]。金・元代以降は[2]排簫 (?音: paixi?o)(排列の意から[2])、また明代以降は[2]鳳簫とも呼ばれる。 長短の竹管 10-24 本[3]を長さ順あるいは左右対称となるよう[1]平らに並べて、 木帯でおさえるか(古制)、鳳翼をかたどった木枠に入れる(鳳簫という名の由来)[2]。 笙
中国には北京語でション(sh?ng)、広東語でサンという、同じ「笙」の字を書く楽器がある。 これは笙より大型で、音域は日本の笙の倍以上あり、素早い動きにも対応している。 もともと奈良時代に日本に伝わった時点では、日本の笙もパイプのような吹き口が付属していたが、 現在ではそれをはずし、直接胴に口をあてて演奏する形に変わっている。


じょうがんのち(貞観の治)
中国唐(618年 - 907年)の第2代皇帝・太宗李世民の治世、貞観(元年 - 23年)時代(627年 - 649年)の政治を指す。 この時代、中国史上最も良く国内が治まった時代と言われ、後世、政治的な理想時代とされた。 僅かな異変でも改元を行った王朝時代において同一の元号が23年も続くと言うのは稀であり、 その治世がいかに安定していたかが伺える。 この時代を示す言葉として、『資治通鑑』に、「-海内升平,路不拾遺,外戸不閉,商旅野宿焉。」 (天下太平であり、道に置き忘れたものは盗まれない。家の戸は閉ざされること無く、旅の商人は野宿をする (ほど治安が良い))との評がある。 この時代の政治は『貞観政要』(太宗と大臣の対話集)として文書にまとめられ、長く政治のテキストとして用いられた。




しょうくん(湘君)
洞庭湖に流れ込む湘江(しょうこう)または湘水という川の2人の女神で、舜の妻だった娥皇(がこう)と 女英(じょえい)のこと。2人をまとめて湘君または湘夫人とよぶこともあるが、娥皇を湘君、女英を湘夫人と呼ぶこともある。
娥皇と女英は五帝の一人である堯の娘で、舜の妻となった。帝王となった舜は四悪の追放など行った後、南方に巡行し、 蒼梧(そうご)の野に崩じた。娥皇と女英もこの征服行に従い、舜の後を追って湘江で水死し、 湘君、湘夫人という女神になったのだとされる。
湘君、湘夫人はその後は湘江が流れ込む洞庭湖の島に住み、しばしば川の淵を訪れた。 また、二人は川の流れの息吹と通じており、水を自由に操って水の渦や驟雨を引き起こす力があったという。
『史記』には、秦の始皇帝が長江から湘山にいたったとき暴風に襲われて進めなくなったが、 それこそ湘君、湘夫人が埋葬された祠(ほこら)のある場所だったという話がある。



  じょうがんのち(貞観の治)
中国唐(618年 - 907年)の第2代皇帝・太宗李世民の治世、貞観(元年 - 23年)時代(627年 - 649年)の政治を指す。 この時代、中国史上最も良く国内が治まった時代と言われ、後世、政治的な理想時代とされた。
僅かな異変でも改元を行った王朝時代において同一の元号が23年も続くと言うのは稀であり、 その治世がいかに安定していたかが伺える。
この時代を示す言葉として、『資治通鑑』に、「-海内升平,路不拾遺,外戸不閉,商旅野宿焉。」(天下太平であり、 道に置き忘れたものは盗まれない。家の戸は閉ざされること無く、旅の商人は野宿をする(ほど治安が良い))との評がある。
この時代の政治は『貞観政要』(太宗と大臣の対話集)として文書にまとめられ、長く政治のテキストとして用いられた。







しょうざんのしこう(商山の四皓)
出典:デジタル大辞泉 中国秦代末期、乱世を避けて陝西?(せんせい)?省商山に入った東園公・綺里季・夏黄公・甪里(ろくり)?先生の四人の隠士。 みな鬚眉?(しゅび)?が皓白?(こうはく)?の老人であったのでいう。画題とされる。
長谷川等伯 商山四皓図襖
西側四面 紙本墨画 各縦183.0・横94.7 桃山 時代(慶長7年・1602)制作 京都市・南禅寺天授庵所蔵 (解説) 山間の地の騎驢姿の四 皓と従者達が、真珠庵の襖絵と同様に簡略な筆遣いで表現されている。 山間の地の騎驢姿の四皓と従者達が、真珠庵の襖絵と同様に簡略な筆遣いで表現されている。
慶長7年は真珠庵の襖絵を描いた翌年にあたるが、同じ画題を描きながら同様がまったく異なる点は、 手本とした画本のことを考えるに際して興味深い。等伯晩年期の簡略な筆遣いによって猫線を際立たせる手法には、 中国南宋の院体画の影響を認めることができ、等伯晩年の画業を評価するにあたって重要である。







じょうしょう(丞相)
古代中国の戦国時代、秦王朝、漢王朝において、君主を補佐した最高位の官吏を指す。今日における、 元首が政務を総攬する国(大統領制の国や君主が任意に政府要職者を任命できる国)の首相に相当する。
古代中国では、丞相が2名置かれることがしばしばあった。この場合「右丞相」「左丞相」と呼ばれ、 王朝によってその上下関係に違いがある(王朝によって、右を尊ぶか左を尊ぶかが異なる)ものの、 一方が正丞相、残る一方が副丞相となった。なお、宦官がこの官職に就く場合は、 中人(宦官)の丞相ということで「中丞相」と呼ばれた。







しょうりょう(昭陵)
唐の太宗李世民(598年 - 649年)の陵墓であり、現在の陝西省西安市の北方に点在する唐の十八陵の一つ。
往古の唐の都である長安城(西安市)の西北方に位置しており、現在の行政区画では、 咸陽市礼泉県の北東25kmに位置する九?山(きゅうそうざん)麓にある。 唐の十八陵の中でも最大の規模を誇る。
設計を閻立徳・閻立本兄弟が行い、その造営は、貞観10年(636年)に始まった。 長孫皇后の陵墓として造営が始まり、太宗自身も、そこに葬られた。唐代の他の陵墓と同様、 墳丘を造営したものではなく、山陵によって玄室が築かれている。太宗が、人民の労力を軽く するために意図したものであると伝えられる。
その陵前は、乱冢坪と呼ばれ、そこから山麓にかけて、総数200近くと称せられる、 初唐の宗室諸王や公主、魏徴・李靖・李勣・房玄齢ら功臣たちの陪葬墓を見ることができる。 太宗の死去の際には、王羲之の『蘭亭叙』もおさめられたと伝えられる。 陪葬墓には壁画が残っているものもある。
五代十国の後梁の時代、軍人の温韜によって盗掘され、合葬されていた多くの名品が 運び出されている。また、『南唐書』の鄭元素伝には、元素が昭陵を盗掘しようと中に 入った時のさまが描写されており、そこから昭陵内部の様子をうかがい知ることができる。
昭陵の地上に見られるのは、玄武門の一部と摩滅した石碑の一部だけである。 太宗遺愛の名馬の像を板石に刻ませたという「昭陵六駿」が有名である。 太宗が隋末の戦乱の際に乗馬していた馬を石に浮彫したもので、 「白蹄烏」・「拳毛?」・「颯露紫」・「特勤驃」・「青騅」・「什伐赤」という名で知られる。
そのうち4駿は西安碑林に収蔵され、「颯露紫」と「拳毛?」2駿はアメリカのフィラデルフィアに 渡った。全ての石にあるひび割れは、分割して運んだためであると伝えられる。
また、碑文も多く残り、欧陽詢による「温彦博碑」や?遂良による「房玄齢碑」などが伝わっている。
1979年、昭陵博物館が完成した。また、全国重点文物保護単位に指定されている。







じょうりんえん(上林苑)
秦、前漢の皇帝のための大庭園である。咸陽、長安の南方に広がっていた。
『三輔黄図』によると元は秦の庭園であり、漢の武帝の建元3年(紀元前138年)、遊猟を好む武帝が しばしば上林苑の敷地内を越えて民の土地に足を踏み入れるようになって民を苦しめていたため、 武帝が吾丘寿王に命じて費用を計算させて拡大し、周囲300里の広大な庭園となった。
上林苑の中には70箇所もの離宮があり、それはどれも馬車一千台、騎一万を収容できるほどの 大きさだった。また多種多様な獣が飼われ、皇帝が秋、冬に猟を行ってその獣を取った。 また武帝が上林苑を拡大した際に、群臣に命じて各地の珍しい植物や果樹を献上させ、 それらを栽培した。
また茂陵の富民袁広漢は珍しい動物や植物を集め、砂浜や激流を人工的に作り、建物を全て廊下で 繋いであるという豪壮な庭園を造っていたが、後に罪があって誅殺されるとこれも官有の 庭園とされ、動植物は上林苑に移された。
上林苑には上林令、上林尉などの役人が置かれ、飼っている動物の種類や数を管理し、記録していた。 また上林苑内には6つの池や10以上の宮殿などがあった。
武帝の元鼎2年(紀元前115年)に水衡都尉の官が置かれ、上林苑を管轄することとなった。 上林令、上林尉も水衡都尉の属官となっている。また武帝が民間で五銖銭を鋳造することを 禁止すると、銭の鋳造は水衡都尉の属官である均輸、鍾官、弁銅の三官が独占して行うこととされた。 これは上林三官と呼ばれた。
後漢の時代になると、都が洛陽に置かれたため前漢の上林苑は使われておらず、洛陽西方に 上林苑が置かれている。







しょうりんじ(少林寺)
中国,ホーナン(河南)省トンフォン(登封),ソン 嵩山西麓にある古寺。太和20(496)年, 北魏の孝文帝によって創建された。禅宗の初祖であるインドの菩提達磨が 9年間壁に向かって坐禅した という面壁九年の故事で有名。拳法の一つ,少林拳(少林武術)の発祥地としても知られる。 天王殿,大雄宝殿をはじめ多くの建物は元代以降の建造だが,宋代に再建された初祖庵大殿は 建築史上重要。2010年,登封の歴史的建造物群「天地之中」として嵩岳寺塔や嵩陽書院などとあわせて 世界遺産の文化遺産に登録された。







しょうれいこひつ(湘霊鼓瑟)
村上哲見さんの『科挙の話 試験制度と文人官僚』(講談社学術文庫)にも紹介されいてる、銭起の逸話はどうでしょう?
中唐の詩人・銭起は浙江省の出身で、科挙を受験するため長安に向かう途中、長江南岸の京口の旅館に泊まった。 その夜のこと、月光の下で散歩をしていると、遠くからなにやら詩を吟ずる声が聞こえてくる。 どうも「曲終人不見、江上数峰青(曲終わりて人見えず、江上 数峰青し)」という二句を詠っているようだ。 銭起は急いで声のする方に近づいてみたが、誰一人どこにも人影が見えなかった。 やがて銭起は長安に到着して科挙の試験を受けてみると、詩の試験で出された詩題は「湘霊鼓瑟(湘霊 瑟を鼓す)」だった。 銭起は、ラッキーと思って、旅先の旅館で耳にした「曲終~」の二句を、提出する詩の結びの句にして、 たちまち答案を作り上げた。そうとは知らぬ試験管は、銭起のこの詩をとても気に入ってしまって、 銭起を上位の成績で合格させた。
この話、原書では、『唐詩紀事』巻三十などに見えます。
この話で、銭起がなぜ試験場で出された詩題を見て、ラッキーと思ったのか、村上哲見さんの解説を参考にして説明すると。
まず、科挙で出題される詩の題は、『詩経』『楚辞』『文選』などの、唐代の人から見て古典に当たる文献の一節から 出題されます。この場合の「湘霊鼓瑟」は『楚辞』の一句から取られた物です。 そして、中国の古典詩は必ず偶数句で押韻しますが、科挙受験で答案として提出する詩は、出題された詩題の中の平声 (平仄の平声・仄声の平声です)の文字を押韻の字とする、というルールがあります。 平声は、大雑把に言えば、現代中国語の1声・2声に相当する音で、「湘霊鼓瑟」の四文字なら、「湘」か「霊」の音で、 受験生は答案の詩の押韻を考えないといけません。銭起が旅先で耳にした句の二句目は「青(セイ qing )」で、 まさしく「霊(レイ ling )」と同じ韻に属する字なので、やった結びの句がもう出来ている、と銭起は喜んだのです。

全唐詩 -> 卷二百三十八
《省試湘靈鼓瑟》錢起
善鼓雲和瑟,常聞帝子靈。馮夷空自舞,楚客不堪聽。
苦調淒金石,清音入杳冥。蒼梧來怨慕,白芷動芳馨。
流水傳瀟浦,悲風過洞庭。曲終人不見,江上數峰青。







しろくべんれいたい(四六駢儷体)
中国の文語文における文体の一つ。「駢体」または「駢体文」ともいう。散文・韻文に対立する文体で、魏・晋のころに形成され、 六朝時代から唐にかけて盛行した。
「駢」とは2頭の馬が並んでいることを表し、対句を基本とする文体であることを意味している。「駢儷文」(べんれいぶん)あるいは 「駢儷体」ということもあるが、「儷」(または「麗」)もまた夫婦が「ならぶ」という意味である。また1句の字数が、 4字句または6字句を基調とするため、「四六文」(しろくぶん)とも呼ばれた。「四六」の語は晩唐から使われはじめ、 宋から明にかけて使われた。「駢文」の名は用いられるようになったのは清代においてである。これらを合わせて「四六駢儷文」または 「四六駢儷体」と呼ぶこともある。また「駢四儷六」ともいう。さらに駢文の中には、平仄など韻律面を整えたものもある。
例として、王勃「滕王閣序」の以下の部分においては、次のような対句や平仄の構造をしている。

馮唐易老 (平平仄仄) 名詞(人名)+副詞+動詞
李広難封 (仄仄平平) 名詞(人名)+副詞+動詞
屈賈誼於長沙 (仄仄仄-平平平) 動詞+名詞(人名)+介詞+名詞(地名)
非無聖主 (平平仄仄) 否定副詞+形容詞(数量)+名詞
竄梁鴻於海曲 (仄平平-平仄仄) 動詞+名詞(人名)+介詞+名詞(地名)
豈乏明時 (仄仄平平) 否定副詞+形容詞(数量)+名詞
内容的には典故や装飾的な修辞を多用する点に特徴がある。前述の「滕王閣序」では次のような典故が用いられている。

馮唐 老い易く(前漢の馮唐が有能でありながら、老齢でも郎中署長という低い役職についていた故事から)
李広 封じ難し(李広は幾たびの戦功にもかかわらず、生涯諸侯に封じられなかったという故事から)
賈誼を長沙に屈するは
聖主無きに非ず(賈誼が時の政治をしばしば批判したことで、廷臣たちに疎まれて長沙に左遷された故事から)
梁鴻を海曲に竄(かく)すは
豈に明時乏しからんや(梁鴻が時の宮廷を諷刺して「五噫詩」を書いたことから追われる身となり、姓名を変えて斉魯の間に隠れ住んだ故事から)







しん(晋)
晋(しん)は、中国本土の華北の地域名、国名、王朝名。黄土高原の東端に位置し、 太行山脈と呂梁山脈に挟まれた汾水流域の河谷の盆地を中核とし、現在の山西省一帯に 広がる地方にあたる。そのため山西省の雅称としても用いられる。
晋 (春秋)(紀元前11世紀 - 紀元前376年) - 西周時代に汾水の支流晋水流域唐の地に封ぜられた 唐叔虞を始祖とし、春秋時代に現在の山西省一帯に勢力を広げた国。
晋 (王朝)(265年 - 316年・317年 - 419年) - 曹魏から晋王に封ぜられた司馬昭の長男司馬炎が 曹魏からの禅譲により建てた王朝。五胡十六国の動乱を境に中国本土全体を治めた西晋と、 華北を放棄して江南に依った東晋の2期に分けられる。 西晋(265年 - 316年) - 司馬炎が265年に魏から禅譲を受けて建てた王朝。
東晋(317年 - 419年) - 西晋が匈奴の建国した漢に滅ぼされた後、王族の司馬睿が江南で 再興した王朝。
五代時代に汾水上流の太原を本拠地とした沙陀族軍閥河東節度使の建てた王朝 前晋(883年 - 923年) - 沙陀族長李存勗の建てた政権。華北を統一した李存勗が皇帝に就き、唐の正統継承者を称して後唐(923年 - 936年)と改めるまでの旧称。 後晋(936年 - 946年) - 沙陀族軍閥のソグド系の将石敬?が後唐から自立して皇帝に即位し、そのまま後唐を滅ぼして建てた国。 (晉、しん、265年 - 420年)は、中国の王朝の一つ。司馬炎が魏最後の元帝から禅譲を受けて 建国した。280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させ、通常は匈奴(前趙)に華北を奪われ 一旦滅亡するも、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けているが、西晋、東晋とも単に、 晋、晋朝を称していた。東晋時代の華北は五胡十六国時代とも称される。首都は洛陽、 西晋末期に長安に遷った後、南遷後の首都は建康。宋により滅ぼされた。
韓・魏・趙の独立と晋の滅亡
春秋末期、晋は事実上、范氏・智氏・中行氏・趙氏・韓氏・魏氏の5氏6家系(中行氏と智氏は、元々同じ荀氏。 また、韓氏のみ公族)の当主によって動かされるようになった。
この6家系は他の有力大夫を排除して、 六卿を世襲するようになっていた。さらに出公のときに范氏、中行氏の領地を智、趙、韓、魏氏が分割しようとしたため、 出公は怒り、斉や魯と同盟して四氏を討とうとしたが失敗し、斉へ亡命しようとしてその途中で亡くなったために (紀元前457年)、晋室は全く力を失った。
四氏のうち智氏が最も強大で、当主の智瑶は韓氏・魏氏を引き連れて、 趙氏を滅ぼそうとした。趙氏の当主趙無恤は、韓氏の韓虎・魏氏の魏駒に「智氏は強欲なので私が滅ぼされた後は貴方達の番だ」 と寝返りを促し、これに成功する。
紀元前453年、三家に攻められた智氏は滅亡し、晋の領土を趙、韓、魏の三者が分け合い、 それぞれ独立した(晋陽の戦い)。しかし晋は曲沃と絳の2都市を中心とするわずかな領土 (魏に取り囲まれる形だった)を守りながら哀公以下5代に渡って存続した。
紀元前403年、周の威烈王によって趙、韓、魏の三氏が諸侯に列せられたため、晋の公室と三家はこの時点で名目上の 君臣関係ですらなくなった。
紀元前376年、晋は韓魏の連合軍に攻められ陥落。 この時晋は難攻不落で攻撃軍はかなり手間取ったという。最後の君主・静公は城を出て庶民となり、晋は滅亡した。
なお、趙、魏、韓の三国を三晋と呼ぶ。




しんし(進士)
隋代の初めに科挙が開始されたが、605年に進士科が設けられた。隋・唐の時代は進士科と明経科で試験が別になっていた。 明経科では儒学の知識と時務策のみであったが、進士科ではこれに詩賦が加わった。
進士科は試験が最も難しく、1回に採られる人数は2~30人と明経科の十分の一であったため、最も重んじられ、 地位は他の科よりも高かった。「明経科は30歳でも年寄り、進士科は50歳でも若い方」という言葉は いかに進士科が難関であったかを示している。
宋の科挙制度も開始時は進士・明経その他の科が設けられていたが、王安石の改革で明経などの 諸科が廃止されて、進士科一科となった。元で科挙が開始された時も進士科のみで、明・清もそれを 受け継いだ。そのため科挙の登第者のことを進士と称するようになった。
明清では殿試で選ばれた登第者は三甲に分けられた。一甲は状元・榜眼・探花の3名で「進士及第」 と称し、二甲は若干名(清では一般に40-50名)で「進士出身」と称し、 それ以外の三甲(清では一般に100-300名)は「同進士出身」と称した。世間の人々はそれらを まとめて進士と呼んだのである。




じんしんのらん(壬申の乱)
天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日[1])は、日本の内乱。
日本古代最大の内乱戦争で、天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が 地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。 名称の由来は、天武天皇元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。
660年代後半、都を近江宮へ移していた天智天皇は同母弟の大海人皇子を皇太子(『日本書紀』には「皇太弟」とある。 また、大海人皇子の立太子そのものを『日本書紀』の創作とする説もある)に立てていたが、 天智天皇10年10月17日(671年11月23日)、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せはじめた。 その後、天智天皇は病に臥せる。大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し自ら出家を申し出、吉野宮(奈良県吉野)に下った。 天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れた。
12月3日(672年1月7日)、近江宮において天智天皇が46歳で崩御する。大友皇子が跡を継ぐが、年齢はまだ24歳に過ぎなかった。 大海人皇子は天武天皇元年6月24日(7月24日)に吉野を出立した。まず、名張に入り駅家を焼いたが、名張郡司は出兵を拒否した。 この状況を不利と見た大海人皇子は、伊勢国に滞在し占いを行った後、伊勢神宮に参拝した。 これにより大海人皇子は美濃、伊勢、伊賀、熊野やその他の豪族の信を得ることに成功した。続いて伊賀に入り、 ここでは阿拝郡司(現在の伊賀市北部)が兵約500で参戦した。そして積殖(つみえ、 現在の伊賀市柘植)で嫡男の高市皇子の軍と合流した(鈴鹿関で合流したとする説もある。) 更に伊勢国でも郡司の協力で兵を得ることに成功し、美濃へ向かった。 美濃では大海人皇子の指示を受けて多品治が既に兵を興しており、不破の道を封鎖した。 これにより皇子は東海道、東山道の諸国から兵を動員することができるようになった。 美濃に入り、東国からの兵力を集めた大海人皇子は7月2日(7月31日)に軍勢を二手にわけて大和と近江の二方面に送り出した。
近江朝廷の大友皇子側は東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したが、 東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。 特に筑紫では、筑紫率の栗隈王が外国に備えることを理由に出兵を断ったのだが、大友皇子は予め使者の佐伯男に、 断られた時は栗隈王を暗殺するよう命じていた。が、栗隈王の子の美努王、武家王が帯剣して傍にいたため、暗殺できなかった。 それでも近江朝廷は、近い諸国から兵力を集めることができた。
大和では大海人皇子が去ったあと、近江朝が倭京(飛鳥の古い都)に兵を集めていたが大伴吹負が挙兵してその部隊の 指揮権を奪取した。吹負はこのあと西と北から来襲する近江朝の軍と激戦を繰り広げた。 この方面では近江朝の方が優勢で吹負の軍は度々敗走したが、吹負は繰り返し軍を再結集して敵を撃退した。 やがて紀阿閉麻呂が指揮する美濃からの援軍が到着して吹負の窮境を救った。
近江朝の軍は美濃にも向かったが、指導部の足並みの乱れから前進が滞った。 村国男依らに率いられて直進した大海人皇子側の部隊は7月7日(8月8日)に息長の横河で戦端を開き、 以後連戦連勝して進撃を続けた。7月22日(8月20日)に瀬田橋の戦い(滋賀県大津市唐橋町)で近江朝廷軍が大敗すると、 翌7月23日(8月21日)に大友皇子が首を吊って自決し、乱は収束した。 翌天武天皇2年(673年)2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造って即位した。 近江朝廷が滅び、再び都は飛鳥(奈良県高市郡明日香村)に移されることになった。 また論功行賞と秩序回復のため新たな制度の構築、すなわち服制の改定、八色の姓の制定、冠位制度の改定などが行われた。 天武天皇は天智天皇よりもさらに中央集権制を進めていったのである。




しんぽう・きゅうほう(新法・旧法の争い)
中国北宋の中期神宗代から末期徽宗代にかけて起こった政治的な争い。王安石によって新法と呼ばれる改革が行われるが、 これに司馬光を初めとする反対者が続出し、長く論争と政権闘争がくり広げられた。その結果、大きな政治的混乱を生んだ。
五代から宋にかけて商業活動が活発化し、平和の回復に伴って地方からの上供も安定するようになった。商業活動から得られる商税・塩・酒の 専売などの収入を背景に宋朝は非常に強い経済力を誇った。しかし、以下にあげられるような要因によって次第に財政が悪化し、 英宗時代に赤字に転落した。
1038年(宝元2年)にタングートの李元昊が皇帝に即位し、国号を夏(西夏)と称した。これを認めない宋は西夏との間で交戦状態に入った。 戦争は長引き、それに乗じて先立っての?淵の盟で宋と和約を結んでいた遼(当時の国号は「契丹」)が領土割譲を求めてきた。 これを受け入れるわけにいかない宋は遼に対して送っていた歳幣の額を増やすことでこれを収め、西夏とも、西夏が宋に対して臣従し、 宋から西夏に対して歳賜を送ることで和平を結んだ[1]。
しかし和平が結ばれても、国境に配置する兵士を減らせるわけではなく、この維持費が膨大なものとなった。 太祖趙匡胤の時に総計40万弱であったのが、仁宗のときに120万を超えており、その維持費だけで5,000万貫に達していた。 この頃の歳出が大体9,000万から1億2,000万貫ほどである[2]。
宋では科挙を大幅に拡充し、年間数百人がこの関門をくぐり抜けて官となっていった。しかし官がやるべき仕事がそこまで多いわけではなく、 重複ないし不必要な役職、すなわち冗官が増えていた。3代真宗の代に「天下の冗吏十九万五千を減ぜん」との記録がある。
また唐の安史の乱後の律令制の崩壊以降、律令と現実社会との乖離が生まれ、その間を使職と呼ばれる令外官を置いていくことで 埋められていった。しかしそのやり方は計画性・長期的視点にとぼしく、体系的な官制を作るものではなかった。宋でもそれは基本的に 受け継がれ、唐風の三省六部体制が形骸を残したまま、実際に政治を動かすのは使職という二重体制が布かれていた。 このような体制は当然非常にわかり難く、非効率であり、同じような役職が併存するようになっていた。
財政の外に目を転じると、経済の発展とともに台頭してきた兼并(大地主・大商人)とその下で苦しむ客戸の格差も社会問題となっており、 小作人である佃戸に対しては農地に課せられた税の他に水利権や農牛、農具、種籾の使用料に対して10割前後の利息を取っていた。 また、自作農に対しても水利権や農牛、農具、種籾の用意を兼并が貸付として行い、それに対して4割という利息を取り立てる事もあった。 これが払えなくなると土地を取り上げられてしまい、地主はますます土地を増やすことになる。また塩商たちも畦戸に対して同じことを 行っていた。
政治の主要な担い手である士大夫層は、多くがこの大地主・大商人層の出身であり、科挙を通過したものは官戸と呼ばれ、 職役が免除されるなどの特権が与えられていた。これにより更に財産を積み上げるという状態であった。
数々の問題を残したまま、英宗は1067年(治平4年)に4年という短い在位期間で死去、20歳の青年皇帝神宗が即位する。 神宗は養育係の韓琦から盛んに王安石の評判を聞かされており、王安石は知江寧府(江寧(南京)の知事)から皇帝の側近たる翰林学士に 抜擢され、更に1069年(熙寧2年)に神宗より参知政事(副宰相)とされた。同中書門下平章事(宰相)には元老の富弼が任命されたが、 実質的には王安石が宰相といって良い体制であった。
王安石は新法を実行に移すにあたり、制置三司條例司という新たな部署を作り、かねてより目を付けていた呂恵卿などの新進官僚をここに集め、 改革の土台とした。制置三司條例司は、財政担当の部署である三司の見直しをすることを名目として、宰相からも掣肘を受けない強い権限を 与えられていた。
そして同年7月、新法の第1弾として均輸法が施行される。以下、事実の経緯を追う前に、新法の各内容を一括して説明する。
農業に関する新法
青苗法(せいびょうほう)
1069年(熙寧2年)9月に施行。宋代には天災による飢饉に対する備えや貧民救済のために穀物を蓄えておく常平倉・広恵倉というものがあった。 しかしこれの運用がまずく、蓄えられている穀物が無駄に腐っていくことも多かったので、これを利用して農民に対する貸付を行った。
毎年、正月と5月に貸付を行い、基本は貨幣(これを青苗銭と呼ぶ)による貸付・穀物による返済であるが、望むものには穀物での貸付・貨幣での 返済を認める。利息は3割と民間の高利貸しと大差が無い。
貸付にあたり、10戸が集まって1保を作り、この間で連帯保証を行う。これの実施のために、全国の路(宋の地方における最大行政単位) ごとに提挙常平司を置く。
募役法(ぼえきほう)
1070年(熙寧3年)から開封周辺で試験的に運用し、1071年10月から全国的に施行。免役法とも言う。
従来の農民、主に形勢戸たちは政府の様々な雑用(職役)、州郡の倉庫管理・租税運搬・官の送迎などを課せられていたが、 この負担は非常に重く、事故で損害があった場合は全てを補償せねばならず、何かと言えば官と胥吏に賄賂を求められる。 一応政府からの支給はあったが必要な額はそれをはるかに超えていることが多く、これが元で破産してしまう形勢戸も少なくなかった。 これを差役法と言う。
そこで職役を課す代わりにその分を貨幣(これを免役銭と呼ぶ)で収めさせ、それを使って人を雇い、職役を行わせる。 また元々職役が免除されていた官戸・寺院・道観(道教の寺院)・坊郭戸(都市住民)・単丁戸(丁(働き手の男性)が一人しかいない戸) ・未成丁戸(まだ丁になっていない子供しかいない戸)・女戸(女性しかいない戸)などからも助役銭と称して免役銭の半分を徴収した。
農田水利法(のうでんすいりほう)
1069年(熙寧2年)11月施行。路ごとに天災などによって破壊された水田・水路・堤防などを復興し、農業生産の増大を大規模に行った。 この業務は提挙常平司が兼任する。
淤田法(おでんほう)
農田水利法の中で行われ、河川の泥水を田に引き込み、栄養豊富な泥を沈殿させて豊かな土地とするものである。
方田均税法(ほうでんきんぜいほう)
1072年(熙寧5年)3月施行。田地を測量しなおし、税額のごまかしや隠し田を発見するためのものである。いわゆる検地。 千歩(15.35m)四方を「方」という1単位にし、それを元に課税する。
(中略) 各法の批判と変遷
新法の中でも最も論争が激しかったのが青苗法と募役法である。
新法に対する批判にはもっともな部分もある。しかし激しい批判が起きた原因は新法により兼并の利益が大きく損なわれたからである。 青苗法は兼并たちが行っている貸付の商売敵となるし、募役法はそれまで職役の義務の無かった官戸までが助役銭を払わなくてはならなくなる。 前述のとおり、旧法派の士大夫たちも多くこれら兼并の出身であり、一族の利益代表としての立場があったのである。
青苗法に対する批判
国が民間の真似をして商売をすることは不義である。また3割の利息は重い。
貧農保護のためと言いながら3等戸以上や坊郭戸にまで貸付をするのは単に利益を得たいがためである。
銭を貸して穀物で収めさせるはずが銭で返させているのは農民を苦しめる。
常平倉の穀物を使ってしまっては天災のときの救済が出来なくなる。
論争と党争
神宗期
最も早く王安石批判を展開したのは、1069年、当時御史中丞を勤めていた呂誨である。呂誨の弾劾は、後に旧法党から先見の明があったと 称揚されることになるのだが、この時にはまだ新法は施行されておらず、その内容は人格攻撃と過去の過失に対する言いがかりに終始しており、 単に異数の出世をした王安石に対する嫉妬によるものであった。
新法の施行後は、元老では欧陽脩・富弼・文彦博・韓琦ら、若手では司馬光・程顥・蘇軾・蘇轍兄弟などによる批判が相次いだ。 これら新法に反対した人物たちを総称して旧法党と呼ぶ。ただし実際には彼らは党派としてまとまっていたわけではなく、 新法に対する態度もそれぞれ異なっていた。これに対して新法を推進する側を新法党と呼ぶ。
多くの反対意見にもかかわらず、王安石は容赦なくこれを排除して新法を実行していった。1070年、蘇轍は制置三司條例司に属していたが、 呂恵卿と意見が合わず、河南府推官(次官)に左遷された。富弼は宰相を辞任して判亳州に転出、代わって王安石が宰相となり、 制置三司條例司を廃止した。程顥は京西路同提点刑獄に左遷。1071年、欧陽脩は致仕(引退)を願い出て潁州(現在の安徽省阜陽)に隠棲。 蘇軾は杭州通判に左遷。司馬光は洛陽へ去り、以後は『資治通鑑』の編纂に専念する。程顥は鎮寧軍判官に転出。 1075年、韓琦は永興軍節度使とされ、途上で死去した。しかし多くの反対意見を前に、王安石に全幅の信頼を置いていたはずの 神宗も迷い始める。1074年は旱魃に見舞われ、飢えた民衆が巷にあふれた。地方官の鄭侠がその惨状を絵に描き、 「これは新法に対する天からの警告(天譴)である。新法は廃止すべきである」との上奏をし、神宗は大きな衝撃を受ける。 司馬光もこれに同調して新法批判の上奏を行った。
さらに王安石の政権内部でも、新法の屋台骨の一つである市易法をめぐって亀裂が生じていた。市易法は、上記のように中小商人の保護 という名目のもと、物価調整によって物品の値段を下げることで、政府がより安い値で物品を調達できるようにする法で、 中小商人たちに低利率で運用資金の貸し出しがなされていた。王安石は市易法の実施に力を入れており、腹心の呂嘉問にその運営を任せていた。 しかし、呂嘉問は物品の価格を本来の価格とつりあわなくなるまで強引に下げてしまい、経済不況を引き起こしてしまった。 さらに大きな問題として、貸し出し資金の運営の方面でも、呂嘉問は借り入れを望まない中小商人にまで、資金を無理に貸し付け、 借り入れた者に対しては厳しい取立てを行った。このような呂嘉問による強引な市易法の運営は、全国で問題を引き起こし、 王安石を支える新法党内部でも「これでは悪辣な大商人・大地主と同じ。呂嘉問を解任して、市易法の運営方法も改善すべきだ」 という批判が噴出した。特に王安石の右腕といわれた曾布が批判の先頭に立ち、神宗にも上奏文を提出する。結局、王安石はこの流れを受け、 呂嘉問を更迭し、市易法をやや緩めざるを得ないところまで追い込まれた。また宮廷内部でも、市易法の実施により出入りの大商人からの 上納金が減少した上、統制経済で資産運用が行えなくなったことに大いに不満を募らせるようになり、神宗に対して 新法廃止の圧力を加えてきた。
上記のような改革を揺るがす事件が相次いで生じたため、1074年、王安石は知江寧府に転出し、後任には王安石の同僚である韓絳と 腹心の呂恵卿が就いた。神宗としては王安石という「反新法党の中心目標」をはずすことで騒動をおさめ、新法設計者の呂恵卿が 政権の要に座ることで、新法をより豊かに運用してくれることを期待していた。しかし、呂恵卿は王安石が朝廷から去ったのを幸いに、 新法党を自らの私党とすべく、仲の悪い曾布らを追放し、自らの身内を大量に取り立てていった。期待されていた改革実行に関しても、 上司の韓絳を無視して新法を勝手に改造すると同時に、新法を反故にする法律も制定するなど乱脈な政権運営を行った。
呂恵卿の暴走に慌てた神宗と韓絳は、翌1075年に王安石を中央に呼び戻そうと江寧に使者を出す。この動きを察知した呂恵卿は自らの 地位を失うことを恐れ、朝廷中に王安石の悪口を撒き散らし、神宗にも讒言を行った。しかしこの行動はかえって神宗の不信を買い、 王安石が宰相に返り咲き、呂恵卿は地方に左遷されることとなった。宰相に返り咲いた王安石は、早速政策を全て元に戻し、 呂恵卿が混乱させた新法党内部を再び引き締めていった。しかし神宗はこの頃親政を志しており、王安石に権限が集中するのを好まなく なっていた。このような神宗と王安石の隙間を見透かしたように、呂恵卿が政権内部に揺さぶりをかけてくる。加えて息子の王?が病死する という身内の不幸まで重なって、王安石の気力も尽きてしまうことになる。王安石は宰相復帰からわずか1年余りで再び知江寧府に 転出願いを提出し、まもなく政界から引退した。
熙寧は10年で終わり、1078年より元豊と改元する。この時期は王安石が抜擢した王珪・蔡確といった人材が成長しており、 彼らが新法党内部を引き締めていった。旧法党人士の反対運動も、次席宰相に就任した蔡確が人事権と警察権を活用して徹底的に 押さえつけた結果、鳴りを潜めるようになった。新法改革の全国実施の成果と銅銭過剰供給や交子の大量発行によるインフレ 金融政策推進や貿易振興により、国庫には潤沢な資金が入ってくるようになった。その資金を市易法の低率融資や雇用対策費用に充てて 徴税層に還流させることで、さらに景気が上がり治安も改善された。神宗は国家財政の好転と政治の安定化を承けて、 1080年から前述の「元豊の改革」に取り組み、複雑な二重官制を一元化した。新官制を打ち立てる際、神宗は新旧両派から人材を抜擢し、 彼らを融和させようと考えたが、「まだ改革は完成していない。彼ら(特に司馬光)を呼び戻すのは早すぎる」と大臣から諫言されたため、 新官職には新法党の人士全員が横滑りすることになった。このような流れがありながらも、旧法党への政治的締め付けはやや緩められる ことになった。また、なにより官制改革が実行されたことで「官僚機構の煩雑化・役人の人件費負担の増大」という国を長年苦しめていた 問題がようやく解決に向けて動きだした。
一連の内政問題を解決した神宗は積極的な対外政策にとりかかり、官制改革が成った翌年の1082年、西夏を攻撃する。 しかし結果は兵1万人を失うという惨敗に終わった。このほか交趾への遠征もなされたが、これも失敗に終わる。神宗による対外政策は 国費を損なうだけの結果に終わったが、損失は軽微なものにとどまり、新法実施で安定する国内に影響は及ばなかった。
王安石が政権から去った後も神宗によって改革は継続され、このまま定着するかに思われた。だが1085年(元豊8年)3月、神宗が38歳の若さで 崩御してしまう。
哲宗期
神宗の死後、まだ10歳の皇太子趙煦が即位して哲宗となる。少年の皇帝に代わって政権を執ることになったのが、英宗の 皇后であった宣仁太后高氏である。宣仁太后は実家が新法の被害を受けていたこともあり、新法を非常に憎んでいた。
宣仁太后は司馬光を初めとした旧法党を呼び寄せ、司馬光を尚書左僕射・呂公著を尚書右僕射(宰相。元豊の改革によって官名が変わっている) とし、保甲法・市易法・方田法を相次いで廃止。元号が元祐と改まった翌年には、新法党の蔡確・章惇らを追放し、 青苗法・募役法を廃止した。江寧に隠棲していた王安石は募役法の廃止を聞き大いに嘆いたという。また旧法党内部でも、 蘇軾・范純仁らは募役法の効能を認め、廃止に反対していたが、これが司馬光の不興を買い、蘇軾は再び中央を去ることになる。 蘇轍もまた、曾布によって行われた州から中央に財務報告を上げる時に必ず転運司に整理させてから報告させるようにした改革を 司馬光が元の州から直接報告させる方式に戻そうとした時に反対の上奏を行っている(蘇轍も州から中央への直接報告には批判的で 曾布と似た改革案を持っていた)[5]。
この年の4月に王安石が江寧で死去。そして9月には司馬光も死去してしまう。司馬光は新法を廃止した段階で死去してしまい、 結局新法に代わる方策を打ち出せないままであった。そして旧法党は司馬光というリーダーを失い内部分裂を始める。 後を受けた旧法党内部には、派閥として程顥・程頤兄弟の洛党(洛陽)、蘇軾・蘇轍兄弟の蜀党、それに河北出身者による朔党があったが、 特に蘇軾と程頤とは学問上の争いもあって折り合いが悪く、何度も衝突していた[6]。
新旧両党の争いは、この時期になると当初の政策をめぐる論争という面影は無くなり、感情と強迫観念による権力闘争に堕していた。 その嚆矢となったのは、1089年(元祐4年)の蔡確に対する弾劾であった。蔡確の作った詩が宣仁太后を非難する内容であるとされ、 流刑となったのである(蔡確は流刑先で死去)。旧法党でも范純仁らがこの処置に反対したが、彼らまでもが処罰を受けるという有様であった。 また「新法によって被害を受けた」という訴えを受け付ける訴理所という役所を設置したりもした。これら元祐年間の反新法政策を 元祐更化と呼ぶ。もっとも、この時期になると、新法党の官人もわずかながら復権するようになり、一方旧法派では新法派に対して 強硬な態度を示していた劉摯・劉安世らが失脚するなどの動揺がみられるようになる。
1093年(元祐8年)、宣仁太后が死去。翌1094年より紹聖と改元し、哲宗の親政が始まる。哲宗は父の神宗を崇拝し新法にも大変心を 寄せていたことから、新法党の章惇が呼び戻されて宰相に任命された。章惇は同僚の曾布や蔡卞と共に、青苗法・募役法などの新法を復活させ、 「紹聖の紹述」と呼ばれる政権運営を行っていった。この再方針転換により行政の混乱と赤字は解消された一方で、様々な「旧法派による陰謀」 が告発される疑獄事件がおこった(洛獄・同文館の獄)。章惇たちは、この流れに乗じて看詳訴理局(旧法党の訴理所の新法党版) という役所を設け、かつて訴理所に訴え出てきた人物を処罰していくなど、旧法党人士への徹底した報復を行った。
だが、政権を取り返した新法党内部も一枚岩ではなく領袖三人(章惇・曾布・蔡卞)が「新法の進め方や対外政策」をめぐって内部対立 (組織内の派閥争い)を度々おこしていたとする指摘[7]や、新法の運用方法においても、王安石時代の熙寧年間の政策を基調に置く考えと 王安石引退後の元豊年間すなわち神宗親政期の政策を基調に置く考え(哲宗はこの考え方に立っていた)とのあいだで意見齟齬があったとする 指摘もある[8]。
徽宗期
しかし1100年(元符3年)に哲宗もまた24歳という若さで死去する。哲宗に子が無かったために神宗の皇后であった向氏の意向で、 哲宗の弟である端王・趙佶が即位して徽宗となる。宰相の章惇は「端王は道楽者であるから皇帝にふさわしくない」という意見を出し、 徽宗の即位に強硬に反対したため失脚し左遷された。
徽宗の治世は、当初向太后が垂簾政治を布き、政権の座には、新法党から王安石の側近であった曾布と旧法党から韓琦の子である韓忠彦をつけ、 新法党・旧法党双方を融和させることで政治混乱を収めようと図った。だが向太后は翌1101年に急死する。まもなく韓忠彦が能力不足で 宰相を降り、曾布も同じ新法派の李清臣との対立から朝廷全体を掌握できず政権は動揺した[9]。
そのような中、親政を始めた徽宗の寵愛を掴んだのが蔡京である。政権を握った蔡京は1102年(崇寧元年)、司馬光ら旧法党の人物119人を 元祐姦党と称して石に刻み、これを宮殿の側に建てさせた(元祐党籍碑)。その後、石碑に載せられる人物は309人にまで増え、 この碑を全国の府州にまで建てるようにとの命令を出した。更に蘇軾ら旧法党の人士が書いた文は発禁処分とされる。 こうして旧法党の人士を完全に追放すると、新法推進と称して、神宗時代の「制置三司条例司」にならった「講義司」を設置した。 しかし、講義司では蔡京と仲の悪い曾布や弟の蔡卞など、新法の功労者を追放し、自らの部下や息子達が取り立てたてられ 、実際には自身の利殖行為に使われただけであった。崇寧5年(1106年)に対遼外交を巡る徽宗との意見対立から蔡京が一時罷免されて 反対派への弾圧が緩められたが、既に政権は蔡京派に握られ、徽宗の意向通りに対遼和平が実現すると、すぐに蔡京派の官僚であった 鄭居中・劉正夫の進言で蔡京がすぐに呼び戻される有様だった。
そのような施策にもかかわらず、蔡京の政権初期は、官員の増加・銅銭の改鋳・有価証券の乱発・公共事業の増大などにより、 首都開封周辺ではバブル景気が発生し、結果的に税収が増加することとなった。また政府支出の増加によって世間の金回りが良くなり、 その結果文化活動が活発になった。最初は蔡京を警戒していた徽宗もこの成果に満足してしまい、以降は道教や書画などの文化事業に 没頭して政治を顧みなくなった[10]。
しかし国の退廃・混乱に比例して、当時民間で施行されていた新法は、本来の趣旨から完全にはずれた乱脈な運用がされていた。 青苗法や市易法では、官人・大商人・胥吏らが偽って青苗銭や市易銭を借り受け、それを貧農や小商人に対して貸し付けるということが 公然と行われると同時に、これらを収める農民や中小商人にとっても「負担」ともなりつつあった。方田均税法では、 担当役人らの独断で従来のものより短い尺が使って算出されるという不法な測量が行われ、余剰の土地と判定したものを強制的に没収し、 役人への賄賂までが要求された。また募役法が免除されるはずの土地でも役税の徴収が勝手に行われ、その徴収された募役銭さえも 「役で働いた人たち」への賃金支払に使われないという差役化(無償労働化)現象まであちこちで発生した。国家整備の法である農田水利法も、 農村から花石綱などの宝物を運ぶため、一度しか利用しない道路(水路)を建設するなど、意味のない工事が乱発されるといった有様であった。
徽宗や蔡京はこれらの事態に手を打つどころか、逆に新法の不正な運用を利用し、集めた国の公的資金を絵画購入や石集めなどの 私的な趣味に散財した。それでも資金が足りないとなると、皇帝の威光や宰相の地位を悪用して、民間から大量の賄賂やお目 こぼし料をとるようになった。最終的には地主や商人・役人達などが、蔡京にならって新法を私腹を肥やす道具として勝手に利用し始め、 統制の取れなくなった宋の社会は破滅に向かっていく。
20年近く宰相として権勢を振るった蔡京だが、最後は高齢を理由に息子の蔡攸や鄭居中・劉正夫によって権力を奪われて 「三省の統括」という実務的な職掌を負わない名誉職に祀り上げられ[11][12]、その後引退させられた。 跡を継いだ蔡攸や宰相の王黼も利権にありつくため活動を開始しようとした。しかし、このころになると数十年来の銅銭過剰大量鋳造供給の 弊害で国内の銅山がほぼ掘りつくされたうえに、交子の無制限大量発行さえももはや財政の限界に達してきてこれ以上の金融・財政政策を とれなくなってしまい不景気が発生した。また、無駄な役人数の大量増加や新法の悪用により政府の効率が極端に悪化。 徴税層となるべき農村共同体や中小地主・中小商人(中間層)が長年の悪政で崩壊状態に陥り、新法も以前のような成果を得 られなくなってきた。これにより急激に国庫が空になる年が続き、増税と賄賂要求が繰り返されるようになる。 租税負担の不均衡と役人からの度重なる賄賂要求に国内の不満は鬱積し、保甲法で雇った兵士たちや軍隊も役に立たず 治安は悪化し反乱も相次ぐようになる[13]。軍事費の増大にもかかわらず税収は格段に少なくなり、膨大な赤字の額が政府に 重くのしかかった。
このような国内の不満を国外にそらすため、宋は新興の金と交渉をおこない、連携して北方の遼を滅ぼすことにする。 これによって形だけは「燕雲十六州」を一時的に取り戻すが、金との約束を反故にしてしまう。宋の違約に激怒し、 中原の弱体化を見透かした金は宋に対して侵攻を開始し、宋軍は連戦連敗する。事態の悪化を受けた徽宗はようやく自らの 足元で起こっている状況を理解した。宰相の王黼・宦官の童貫や蔡京・蔡攸親子の一派など、取り巻きたちを完全追放して 厳しい罪に問い、自らは譲位することにしたが全てが遅すぎた。金軍により首都開封が陥落し、徽宗と息子の欽宗は捕らわれの 身となり、北宋は滅亡した(靖康の変)。
その後 南宋では、程顥・程頤兄弟の流れを汲む道学派が主導権を握ったことで、王安石を初めとする新法党こそ北宋滅亡の原因であるとされ、 それに抵抗した旧法党の人々は英雄扱いを受けることになった。道学を学び、朱子学を興すことになる朱熹も王安石を厳しく批判している。
その一方、募役法などは南宋で既に定着しており、それ以外でも南宋の政治は新法を受け継いだものが少なくない。 朱熹自身も青苗法を参考にしたと思われる社倉法という政策を地方官時代に実行している。
『宋史』では蔡確・呂惠卿・章惇・曾布などは蔡京と同じ「姦臣伝」に入れられてしまっている。王安石は唐宋八大家としての 文名があったために姦臣伝に入れられることこそ免れたものの、北宋滅亡の最大の責任者とされ、後世の演劇などでも 「拗ね者大臣」と揶揄されるようになる。もっとも、王安石を擁護する意見も全く無かった訳ではなく、日本の公家である 三条西実隆は知人の僧侶が唐人(当時は明)から聞いた意見として「(旧法党の)蘇東坡を王荊公が如く用いれば、王荊公よりも 政治が悪くなっていたであろう」とする主張があったことを記録している(『実隆公記』永正12年1月8日条)[14]。
だが、清代の蔡上翔の『王荊公年賦考略』・梁啓超による『王安石評伝』の論文が発表されたことで王安石に対する見直しが図られ、 中華人民共和国で唯物史観が主流になると、王安石は「果敢な政治改革を試みるも頑迷固陋な旧体制派に阻まれた悲劇の政治家」、 逆に司馬光らは「地主・商人と癒着した封建的な旧体制そのもの」となった。




しんれいさんみゃく(秦嶺山脈)
中国中部を東西に貫く山脈。
西は甘粛省東部から東は河南省西部に及ぶ。平均海抜は2,000-3,000メートルであり、最高峰である太白山の海抜は3,767メートル。 陝西省武功県から藍田県にわたる部分を終南山という。
トキ、ジャイアントパンダ、キンシコウなど、独特の稀少動物が生息し、ヤクタネゴヨウマツなどの独特の植物や、 野生のキウイフルーツ、カホクザンショウなども見られる。
中国人民解放軍は合計約450発(うち250発が大陸間弾道弾などの戦略核)と推定される核弾頭の大部分を、 平時は秦嶺山脈の太白山を中心とする地下トンネル網に保管している[1]。







しんわいが(秦淮河)
江蘇省南京市内を貫く河川。長江下流(揚子江)の右支流で、南京市内では長江を除くと 最大の川である。全長は100キロメートル余り、流域面積は2,600平方キロメートル余りで、 句容市(鎮江市)、?水県(南京市)、江寧区などを流れている。









ずい(隋)
(581年 - 618年[1])は、中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた 中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が 中国を支配するようになる。都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。 当時の日本である倭国からは遣隋使が送られた。
隋という国号(王朝名)は建業者である高祖楊堅の北周時代の爵号である隨(随)国公に因む。 楊堅がかつて隨州の刺史に任じられたことで隋朝の名称の由来となった。この隨(国)は地名で 現中華人民共和国湖北省随州市に名を遺しているが、唐の時代までは「隨」の略字として?部 (しんにょう、?)を省いた「隋」と相互に通用され、更にその「隋」から「エ」を省いた「陏」 の字が用いられることもあり[2]、その後、おそらくは中唐以降に「隨」と「隋」とは区別されて 地名は「隨(随)」、王朝名は 「隋」と固定したようである。その後、高祖楊堅が「隨」字に含 まれる?部に「走る」という字義があって前代迄の寧所に遑なく東奔西走した歴代を髣髴させるため にこれを去り、自らの王朝を「隋」と名付けたとする説、及び?部には平穏に歩を進める字義がある 一方で「隋」には供物としての肉の余りという字義があり、楊堅は改字によって却って王朝の 命運を縮めたという附会説も行われ、これが宋朝の儒学者たちの儒教的史観による革命解釈に 適合するものとして喜ばれたために、以降はこの楊堅改字説が定説となった[3]。
隋の皇室である楊氏は『隋書』によれば、後漢代の有名な官僚・楊震の子孫にあたるという。 楊震は、かつての教え子が「誰も知らないことですから」と賄賂を渡そうとしたところ、 「天知,神知,我知,子知,何謂無知(天地の神々が知っている。私とあなたも知っている。 誰も知らぬとどうして言えよう)」と言って拒否したという四知の逸話で有名な人物である。 その後、楊氏は北魏初期に武川鎮へと移住し、楊堅の父・楊忠に至るという。武川鎮とは 北魏において首都・平城を北の柔然から防衛する役割を果たしていた軍事基地の一つである (武川鎮軍閥、六鎮の乱などを参照)。
北魏において、皇室の拓跋氏を元氏に変えるといった風に、鮮卑風の名前を漢民族風に改めると いう漢化政策が行われたことがあったが、北周ではこれに反発して、姓名を再び鮮卑風に改め、 漢人に対しても鮮卑化政策を行った。この時、漢人である楊氏にも普六茹(ふりくじょ)という 姓を与えられたとされる。普六茹とは鮮卑語でヤナギのことである。楊堅も、那羅延という 鮮卑風の小字を持っていた。ただし楊氏については、元々は鮮卑の出身で本来の姓が普六茹であり、 北魏の漢化政策の際に付けられた姓が楊であるという説[4][5][6][7][8][9][10][11][12]もあり、 その根拠として以下のものが挙げられる。
楊堅の父・楊忠は北魏が西魏・東魏に分裂する際(後にそれぞれ北周・北斉が取って代わる)に 宇文泰に従って西魏の成立に貢献し、大将軍を務め、隋国公の地位を得ていた。
568年に楊忠は死去し、楊堅が大将軍・随国公の地位を受け継いだ。北周の武帝は宿敵の北斉を 滅ぼし、更に南の陳を滅ぼす前段階として北の突厥への遠征を企図していたが、576年に崩御した。 武帝の跡を継いだ宣帝は奇矯な人物で、5人の皇后を持っていた。このうちの1人が楊堅の長女である 麗華であり、麗華は宣帝の側室である朱満月が生んだ太子の宇文闡(後の静帝)を育てた。 宣帝の奇行は留まるところを知らず、在位8ヶ月で退位して静帝に位を譲り、自らは天元皇帝を 名乗って政務を放棄したので、静帝の後ろに立つ丞相の楊堅への声望が高まっていった。 580年に宣帝が崩御すると、楊堅は静帝の摂政として全権を掌握した。これに反発する武川鎮軍閥内 の有力者たちは楊堅に対して反乱を起こす。この中で最も大規模なものが尉遅迥によるもので、 一時は楊堅の押さえる関中地域以外のすべてで反乱が起きるほどになったが、 楊堅は巧みにこれを各個撃破して、北周内における覇権を確固たるものとする。
同年末に随国公から随王へと進み北周の兵権を与えられ、更に581年に静帝より禅譲を受けて隋を 建国した[17]。
既に北周武帝により南北統一への道筋は引かれていたが、慎重な文帝は細かい準備を丹念に進めた。 当時、南朝の陳では宣帝が北周末期より江北への進出を試みていたが、文帝は陳の間諜を捕縛しても 衣服や馬を給して厚く礼をして送り返し、陳とは友好関係を保つようにしていた[18]。582年、 文帝は陳に対して討伐軍を送り出したが、この年に宣帝が崩御したこともあり、討伐を中止して 使者を派遣して弔意を表して軍は撤退した[18]。
北の突厥に対しては長城を修復して防備を固める[18]。584年に突厥が北方で暴れると、 文帝は長城を越えて突厥を攻撃し、その後文帝は突厥内部に巧みに介入して東西に分裂させた[19]。
そして淮河と長江を結ぶ?溝(かんこう)を開削して補給路を確保する。更に、かつて南朝梁から 分裂し、北朝の傀儡政権となっていた後梁を併合して前線基地を作る。また文帝は連年にわた り農繁期になると軍を南下させる気配を見せて陳軍に常に長江沿岸に大軍を配置させることを 繰り返させることで人心を動揺させて収穫を減らさせ、更に間諜を使って民家に放火させたりした[20]。こうして陳の国力は急速に衰退し、また皇帝が宣帝の子陳叔宝でこれが暗愚極まりない愚帝だったため、陳は内部からも次第に崩壊の色を深めた[20]。
588年、文帝は陳への遠征軍を出発させる。この時の遠征軍の総指揮官が文帝の次男楊広 (後の煬帝)であり、51万8000という過大とも思える大軍の前に589年に陳の都建康はあっけな く陥落し、陳の皇帝陳叔宝は井戸に隠れているところを捕らえられた[21]。 ここに西晋滅亡以来273年、黄巾の乱以来と考えると実に405年の長きにわたった分裂時代が終結した[22]。
『周礼』と鮮卑回帰政策を進めた北周の路線を改めて、北斉の制度も参照しつつ改革を行った。 581年には新たな律令である開皇律令を制定した。この律令は晒し首・車折などの残酷な刑罰を廃し、 律を簡素化してわかりやすく改めたものであり、後の唐律令はほぼこの開皇律令を踏襲したものである。官制にも大改革を加え、最高機関として尚書省・門下省・内史省(唐の中書省)の3つを置き、尚書省の下に文書行政機関である六部、即ち人事担当の吏部・財政担当の度支部・儀礼担当の礼部・軍政担当の兵部・法務担当の都官部・土木担当の工部の6つを設けた。その下に実務機関である九寺、またこれとは別に監察機関である御史台を置いた。地方についてもそれまでの州>郡>県という区分を止めて、州>県の2段階に再編を行った。そして文帝の治績の最大のものとして称えられるのが、科挙(正式には貢挙)の実行である。南北朝時代では九品官人法により、官吏の任命権が貴族勢力の手に握られていた。科挙は地方豪族の世襲的任官でなく実力試験の結果によって官吏の任用を決定するという極めて開明的な手段であり、これを持って官吏任命権を皇帝の元へ取り返すことを狙ったのである。このように文帝によって整備された諸制度はほとんどが後に唐に受け継がれ、唐朝274年の礎となった。これらの文帝の治世をその元号を取って開皇の治と呼ぶ。
文帝の皇后の独孤伽羅は非常に強い女性で、文帝に対して「自分以外の女性と子供を作らない」と 誓約させていた。これは当時の皇帝としては極めて異例なことであり、しかも独孤皇后は文帝の 周囲を厳しく監視し、文帝がほかの女性に近付くことを警戒していた。文帝と独孤皇后の 間には6人の子がおり、その長男楊勇が初め皇太子に立てられていたが、楊勇は派手好みで 女好きであり、質素を好む文帝・貞操を重視する皇后の両者から嫌われ、それに代わって両親の 気に入るように振舞っていた次男楊広が皇太子に立てられる。
604年、文帝は病に倒れた[23]。この病床の間に楊広の本性を知った文帝は激怒して廃太子にした 長男楊勇を再び太子にしようとした[24]。しかしそれが叶う直前に文帝は崩御した[25] 。病死ともいわれているが、楊広に先手を打たれて右庶子の張衡に殺害されたともいわれる[25]。
楊広は文帝の崩御により、煬帝として即位した[25]。煬帝は即位後すぐに廃太子の楊勇を探し出して 殺害し[25]、更に弟の漢王楊諒の反乱も抑えた[23]。こうして兄弟たちを策謀によって殺害して 競合相手を消した煬帝は質素を好んだ文帝とは対照的に派手好みで、父がやりかけていた大土 木事業を大々的に推し進め、完成へと至らせた。主なものが首都大興城の建設と、大運河を 大幅に延長して河北から江南へと繋がるものとしたことである。これらの大土木工事で河南諸郡の 100万余の男女が徴発されて労苦に喘いだ[26]。更に大運河工事に関しても煬帝自身の行幸や 首都に対する輸出入、軍隊の輸送などに使われて民間への便益は極めて薄かった[26]。 煬帝の派手好みは臣下にも広まり[27]、風紀の弛緩を招いた。更に煬帝は当時は従属していた 突厥に備えるため、100万余の男女を徴発して長城の修築を行ない、この過酷な労役で多くの男女が 命を落とした[28]。煬帝が行幸を東西に繰り返したことも、国庫や民衆に多大な負担をさせるには 十分だった。610年1月には洛陽で諸国の朝貢使節を招いて豪勢な接待をしたことも、民衆に多大 な災難を招いた[29]。
隋の高句麗遠征
隋の大陸統一により、脅威を感じた高句麗が隋の敵・突厥と結んで隋に対抗しようとする様子を 見せたため、隋は100万に及ぶ大軍を起こし、これを3度にわたって攻撃した
611年、煬帝は文帝がやりかけていた高句麗遠征を以後3度にわたって行なった[30]。 612年から本格的に開始された高句麗遠征は113万人の兵士が徴兵される大規模なものであり、 来護児や宇文述らが指揮官として高句麗を攻めた[30]。しかし1回目の遠征は大敗し、 更に兵糧不足もあって撤退する[31]。613年には煬帝自身が軍を率いて高句麗を攻めるが結果は 得られず、614年に行なわれた3度目の遠征では高句麗側も疲弊していたこともあって煬帝に 恭順の意を示したが、煬帝が条件とした高句麗王の入朝は無視され、煬帝は4回目の遠征を 計画する[31]。
煬帝の施政による度重なる負担に民衆は耐えかね、遂に第2次高句麗遠征からの撤兵の途中に かつての煬帝の側近楊素の息子楊玄感が黎陽で反乱を起こして洛陽を攻撃した[32]。 これは煬帝が派遣した隋軍により鎮圧されて楊玄感は敗死したが、この反乱を契機にして 中国全土で反乱が起こり出した[32]。
これまで従属していた突厥は隋の衰退を見て再び北方で暴れだしたので、煬帝は自ら軍を率いて 北方に向かうも突厥軍に敗れて洛陽に撤退[32]。この敗戦が更なる引き金となり、 616年には反乱が各地でピーク状態に達した[33]。やがて反乱軍の頭領は各地で群雄として割拠し、 楊玄感の参謀を務めていた李密(北周八柱国・李弼の孫にあたり、関隴貴族集団の中でも上位の1人。 楊玄感の敗死後に、洛口倉という隋の大食料集積基地を手に入れることに成功し多数の民衆を集めた)、この李密と激しく争っていた西域出身で隋の将軍を務めていた王世充、高句麗遠征軍から脱走し、同じ脱走兵たちを引き連れて河北に勢力を張った竇建徳、そして隋の太原留守であった李淵(後の唐の高祖)などが独立勢力となった(隋末唐初の群雄の一覧)。
この反乱に対して煬帝は最初は鎮圧に努めたが、その処理が反徒の殺戮政策という過酷なもの だったため、却って逆効果を招いた[33]。激しくなる反乱の中、もはや隋軍では対処し切れなくなり、 煬帝は江都に行幸してここに留まり、反乱鎮圧の指揮を執った。しかし煬帝が南方に行幸したことは 実質北方を放棄して逃走したも同じであり、北方の反乱はますます激しくなり、遂に李淵により 首都大興城までもが落とされてしまう。大興城を掌握した李淵は首都に不在であった煬帝の 退位を宣言し(表面上は煬帝を尊んで太上皇としている)、煬帝の孫楊侑(恭帝侑)を即位させた[34]。
このような事態にも関わらず、江南に腰を据えた煬帝は次第に酒と宴会に溺れて国政を省みなくなり、 遂には諫言や提言する臣下に対して殺戮で臨むようになってまったく民心を失った[34]。だが、 煬帝に従って江都に赴いていた隋軍は多くが北方の出身者であり[34]。重臣の宇文化及はこうした 情勢の中でついに煬帝を見限り、反煬帝勢力を糾合して618年に謀反を起こし[35]、 煬帝を縊り殺した[35]。こうして政権を奪取した宇文化及は、煬帝の甥(煬帝の弟の秦孝 王楊俊の子)の秦王楊浩を皇帝に擁立し、江都の隋軍を率いて北へと帰還しようとしたが、 王世充・李淵・李密らの勢力に阻まれて大興城を恢復することはできなかった。 そこで宇文化及は皇帝楊浩を毒殺し、国号を許として自ら皇帝に即位する。しかし宇文化及は 天寿2年(619年)に竇建徳との決戦に大敗して殺害され、ここに許の政権は崩壊した。
また、東都洛陽の留守を任されていた煬帝の孫の越王楊?は大業14年(618年)の煬帝の死を受け、 王世充、元文都、皇甫無逸などに擁立されて皇帝に即位した。これが恭帝?(皇泰主)である。 しかし619年には王世充は恭帝?に禅譲を迫り、自ら皇帝に即位して鄭を立国した。
その一方で、煬帝の死を聞いた李淵は、恭帝侑から禅譲を受けて唐を建てた。
こうして煬帝は殺害され、煬帝の後継者として隋の正統を名乗った恭帝侑、恭帝?、秦王楊浩も、 それぞれ李淵の唐、王世充の鄭、宇文化及の許に簒奪されたため、隋は完全に滅亡した。 なお、煬帝の「煬」の文字は、「天に逆らい、民を虐げる」という意味を持ち、李淵が贈った諡 である。
なお、煬帝の孫の一人である楊政道(斉王楊?の遺腹の子)のみ、唯一生き延びた。 彼は突厥の処羅可汗の庇護を受けたが、630年、突厥が滅亡すると、楊政道は唐に帰順して、 官職を賜った。





すいしのひょう(出師表)
臣下が出陣する際に君主に奉る文書のことである。「出師」とは文字通り「師(=軍隊)を出す」ことであり、 「表」とは公開される上奏文を指す。「出師表」自体は一般的な文書名であるが、歴史上、三国時代蜀の丞相であった諸葛亮が、 皇帝劉禅に奏上したものが著名であり、特に述べられない場合、「出師表」とはこれを指す。 建興5年(227年)、諸葛亮が主君の劉禅に奉った上奏文。一般に「出師表」と言えばこの文章を指すが、 「後出師表」(後述)と区別するために、「前出師表」と呼ばれることもある。自分を登用してくれた先帝劉備に対する恩義を 述べ、あわせて若き皇帝である劉禅を我が子のように諭し、自らの報恩の決意を述べた文である。 陳寿の三国志の本文にも引用されている他、『文選』、『文章軌範』等にも収められており、諸葛亮の真作と考えられている。 古来から名文中の名文とされており「諸葛孔明の出師の表を読みて涙を堕さざれば、その人、必ず不忠」 (『箋解古文眞寶』の安子順の発言部分)と言われてきたほど、諸葛亮の蜀に対する忠義が如実に描写されていると言われてきた。 しかし、現代の史家の間では、「この文章を分析すると本当に諸葛亮が忠臣といえるのか疑わしい。 諸葛亮は、『自分は、先帝・劉備がわざわざ三顧の礼を尽くした特別な存在である』と強調しすぎており、不自然である。 諸葛亮が自らの政権を安定させるために自己正当化を図っているのではないか?」と、懐疑的な意見も一部にある (山口久和『三国志の迷宮』、中村愿『三国志逍遥』など)。 なお「前出師表」は、漢代の古文の文体で書かれており、この時代に確立し六朝から隋唐に流行した、 駢文の装飾的な文体とは異なる趣を持っている。この為、唐代・宋代の古文復興運動でも三国時代の文章としては 唯一重んじられていた。古文真宝・文章軌範等の詞華集にも多く採用されている。 諸葛亮が北伐(魏への遠征)に出発する前に、国に残す若い皇帝劉禅を心配して書いたという前出師表の内容は次の通りである。 まず、現在天下が魏・呉・蜀に分れており、そのうち蜀は疲弊していることを指摘する。 そういった苦境にもかかわらず、蜀漢という国が持ちこたえているのは、人材の力であるということを述べ、皇帝の劉禅に、 人材を大事にするように言う。 さらに、郭攸之・費?・董允・向寵といった面々の名をあげ、彼らはよき人材であるから、大事にしなくてはならないと言い、 あわせて後漢の衰退の原因は、立派な人材を用いず、くだらない人間を用いていたからだとも指摘する。 最後に、自分が単なる処士に過ぎなかったのに、先帝である劉備が3回も訪れて自分を登用してくれたことにとても 感謝していると述べ、この先帝の恩に報いるために、自分は中原に進出し、逆賊たる魏王朝を破り、 漢王朝を復興させようとしているという決意を述べ、全文を次のように結ぶ。
臣不勝受恩感激 今當遠離臨表涕泣不知所言

原文
臣亮言
先帝創業未半 而中道崩?
今天下三分 益州疲弊
此誠危急存亡秋也
然侍衛之臣 不懈於内 忠志乃士 忘身於外者 蓋追先帝之殊遇 欲報之陛下也
誠宜開張聖聴 以光先帝遺徳 恢弘志士之気
不宜妄自菲薄 引喩失義 以塞忠諫之路也
宮中府中 倶為一体 陟罰臧否 不宜異同
若有作姦犯科 及為忠善者 宜付有司 論其刑賞 以昭陛下平明之治
不宜偏私使内外異法也

侍中侍郎郭攸之 費? 董允等 此皆良実 志慮忠純
是以先帝簡抜以遺陛下
愚以為 宮中之事 事無大小 悉以諮之 然後施行 必能裨補闕漏 有所広益也
将軍向寵 性行淑均 堯暢軍事 試用於昔日 先帝称之 曰能
是以衆議挙寵以為督
愚以為 営中之事 事無大小 悉以諮之 必能使行陣和穆 優劣得所
親賢臣 遠小人 此先漢所以興隆也
親小人 遠賢臣 此後漢所以傾頽也
先帝在時 毎与臣論此事 未嘗不歎息痛恨於桓霊也
侍中尚書 長史参軍 此悉貞亮 死節之臣也
願陛下親之信之 則漢室之隆 可計日而待也

臣本布衣 躬耕於南陽
苟全性命於乱世 不求聞達於諸侯
先帝不以臣卑鄙 猥自枉屈 三顧臣草盧之中 諮臣以当世之事
由是感激 遂許先帝以駆馳
後値傾覆 受任於敗軍之際 奉命於危難之間
爾来二十有一年矣
先帝知臣謹慎
故臨崩 寄臣以大事也
受命以来 夙夜憂歎 恐付託不効 以傷先帝之明
故五月渡濾 深入不毛

今南方己定 兵甲己足
当奬率三軍 北定中原
庶竭駑鈍 攘除姦凶 興復漢室 還於旧都
此臣之所以報先帝 而忠陛下之職分也
至於斟酌損益 進尽忠言 則攸之?允之任也
願陛下託臣以討賊興復之効
不効ば則治臣之罪 以告先帝之霊
若無興徳之言 則責攸之?允等之咎 以彰其慢
陛下亦宜自謀 以諮諏善道 察納雅言 深追先帝遺詔
臣不勝受恩感激 今当遠離 臨表涕泣 不知所云


建興6年(228年)、諸葛亮は劉禅に再び「出師表」を上奏したとされている。この時の文章は、先の「出師表」と区別して 「後出師表」と呼ばれている。しかし、この文章は『三国志』の本文では言及されず、裴松之の注釈の中で、 習鑿歯『漢晋春秋』から引用され、さらに陳寿の編纂した『諸葛亮集』にも見えず、 呉の張儼『黙記』に見えると書かれている上、歴史事実との相違点が多い。こうしたことから後世の偽作とする見方が有力である。 後出師表の内容は次の通りである。 まず、自分が先帝である劉備から、逆賊である魏を討伐するようにと言われてきたことを確認し、魏の力があまりに強大で、 自分の力はあまりにも弱く、このままの状態では蜀は魏に滅ぼされるであろうと述べる。 そして坐して滅亡を待つよりは、先手を取って魏を討滅すべきであるとする。しかし、良からぬ輩が、 自分の北伐を批判していると述べる。 このような批判に対し、6つの疑問点をあげてその批判の不当さを指摘する。 今の蜀の状況は、同じく漢中に拠った漢の高帝・張良・陳平の才能に遠く及ばない者しかいないのに、 坐して天下をとろうとするのはなぜか。 張良・陳平は、高帝に仕えた有名な謀臣である。彼らは天下を取るために、 中国中を駆けずり回った。 劉?や王朗は、自分の州郡の中にとどまり、結局孫策に敗れてしまった。 動かない蜀の様子を劉?や王朗と重ね合わせて批判する。 曹操は優れた軍略家であるが、それでも身を危ういところにおいて戦ってきた。自分のような小人物はなおさら、 危ういところに身を置かないでどうするのか。 曹操のような人物ですら、敗戦を繰り返しているのだから、自分のような小人物が戦いに負けたことをあれこれ言うのはどうか。 数年後には、あちこちから集めてきた優秀な武将や兵たちが死んでしまうのに、 優秀な者達がいる今のうちに戦わないのはどうしてか。 今、蜀は益州しか領有しておらず、経済力がない。このまま放っておけば、 経済力のより大きい魏と対抗することはできないのではないか。 さらに、時代の流れは予見しがたいとし、弱小なる蜀も魏に勝てるかもしれないとし、死ぬまで努力すると述べる。







すうざん(嵩山)
河南省登封市にある山岳群である。五岳の1つの中岳に数えられる。最高峰は標高1440mの太室山である。
古代から山岳信仰の場として有名で、北魏時代からは少林寺などの道教、仏教の道場が建立された。 また、唐代には副都であった洛陽に近い事から、政府との結びつきが強く、 ここを本拠地としていた潘師正、普寂、慧安などの道士、僧侶らが皇帝の崇敬を受け、 道教、禅宗はそれぞれ自派を拡大した。
20世紀以降には、山麓に少林寺武術(少林拳)を教える武術学校が相次いで設置されており、 中国各地から学生が集まっている。
ユネスコの支援する世界地質公園(ジオパーク)として認定されている。
2010年7月から8月にブラジルで開かれた世界遺産委員会にて、嵩山山麓の登封周辺地域にある少林寺、 嵩岳寺塔他の歴史遺跡8カ所11点が「天地の中央」にある登封の史跡群として新たに世界遺産 (登録基準 (3) および (6) に該当)となった。








せいか(西夏)
(1038年 - 1227年)は、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部(寧夏回族自治区)に建国した王朝。国号は夏だが、 中国最古の王朝夏などと区別するため、通例「西」の字を付して呼ぶ。首都は興慶(現在の銀川)。モンゴル帝国のチンギス・カンに よって滅ぼされた。
西夏の起源は唐初にまでさかのぼる事ができる。この時期、羌族の中でタングート族がその勢力を拡大していった。その中、拓跋赤辞 (中国語版)は唐に降り、李姓を下賜され、族人を引き連れて慶州に移住し平西公に封じられた。唐末に発生した黄巣の乱ではその子孫 である拓跋思恭(中国語版、英語版)が反乱平定に大きな功績を残し、それ以降、夏国公・定難軍節度使として当地の有力な藩鎮勢力としての 地位を確立した。
宋初、趙匡胤は藩鎮の軍事権の弱体化政策を推進したが、これが夏国公の不満を引き起こした。当初は宋朝に恭順であった平西公であるが、 次第に対立の溝を深め、1032年に李徳明(拓跋思恭の弟の拓跋思忠の末裔)の子である李元昊が夏国公の地位を継承すると、 次第に宋の支配から離脱する行動を採るようになった。李元昊は唐朝から下賜された李姓を捨て、自ら嵬名氏を名乗り、 即位翌年以降は宋の年号である明道を、父の諱を避けるために顕道と改元し、西夏独自の年号の使用を開始している。その後数年の内に 宮殿を建設し、文武班制度を確立、兵制を整備するとともに、チベット・ビルマ語派のタングート語を表記するための独自の文字である 西夏文字を制定した。
即位の翌年からは、長年の宿敵である青唐のチベット系勢力青唐王国(1032年 - 1104年)を攻めて決定的な打撃を与え、 さらに1036年には宋の支配下であった、河西地方西部の粛州・瓜州・沙州に兵を進めて制圧した。またチベット系をさらに牽制するため、 蘭州近郊へ兵を送った。そして1038年10月11日に皇帝を称し、国号を大夏として名実ともに建国するに至った。
西夏は建国後、遼と同盟し宋に対抗する政策を採用し、しばしば宋内に兵を進めている。この軍事対立は1044年の和議成立(慶暦の和約) まで続いた。宋との和議では宋が西夏の地位を承認すると共に西夏が宋に臣従する代償として莫大な歳幣を獲得した。 しかし、同年に西夏と遼の間で武力衝突が発生すると、西夏は宋・遼と対等な地位を獲得するに至った。ただ、宋との和議成立後も たびたび局地的な戦闘が続き、宋は西夏との国境に軍隊を常駐させていた。
李元昊の死後、2歳にも満たない息子の李諒祚が即位し、その母である没蔵氏による摂政が行われた。この時期遼による西夏攻撃が行われ、 西夏は敗北、遼に臣従する立場となった。
1063年、吐蕃の禹蔵花麻が西夏に帰属した。皇帝である李秉常の母である梁氏はこの時期宋に対する軍事行動に出るが失敗、 国政は李秉常の元に帰属するようになった。しかし李秉常の死後に3歳の息子である李乾順が即位すると、梁氏は再び摂政を開始、 宋や遼に対する軍事行動を起こしている。李乾順の親政が開始された後は遼や宋との和平政策へ転換し、軍事行動は年々減少、 西夏の社会経済が発展していくこととなった。
1115年、金が成立すると遼に対し侵攻を開始した。1123年、遼の天祚帝は敗戦により西夏に亡命、同時に金の使者も来朝し李乾順に対し 遼帝の引渡しを求めた。李乾順は遼の復興は困難と判断し金の要求を受諾、これにより西夏は金に服属することとなった。 そして金により北宋が滅ぼされると、西夏は機会に乗じ広大な領土を獲得することとなった。
李乾順の死後は息子の李仁孝が即位した。この時期西夏国内では地震と深刻な飢饉が発生し民心が乱れ、各地で農民蜂起が発生した。 これに対し李仁孝は国内に各種改革を行い、社会経済の発展と、社会の安定に努めた。
李仁孝の死後は息子の李純佑が即位したが、この時期になると政治腐敗が進み、国勢は凋落の一途を辿っていた。その状況下の1206年、 親族の李安全が帝位を簒奪し李純佑を殺害、それまで金に依存した外交政策を見直し、当時強大な勢力を誇ったモンゴル族に依存する 政策を採用した。
李安全は金に対し十余年に及ぶ軍事行動を発動した。この軍事行動は金のみならず西夏の国力を疲弊させるものであり、 また飢饉などで貧困が続いていた民衆の離反を招き、また政治腐敗のみならず、皇帝自らが酒色に溺れ朝政を省みない状況で国内は 一層不安定なものとなっていた。またモンゴルに依拠した外交政策も、西夏の安全を保障するものでなく、1205年にはモンゴルは 西夏侵攻を開始、1209年までに3次に亘る西夏出兵ですでに国力は限界に達した。
1211年、西夏で宮廷クーデターが発生、李遵?が帝位を簒奪した。しかし中興に影響を与えるものでなく、西夏の国力は 下降線の一途を辿った。1216年、西夏はチンギス・カンの出兵要請を拒否する。その行為はモンゴル側の怒りを招き、 1217年に第4次西夏遠征が行われるに至った。1223年、李遵?は自らが亡国の君主になることを避けるため、太子の李徳旺に譲位した。
西夏は李安全と李遵?の治世下で滅亡寸前の国力となっており、李徳旺の登場で復興できる状態ではなかった。 李徳旺はモンゴルに対抗するため、チンギスが西征した機会を狙ってモンゴルを攻撃しようとしたが、事前に情報がモンゴル側に漏れ、 1224年にモンゴル軍により都銀川が包囲されるとモンゴル軍に投降、人質を送ることで滅亡することはわずかに免れることができた。 1226年、李徳旺が病死し、甥の李?が皇帝に推挙されたが、翌年に李?はモンゴルに投降し、まもなく、李?は西夏の君民とともに モンゴルの太子オゴデイ(太宗)によって殺害され、ついに西夏は滅亡した。
西夏を滅亡させたチンギスの孫のクビライが建国した元を北走させて建国された明を滅ぼした反乱指導者李自成は西夏建国の祖である 李継遷の末裔を称しているが、どの西夏皇族の系統かは明らかになっていない。




せいこ(西湖)
中国浙江省杭州市西湖区にある湖。 西湖の自然の島である孤山、西湖を分ける堤の蘇堤・白堤・楊公堤、 人工の島である小瀛洲・湖心亭・阮公?、分けられた湖の外湖・西里湖・北里湖・南湖・岳湖、これらをまとめて形状を 「一山、三堤、三島、五湖」と称される。2006年に、中国の国家AAAAA級旅行景区に指定される。 2004年発行の第五版人民元1元札裏面の図案として、西湖の三潭印月が採用されている。 名称からして都市や山の西にある湖ということで、 中国に数ある西湖であるが、単に「西湖」と言えば、この杭州の西湖を指す。2011年6月の第35回世界遺産委員会で世界遺産(文化遺産) として登録された。
起源
地質学的には、一万二千年程前に形成された潟である。秦の始皇帝が銭唐に至り浙江を臨むとの記述が史記に見えるが、 これが史書に見える西湖に関する初出であるといわれる。当時、まだ淡水化していなかったこの潟は銭塘江の下流、 三角州の一部の干潟であったと考えられる。
地理
位置:杭州市西郊にあることから西湖と呼ばれている。
水深:干潟であったことを示すように、西湖の水深は平均1.8m、最も深いところは約5mある。
大きさ:南北3.3km、東西2.8km、外周15km、水域面積6.5平方km。
名称
この干潟も漢代に淡水化し、武林水・時聖湖などと呼ばれた。西湖という名称が用いられるようになったのは唐代に入ってからだが、 同時に銭源、銭唐湖などとも呼ばれており、固定していない。また、唐代にそれまでの銭唐から銭塘へ用字の変更がおこなわれた。 西湖の名称が固定したのは宋代に入ってからである。
伝承
三潭印月、島中之島
西湖にまつわる伝承は多い。白居易の詩「銭塘江春行」で「緑楊陰裏白沙堤」とうたわれた白堤、蘇軾の造営によるという蘇堤など、 西湖十景と呼ばれる観光資源が豊富である。
中でも有名な伝承は中国四大美人の一人、西施入水にまつわるもので、この故事により西湖の名称が定着したというものである。 しかし、呉越の時代にはまだ西湖は淡水化しておらず、漢代でもなお西湖とは呼ばれていなかったことから、この伝承は後代のものであろう。
曲院風荷
資源
西湖では現在漁業は行われておらず、湖水は灌漑にも用いられていない。このため、観光が唯一にして最大の資源である。 周囲には雷峰塔、岳廟、銭塘江、そして龍井などがあり龍井茶の産地としても知られる。離れた場所に六和塔がある。
このうち、銭塘江は毎年中秋のころに潮汐の関係で大逆流(海嘯)を起こすことで知られる。
西湖十景
南宋末(13世紀)の祝穆『方輿勝覧』巻一に詩画の十題として以下が見える[1]。
断橋残雪、平湖秋月、曲院風荷、蘇堤春暁、三潭印月、花港観魚、南屏晩鐘、雷峰夕照、柳浪聞鶯、双峰挿雲




せいこんたい(西崑体)
中国、宋(そう)初の詩人集団の詩を称する語。当時、まだ新しい時代にふさわしい文学は 生まれておらず、もっぱら唐代の文学の模倣に終始していた。とくに晩唐の詩が、感傷的、 美文的であるために好まれた。なかでも李商隠(りしょういん)の詩を懸命に模倣したのが 楊億(ようおく)、劉(りゅういん)、銭惟演(せんいえん)、丁謂(ていい)、張詠(ちょうえい)らの 詩人たちである。彼らは同題の詩をつくっては優劣を競い、17人の作250首を収める 『西崑酬唱集』二巻を残した。西崑とは西方の仙山の意味で、彼らの詩も美辞麗句を尊ぶ 現実ばなれの内容のものである。[横山伊勢雄]

西崑体(せいこんたい)は、中国文学における特徴の一つである。体の字を旧字体の「體」で表記する場合もある。 宋代の初頭・真宗期に流行した。主に晩唐の李商隠、温庭?らの詩風が影響していると考えられており、典故を引用し、また、 とても艶やかな表現を好む。宋代の詩人楊億や劉?らが提唱した。
西崑体の全盛期である10世紀後半~11世紀初めにかけては、柳開、石介らによる西崑体批判も存在した。[wikipedia]






せいちょう(青塚)
王昭君の墓の位置については数ヵ所以上が伝えられている。昭君墓の位置に関する 最も早い記述は『通典』巻179 州郡・単于府・金河條で、現在の内モンゴル自治区の フフホト市にあるものが有名である。

 歴史の記載や民間の伝説では、昭君墓は紀元前の前漢時代に建てられ、内モンゴル の省都フフホト市の大黒河の畔に位置しているといわれていた。内モンゴル省の重点 文物保護文化財となっている。前漢時代の昭君墓は、土を枡の形に積み上げて固め、 高さ33m、底の面積は13,000平方mだったという。

 現在の昭君墓は、1970年代に再建されたもので、高さ33m、総面積は3.3ヘクタ ールある。昭君墓は、人口的に土を積み上げてできた丘の上にある。丘の上には亭が 建っていて、観光客の休憩所として利用されている。毎年、秋になって周りの木々が 落葉したり黄色くなったりした時でも、昭君墓の上の植物は夏と同じように繁々とし ているため、「青塚」とも呼ばれている。
 墓碑の東側には、歴代の有名人が昭君を賛美する碑文が展示されている。丘の上に 登ると、東西に伸びる陰山の山脈や、フフホト市の全景が眼下に見ることができる。







せいびょうほう(青苗法)
北宋の法律。いわゆる王安石の新法の一つであり、北宋の神宗時代の1069年に施行された。
1006年、北宋の朝廷は、辺境を除く各州県に災害あるいは飢饉対策として穀物を備蓄する常平倉や広恵倉を設けた。しかし、管理には不備が多く、 膨大な穀物が倉にあり余っていた。
また、当時の農民は植付け前には食糧や種籾が不足していたため、地主からの借金を余儀なくされていた。借金の利率は、6~7割、 ときに10割にものぼる高利であったため、農民にとって大きな負担となった。
そこで、王安石は青苗法を制定した。この法律は、種籾または常平倉の穀物を売却して得た現金を、正月または五月の年二回、 農民に対して2割の低利で貸出すことを認めた。正月の貸出しは夏、5月の貸出しは秋の収穫期に、金銭もしくは穀物で返済させた。
しかし、戸等別による強制貸付けの問題が起き、またそれまで農民の借金先であった豪民の利益を侵害したため、旧法派の強硬な反発にあった。







せいめいじょうがず(清明上河図)
中国北宋の都開封の都城内外の殷賑(にぎわい栄えた)の様を描いた画巻である。オリジナルは北京・故宮博物院に所蔵されているが、 類作が数多く伝わっている。
北宋末期の翰林待詔であり、画家としても著名であった張択端の作品とされる。清明の時節の、都の東京開封府の内外の人士が行楽して 繁栄する様子を描いている。季節は、春たけなわであり、その絵画的な精細描写の価値とともに、当時の市街図や風俗図として、 極めて資料的価値も高いものである
明代以降、この画巻の名声を受けて画題や構図などを継承し、同名の画巻が数多く描かれた。中国美術を研究する古原宏伸は 全世界に41点あるとし[1]、中国で北京故宮の関係者が多数参加して編纂された『清明上河図:珍蔵版』では50点の一覧表が 掲載されているという[2]。大別すると3つの系統に別れ、一つは張択端の真作の系統、二つ目は明代の画家仇英が描いたとされる 蘇州の風景を描いたもの、3つ目は乾隆元年(1736年)12月清代の宮廷画家5人が共同制作して乾隆帝に献上した作で、 現在台湾の国立故宮博物院に所蔵されている「清院本」と呼ばれる系統である。
北京・故宮博物院蔵本 - 北宋末の作品とされるが、南宋初期に開封の繁栄を回想して描いたとする説もある。また、 巻末・落款部分を欠き、後半の多くの部分が切り取られたとする研究者も多い。







せきしゅん(惜春)
春の過ぎ行くのを名残惜しく思う。また、過ぎ行く青春を惜しむこと。(新漢語林)







せきへきのたたかい(赤壁の戦い)
中国後漢末期の208年、長江の赤壁(現在の湖北省咸寧市赤壁市)において起こった 曹操軍と孫権・劉備連合軍の間の戦いである。
河北を平定した曹操は、208年7月、荊州の牧であった劉表を攻めるため兵を率いて荊州へ 南下したが8月にその劉表が死に、劉琮が9月に曹操に降伏した。荊州の一部の人間は曹操への 降伏を拒み、劉表の客将劉備に付き従った、その数は十数万人にも上り、行軍が遅れた為、 劉備は関羽に数百艘の船にこれを分乗させ漢水を南下させた。
劉備は陸路で江陵を目指して南下し、途中で曹操の騎兵に追いつかれたものの長坂の戦いで 生き延び、劉表の弔問を建前に荊州の動向を探りに来ていた魯粛と面会。1万人余りの 軍勢を率いる劉琦と合流しつつ夏口へ到達した。曹操は劉表が創設した荊州水軍を手に入れ、 南下して兵を長江沿いに布陣させた。
当時の孫権は会稽太守に過ぎず、揚州刺史は曹操が派遣した劉馥であった。 劉馥は208年に死去し、帰順していた陳蘭・梅成・雷緒らが反乱を起こしたが、翌年までに 夏侯淵・張遼・于禁・張?・臧覇らに討伐されて滅んだ。
豫章太守の孫賁は曹操から征虜将軍に拝され、子を人質に出して帰順しようとしたが、 呉郡太守の朱治に諌止された。孫賁の弟である廬陵太守の孫輔は、後に曹操に内通したことが 発覚し、幽閉されている。
数十万とも言われる兵と朝廷の権威を擁する曹操の大軍勢を前に、孫権の陣営は恐れを抱き、 張昭らは降伏を説いた。しかし魯粛だけは抗戦を説き、?陽に出ていた周瑜を呼び戻させた。
周瑜は「中原出身の曹操軍は水軍による戦いに慣れておらず、土地の風土に慣れていないので 疫病が発生するだろう。それに曹軍の水軍の主力となる荊州の兵や、袁紹を下して編入した 河北の兵は本心から曹操につき従っているわけではないのでまとまりは薄く、 勝機はこちらにある」と分析し、孫権に開戦を説いた。
『三国志』呉書魯粛伝によると魯粛から孫権と同盟を結び曹操と対抗するよう説かれた 劉備は、諸葛亮を使者として派遣して孫権と同盟を結んだ。一方、『三国志』蜀書 諸葛亮伝によると、諸葛亮が孫権との同盟を献策し、劉表の弔問に来ていた魯粛を伴って 孫権と面会したという[5]。
孫権は周瑜・程普ら数万の水軍を劉備の救援に派遣し、周瑜、程普、劉備らは疫病に悩まさ れていた曹操軍を、赤壁・烏林で撃破して敗走させた。
『三国志』魏書武帝(曹操)紀の原書には、「公(曹操)は赤壁に到着し、劉備と戦うが、 不利だった。疫病が流行して、官吏士卒の多数が亡くなったので、撤退した」と書かれている。 『三国志』魏書武帝紀の注に引く『山陽公載記』には、「曹操は軍船を劉備に焼かれ、 徒歩で撤退した。劉備は曹操を追撃して、火を放ったが、曹操に逃げられた」 と書かれている。
『三国志』呉書周瑜伝には赤壁において遭遇した曹操軍を劉備軍と共に逆撃し、この際、 曹操軍には疫病が流行っていた為、一戦を交えると敗走し、長江北岸へ引き上げたとある[6]。 さらに周瑜の部将の黄蓋は、敵の船団が互いに密集していることに注目し、 火攻めの策を進言した。そして自ら曹操軍に対し偽りの降伏を仕掛け、曹操軍が油断した 隙をつき、油をかけ薪を満載した船に火を放ち敵船に接近させた。折からの強風にあおられて 曹操の船団は燃え上がり、炎は岸辺にある軍営にまで達した。船団は大打撃を受け、 おびただしい数の人や馬が焼死したり溺死したりした。曹操は後退し烏林に陣を張り、 周瑜らも長江を挟んで対峙した。『三国志』魏書武帝紀の注に引く『江表伝』には、 この時、周瑜らは渡渉し陸上から曹操の陣に追撃をかけ、曹操軍は潰走したと書かれている。
『三国志』蜀書先主(劉備)伝には、「劉備は孫権陣営の周瑜・程普らと力を合わせ、 赤壁で曹操を大いに破り、曹操軍の軍船を燃やした」と書かれている。
『三国志』呉書呉主(孫権)伝には、周瑜・程普を左右の督とし、各一万の兵を領させ、 劉備と共に進軍し赤壁で曹操軍を大いに破ったとある。
『太平御覧』が引用する『英雄記』には、「曹操は赤壁から長江南岸に渡ろうと思ったが、 船がなかったので筏に乗り漢水沿いに注浦口まで行ったが夏口を周瑜たちが守備していたた めすぐに渡ろうとしなかった。周瑜は夜中に密かに軽船・走舸一百艘をやって筏を焼かせた。 曹操は夜中に逃走することとなった」と書かれている。
曹操は残った船を燃やして、敗残兵をまとめて撤退した。疫病で曹操軍の多くの役人・ 士卒が亡くなった。『三国志』呉書呉主(孫権)伝には、曹操軍の敗残兵の大半が飢えと病で 亡くなったと書かれている[7]。
劉備・周瑜らは水陸並行して更に追撃して、南郡まで兵を進めた。曹操は慣れない江南の地で 疫病の流行に悩まされたこともあり、江陵を曹仁に、襄陽を楽進に託し、自らは北方に撤退 した。
赤壁の戦いの前後に孫権は合肥を攻撃したが、曹操は張喜に千人の兵と汝南で集めた兵を率 いさせて合肥の救援に向かわせた。そして曹操配下の蒋済が流した、 「軍勢4万が合肥の救援に向かっている」という偽情報を信じた孫権は即座に撤退したという。 いつ孫権が合肥を攻撃したのかについては諸説あるが、孫盛は「赤壁の戦いで 劉備が曹操を破った後、孫権が合肥を攻撃した」というのが正しいとしている。

『三国志演義』における赤壁の戦い[編集]
小説『三国志演義』における赤壁の戦いは史実に基づきつつも、その記述には創作が多々含 まれている[8]。
208年、華北を制した曹操が江南を平らげようと、7月に50万の兵を率いて南下を開始した。 ちょうどそのころ劉表が亡くなり、後を継いだ劉琮と後見人の蔡瑁は曹操に降伏してしまう。 曹操は荊州の兵を合わせ100万と号した。
劉備は諸葛亮の進言を容れず荊州を奪う事を諦め、曹操軍に追われながらひたすら南に逃げる が、大量の領民を引き連れたため進軍速度が上がらず、長坂坡で追いつかれてしまう。 この危機を趙雲と張飛の活躍で逃れ(長坂の戦い)、夏口の劉琦の下へ落ち延びる。
一方、江東に勢力を伸ばしていた孫権はこの報に驚き、文官武官を集めて降伏するか戦うかの 会議を始めた。文官のほとんどは降伏を主張していたが、劉備の軍師である諸葛亮が訪問し、 主戦論者の魯粛と共に孫権の説得を始める。孫権の兄・孫策の義兄弟でもある周瑜は曹操に 降伏する考えであったが、諸葛亮は曹操が「二喬」(孫策と周瑜の妻である姉妹)を欲し がっていると告げ、更にその望みを謳った曹操の子曹植の詩「銅雀台賦」を諳んじたことで 周瑜は激怒、孫権に対し主戦論を主張する。これによって孫権は開戦を決意し、 自分の机を刀で切りつけ「これより降伏を口にした者は、この机と同じ運命になると思え」 と言い放つ。
両軍は、長江に沿う赤壁で対峙した。周瑜は大軍を有する曹操を相手にするには火計しかない と判断し、計略を使いて荊州水軍の要である蔡瑁・張允を謀殺する。更に曹操の策によって 偽りの降伏をしてきた蔡瑁の甥の蔡中・蔡和を利用し、偽情報を曹操軍に流させる。 将軍の黄蓋は火計の実行役になるため、周瑜に自ら苦肉の計を進言し、蔡中・蔡和を通じて 曹操に偽の降伏を申し出る。
同時に周瑜は、諸葛亮の才が後々呉の災いになることを懸念し、わざと難題を与えて 処断させることを企図して「10万本の矢を集めて欲しい」と依頼する。しかし諸葛亮は、 自ら3日と期日を決めた上で快諾する。果たして諸葛亮は、夜霧に乗じて藁人形を積んだ船を 出し、曹操軍から矢を射掛けさせることで10万本の矢を回収する[9]。
また、周瑜は蔡中・蔡和を使って、当時まだ野にいた?統を曹操軍に送り込み、船同士を鎖で つなげる「連環の計」を進言させる。これは船上ですぐに酔ってしまう曹操軍の兵士のため、 船の揺れを少なくする策という名目だったが、実際には火計の際に船同士を延焼しやすくし、 かつ逃げられないようにするためだった。曹操の陣営でただ一人徐庶だけがこの策を 看破したが、曹操に母親を殺されていた徐庶は真実を進言することなく、巻き添えを 避けるために北方の馬騰の抑えになることを申し出て戦場から離れる。
問題は、当時の季節の10月には東南の風が吹かないと言う事だった。この方向に風が吹かない と、火計を用いても曹操軍の被害が広がらず、却って自分達の水軍に被害が広がる恐れが あった。周瑜の悩みを聞いた諸葛亮は東南の風を吹かせると言い、祭壇を作り祈祷すると、 東南の風が吹き始める[10]。
機は熟したとばかりに、黄蓋が投降を装って出船し、密かに積んでいた藁に火をつけて 曹操軍に突撃する。「連環の計」のため互いの切り離しが間に合わない曹操軍の船は次々と 炎上し、東南の風で地上に配していた陣にも火が燃え広がり、曹操軍は散々に打ち破られる。 なお周瑜が自分を殺そうとしている事を察知した諸葛亮は、東南の風が吹いた直後にその風を 利用して劉備の下へ逃げ去る。
一方、劉備軍は諸葛亮の指示の下、曹操の退却先に伏兵を置き、舞い込んできた曹操と 残った軍に追い討ちをかける。しかし諸葛亮は「今曹操は天命がつきておらず、 殺す事は不可能であるし、殺しても今度は呉が強大になって対抗できなくなるだろう」 と判断し、曹操に恩がある関羽をわざと伏兵に置き、あえて関羽が曹操に対し恩を返す 機会として与え、関羽が曹操を逃がすのを黙認する。
こうして曹操は荊州の大半を手放さざるを得ず、以後劉備と孫権の係争地となる。

赤壁の位置[編集]>
赤壁の古戦場と伝えられる場所は、長江・漢水沿いに数箇所存在する。その是非については 現在も議論があるが、有名なものは以下の2箇所である。
1.湖北省蒲圻市(1998年に赤壁市へ改称)西南の長江南岸に位置する赤壁山。 実際の古戦場として現在最も有力視され、「三国赤壁」または「武赤壁」と呼ばれている。
2.湖北省黄岡市黄州区西北の長江北岸に位置する赤鼻山。北宋の文人である蘇軾(蘇東坡)が 名作「赤壁の賦」を書いたことで著名であり、「東坡赤壁」または「文赤壁」と呼ばれる。 実際の古戦場ではないことが明らかになっているが、晩唐の詩人杜牧が詩に詠んだことから 古戦場と見なされるようになり、蘇軾の作品によって実際の古戦場以上に有名になって しまった。但し、杜牧・蘇軾の両者とも、ここが古戦場ではないことを承知の上で作品を 書いたらしい[11]。なお、東坡赤壁は長江の流れが変遷したため、現在は長江に 面していない。






せついん(切韻)
隋文帝仁寿元年(601年)の序がある、陸法言によって作られた韻書。唐代、科挙の作詩のために 広く読まれた。最初は193韻の韻目が立てられていた。
陸法言の序によれば、開皇の初め(580年代)に陸法言の家に劉臻ら8人が集まったときに[1]、 各地の方言が異なり、既存の韻書も分韻が異なることが問題になった。 そこで蕭該・顔之推らが中心になって分韻を決定し、その概略を陸法言が記した。 その結果は長く放置されていたが、十数年後に諸字書・韻書に照らして『切韻』5巻にまとめた。
『切韻』は5巻からなり、韻の四声によって巻を分ける。1・2巻が平声、3巻が上声、4巻が去声、5巻が入声である。声調ごとに韻を分けている。韻の数は平声54・上声51・去声56・入声32の合計193であった。ひとつの韻の中では同音の字をひとつにまとめてその最初の字に反切で発音を記している。各字の字釈は非常に短い。 『切韻』以前にも韻書は存在したが、いずれも現存しない。このため、『切韻』は漢字音を 体系的に伝える最古の書である。『切韻』によって代表される音韻体系を中古音または 切韻音系と呼ぶ。英語では『切韻』によって代表される音を「Early Middle Chinese」、 『慧琳音義』などによって代表される音を「Late Middle Chinese」と呼んで区別する。
切韻系韻書
『切韻』は実用書であり、しばしば修正されたり文字が加えられたりした。このため『切韻』原書は 残っておらず(敦煌・トルファン出土の断片には原書があるかもしれないが、どれがそれであるかは 学者の間で定論を見ない)、改訂版が残っている。これらを総称して切韻系韻書と呼ぶ。
現存する切韻系諸本や他書による引用を使った切韻原本の復元は、おもに上田正・李永富らによって なされた。
『唐五代韻書集存』によって、主要な改訂を以下に記す。
長孫訥言箋注本切韻
長孫訥言(ちょうそんとつげん)が字を増し、箋注を加えたもの。儀鳳2年(677年)の序がある。 敦煌の残巻が残る。
王仁?刊謬補欠切韻
王仁?(おうじんく)が改訂したもの。成立年については議論があるが、唐蘭は神竜2年(706年)とし、 周祖謨も中宗が復辟して国号が唐に戻った時(706-710年)のものとする[2]。第二次大戦後に完本が 発見された。ほかに敦煌残巻も残る。
大幅に字を増やしたほか、上声・去声に1つずつ韻を増して195韻とした。『王韻』と略称される。 『切韻』に対して追加・訂正した箇所が比較的明らかであり、『広韻』よりもはるかにもとの『切韻』 の特徴をよく保っている。また各巻の冒頭には『切韻』以前の各韻書の分韻状況が記されているのも 貴重である。
裴務斉正字本刊謬補欠切韻
王仁?の『刊謬補欠切韻』の改訂版だが、変更点が大きい。成書年代は不明。清朝の宮廷に蔵していた 本があるが、上声の一部を欠く。
唐韻
詳細は「唐韻」を参照
開元21年(733年)[3]または天宝10載(751年)[4]に孫?(そんめん)が大改訂したもの。 敦煌の残巻と蒋斧旧蔵残巻が残る。
五代の切韻系韻書[編集]
『広韻』にもない「宣」韻(「仙」韻の合口が独立)があるなど、韻を細かく分けている。 敦煌・トルファンの残巻が残る。
広韻
詳細は「広韻」を参照
陳彭年らによって北宋の大中祥符元年(1008年)に刊行され、正式名称を『大宋重修広韻』と言う。 韻は206韻に増えているが、『切韻』でひとつの韻をふたつに分けただけで、音韻体系自身には あまり変わりがないため、『切韻』の代用として『広韻』を使って中古音を復元しても、 結果はおおむね変わらない。 『広韻』は清代に顧炎武が再発見してから有名になり、 刊本の完本であり且つ校訂や索引などが完備しているため、完本『王韻』が発見されてからも 切韻系韻書の代表として使われている。




ぜっく(絶句)
漢詩における近体詩の代表的な詩型の一つ。4句から成る。
原形となる詩型は、六朝時代に作られはじめている。
時代が下るにつれて韻律の規則が次第に整備されて、唐代に入って詩型として完成された。一句が5文字の五言絶句と 7文字の七言絶句がある。起承転結の構成を持つ。
絶句は、(1)平仄の規則を厳密に適応した律絶と、(2)制約が比較的緩い古絶に分類される。(2)古絶は五言詩のみである。 (1)律絶は格律という点から言えば、律詩の前半4句に相当し、「小律詩」とも呼ばれる。

<大漢和辞典> 「絶句」次の七説がある。 1)妙絶説 四句中に不尽の意を含めて妙絶であるから。 2)一句一絶説 四句各々一事を詠ずるから。 3)律詩裁断説 律詩の前、中、後四句を裁断したもの。 4)連句割取説 聯句の一半を截断したもの。 5)古詩截断説 古詩中から截断したもの。 6)詩轍の断片説 四句の詩を長く続かない句、即ち断句、一転して絶句という。 7)聯絶説 前後離絶して対偶に拘らぬところから。 「律詩」 尚書堯典 「聲依永、律和聲」から出たもので、聲律、格律(リズム)がある詩の意である。



せっさたくま(切磋琢磨)
詩経-國風[衛風][淇奧] 淇奥(きいく)は、武公の徳を美するなり。 文章有り、又た能く其の規諫(きかん)を聴き、禮を以て自ら防ぐ。 故に能く入りて周に相たれば、美して是の詩を作るなり。 ・詩文 彼かの淇(き)の奥)いく)を瞻みるに、綠竹(りょくち)く猗猗(いい)たり。 匪(ひ)たる君子有り、切(せつ)するが如く磋(さ)するが如く、琢(たく)するが如く磨(ま)するが如し。 瑟(しつ)たり?(かん)たり、赫(かく)たり?(けん)たり。 匪たる君子有り、終に?(わす)る可からず。 彼の淇の奥を瞻るに、綠竹青青(せいせい)たり。 匪たる君子有り、充耳(じゅうじ)琇瑩(じゅうえい)、會弁(かいべん)は星の如し。 瑟たり?たり、赫たり?たり。 匪たる君子有り、終に?る可からず。 彼の淇の奥を瞻るに、綠竹簀(せき)の如し。 匪たる君子有り、金の如く錫(すず)の如く、圭の如く璧(へき)の如し。 寛たり綽(しゃく)たり、倚(ああ)重較(ちょうかく)たり。 善く戲謔(ぎぎゃく)すれども、虐を為したまはず。 現代語訳・抄訳 ・詩序 淇奥は、衛の武公の徳を讃えた詩である。 武公は内より滲み出る威儀がありて、よく諫めを聴き、禮を以て自らを律する明君であった。 故にその治世たるや民は安んずることができ、それを嘉して是の詩を作ったのである。 ・詩文 あの淇の川の奥まったところを見てみれば、緑に映えた竹がなんとも美しく繁っている。 その竹の如くに美なる徳を有した君子が居る、その人となりは切磋琢磨して自らを磨き上げてやまない。 厳にして寛大なり、明にして威儀あり。 斯様な君子が及ぼせし徳は、いつまでも忘れられることはないであろう。 あの淇の川の奥まったところを見てみれば、緑に映えた竹が盛んに繁っている。 その竹の如くに盛なる徳を有した君子が居る、その人となりはかの服飾の如くに威厳ありて麗しき徳で溢れている。 厳にして寛大なり、明にして威儀あり。 斯様な君子が及ぼせし徳は、いつまでも忘れられることはないであろう。 あの淇の川の奥まったところを見てみれば、緑に映えた竹の勢いたるや至れり。 その竹の如くに至れし徳を有した君子が居る、その人となりは精純にして自ずと温潤たり。 その心意は宏大にして皆と和するに至る、ああ、その車するは卿士の車なり。 善く親しまれしも、禮に背くなし。


せつどし(節度使)
藩鎮(はんちん)は中国唐から北宋代まで存在した地方組織の名称である。節度使や観察使などを頂点とし、 地方軍と地方財政を統括した。節度使そのものを指すことも多い。
唐は太宗の時代に大幅に領土を広げ、その領土を都護府・羈縻政策・府兵制・鎮兵の制度をもって維持していた。 鎮兵には蕃将蕃兵が多く用いられ、主に西北方面の辺境防衛のために置かれたが、玄宗時代になると、 従来の府兵制が上手く行かなくなり、辺境以外にも藩鎮が設置された。
府兵制が行き詰まった背景としては、基になった北魏の兵制では兵の担い手が部族制の下で集団生活を行う牧畜民であったのに対して、 唐の府兵制は定住して田を耕作する農民が兵を兼ねたため、年間3ヶ月の軍事訓練が与える農業への負担が大きく、 また郷里と家族から離れて任務に就いたため士気が低く戦闘に弱かった点が挙げられる。 また、辺境への赴任は白居易の『新豊折臂翁』[1]に代表される兵役拒否も生み、負担に耐えかねて逃亡(逃戸)し本籍地を 離れた土地で貴族に囲われ奴婢となる良民もいた。節度使は駐屯軍の将軍とその地方の財政官を兼ね、 任地の税収を軍の糧秣と兵士の雇用に使う制度で、初めは異民族対策として西北方面を中心に10の節度使が設けられた。

安西(亀茲、兵力24000)、北庭(庭州、20000)、河西(涼州、73000)、朔方(霊州、64700)、
河東(太原、55000)、 范陽(幽州、91400)、平盧(営州、37500)、隴右(?州、75000)、
剣南(成都、30900)、嶺南(広州、15400)

節度使は安西・北庭・平盧の長城外節度使とそれ以外の長城内節度使に分けられる。 長城外節度使には武人や蕃将(異民族出身の将軍)が就けられ、長城内節度使には中央から派遣された文官が付くのが 当初の方針であり、節度使は宰相へと登るためのエリートコースとされていた。 しかし玄宗に重用された宰相李林甫は政敵の出現を恐れて、宰相になれない蕃将を積極的に節度使として登用した。 安禄山も玄宗の寵愛を受け、742年に平盧節度使となり、更に范陽・河東を兼任した。







せんとうこう(銭塘江)
中華人民共和国浙江省を流れる河川で、仙霞嶺山脈を源として杭州湾に注いでいる。別名に浙江、折江、曲江、之江、羅刹江がある。 折江や曲江の名前は、流路が激しく蛇行していることに由来する。
河口では潮流の関係で河水が海から激しく逆流し、大潮の時期には激浪になって川をさかのぼる海嘯(かいしょう)という特異な 現象が発生することで古くから名高い[1]。このため、春秋時代の越国の記録、范仲淹の作品[2]や水滸伝での魯智深の円寂した場面など、 多くの古典文学作品にも登場している。同様の現象はアマゾン川でも発生し、ポロロッカと呼ばれている。
詳細は「海嘯#銭塘江の海嘯」を参照
隋の時代には大運河によって長江と結ばれた。南宋が都を臨安(現在の杭州市)において以来、銭塘江流域は著しく発展する。
現在の銭塘江河畔は、大都市の上海や寧波を擁し、中国沿海部でもっとも発展の進んだ地域となっている。




せんにん(仙人)
仙人(せんにん)は、中国の道教において、仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得た人を指す。 羽人、僊人ともいう。道教の不滅の真理である、道(タオ)を体現した人とされる。
仙人は基本的に不老不死だが、自分の死後死体を尸解(しかい)して肉体を消滅させ仙人になる方法がある。 これを尸解仙という。羽化昇天(衆人のなか昇天することを白日昇天という)して仙人になる天仙、地仙などがあるが位は 尸解仙が一番下である[1]。西遊記において孫悟空は「妖仙」などと蔑称されている。 神仙、真人もほぼ同義だが、用いられ方にニュアンスの違いがある。
仙人になるために修行をする者は「道士」(羽士)「方士」と呼ばれる。後世専ら、道士は道教修行者一般をさした。 方士である徐福は秦の始皇帝の命を受けて東海の仙島に仙薬を求めて出航した。 徐福は日本に逢着したともいわれ、日本各地に徐福伝説が残る。中国の軍師として知られる呂尚や諸葛亮なども仙術を 修得していたと付会された。
なお、一般に仙人といえば白髯を生やした老人というイメージがあるが、韓湘子など若々しい容貌で語られる者や、 西王母、麻姑仙人(仙女)などの女性の仙人の存在も多く伝えられている。
また、仙人は禁欲に徹する必要があるとする伝説もあり、たとえば久米仙人や一角仙人は色欲により神通力を失っている。









そ(楚)
(紀元前11世紀 - 前223年)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した王国。 現在の湖北省、湖南省を中心とした広い地域を領土とした。首都は郢と称したが、名前が同じだけで 場所は何度か変わっている。
楚の成立に関しては、漢民族の母体となった広義の黄河文明に属する諸族が移住して成立したとする 北来説と、それとは異質な長江文明の流れを汲む南方土着の民族によって建設されたとする 土着説に大きく分かれ、さまざまな仮説があるものの、いまだに定見も有力説も定まっておらず、 民衆および支配層がいかなる民族であったのかは解っていない。『史記』楚世家では、楚の祖先は ??(五帝の一人で黄帝の孫)であるとする。
北来説の中で有力視されるものに、現在の河南省から山東省南部に分布していた東夷が楚を 建国したという説がある。また土着説では、湖北から湖南・貴州省に点在するミャオ族の祖先が楚を 建国したという説が有力視されているものの、どちらも有力な証拠はまだない。近年、楚墓発掘の 進展で、おおかたの埋葬が王族庶民を問わず周様式の北向き安置ではなく南を向いて安置されており、 当時の中国では珍しい形式であるため、土着ではないかとする説がやや有力になっている。
江南諸国は周を中心とした中原諸国から蛮族として蔑まれたが、前史時代から文明を持っており、 中原諸国とは異質な建築物や生産様式を有した文化であった。周の建国から少し経ったころに周の 史書に現れはじめる(周の史書に記録された国々があった地域から発見された建築物や陶器等の多くは 周の様式であるため、明らかに周文化に属する王族や貴族が地方へ封建され建てられた国であり、 周囲の土着勢力や楚の祖先と同質かどうかは解らない)。
楚は鬻熊(中国語版)(??)の代に興った国であり、『史記』楚世家はこれを周の文王の時代とする。 元来は丹陽周辺で活動していた部族と考えられている。建国後は次第に西へ進出していった。その後、 鬻熊の曾孫の熊繹が周の成王から子爵に封じられた。
周の昭王の討伐を受けるが、これを撃退し、昭王を戦死、あるいは行方不明にさせたとされる。 その後、熊繹から数えて6代目の玄孫・熊渠の時代に「我は蛮夷であるから中国の爵位にあずからない」 とし、自ら王号を称するようになった。しかし周に暴虐な厲王が立つと、恐れて王号を廃止した。 18代目の11世の孫・熊徹の時代に侯爵国であった随を滅ぼし、それを理由に周に陞爵を願い出たが、 周に断られたために再び王を名乗るようになった。熊徹が楚の初代王・武王となる。

覇者荘王と呉越の興隆[編集]
文王の時代に漢江・淮河の流域に在った息・蔡・陳などの小国十数国を併合或は従属させ強大化を 果たす。成王の時代になると中原の鄭を度々攻めたが、斉が中原に覇権を打ち立てると中原への 侵攻は鳴りを潜め、替わって漢江・淮河中下流域の経略を進め徐・黄などの東夷諸国十数国を 併呑して領国を拡張した。
6代目荘王の時代になると、強盛な楚は陳・鄭などを属国化して中原を窺うようになる。 晋の大軍を?(ひつ)の戦いで破り、春秋五覇の一人に数えられる。また、荘王の時代に楚は呉と 同盟を結ぶ。
覇権を得た楚であったが、荘王の次の7代目共王の代に、?陵の戦いにおいて晋に敗れて覇権を失って しまう。
11代目の平王の時代に伍員(伍子胥)を国外に追放したことにより、伍子胥の補佐を受けた 呉王闔閭の軍に首都を陥落させられ、一時滅亡の危機を迎えたが、申包胥の必死の懇願により 秦の援軍を取り付け、昭王が復帰することができた。
紀元前334年、威王は攻め込んできた越王無彊の軍勢を破り、逆に越に攻め込んでこれを滅ぼした。
戦国時代に入ると人口の比較的希薄な広大な国土に散らばる王族・宗族の数や冗官 (俸給のみで仕事の無い官職)が多くなり過ぎ、国君の権力と国の統制が弱化した。 他の六国では世襲でない職業官吏や、魏の文侯、秦の恵公などの開明君主に代表される他国出身者の 要職登用が成立していたが、戦国時代を通じて令尹(宰相)就任者の大多数が王族であり、 それに次ぐ司馬や莫敖の位も王族と王族から分かれた屈氏・昭氏・景氏が独占するなど、 旧態依然とした体制を変えられず権力闘争に明け暮れた。
戦国初期は呉に郢を落とされた時代から引き続いて国威が振るわず、魏や韓によって領国北部の 淮河流域を奪われ、潁川(潁河)流域の陽?や梁などを奪われたことが見つかった竹簡に記録されて いる。
やがて呉起が魏から亡命してくると、悼王の信任を得て前記の弊害を除去する国政改革を断行し、 君主権を強め非効率な体制を改めることに成功する。しかし、悼王が死ぬと呉起は殺され、 非効率な体制と各地に独立した権力を持つ封建領主が散在する旧情に復した。改革によってある 程度国威を回復した楚は、淮河中流域の失地回復は果たせなかったが、長江や淮河の下流域への 拡張を推し進め越など諸国を併呑している。
20代目の懐王の時代、圧倒的な強国となってきた秦に対しどう当たるかで親秦派と親斉(田斉) 派に家臣は二分した。親斉派の筆頭は屈原であり、懐王に対し秦は信用ならないことを強く説いたが、 親秦派の後ろにいた秦の宰相・張儀の策略により屈原は失脚し、地方に左遷された。 諌める者がいなくなった懐王は張儀の策略にいいように踊らされ、最後は秦に幽閉されて死去した。
その後も秦の攻勢は強くなる一方で、紀元前278年に白起により首都の郢を陥され、陳に遷都した。
その後は春申君の主導の下に楚・魏・趙などの連合軍が秦へ出兵したが失敗し、寿春へ遷都した。 春申君が死ぬとまともに国政を執れる者がいなくなり、秦の王翦将軍に項燕(項羽の祖父)が敗れ、 最後の王負芻は捕虜となる。秦に仕えていた昌平君が項燕に奉じられて楚王と名乗るが、 秦軍に鎮圧され、紀元前223年に滅びた。
その後始皇帝が死去し秦の政治が腐敗すると、陳勝が反乱を起こして張楚と呼ばれる国を建てたが、 陳勝が敗北したために楚の旧公族出身である景駒という人物が、留で秦嘉(中国語版)と 甯君らによって擁立されて楚王を称した。項梁は甥の項羽(項籍)と英布に命じて秦嘉を討ち取り、 景駒は梁に逃れ、まもなく没した。そこで、項梁は范増の助言を採り入れて懐王の孫熊心を擁立して 祖父と同じ「懐王」を名乗らせ、西楚を建てた。項梁の甥項羽は勢力を拡げて諸侯の盟主となり、 懐王を「義帝」としたが、面倒になった項羽は後に英布に命じてこれを弑して、項羽自らは 「西楚覇王」と称した。
項羽が劉邦によって滅ぼされて前漢が成立、楚の地には韓信が封じられた。韓信は後に淮陰侯に 降格され、その領地は西の楚と東の荊の二国に分割、それぞれ漢の宗室の劉交と劉賈が封じられた。 楚はその後も諸侯王の一つとして存続し、呉楚七国の乱などにも加わっていたこともあった

(まとめ)
楚 (春秋) (? - 紀元前223年) - 春秋時代の強国で、戦国七雄の1つでもある。
秦末に陳勝が建てた国(紀元前209年)。張楚とも。
西楚(紀元前206年 - 紀元前202年) - 秦が滅びた後に項羽が自ら覇王と称して建てた国。
桓楚(403年 - 404年)東晋末期、桓玄が安帝から簒奪して皇帝を称した際に称した国号。
隋末に朱粲が建てた国(615年 - 619年)。
隋末に林士弘が建てた国(617年 - 622年)。
楚 (十国) (907年 - 951年)五代十国時代の十国の一つ。
金によって、元北宋の宰相張邦昌を皇帝として建てられた傀儡政権(1127年)。
均産教の教主である鐘相が建てた国(1130年 - 1135年)。

文化
春秋戦国時代における楚が注目される理由の一つとして、独特な文化を形成していたことが挙げられる。春秋五覇・戦国七雄の中でもシャーマニズム的な要素を持ち合わせていた楚の墓中からは、「人物竜鳳帛画」や「人物御竜帛画」といったような帛画や「鎮墓獣」といった魔除けを目的とした副葬品など他国にはない出土物も多く確認されている。他国でも動物信仰は行なわれていたが、とりわけ楚では動物信仰が盛んに行なわれていたことも明らかになっている。また中原様式の建物や埋蔵品も発見されていることから、中原の影響も受けており、中原との同化も進んでいたことがうかがわれる。
郭店一号「楚墓」
1993年に郢地で発掘された「荊門市郭店M1号楚墓」から、楚独特の漢字である楚文字で書かれた 竹簡が大量に発見された。度々盗掘に遭ったせいか、保存状態の良い青銅製祭器が少数しかないため 分析が難しく年代の最終的な確定はしていないが、戦国晩期の楚の墓に特徴的な副葬品が 無い事などから、これらの竹簡はおそらく戦国時代中期から後期の物である。
竹簡群が発見される以前、楚は史記の記述などから道教や鬼道が盛んな蛮夷の国であり 歴史的経緯などから儒教は軽視されたと思われていたが、守役である太傅の遺物とみられる 書簡群からは道家の書は老子など4編が見つかっただけで、大半は周礼を始めとする儒家の書であり、 貴族子弟の教育に関しては中原諸国と同様だったと考えられる。

貝貨
楚の首都であった郢、後に遷都した陳の周辺や江蘇省一帯から貨幣が大量に発見されているが、 貝の形を模して青銅で鋳造されている。貝貨は江北に在った中原諸国や秦・燕の他の六大国で 造られた鋤形・刀形・円形の貨幣とは明らかに異質なため、南北間の交易は頻繁には行われず 南に在った楚は独自の経済圏を形成していたと考えられている。








そうろうてい(滄浪亭)
五代の時の呉越国(907 ~978 )の節度使の孫承祐の別荘であったが、北宋・蘇舜欽は 4万銭で手に入れ滄浪亭を作り「滄浪翁」と号した。蘇州城内南部にある名園。







そしょくぼくせきず(蘇軾木石図)
北宋期の文人・蘇軾(1037~1101)が描いた水墨画「木石図」が日本で見つかり、クリスティーズ香港が8月30日、秋季のオークションで 看板にすると発表した。日本への流失品をクリスティーズの専門家がオークションにかける。
長さ543cm、幅27cmの巻物に描かれた木石図(約50cm)は、枯れかけた木を右に、奇岩を左に配し、荒海から現れる竜を表現したもの。 制作時期は不明だ。残りの賛は米?ら宋代書道の代表者たちが執筆している。蘇軾の水墨画は他に、台湾の故宮が所蔵しているものしか現存しない。 今回の木石図は、中国の画商が1937年に日本人へ売ったもので、現在の持ち主は大阪の藤田美術館が南宋の書家・陳容の巻物を数億円で売却したの を見て、出品を計画し、クリスティーズに連絡した。
蘇軾(蘇東坡)は「赤壁の賦」などの文筆や杭州の蘇堤で主に名を残しているが、科挙官僚としては王安石の新法党に異を唱えて地方に周った。 新法党に疎まれて、2度も流刑に遭っており、赤壁の賦は流刑期にできた。宋代から画が中国士大夫の教養体系に加えられたことも念頭に、 クリスティーズ香港の広報では、蘇軾を中国のダヴィンチと呼び、「サルヴァトール・ムンディ」と比較したりしているが、 そこまではいかないと思う。

「中国網日本語版(チャイナネット)」2018年11月28日
26日夜に行われたクリスティーズ香港の秋の競売で、北宋の有名文学家、書家、画家の蘇軾(蘇東坡)のものとされる絵画作品「木石図」が 4億1000万香港ドルで落札された。中国古代絵画作品の落札価格の新記録を樹立した。
 クリスティーズは宣伝資料の中で、「木石図」もしくは「枯木怪石図」は蘇軾が徐州太守就任時に蕭県聖泉寺を訪れた時に描いた墨絵としている。 作品は巻物になっており、4首の題字と跋文が記されている。これには同世代の有名画家兼書家、蘇軾と並び「宋代四大書道名家」と 称される米?のものが含まれる。巻物にはさらに41の判が押されている。
 しかしこの「木石図」は清朝の文献に記載されていない。クリスティーズは公式サイトで次のように紹介している。この作品は1937年に、 北京の画商・骨董商の白堅夫の手に渡った。白堅夫の妻は日本人で、作品は日本に持ち出され、その後クリスティーズが日本から取り 戻したという。
 クリスティーズは、この作品の画風は蘇軾に似ており、秩序正しく伝承されており、かつ蘇軾と同時代の名家による題字と跋文があることから、 蘇軾の作品と認定できるとした。
 しかしながら多くの書画専門家がその真偽を疑っている。業界内の専門家は北京青年報の記者に、「この作品の鑑定が難しいのは、 蘇軾のものとされる絵が伝わっていないためだ。国内の博物館でも蘇軾のものとされる作品が収蔵されているが、 確たる証拠はなく疑問が残されている。そのため今回の『木石図』については、同時代のその他の画家の作品と比較研究することしかできない。 それから米?らの題字と跋文の真偽を調べなければならない。個人的に言えば、この作品は技術的にやや未熟であり、 米?の題字と跋文についても確認が必要な部分がある。しかしこれにはさまざまな観点があるため、この作品の真偽については今後も学術界で 研究と確認を進めていく必要がある」と話した。









だいがんとう(大雁塔)
652年に唐の高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために、高宗に申し出て建立した塔。
高さは7層64mで現在は、西安市の東南郊外にある大慈恩寺の境内に建っている。 玄奘の設計により、当初は5層であった。各階に仏舎利がおさめられ、経典は上層部の石室に置かれた。 玄奘自ら、造営に携わったと伝えられる。塔の南門には(?遂良書)の筆による碑が置かれた。 当初は表面を磚に覆っただけで土によって作られていたために、老朽化してしまった。 そのため、長安年間(701年 - 705年)、武則天の統治時代に、全て磚でつくられ、上まで登れるようになり、 現在の7層に落ち着くという変遷を経ている。[1]この様子は、杜甫や岑参といった詩人たちによって、詠まれている。
唐時代に進士試験の合格者がここで名を記したことから、「雁塔題名」の成語も生まれた。 後に宰相になった場合、その名は朱色に書き換えられた。また、訪れるものに自分の名を書くものもあり、 唐代の詩人、李商隠の名が残っている。また、日本から訪れた円仁も登ったことがあった。
その後、熙寧年間1068年 - 1077年頃に火事に罹災し、1550年頃に重修されており、人民中国成立後にも修築されている。 現在でも、最上層まで登ることが可能である。
第1層には、仏菩薩の線刻画や、「大唐三蔵聖教序」(?遂良書)及び、高宗撰の序記の2石碑が見られる。 また、寺中には、王維や呉道玄らの絵画も収蔵されている。




たいざん(泰山)
山東省泰安市にある山。高さは1,545m(最高峰は玉皇頂と呼ばれる)。
封禅の儀式が行われる山として名高い。 道教の聖地である五つの山(=五岳)のひとつ。 華北平原の丘陵を見下す雄健かつ壮観な絶頂は五岳独尊とも言われ、五岳でもっとも景仰される 春秋時代以来の伝統がある。一例として泰山地震は天下の大事であった。ユネスコの世界遺産 (複合遺産)に登録されている。また「泰山国家地質公園」としてジオパークにも指定されており、 ユネスコの世界ジオパークネットワークにより認定されている。




だいじおんじ(大慈恩寺)
中国陝西省の古都、西安市南東郊外約4kmにある仏教寺院であり、三蔵法師玄奘ゆかりの寺として知られている。 その故地は、唐朝の都、長安城においては、東南部、左街の晋昌坊に当たる場所であった。
隋の大興城にあった無漏寺(一説に浄覚寺)の故地に、648年(貞観22年)、皇太子の高宗(こうそう)李治が、亡母(文徳皇后) 追善のために建立したのが、大慈恩寺である。その名は「慈母の恩」に由来する。
各地から、良材を集め建てられ、その規模は、子院(塔頭)10数院を擁し、建築物は総数1,897間、 公度僧だけで300名という大寺であった。帰朝した玄奘は、本寺の上座となり、寺地北西の翻経院で仏典の漢訳事業に従事した。 当寺での、玄奘の訳経活動は、658年(顕慶3年)までの11年に及び、合わせて40部余の経典が漢訳された。 玄奘の弟子である基(窺基)は、師から相承した法相宗を宣教し、「慈恩大師」と呼ばれた。
652年(永徽3年)、大雁塔が建立される。当初は、玄奘がインド・西域から持参した仏像や経典を収蔵するための塔であった (大雁塔の項を参照)。
唐代半ば以降、大慈恩寺の境内には、大きな戯場があり、俗講や見世物が行われていた。また、牡丹の名所としても知られ、 それを詠んだ多くの漢詩が知られ、藤も植えられていた。春には、寺が所有していた南にある通善坊の「杏園」で杏の花が、 夏には、寺の南池で蓮の花が咲き、秋には、柿がなり、紅葉につつまれたと伝えられる。
845年(会昌5年)の、武宗による会昌の廃仏の時には、大薦福寺・西明寺・大荘厳寺と共に、廃寺を免れた。
1550年(嘉靖29年)に、現在の大慈恩寺が建立されたといわれる。




たいしょう(戴勝)
漢語網戴勝的解釋:戴玉琢之華勝。為古神話人物西王母的服飾。 《山海經・西山經》:“ 西王母其?如人,豹尾虎齒而善嘯,蓬髮戴勝。”




たいじょう(太常)
秦・前漢時代 九卿の1つ。秦の中央官である奉常を起源とする。宗廟・礼儀を管轄し、丞を置いた。 前漢でも引き続き置かれ、景帝の時代に太常と改称された。
後漢時代 太常に戻されている。定員1人で、秩禄は中二千石。丞1人を置き、秩禄は比千石。属官には以下のものがある。
三国時代の各国、西晋でも引き続き太常は置かれている。




だいめいきゅう(大明宮)
皇帝が生活し、また政務を行う宮城(きゅうじょう)は、当初長安城北部に置かれていた。しかし、 そこは土地が低く、水が出やすく湿気が多く寒暖の差が大きかった。634年、2代皇帝太宗が退位した 父高祖のため、夏の離宮をこの城外の北東に作り始めた。ここは高台で乾燥していた。 663年に3代高宗が大規模な造営を行い、宮城をこの大明宮に朝政を遷した。 その時から大明宮が政治の中心となった。
 地形に制約され、台形の特異な形で、北の城壁が1135m、西の城壁が2256m、南の城壁は長安城の 北城壁をそのまま使って1674mである。
 中心の建物は、「含元殿」(がんげんでん)といい、左右に楼閣をもち、高い渡し廊下で繋がっていた。  国家的儀式が行われた場所であり、即位、元日、冬至、外国使節団の謁見(えっけん)及び改元、 閲兵(えっぺい)等の諸儀式が行われた。
 現在、この大明宮を復元する大工事がなされている。2010年に公開が始まるという。現在、 「長安」の面影は、大雁塔、小雁塔というところだが、この大明宮は華やかな唐の都の強烈な イメージ形成に貢献し、新たな観光名所となるだろう(※これは2009年に書いたページです)。 




たいはくさん(太白山)
中華人民共和国陝西省の西南部、眉県・太白県・周至県の境界にある。
主峰の抜仙台は海抜3,767メートルで、秦嶺山脈の最高峰であり、中国大陸東部の第一峰。1956年から太白山を中心とする 56,325ヘクタールの自然保護区が設置され、暖温帯の生態系保護を目的としている。
中国人民解放軍は合計約450発(うち250発が大陸間弾道弾などの戦略核)と推定される核弾頭の大部分を、 平時は秦嶺山脈の太白山を中心とする地下トンネル網に保管している[1]。




たいふ/だいぶ/たゆう(大夫)
古代中国における身分呼称のひとつ。日本では太夫(たゆう)とも表記し、人物の呼称として色々な意味を持つようになった。
中国の周代から春秋戦国時代にかけての身分を表す言葉で、領地を持った貴族のことであった。大夫は卿の下、士の上に位した。 周代、周王室および諸侯に仕える小領主は大夫と呼ばれ、その上級のものが卿と呼ばれ、国政に参加した。 諸侯が横暴であった場合、大夫らにより追放されることもあり、主君を脅かし得る地位を得るようになった。 後代には大夫や士の中に衰退する者も現れたが、その後、有力農民層が新たに士という階級を形成し、 地位を得るようになったといわれる。
晋では地方の県の長官のことを大夫と呼ぶようになり、後に諸国もこれに倣い、中央集権的な郡県制へと移行することになる。 唐の時代の官制では従二品より従五品下の総称となった。
現在の中国語では医者(:zh:大夫)のことを指す。
日本における大夫
『後漢書』「東夷伝」や「魏志倭人伝」には、中国に遣わされた倭人の使者が自ら「大夫」と称していたという記述が見られる。 しかしこれはきわめて古い時代のことであり、後の時代との関係は明らかではない。
大夫の称は日本の律令制度にも取り入れられ、『公式令』の規定では太政官においては三位以上、寮においては四位以上、 中国以下の国司においては五位以上の官吏の称とされた。すなわち、五位以上の男性官吏を指す称号であるといってよい。 官職としての大夫はだいぶと読み(「東宮大夫」など)、単に五位を意味する場合にはたいふと読み分ける。 また五位以下相当の官職の者が五位に叙せられた時、官職の下に大夫と付記する(例えば六位相当の官職である 左衛門尉が五位に昇った際、左衛門大夫と称する)。五位にありながら散位即ち無官の者は無官大夫と称される。 また従五位下の者は唐名を朝散大夫と称した。
女官の場合、五位以上の者を命婦という。
なお『日本書紀』の崇神天皇8年12月20日の条には「大夫」の文字があるが、 大夫というのは律令制度における官位の呼称であって、律令制が確立される以前の崇神天皇の代に「大夫」という 呼び方や官職があったわけではない。これは『日本書紀』が編纂されたときにその執筆者によって加えられた文飾であり、 「大夫の身分に相当する者」すなわち今でいえば大臣や側近というほどの意味で使われたとみられる。
やがて時代が下ると大夫は五位の通称となり、さらに転じて身分のある者への呼びかけ、 または人名の一部として用いられるようになった。五位というのは貴族の位の中では最下の位であったが、 地方の大名や侍、また庶民にとってはこれに叙せられるのは名誉なことであった。 そこでたとえ朝廷より叙せられなくとも一種の名誉的な称号として、大夫(太夫)を称するようになったのである 。ただし「太夫」と表記し「たゆう」と読む例が多い。




たいほうりつりょう(大宝律令)
701年(大宝1年)に制定された日本の律令である。「律」6巻・「令」11巻の全17巻。唐の律令を 参考にしたと考えられている。大宝律令は、日本史上初めて律と令が揃って成立した本格的な律令で ある。
大宝律令に至る律令編纂の起源は681年まで遡る。同年、天武天皇により律令制定を命ずる詔が 発令され、天武没後の689年(持統3年6月)に飛鳥浄御原令が頒布・制定された。ただし、 この令は先駆的な律令法であり、律を伴っておらず、また日本の国情に適合しない部分も多くあった。
その後も律令編纂の作業が続けられ、特に日本の国情へいかに適合させるかが大きな課題とされていた。 そして、700年(文武4年)に令がほぼ完成し、残った律の条文作成が行われ、701年(大宝元年8月3日)、 大宝律令として完成した。日本の律令制度で律と令が同時に、制定直後に実施されたのは大宝律令を おいて他に例がない[1]。大宝令11巻と大宝律6巻の律令選定に携わったのは、刑部親王・藤原不比等・ 粟田真人・下毛野古麻呂らである。
大宝律令を全国一律に施行するため、同年(大宝元年8月8日)、朝廷は明法博士を西海道以外の6道に 派遣して、新令を講義させた。翌702年(大宝2年2月1日)、文武天皇は大宝律を諸国へ頒布し、 10月14日には大宝律令を諸国に頒布した。
大宝律令の施行は、660年代の百済復興戦争での敗戦以降、積み重ねられてきた古代国家建設事業が 一つの到達点に至ったことを表す古代史上の画期的な事件であった。大宝律令において初めて 日本の国号が定められたとする説もある[2]。 また、成立17年後となる養老2年(718年)、 元正天皇が藤原不比等に大宝律令の補足と再検を命じたことが養老律令成立へとつながった。 しかし、養老律令はただちに施行されなかったため、天平宝字元年(757年)まで大宝律令は効力を 保っていた。
7世紀後半以降、百済の滅亡など緊迫する東アジアの国際情勢の中で、倭国は中央集権化を進めること で、政権を安定させ、国家としての独立を保とうとした。そのため、近江令、飛鳥浄御原令を制定する など、当時の政権は、唐の統治制度を参照しながら、王土王民思想に基づく国家づくりを進めていった。 その集大成が大宝律令の完成であった。これにより、日本の律令制が成立したとされている。 大宝律令による統治・支配は、当時の政権が支配していた領域(東北地方を除く本州、四国、 九州の大部分)にほぼ一律的に及ぶこととなった。
大宝律令の意義として第一に挙げられるのは、中国(唐)の方式を基準とした制度への転換にある。 前述の冠位十二階の制度は、当初は徳目をあらわす漢字で個々の官位を示していたが、 数値で上下関係を示す中国式に代わっている。また、地方行政単位の「評」も、 中国で地方行政組織の名称として使われてきた「郡」に用字を変えている。遣隋使の派遣以来、 7世紀の間に100年ほどの歳月をかけて蓄積した中国文明への理解によって、 朝鮮半島経由の中国文明ではない、同時代の中国に倣うための準備が可能になってきていたことを 意味する[3]。
大宝律令は、日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂された。刑法にあたる6巻の 「律(りつ)」はほぼ唐律をそのまま導入しているが、現代の行政法および民法などにあたる11巻の 「令(りょう)」は唐令に倣いつつも日本社会の実情に則して改変されている。
この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(神祇官、太政官 - 中務省・式部省・治部省・ 民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が 成立した。役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って 作成された文書以外は受理しないこと等々の、文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入された。
また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される 国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められて いた。
大宝律令の原文は現存しておらず、一部が逸文として、続日本紀、令集解古記などの他文献に残存して いる。757年に施行された養老律令はおおむね大宝律令を継承しているとされており、養老律令を 元にして大宝律令の復元が行われている。




だんちょう(断腸)
中国、晋の武将、桓温が三峡を旅したとき、従者が捕らえた子猿を追って母猿が百里あまり岸伝いについてきて、 やっと船に飛び移り、そのまま息絶えた。その腹をさくと腸はみなずたずたに断ち切れていたという「世説新語」 黜免?(ちゅつめん)の故事による。






ちいん(知音)
《列子・湯問》載:伯牙善鼓琴,鍾子期善聽琴。伯牙琴音志在高山,子期説“峨峨兮若泰山”; 琴音意在流水,子期説“洋洋兮若江 河”。伯牙所念,鍾子期必得之。後世遂以“知音”比喩知己,同志。




ちくりんのしちけん(竹林の七賢)
3世紀の中国・魏(三国時代)の時代末期に、酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した、下記の七人の称。
阮籍(げんせき)
?康(けいこう)
山濤(さんとう)
劉伶(りゅうれい)
阮咸(げんかん)
向秀(しょうしゅう)
王戎(おうじゅう)
阮籍が指導的存在である。その自由奔放な言動は『世説新語』に記されており、後世の人々から敬愛されている。 七人が一堂に会したことはないらしく、4世紀頃からそう呼ばれるようになったとされる。隠者と言われることがあるが、 多くは役職についており、特に山濤と王戎は宰相格の高官に登っている。 日本では竹林の七賢というと、現実離れしたお気楽な発言をする者の代名詞となっているが、 当時の陰惨な状況では奔放な言動は死の危険があり、事実、?康は讒言により死刑に処せられている。 彼らの俗世から超越した言動は、悪意と偽善に満ちた社会に対する慷慨(憤り)と、その意図の韜晦(目くらまし)であり、 当時の知識人の精一杯で命がけの批判表明と賞される。
魏から晋の時代には、老荘思想に基づき俗世から超越した談論を行う清談が流行した。『世説新語』には、 彼ら以外の多く人物について記されているが、彼ら以後は、社会に対する慷慨の気分は薄れ、詩文も華美な方向に流れた。




ちょうし(長史)
長史是中國?史上職官名,其執掌事務不一,相當於今天的秘書長一職,但多為幕僚性質的官員,亦稱為別駕。
唐代;  親王府、都護府、都督府、將帥(諸衛與出征將帥,不包括節度使)、州府(限於上、中州)設長史。 品級高下視所屬機構而異,從三品至七品不等。州刺史下亦設立長史官,名為刺史佐官,卻無實職。 亦稱為別駕;但大都督府的長史則地位較高,甚至會充任節度使。




ちょうもんのふ(長門賦)
『文選』巻十六 司馬相如の「長門賦」筑摩書房の『世界文学大系72 中国散文選』小尾郊一訳 「長門賦」
孝武帝の陳皇后は、当時、皇帝から寵愛を受けていたが、少々嫉妬深くて、(皇帝と)別れて 長門宮に住んでいたため、愁いに悶えて悲しみに沈んでいた。蜀郡の成都の司馬相如が天下の 文章の名人だと聞いて、黄金百斤を出して、(その頃、酒屋を営んでいた)相如と(相如の妻の) 卓文君から酒を買い上げてやり、悲愁を解きほぐす文章を作ってもらった。相如が文章を作って (陳皇后の気持ちを)主上に悟らせたので、陳皇后はまた寵愛されることになった。 その文章は次のとおり。
なぜでしょう、一人の美人がさまよい歩いて物憂げにしています。魂は消え失せて元に返らぬように 見え、肉体は枯れ果てた様子で一人ぽつねんと立っています。(かつて皇帝陛下は) 「朕は朝に出座して暮には帰るだろう」と言ったのに、今は(新しい女と)飲食の楽しみを共にされ、 私のことをお忘れになりました。御心は移り変わり、昔なじみ(の私)を省みず、 気に入りの人と交わって親しくされています。(嫉妬深い)私の心の愚かさよ、 私はまじめな素直さを胸に抱いていますのに。ただ御下問を賜って参上し、 陛下のお言葉をいただきたいとのみ願っています。
陛下の虚しいお言葉をいただいて、まことのことかと待ち望み、城の南の離宮に(陛下を) お待ちしました。粗末な料理をつくろって用意していましたのに、陛下は一向におでまし 下さろうとなさいません。むなしく一人隠れて心を鎮めておりますと、天にはひゅうひゅうと 疾風が吹いています。蘭台に登ってはるかに見渡せば、心はうつろになって外界に脱け出ます。 浮雲は重なりながら辺りに塞がり、天は深々として昼もなお暗く、雷は殷々と響き渡って、 その音は陛下の車の響きに似ています。飄風は吹きめぐって部屋に舞い立ち、 カーテンをひらひらと吹き上げます。桂の樹は枝茂く重なり合って、ぷんぷんと香りを漂わせます。 孔雀たちは集まって(私を)憐れんでくれて、猿たちは鳴いて声長く歌います。 翡翠(かわせみ)は翼を収めて集まって来て、鸞鳥と鳳凰は北に南に飛び交います。
心は結ぼれて晴れません。不満な気持ちが沸いて来て胸の内を責めつけます。蘭台より下りて 辺りを見渡し、奥御殿へと静かに歩みます。正殿は高々と天まで届き、大きな柱が並び建てられて、 彎形の御殿となっています。しばらく東の渡殿をさまよっていますと、 こまごまと美しく限りなく続く建物が見えます。
冒頭「頗る?む」とは、武帝が新たに衛子夫という別の女性を寵愛するようになって、 陳皇后から遠ざかるようになったことに、陳皇后が激しく嫉妬したことを言います。 その嫉妬深さが災いして、陳皇后は長門宮に退居させられたのです。




ちん(亭)
亭(9画 部首 亠(なべぶた)) 読み テイ,チョウ,チン,あずまや,とどまる,たかし
意味 秦シン・ 漢代の行政区画の名。十里ごとを一亭とし、十亭を一郷として、 亭長を置いた。
とどまる。ちょうどその点にあたってとまる。あずまや式のしゃれたつくりの家。






ついく(対句)
中国文学の修辞的技巧のひとつで、2つの句の対応する文字どうしが同一の品詞に属するように文を作ることをいう。 韻文・散文の両方に用いられる。対句を主要部とした文章を駢文と呼ぶ[1]。近体詩では特に対句を重んじ、律詩では原則として 頷聯(3句めと4句め)・頸聯(5句めと6句め)が対句になっている必要がある。
歴史:
もともと対句は自然発生的なもので、『詩経』や『論語』にも対句は見られる。対句の発生には中国語の単音節性がかかわっていると 考えられる[4][5]。六朝時代にいたって対句の技法は発展し、『文心雕龍』のような理論書も作られた。唐の近体詩では同字を使うことを 避けるなど、大きく対句の規則が変化した。
種類:
対句は単純に隣りあう句どうしが対になる場合(単対)のほかに、第1句と第3句・第2句と第4句が対になる場合(隔句対)がある。
対句の片方だけでは文が完結せず、両方でひとつの意味のまとまりをなすものを流水対と呼ぶ[6]。
句全体としては対になっておらず、句の一部だけが対をなす場合もある。これを偏対と呼ぶ[7]。
対句の条件:
2つの句が対句であるためには、両者の字数が同じであることはもちろんだが、ほかにも以下のような条件を満たさなければならない。
対応する字が同じ品詞であること。実字と実字、虚字と虚字が対をなす[8]。
対応する句どうしで文法構造が共通であること。片方の句に対になる語が並んでいる場合、対になる句でも対になる語を並べなければならない[9][10]。
音韻的にも対になっていること。すなわち、片方が同じ字を繰りかえしている場合は、対になる句でも繰りかえさなければならない。 また、片方が双声・畳韻を使っている場合(畳語を参照)、対になる句でもそうしなければならない[11]。
巧拙:
対応する字は、同じ品詞であるだけでなく、同類(たとえばどちらも天文関係の名)または近い類の語であるのが、うまい対であるとされる。 対になる字どうしを組みあわせると熟語になるようなものは特に優れているとされる[12]。
同義語を対にすることは、合掌対といって避けられる[13]。
近体詩において、同じ字を対に使うことは一般に避けられる。古体詩ではこの制約はない[14]。
近体詩において、(律詩の頷聯と頸聯のように)2つ並んだ対句がまったく同じ構文になることは避けられる[15]。
うまい対を使うかどうかは文章の種類によって異なる。対聯においてはうまい対を使う必要がある[16]。 いっぽう唐以降の古体詩では古風にするために対句をなるべく使わず、対句が出現する場合は、わざとうまくない (上記の規則に反する)対句を作った[17]。
有名な例:
青山横北郭、白水繞東城 - 李白「送友人」。青と白(色)、山と水(地理)、横と繞(動詞)、北と東(方位)、郭と城(地理)が対になっている。
去者日以疏、来者日以親 - 「古詩十九首」其十四。古体詩では同字を避けない
夫天地者万物之逆旅也。光陰者百代之過客也。- 李白「春夜宴從弟桃李園序」。「夫」を除いた部分が対句。
一犬吠形、百犬吠声 - ことわざ。王符『潜夫論』賢難篇に見える。
爆竹一声除旧、桃符万戸更新 - 春聯の文句。『幼学瓊林』に見える[18]。
好好学習、天天向上 - 標語。本来は毛沢東の言葉。学習と向上が対になるかは微妙
日本文学:
日本文学でも和歌や俳句などに対応する言葉を組み込んだ対句がみられる[2][3]。
対句が連続しているもの(狭義には対句が連続して言葉の上でも連鎖関係が認められるもの)を連対または連対句という[19]。 基本の二句対が連続した四句連対(四句連対句)や六句連対(六句連対句)もある[19]。




つう(詞)
中国,韻文の一形態。特に宋代に栄え,唐詩,宋詩,元曲と並称されて時代を代表する文学形式であった。 唐代に西域から「胡楽」が輸入されて流行したが,その曲に合せて歌った歌詞が起源。中唐頃に専門の詩人が意識的に楽譜に合せた 歌詞を創作するようになって,ジャンルとしての詞がほぼ確立した。メロディー (曲子) に合せた歌詞であるから「曲子詞」ともいい, 既成の譜に歌詞をうめる (填) ので「填詞 (てんし) 」,既成のメロディーによりかかる (倚) ので「倚声」という。 また1句の長さがふぞろいなので「長短句」ともいい,詩から生れた余りものという意で「詩余」, さらに漢代以来の歌辞文学である楽府 (がふ) になぞらえて「楽府」とも「近体楽府」ともいう。 中唐に確立し,晩唐に温庭 ?,五代に李 煜 (りいく) が現れ,傑作を生んだ。北宋に入って晏殊,欧陽修らが五代の詞を継承, やがて長編形式の慢詞が生れ,張先,柳永が宋独自の詞を開拓した。宋詞は作風によって豪放派と婉約派に二大別されるが, 北宋において前者を代表するものが蘇軾 (そしょく) で,柳永のあとを継ぐ周邦彦 (しゅうほうげん) が後者を代表する。 南宋に入って辛棄疾,陸游が蘇軾を継ぎ,姜 ? (きょうき) が周邦彦のあとを継いで,呉文英にいたって極点に達する。 元,明にはほとんどあげるべき作者もないが,清に入って再び流行をみ,納蘭性徳,朱彝尊 (しゅいそん) らの作者が現れるとともに 選集が編まれ,音律上の研究も進められた。
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詞(し)は、中国における韻文形式の一つ、あるいは歌謡文芸の一つ。
宋代に隆盛したので宋詞(そうし)ともいう。唐・五代では曲・雑曲・曲子詞(きょくしし)とも呼ばれた。また詩に対して詩余(しよ) とも言われ、長短不揃いの句で構成されることから長短句(ちょうたんく)ともいう。曲に合わせて詞が書かれたので、 詞を埋めるという意味で填詞(てんし)、音楽に合わせるという意味で倚声(いせい)とも言われる。日本語では詩(し) と同音であるため、区別しやすく中国語音からツーと呼ばれることがある。
後代には音楽に合わせて作られるのではなく、前人の作品の平仄に合わせて作られるようになったため、詩と同様 、朗読される詩歌の一種となった。
形式
詞は1篇の字数が決まっている。また平仄と脚韻を持っており、その規則は近体詩に非常によく似ている。しかし、近体詩と異なって 句ごとに字数が異なる。同様な形式に古楽府があり、実際に古くは詞のことを楽府と呼ぶこともあったが、楽府とは平仄の規則が異なるので 区別がつく[1]。1句の字数は1字から11字(水調歌頭)まである。
詞は詞調に合わせて作られるが、詞調ごとに形式が決められており、例えば「憶江南」では、句の字数が3・5・7・7・5、押韻が2・4・5句目と 決められている。
詞調には特定の名称が決められており、これを詞牌(しはい)という。詞の題名には詞牌が使われており、詩のように内容による題はつけられない。 その代わり、詞牌の下に詞題が添えられたり、小序が作られた。ただし、後代には内容による詞題が設けられることもあった。 詞牌の数は、清の康熙帝勅撰の『詞譜』によると、826調、同一詞牌で形式の異なる「同調異体」を数えると2306体に登る。 このうち詞牌は100調くらいであったという。最も短いのは「竹枝」の14字、長いのは「鶯啼序」の240字である。
歴史
唐代、西域から新しい音楽(胡楽)が流入すると、従来の音楽体系が大きく変化した。このようにしてできた音楽に合わせて作られた 歌詞が詞の由来である。その来源には宮中の燕楽や民間の通俗音楽にいたるいくつかがあると考えられる。
後代、曲や楽譜の伝承が途絶えると、その平仄や句式を基準にして作られた。
一般に李白が詞を初めて作ったと言われているが、李白の詞と呼ばれるものは題が詞牌になっているものの、形式の上では 近体詩そのものであって、句の字数に変化がない(菩薩蛮・憶秦娥は句ごとの字数が異なるが、李白の作でない可能性が高い)[2]。 盛唐では張志和(中国語版)「漁父」で七字の句を三+三にするなど詞の萌芽が見え、中唐以降に盛んになる[3]。とくに晩唐の温庭?は大量の 詞の作者として知られる[4]。
五代十国時代では前蜀の宰相になった韋荘がこの地に温庭?の詞風を広め、後蜀では詞集『花間集』が編纂された。 このため温庭?とその一派を「花間派」と称する[5]。また、南唐の後主は史上屈指の詞人として知られる。
北宋にはいると詞は全盛期をむかえる。11世紀、仁宗のころになると、「慢」と呼ばれる字数の長い詞が現れた[6]。また、 従来は偶数句で押韻していたのが、3句以上に伸びた[7]。とくに柳永は慢詞を多く作り、また俗語を多用して大流行した[8]。 北宋末の周邦彦(中国語版)は柳永の強い影響を受けつつ、典故を多用してより典雅な詞を書いた。
宋の政治家は詞人としても優れた人物が多かったが(晏殊・晏幾道・范仲淹・欧陽脩・王安石・司馬光など)、中でも蘇軾はそれまで 婉麗なものとされていた詞の表現や内容を大きく変更して、 詩で読むものとされていた内容を詞に盛り込んだ。蘇軾にはじまる 豪放派の詞人には、南宋の辛棄疾や陸游、金の元好問らがある(ただし蘇軾の詞に「豪放」なものはごく少ないために豪放派の名は 適切でないという議論があり、むしろ現実の体験に即して作詞した「現実派」と呼ぶ方が適切だともいう[9])。
南宋では専業の文人が出現した点に特徴がある[10]。代表的な詞人には姜?・呉文英(中国語版)・張炎(中国語版)・周密(中国語版) らがある。作曲家でもあった姜?は詞の楽譜を残しており、また張炎は作品のほかに詞論書『詞源』を撰述したことでも重要である。
元・明では詞は振るわなかったが、清初になると復興し、納蘭性徳のような優れた詞人が現れた。清初の人々が多く北宋を理想としたのに対し、 朱彝尊は南宋の姜?と張炎を模範とした[11]。
詞の分類
詞の分類方法にはいくつかがある。字数による分類によると、
小令 - 60字ぐらいまでの短編
慢詞 - それ以上の長編
宋初までは小令がほとんどであった。後代、
小令 - 58字以内
中調 - 59字から90字
長調 - 91字以上
という分類がされたが、何か根拠となるようなものがあるわけではなく、単なる分類の目安である。
また段落の数により、
単調 - 分段されない小令。「漁歌子」「搗練子」「調笑令」「如夢令」など。
双調 - 上下2?(ケツ、詞の段落)。小令・中調・長調いずれもある。「菩薩蛮」「西江月」「満江紅」「蝶恋花」など。
三畳 - 3?。「蘭陵王」など。
四畳 - 4?。「鶯啼序」。






てんかさんぶんのけい(天下三分計)
隆中策(りゅうちゅうさく)。後漢末期に諸葛亮が劉備に説いた戦略。 日本では天下三分の計(てんかさんぶんのけい)として知られる。 曹操は汝南袁氏を倒して中原地方をその支配下に治めており、中国全土の統一までは揚州の孫権、荊州の劉表、益州の劉璋、 漢中の張魯、涼州の馬超・韓遂などを残すのみとなっていた。 その頃、流浪の身であった劉備は劉表のもとに身を寄せていた。劉表が支配する荊州は、揚州と益州の中間に位置しており、 軍事的に極めて重要な地域となっていた。 このような情勢を踏まえ、諸葛亮は劉備に対し、曹操への対抗策として天下三分の計を説いた。 その内容は、劉備が荊州と益州を領有し、劉備、曹操、孫権とで中国を大きく三分割する。そして孫権と結んで曹操に対抗し、 天下に変事があった際、部下に荊州の軍勢を率いて宛・洛陽に向かわせ、 劉備自身は益州の軍勢を率いて秦川に出撃することにより曹操を打倒し漢王朝を再興できる、というものである 赤壁の戦いの後に劉備は荊州の領有に成功し、更に214年に劉璋を降して益州の領有にも成功する。 ここに至り隆中策は実現するかに思われたが、219年に関羽が呂蒙に敗れて荊州を失陥、荊州奪還のために侵攻した劉備も 陸遜に大敗したため、計画は頓挫した。




てんこ(典故)
「典故」というのは、文章を書く際の「よりどころとなる古典の文句」のことです。中国においては、 先秦時代から秦代・前漢時代と、質量ともに優れた文献が蓄積され、前漢末に劉向・劉歆の父子 が国家的な図書事業を成し遂げる頃までに、後世にも多大な影響を与えた書物文化の礎が築かれました。 さらにその後の文化の発達にともない、また仏教という外来の教えをも受け入れつつ、 「古典」は巨大化してゆきました。
 魏晋南北朝時代、貴族が主導する文化が発達しましたが、その中では文学が重い地位を占めました。 彼らの書いた詩文は、洗練に洗練を加えてゆきましたが、なかでも、(1)韻律の洗練と、 (2)典故の洗練、はその顕著なものです。それゆえ、この時代の詩文には、「韻律」と 「典故」にまつわる、徹底的な技巧が凝らされているのです。
 「典故」をよく知り、自由自在に応用できるのが、当時の教養ある貴族であった、というわけです。 「典故」を用いれば、2字や3字程度(場合によっては1字でも)の字句を提示するだけで、 古典の豊穣な文脈を示唆・引用できるわけですから、簡潔な文章にも含蓄を持たせることができるの です。
 『千字文』は、このような時代背景において、南朝の梁という王朝で生み出されたものですから、 容易に推測できるように、多くの「典故」がちりばめられています。
 典故のもっともよい学び方は、「よい注釈書を読むこと」です。特に推薦したいのが『文選』李善注 です。『文選』には多様な詩文が集められていますが、それらには「典故を多用する」という共通の 特徴があります。それを李善がすべて解説してくれるわけです。安価な李善注を一冊購入し、 出典の部分をマーカーで塗ってゆきます(暇な時間を見つけて)。李善注の指摘する典故が、 基本的な典故だと考えてください。つまり、典故は有限なんです (まれにしか使われない典故を修辞学では「僻典」と呼びます)。
 『詩経』『論語』などですと、その書物すべてが典故となりうるくらいよく消化されていますが、 その他の多くの書物についていうと、引用される部分は決まっているのです。
 その上で、読めそうな『文選』の文章を一篇選んで読み、本文と典故の関係を考えてみると よいと思います。
 この方法は、少なくとも先秦時代から唐・五代までの文学・思想・歴史を学ぶ際には有益であると 思います。試してみてください。
 一方、宋代以降の中国文化に関心をお持ちの向きには、この要求は過重であるかも知れません。 最終的には、読みたいものの性格・質によって、要求される「典故」知識は左右されるでしょう。
 しかし、どの時代のどのようなジャンルの「文言」で書かれた書物を読むにせよ、 「よい注釈書」を見つけて、それに精通すべきことはかわりありません(もちろん、「文言」 で書かれた注釈書です)。よい注釈を読めば、対象となる文献を読むのに必要な知識の量と 範囲が分かるものです。






とうおん(唐音)
日本漢字音(音読み)において鎌倉時代以降に中国から入ってきた字音。宋以降の字音である。 唐音の唐は、漢音・呉音と同様に、王朝名を表す(唐朝)のではなく、中国を表す語(唐土)である。
室町時代には宋音(そうおん)と呼ばれた。唐音と宋音をあわせて唐宋音(とうそうおん)とも 呼ばれる。唐音は呉音・漢音のようにすべての字にわたる体系的なものではなく、断片的で特定の 語と同時に入ってきた音である。遣唐使の中止で途絶えた日中間の交流が、平安末、鎌倉初から 再開し、室町、江戸を通じてさかんになって、禅宗の留学僧や民間貿易の商人たちによってもたら された。
学術的には鎌倉仏教の禅宗にもとづく中世唐音(これを宋音と呼ぶ人もいる)と、江戸時代の 黄檗宗にもとづく近世唐音に分けられる。




とうこう(登高)
1.高い所にのぼること。 2.中国で、陰暦9月9日、丘にのぼり菊酒を飲む行事。高きに登る。   秋の季語。    《広辞苑・第六版》  このコトノハを書いている日の日付は九月九日です。  暦の月と日が共に陽数(奇数)のもっとも大きな「九」、乃ち陽数の極みの  数が二つ重なる日ということから、九月九日は「重陽」と呼ばれ、五節供の  一つとなっています。  中国では重陽の日には住む土地の高台に家族で登り、一族の繁栄を祈念した  そうです。広辞苑の説明の 2は、この行事を説明したもの。




とうごくせいいん(東国正韻)
1448年(正統13年、世宗30年)に頒布された朝鮮の韻書である。 東国正韻は1446年に訓民正音が頒布された翌年の1447年に完成し、1448年陰暦11月に頒布された。 編纂には申叔舟・崔恒・成三問・朴彭年・李?・姜希顔・李賢老・曹変安・金曾が当たっており、 訓民正音解例の編纂に関わった学者が東国正韻の編纂にも関与していることが分かる。 「東国正韻」の名は中国の韻書である『洪武正韻』(1375年)に対して東国(朝鮮)の 標準的な韻書であるという意味から付けられた。 東国正韻の原刊本は、1941年に慶尚北道の 民家で巻1と巻6の2冊のみが零本で発見され(韓国の国宝71号、澗松美術館所蔵)、何人かの 研究者が欠落部分の復原を試みたりもした。完本は1972年に江原道江陵の沈教万氏宅で発見され、 現在は建国大学校図書館に所蔵され、国宝142号に指定されている。
東国正韻に示された漢字音は古来朝鮮で用いられている実際の朝鮮漢字音(伝来漢字音・現実漢字音) ではなく、人工的に作り出されたものである。これを一般に東国正韻式漢字音と呼ぶ。 東国正韻の編纂者たちは朝鮮の伝来漢字音を「訛り」と捉えてこれを正すべきものと考え、 本来のあるべき理想の標準音を東国正韻式漢字音として提示した。『東国正韻』序文において 指摘されている伝来漢字音の「訛り」とは、以下のものである。
1.渓母([k?])の大半が見母([k])に入っている。
2.渓母([k?])の一部が暁母([x])に入っている。
3.濁声がない。
4.四声において上声と去声の別がない。
5.入声のうち端母([t])で終わるべきものが来母([l])で終わっている。
6.舌頭音と舌上音、重唇音と軽唇音、歯頭音と正歯音が分かれていない。
東国正韻式漢字音の体系において特徴的なことは、漢字音を初声・中声・終声の3部位に分割している 点である。中国音韻学で漢字音を声母と韻母の2部位に分割するのとは異なっており、 当時の学者が漢字音の解釈において中国音韻学をそのまま援用しなかったことが伺える。 また、朝鮮語の表記とは異なり、漢字音の表記にあっては初声・中声・終声の3部位すべてを 兼ね備えており終声を持たない漢字音がないことも、東国正韻式漢字音の特徴の1つである。 東国正韻式漢字音は中古音の音韻体系を理想音としつつも、『古今韻会挙要』(1297年)、 『洪武正韻』(1375年)の体系や朝鮮の伝来漢字音の音形も考慮に入れる形で作られたと思われる。
東国正韻式漢字音は漢字音の規範として極めて重要視され、『釈譜詳節』(1447年)、 『月印千江之曲』(1447年)を始めとしてハングル文献はことごとくこの東国正韻式漢字音に よって漢字音が示された。しかし、現実の漢字音を反映していないこの漢字音の使用は急速に 廃れ始め、東国正韻頒布28年後に刊行された『五大真言』(1476年)では洪武正韻訳訓音による 注音が、『六祖法宝壇経諺解』(1496年)では伝来漢字音による注音が早くもなされ、 16世紀に入ると東国正韻式漢字音は使用されなくなった。




どうし(道士)
道士(どうし)とは、道教を信奉し、道教の教義にしたがった活動を職業とするもの。 男性の道士は乾道(けんどう)、 女性の道士は坤道(こんどう)と呼ばれる。
1997年現在で、中国には2万5000人余りの道士がいた。
道士の服装は道袍と称し、中国古代の漢服の一種で、頭には古代の冠巾をかぶり、足には雲履と称する下履きを履いている。 道士は主に宮、道観、道院、廟、洞などと称する場所に住まい、そこで宗教活動を行っている。 また宗派によっても形態が異なり、全真教の道士は出家し、頭髪や鬚をのばし、髻をゆっている。 また、精進料理を食べ、修養を重んじる。一方、正一教の道士は出家しない、在家の道士で、髪を剃り、護符を書いたり、 道教儀礼を行うことを主な活動としている。




中国のやきものは1万年以上の歴史を有しています。新石器時代の仰韶(ぎょうしょう)文化期には 彩陶(さいとう)・紅陶(こうとう)・白陶(はくとう)がつくられ、龍山文化期には黒陶(こくとう)が 盛んとなります。商〔殷〕王朝では、原始青磁とも呼ばれる灰釉陶(かいゆうとう)が登場します。 春秋時代末から戦国時代には印文硬陶(いんもんこうとう)と灰釉陶が焼かれます。 戦国時代には秦始皇帝陵の兵馬俑(よう)に代表される灰陶(かいとう)、加彩灰陶の俑が大量に つくられました。後漢時代には副葬品を中心として鉛釉陶(えんゆうとう)が流行します。 また、浙江省北部の越窯(えつよう)では本格的な青磁が登場し、三国時代から南朝にかけて 青磁の生産が盛んとなり、その中には独特な造形の神亭壺(しんていこ)や天鶏壺(てんけいこ) なども見られます。一方、華北では北朝において鉛釉陶や青磁が生産され、 とくに北斉時代には黄釉(おうゆう)に緑釉(りょくゆう)のかかる二彩や三彩(さんさい)などの 鉛釉陶や白磁への萌芽なども見られるようになります。
唐時代には、文様や造形に国際的な文化の影響がみられ、加彩や三彩の器皿や俑が多くつくられます。 華北では?窯(けいよう)で隋時代から白磁がつくられ、定窯(ていよう)でも唐時代には 白磁の生産が始まります。一方、青磁は越窯で生産が続き、晩唐から五代にかけての最高級品は 「秘色(ひしょく)」と称され、青磁の代名詞にもなりました。また、長沙窯(ちょうさよう)では 釉下彩(ゆうかさい)に銅や鉄を用いた水注や盤などがさかんにつくられ、海外にも輸出されました。
北宋時代には、牙白色の釉色や流麗な片切り彫りなどの文様を特色とする定窯の白磁が流行し、 各地の窯に影響を与えました。耀州窯(ようしゅうよう)ではオリーブグリーンの釉色を特色とする 青磁が焼かれ、河南省の汝窯(じょよう)では北宋末に宮廷用の優美な青磁が生産され、 後の鈞窯(きんよう)にも影響を与えました。河南省、河北省、山西省などにはいわゆる 磁州窯(じしゅうよう)系の窯が展開し、白化粧を活用した多彩な製品がつくられました。 南宋時代には都のあった臨安(現在の杭州)に官窯(かんよう)が設置され、厚い釉薬や黒い胎土を 特徴とした青磁がつくられ、また日本にも伝世品の多く知られる龍泉窯(りゅうせんよう)の青磁、 建窯(けんよう)や吉州窯(きっしゅうよう)の様々な天目(てんもく)茶碗、 景徳鎮窯(けいとくちんよう)の青白磁(せいはくじ)など各地で特徴あるやきものが生産されました。
元時代になると、景徳鎮では青花(せいか)の技術が完成し、酸化銅を顔料とした 釉裏紅(ゆうりこう)も始まります。青花は中近東はじめ海外にも輸出されたほか、 同時に龍泉窯青磁も大量に輸出されました。
明時代には、景徳鎮に御器廠(ぎょきしょう)が置かれ、宮廷用の陶磁器が焼かれました。 洪武(こうぶ)帝代には海禁政策によりイスラム圏からのコバルト顔料の供給がとだえ 、釉裏紅が多くつくられました。永楽(えいらく)年間〔1403~1424〕にはコバルト顔料の 輸入が再開されます。宣徳(せんとく)年間〔1426~1435〕にはさまざまな技法が試みられ、 活発な生産をくりひろげました。成化(せいか)年間〔1465~1487〕には完成度の高い 小碗や小盤がつくられたほか、豆彩(とうさい)も登場しました。
嘉靖(かせい)年間〔1522~1566〕から、御器廠での生産を補うために生産レベルの上がった 民窯(みんよう)に官窯製品の生産委託が行われました。さまざまな五彩(ごさい)がつくられ、 厳格な官窯の作風が揺らいでいきます。万暦(ばんれき)年間〔1573~1620〕には五彩の種類は著しく 増加していきます。いっぽう景徳鎮の民窯では金襴手(きんらんで)や芙蓉手(ふようで)などが 焼かれました。官窯が衰退していく明末清初には民窯が活発になり、輸出先の好みに合わせた 製品を生産しました。
清時代の康熙(こうき)年間〔1662~1722〕には御器廠が再開され、端整な宮廷用の陶磁器が 生産されます。雍正(ようせい)年間〔1723~1735)と乾隆(けんりゅう)年間〔1736~1795〕 には生産技法が頂点を極めました。



とうしゅ・いとんのとみ(陶朱猗頓富)
陶朱は大成功したひとであり、猗頓は魯国の富豪でした。
陶朱・猗頓の富は、富とか大富豪を意味します。
陶朱(とうしゅ)とは、越の名参謀であった范蠡(はんれい)の後年の名前である。
周の敬王(けいおう)の26年(B.C.497年)、越王勾践(こうせん)は、范蠡(はんれい)が止める のも聞かず呉王夫差(ふさ)と戦った。
夫椒(ふしょう)山(江蘇省太湖の西庭山)の戦いで破れ、敗走して、数千の兵とともに 会稽山(かいけいざん)に立てこもった。 夫差の率いる呉軍に包囲されて窮地に陥っていた。
勾践(こうせん)は、范蠡(はんれい)の諌める言葉を聞かなかったことを後悔して助言を求めた。 范蠡は勾践に、いかなる屈辱を受けても講和を受け入れて生き残るように諭した。 勾践はそれを受け入れて、呉王夫差に降服したのである。
勾践は呉王夫差の召使にされるなどしたが、范蠡が手を尽くし許されて国にもどされた。 それから范蠡は句践を助けて、ひたすら越の国が強くなるよう助言して富国強兵に努めたのであった。 苦節20年、期は熟しついに呉を滅ぼすことになり「会稽(かいけい)の恥」を晴して、 中原に越をして天下の覇をとなえたのである。
勾践は覇者となり、范蠡(はんれい)は上将軍と呼ばれるようになった。 ところが范蠡はこころよしとせず、「たとえ高名をもらっても心安らかならず 、それに勾践は今後も艱難辛苦をともにしのぐには器の大きさに問題がある」 こう考えて、一族もろとも越の国をさり斉(せい)の国に移り住んだのである。
范蠡は斉の国では名前を変えて、鴟夷子皮(しいしひ)と名乗り商品の売買をはじめることになった。 范蠡は商売上手で、商品の過不足に応じて、高い時は一気呵成に売り抜き、安い時は骨惜しみせず 買い叩いたのである。そうして瞬く間に巨万の富を築いたのであった。 名乗っている号の、鴟夷(しい)の意味は革袋のことで、いらないときは小さく折り畳めて、 必要に応じて大きくすることが出来るということです。 斉の国では、鴟夷子皮(しいしひ)の才能を惚れ込み宰相に迎えようとした。 けれども彼は「家にあって巨万の富を得、官については宰相と呼ばれるのは栄誉の極みともいえます。 しかしながら久しく尊名を受けるのは我が身のためになりませぬ。」 こういって宰相の話を断ると共に、巨万の富も皆におしげもなく分け与え、 一族もろとも陶(とう・山東省定陶)の国に立ち去ったのであった。
陶の国でもふたたび小売をすることになった。 この地を選んだ理由は、陶が諸国商品流通の交わるかなめの土地だったからである。 こんどは名前を、朱(しゅ)と変えて、取引相手をよく吟味して時期を選んで商品の 流通をはかったので、またしても短期間で数千万の富を手にしたのである。 そうして人々から、陶朱公(とうしゅこう)と呼ばれるようになったのである。 かれは19年間に3度も巨万の富を手にしたが2度までも貧しい人に分け与えたのである。
後年年老いてくると後は子孫に商売をまかせたが、子孫も商売が巧みで一族はながらく 繁栄したという事です。
猗頓(いとん)は春秋時代の魯国のひとで、もともと貧乏で苦しい生活をしていたが 塩業と牧畜で大成功して、猗氏(いし・山西省安沢県)に住して王侯貴族をしのぐ勢いが あり財産も膨大であった。 猗頓(いとん)というのは、頓(とん)は蓄えるという意味があり、それで猗の国のたくわえで 猗頓とよばれた。 このことから世の人たちは、猗頓や陶朱公のことを引き合いに出して富を持つ人のことを 論じたのである。
富める人のことを、猗頓(いとん)と呼び、その富を次の言葉に例えたのである。




とうちょうかんしょく(唐朝官職)
職官 正一品 : 太師 太傅 太保 太尉 司徒 司空 天策上将 従一品 : 太子太師 太子太傅 太子太保 正二品 : 尚書令 大行台尚書令 従二品 : 尚書左右僕射 太子少師 太子少傅 太子少保 京兆府尹 河南府尹 太原府尹 大都督 大都護 正三品 : 侍中 中書令 十六衛大将軍 六部尚書 太子賓客 太常卿 太子詹事 中都督 上都護 従三品 : 御史大夫 秘書監 光禄卿 衛尉卿 宗正卿 太僕卿 大理卿 鴻臚卿 司農卿 太府卿 左散騎常侍 右散騎常侍 国子祭酒 殿中監 少府監 将作大匠 諸衛羽林千牛将軍 下都督 上州刺史 大都督府長史 大都護府副都護 正四品上 : 黄門侍郎 中書侍郎 尚書左丞 吏部侍郎 太常少卿 中州刺史 軍器監 上都護府副都護 上府折衝都尉 正四品下 : 尚書右丞 尚書中司侍郎 左千牛衛中郎将 右千牛衛中郎将 左監門衛中郎将 右監門衛中郎将 親勛翊衛羽林中郎将 下州刺史 従四品上 : 秘書少監 殿中少監 内侍 大都護府長史 親王府長史 従四品下 : 国子司業 少府少監 将作少匠 京兆府少尹 河南府少尹 太原府少尹 上州別駕 大都督府司馬 大都護府司馬 親王府司馬 中府折衝都尉 正五品上 : 諫議大夫 御史中丞 国子博士 給事中 中書舎人 都水使者 万年県令 長安県令 河南県令 洛陽県令 太原県令 晋陽県令 奉先県令 親勛翊衛羽林郎将 中都督長史 上都護府長史 親王府典軍 正五品下 : 太子中舎人 内常侍 中都督司馬 上都護府司馬 中州別駕 下府折衝都尉 視正五品 : 薩宝 従五品上 : 尚書左司諸司郎中 尚書右司諸司郎中 秘書丞 著作郎 太子洗馬 殿中丞 親王府副典軍 下都督府長史 上州長史 下州別駕 従五品下 : 大理正 太常丞 太史令 内給事 上牧監 下都督府司馬 上州司馬 ?馬都尉 奉車都尉 宮苑総監 上府果毅都尉 正六品上 : 太学博士 中州長史 親勛翊衛校尉 京兆府諸県令 河南府諸県令 太原府諸県令 武庫中尚署令 諸衛左司階 諸衛右司階 中府果毅都尉 正六品下 : 千牛備身 備身左 備身右 下州長史 中州司馬 内謁者監 中牧監 上牧副監 上鎮将 従六品上 : 起居郎 起居舎人 尚書諸司員外郎 大理司直 国子助教 城門郎 符宝郎 通事舎人 秘書郎 著作佐郎 侍御医 諸衛羽林長史 両京市令 下州司馬 左監門校尉 右監門校尉 親勛翊衛旅帥 上県令 従六品下 : 侍御史 少府監丞 将作監丞 国子監丞 司農寺諸園苑監 下牧監 宮苑総監副監 互市監 中牧副監 下府果毅都尉 正七品上 : 四門博士 詹事司直 左千牛衛長史 右千牛衛長史 軍器監丞 中県令 親勛翊衛隊正 親勛翊衛副対正 中鎮将 正七品下 : 内寺伯 諸倉監 諸冶監 司竹監 温湯監 諸衛左中候 諸衛右中候 上府別将史 上府司史 上鎮副 下鎮将 下牧副監 従七品上 : 殿中侍御史 左補闕 右補闕 太常博士 太学助教 門下省録事 尚書都事 中書省主書 左監門直長 右監門直長 都水監丞 中下県令 京県丞 中府別将 中府長史 中鎮副 勛衛太子親衛 従七品下 : 太史局丞 御史台主簿 少府主簿 将作主簿 国子監主簿 掖庭局令 宮?局令 下県令 太廟諸陵署丞 司農寺諸園苑副監 宮苑総監丞 公主家令 親王府旅帥 下府別将 下府長史 下鎮副 諸屯監 諸折衝府校尉 視従七品 : 薩宝府?正 正八品上 : 監察御史 協律郎 翊衛 大医署医博士 軍器監主簿 武庫署丞 両京市署丞 上牧監丞 執乗親事 正八品下 : 奚官局令 内僕局令 内府局令 備身 尚薬局司医 京兆諸県丞 河南諸県丞 太原諸県丞 太公廟丞 諸宮農圃監 互市監丞 司竹副監 司農寺諸園苑監丞 霊台郎 上戍主 諸衛左司戈 諸衛右司戈 従八品上 : 左拾遺 右拾遺 太医署針博士 四門助教 左千牛衛録事参軍 右千牛衛録事参軍 上県丞 中牧監丞 京県主簿 諸倉監丞 諸冶監丞 司竹監丞 温湯監丞 保章正 諸折衝府旅帥 従八品下 : 大理評事 律学博士 太医署丞 左千牛衛諸曹参軍 右千牛衛諸曹参軍 内謁者 都水監主簿 中書省主事 門下省主事 尚書都省主事 兵部主事 吏部主事 考功主事 礼部主事 中県丞 京県尉 諸屯監丞 上関令 上府兵曹 上挈壺正 中戍主 上戍副 諸率府左司戈 諸率府右司戈 正九品上 : 校書郎 太祝 典客署掌客 岳?令 諸津令 下牧監丞 中下県丞 中州博士 武庫署監事 正九品下 : 正字 奚官丞 内僕丞 内府局丞 太史局司辰 典厩署主乗 下県丞 下州博士 京兆府諸県尉 河南府諸県尉 太原府諸県尉 上牧監主簿 諸宮農圃監丞 中関令 親王国尉 上関丞 諸衛左執戟 諸衛右執戟 中鎮兵曹参軍 下戍主 諸折衝隊正 従九品上 : 尚書主事 御史台主事 秘書省主事 殿中省主事 奉礼郎 律学助教 弘文館校書 大史局司歴 太医署医助教 京兆府監録事 河南府監録事 太原府監録事 九寺監録事 少府監録事 将作監録事 都督録事市令 都護府録事市令 上州録事市令 宮苑総監主簿 上中県尉 従九品下 : 内侍省主事 国子監録事 崇文館校書 書学博士 算学博士 門下典儀 太医署按摩 太医署祝禁博士 太卜署卜博士 太医署針助教 太医署医正 太卜署卜正 太史局監候 掖庭局宮教博士 太官署監膳 太楽鼓吹署楽正 大理寺獄丞 中下州医博士 中下県尉 下関令 中関丞 諸衛羽林長上 諸津丞 諸折衝府隊副 諸率府左執戟 諸率府右執戟 流外一等 : 諸衛録事 都水監録事 羽林軍録事 尚書省令史 中書省令史 門下省令史 御史台令史 太常寺謁者 司儀署諸典書 河渠署河堤謁者 太医署医針師 内侍省寺人 視流外一等 : 薩宝府祓祝 流外二等 : 太卜署卜助教 秘書省令史 殿中省令史 内侍省令史 城門館令史 符宝館令史 夕文館令史 通事令史 尚書省書令史 門下省書令史 中書省書令史 御史台書令史 太常寺祝史 宮苑総監録事 典客署典客 親勛翊衛府録事 太史局漏刻博士 御史台殿中令史 流外三等 : 城門書令史 符宝書令史 秘書書令史 /殿中書令史 内侍省書令史 御史台書令史 諸牧園苑監録事 諸倉監録事 諸関津録事 諸衛羽林軍府令史 太子詹事府令史 尚食局主食 秘書省諸局書令史 殿中省諸局書令史 内侍省諸局書令史 内侍省?典引 尚薬局太医署按摩祝禁師 太常寺賛引 太医署医工 太医署針工 太卜署卜師諸計史 率更寺漏刻博士 流外四等 : 諸衛羽林軍史 門下省主宝 門下省主符 太医主薬 門下省伝制 中書省伝制 太医署按摩祝禁工 御史台監察史 視流外四等 : 薩宝府率 流外五等 : 大理寺司直平事史 諸署農圃監 諸牧園苑監史 諸都護府史 太官署監膳史 良?署掌? 掌醢署主醢 諸典事 親勛翊衛率府史 大理寺獄史 視流外五等 : 薩宝府史 流外六等 : 親勛翊衛府史 諸倉関津府史 太医署薬園師 諸亭長 流外七等 : 門下省主節 諸掌固 大史監歴生 天文観生 諸倉関津史 諸倉計史 流外八等 : 守宮署掌設 流外九等 : 国子学廟干 太公廟干 諸輦者 爵[編集] 正一品 : 王 従一品 : 嗣王 郡王 国公 正二品 : 開国郡公 従二品 : 開国県公 従三品 : 開国侯 正四品 : 開国伯 正五品 : 開国子 従五品 : 開国男 勲[編集] 正二品 : 上柱国 従二品 : 柱国 正三品 : 上護軍 従三品 : 護軍 正四品 : 上軽軍都尉 従四品 : 軽車都尉 正五品 : 上騎都尉 従五品 : 騎都尉 正六品 : 驍騎尉 従六品 : 飛騎尉 正七品 : 雲騎尉 従七品 : 武騎尉 散官[編集] 文官[編集] 従一品 : 開府儀同三司 正二品 : 特進 従二品 : 光禄大夫 正三品 : 金紫光禄大夫 従三品 : 銀青光禄大夫 正四品上 : 正議大夫 正四品下 : 通議大夫 従四品上 : 太中大夫 従四品下 : 中大夫 正五品上 : 中散大夫 正五品下 : 朝議大夫 従五品上 : 朝請大夫 従五品下 : 朝散大夫 正六品上 : 朝議郎 正六品下 : 承議郎 従六品上 : 奉議郎 従六品下 : 通直郎 正七品上 : 朝請郎 正七品下 : 宣徳郎 従七品上 : 朝散郎 従七品下 : 宣議郎 正八品上 : 給事郎 正八品下 : 征事郎 従八品上 : 承奉郎 従八品下 : 承務郎 正九品上 : 儒林郎 正九品下 : 登仕郎 従九品上 : 文林郎 従九品下 : 将仕郎 武官[編集] 従一品 : 驃騎大将軍 正二品 : 輔国大将軍 従二品 : 鎮軍大将軍 正三品上 : 冠軍大将軍 懐化大将軍 正三品下 : 懐化将軍 従三品上 : 雲麾将軍 帰徳大将軍 従三品下 : 帰徳将軍 正四品上 : 忠武将軍 正四品下 : 壮武将軍 懐化中郎将 従四品上 : 宣威将軍 従四品下 : 明威将軍 帰徳中郎将 正五品上 : 定遠将軍 正五品下 : 寧遠将軍 懐化郎将 従五品上 : 游騎将軍 従五品下 : 游撃将軍 帰徳郎将 正六品上 : 昭武校尉 正六品下 : 昭武副尉 懐化司階 従六品上 : 振威校尉 従六品下 : 振威副尉 帰徳司階 正七品上 : 致果校尉 正七品下 : 致果副尉 懐化中侯 従七品上 : 翊麾校尉 従七品下 : 翊麾副尉 帰徳中侯 正八品上 : 宣節校尉 正八品下 : 宣節副尉 懐化司戈 従八品上 : 禦侮校尉 従八品下 : 禦侮副尉 帰徳司戈 正九品上 : 仁勇校尉 正九品下 : 仁勇副尉 懐化執戟長上 従九品上 : 陪戎校尉 従九品下 : 陪戎副尉 帰徳執戟長上




とくとう(犢頭)
現在の江蘇省淮陰県の犢頭鎮 を指す。




とごふ(都護府)
中国の漢、後漢、唐で西域などの征服地に置かれた辺境警備と占領地行政を兼ねた地方官。唐では六つの都護府が置かれたが、 次第に有名無実化した。
漢が前59年に西域を統治するために置いた西域都護が始まりで、その後、後漢では光武帝の時、班超を派遣して亀茲(クチャ) に都護府を設置した。
唐の六都護府
唐は帰属した異民族の地域に、六つの都護府を置き、都護には中央から派遣し、その下の都督、州の刺史には 現地の族長を任命した。このような現地の異民族に一定の地位を与えて支配する政策を羈縻政策という。 唐の六都護府は、太宗の時に安東、安西、安南、安北、単于、北庭の六ヶ所に置かれ、その下に鎭戎が置かれて 辺境防備に当たった。唐中期以降は、府兵制の崩壊に伴い、辺境の防備は都護府に代わり節度使(藩鎮)が管轄するようになる。 なお、都護府の名称は変更されたことも多く一定ではない。
安東都護府 唐の六都護府の一つ。朝鮮および東北地方の統治のため、高句麗を滅ぼした後、平壌に設置された。 後に朝鮮半島で新羅が自立すると、遼陽に移った。安史の乱で廃止された。
安西都護府 唐の六都護府の一つ。西域経営のため、高昌に置かれた。後に亀茲(クチャ)に移る。 790年、吐蕃に占領された。
安南都護府 唐の六都護府の一つ。北部ベトナムのハノイに置かれた。9世紀には南詔に占領され、 さらにベトナムに大越国が成立して滅んだ。なお、遣唐使として唐にわたり、日本に帰れなくなって唐朝に使えた阿倍仲麻呂は、 この安南都護として赴任した(後に安南節度使となる)。
安北都護府 唐の六都護府の一つ。外モンゴルの統治のために設けられた。682年、再び有力となった東突厥に押されて、 陰山方面に移動した。
単于都護府 唐の六都護府の一つ。内モンゴルの統治のために設けられた。 唐に服属したトルコ系の東突厥がその支配に従っていた。しかし、682年に突厥第二帝国として自立し、 単于都護府は実態がなくなった。
北庭都護府 唐の六都護府の一つ。中国西北部、現在の新疆ウイグル自治区に当たるジュンガリアの統治のために置かれた。 790年、吐蕃に占領された。


とつとつかいじ(咄咄怪事)
とんでもないほどにあやしい出来事。また、たいへんに不都合なけしからぬことをいう 。中国の晋の国の殷浩が左遷されたときに、恨みをこめて無言で空に「咄咄怪事」と書いたという 『晋書(しんじょ)―殷浩伝』にある故事から。「咄咄」は、意外なことに発する驚きの声。 あれとか、おやまあということ。「怪事」は、奇怪な事件のこと。




なんかのゆめ(南柯夢)
はかない夢。また、栄華のむなしいことのたとえ。槐夢(かいむ)。槐安の夢。
[補説]昔、中国で、淳于棼(じゅんうふん)という人が、酔って古い槐(えんじゅ)の木の下で眠り、 夢で大槐安国に行き、王から南柯郡主に任ぜられて20年の間、栄華をきわめたが、 夢から覚めてみれば蟻(あり)の国での出来事にすぎなかったという、唐代の小説「南柯記」の故事から。


なんきん(南京)
古くから長江流域・華南の中心地で、かつては三国・呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳(以上の6朝を総称して六朝)、十国の南唐や明 といった王朝や南京国民政府の首都であり、中華民国(台湾)は南京を公式な首都として大陸地区への統治権を主張している。 世界文学都市(ユネスコ文学都市)[2]と中国四大古都の一つ。多数の政権が同時に存在する場合、長期にわたって正統的な 中華(中華正朔)と見做される。14世紀から15世紀にかけて、世界最大の都市であった[3]。2019年末の都市的地域の人口は850万人であり、 総人口は1031.22万人である[4]。夏はとても暑く、重慶、武漢と並ぶ中国三大ボイラー(三大火炉)の一つと言われている。 市中心部の東には世界遺産の明孝陵という陵墓を始め、中山陵、孫権墓、釈迦牟尼仏頂骨舎利塔、紫金山天文台などの観光地があり、 国の内外より多くの観光客が訪れる。
地名について
金陵(きんりょう)集慶、昇州、白下、蒋州、應天、秣陵、建業、建?、建康は南京の別名である。また清朝のころには江寧 (こうねい、簡体字:江?)と呼ばれたことから、中華民国(台湾)の公式の略称「京」と異なり、中華人民共和国の公式略称は 「寧(簡体字:?)」である。
春秋・戦国時代
南京の歴史は春秋時代に呉がこの地に城を築いたことに始まる。 戦国時代に呉を征服した楚は金陵邑を設置。その後秦朝による 統一事業が達成され、始皇帝がこの地に巡幸してきた際に、「この地に王者の気がある」と言われ、それに怒って地形を 無理やり変えてこの地の気を絶とうとした。また名前も金から秣(まぐさ)の秣陵県と改称している。
三国時代
三国時代になると呉の孫権が229年に石頭城という要塞を築いて建業と称してこの地に都を置いた。西晋にて一旦、建業とされた後に 司馬?(愍帝)を避諱して建康と改められ、東晋及びその後の四王朝(宋、斉、梁、陳)の都となった。呉を含めた六国が全て同じ地に 都を置いたことから六朝時代の名がある。
隋代 - 元代
隋代には江寧県、唐代には金陵県、白下県、上元県と改称されている。隋唐代には新たに開削された大運河により、長江対岸の 揚州が物資の集積地となり、この地域の中心地としての地位を奪われた恰好となり、往時の都としての繁栄は見られなくなった。
唐崩壊後の五代十国時代には、南唐の都城である金陵府が置かれ、後に改名されて西都と称する。 明代
明の太祖朱元璋(洪武帝)は1356年、集慶路と呼ばれていたこの地を征服し、以後ここを根拠地として全土を統一するに至った。
1368年、応天府と改められ、首都とする。
1421年には、靖難の役で皇位を簒奪した永楽帝により首都が北京(順天府)へ遷都され、「南京」と改められる。なお、 この遷都に批判的であった息子の洪熙帝は即位後直ちに都を南京に戻そうとしたが、在位1年に満たずに急死したため計画は中止となる。 このため、北京が国都として確定したものの、洪武帝の陵墓(明孝陵)のある南京もまた明朝創業の地として重要視されて副都としての 扱いを受けた。
明一代に於いて首都北京周辺の北直隷に対して副都南京周辺は南直隷とされ、南京には首都北京に異常があった際に備えて北京に 置かれた朝廷を縮小したもの(南京六部)が置かれていた。


なんが(南 画)
中国の南宗画に由来する 日本的解釈の江戸時代中期以降の画派・画様の用語である。文人画ともいう。
南宗画は17世紀に明の莫是龍を受け継いだ董其昌(1555年 - 1630年)の画論『画禅室随筆』で流布した。即ち、 禅に南北二宗があるのと同様、絵画にも南北二宗がある。李思訓から馬遠、夏珪に連なる北宗派の「鉤斫之法」 (鉄線描、刻画)に対し、王維の画法?淡(暈し表現)から始まり、董源、巨然、米?、米友仁、元末四大家に連なる水墨、 在野の文人・士大夫の表現主義的画法を称揚した流派である[1]。
日本南画は日本初期文人画の祇園南海(1676年 - 1751年)(紀州藩儒官)や柳沢淇園(1676年 - 1751年) (甲府藩家老の子)から始まる。祇園南海は『八種画譜』を独学し長崎派の河村若芝に添削指導を受け、 柳沢淇園も長崎派の英元章に学び、中国の在野文人の画法を瞳憬し、日本的風景に近い暈し表現を主とした 南宗画を範として狩野派と対抗した。その後、池大雅(1723年 - 1776年)、与謝蕪村(1716年 - 1784年)により大成され、 浦上玉堂(1745年 - 1820年)、谷文晁(1763年 - 1841年)、田能村竹田(1777年 - 1835年)、山本梅逸(1783年 - 1856年)、 渡辺崋山(1793年 - 1841年)等江戸時代後期の一大画派となった。明治20年にフェノロサ、岡倉覚三(天心) 主導の東京美術学校開設で「つくね芋山水」としてマンネリ化した南画は旧派として排除された。しかし、 富岡鉄斎(1837年 - 1924年)が傑出し、その後、小川芋銭(1868年 - 1938年)、冨田溪仙(1868年 - 1938年)、 小杉放庵(1888年 - 1964年)等も近代的南画表現を行っている。 池大雅の弟子桑山玉州は『絵事鄙言』で松花堂昭乗、 俵屋宗達、尾形光琳も南宗に加え[2]中国の南宗派、文人精神への憧れとたらしこみ?淡画様式を南画としてとらえている。 南画に限らず日本水墨画は「気韻生動(運気の響き、風格・気品がいきいきと満ち溢れている)」と 「写意」を第一とするが、南画には加えて、逸品、逸格、「去俗」を重要視した。


なんせんほくば(南船北馬)
中国の南部は川が多いので船を用い、北部は山や平原が多いため馬を利用して旅をした。 そういった手段を絶えず利用していることから、頻繁に旅をするという意味になった。 『淮南子』に「胡人は馬を便とし、越人は舟を便とす」とあるのに基づく。





なんそう(南宋)
(1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。 首都は臨安(杭州市)であった。
北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。 そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝)で解説することとする。
南遷
靖康元年(1126年)、北宋最後の皇帝欽宗が金によって開封から北に連れ去られ(靖康の変)、北宋が滅亡した後、欽宗の弟の趙構(高宗)は 南に移って、翌年の建炎元年(1127年)に南京(現在の商丘市)で即位し、宋を再興した。はじめ岳飛・韓世忠・張俊らの活躍によって 金に強固に抵抗するが、秦檜が宰相に就任すると主戦論を抑えて金との和平工作を進めた。
和平論が優勢になる中で、高宗の支持を得た秦檜が完全に権力を掌握し、それまで岳飛などの軍閥の手に握られていた軍の指揮権を朝廷の 下に取り戻した。紹興10年(1140年)には主戦論者の弾圧が始まり、特にその代表格であった岳飛は謀反の濡れ衣を着せられ処刑された。 こうした犠牲を払うことにより、紹興12年(1142年)、宋と金の間で和議(紹興の和議)が成立し、淮河から大散関線が宋と金の国境線となり、 政局が安定した。
孝宗の治世
秦檜の死後に金の第4代皇帝海陵王が南宋に侵攻を始めた。金軍は大軍であったが、采石磯の戦い(紹興31年、1161年)で勝利し、 撃退した。海陵王は権力確立のため多数の者を粛清していたため、皇族の一人である完顔雍(烏禄、世宗)が海陵王に対して反乱を起こすと、 金の有力者達は続々と完顔雍の下に集まった。海陵王は軍中で殺され、代わって完顔雍が皇帝に即位し、宋との和平論に傾いた。 同年、高宗は退位して太上皇となり、養子の趙?(孝宗)が即位した。南宋と金は1164年に和平を結んだ (隆興の和議、または乾道の和議とも言う)。
金の世宗、南宋の孝宗は共にその王朝の中で最高の名君とされる人物であり、偶然にも同時に2人の名君が南北に立ったことで平和が訪れた。
孝宗は無駄な官吏の削減、当時乱発気味であった会子(紙幣)の引き締め、農村の体力回復、江南経済の活性化など様々な改革に取り組み、 南宋は繁栄を謳歌した。
韓?冑時代
孝宗は淳熙16年(1189年)に退位して上皇となり、光宗が即位するが、光宗は父に似ず愚鈍であり、慈懿皇后の言いなりになっていた。 この皇帝に不満を持った宰相趙汝愚・韓?冑などにより光宗は退位させられた。韓?冑はこの功績により権力の座に近づけると思っていたが、 韓?冑の人格を好まない趙汝愚たちは韓?冑を遠ざけた。これに恨みを持った韓?冑は趙汝愚たちの追い落とし運動を行い、 慶元元年(1195年)、趙汝愚は宰相職から追われ、慶元3年(1197年)には趙汝愚に与した周必大・留正・王藺・朱熹・彭亀年ら59人が 禁錮に処せられた。慶元4年(1198年)には朱熹の朱子学(当時は道学と呼ばれる)も偽学として弾圧された(慶元偽学の禁)。 この一連の事件を慶元の党禁という。
韓?冑はその後も10年ほど権力を保つが、後ろ盾になっていた恭淑皇后と慈懿皇太后が相次いで死去したことで権力にかげりが出てきた。 おりしも金が更に北方のタタールなどの侵入に悩まされており、金が弱体化していると見た韓?冑は、南宋の悲願である金打倒を成し 遂げれば権力の座は不動であると考え、開禧2年(1206年)に北伐の軍を起こす(開禧の北伐)。
しかしこの北伐は失敗に終わる。実際に金は苦しんでいたが、それ以上に南宋軍の弱体化が顕著であった。 開禧3年(1207年)、金は早期和平を望んで韓?冑の首を要求した。それを聞いた礼部侍郎(文部大臣)の史弥遠により韓?冑は殺され、 首は塩漬けにされて金に送られ、翌年の嘉定元年(1208年)に再び和議がもたれた(嘉定の和議)。
モンゴルの脅威
韓?冑を殺した史弥遠が今度は権力を握り、その後26年にわたって宰相の地位に就く。この時期に北のモンゴル高原にはモンゴル帝国が 急速に勢力を拡大していた。史弥遠が死去した紹定6年(1233年)にモンゴルは金の首都開封を陥落させ、 南に逃げた金の最後の皇帝哀宗を宋軍と協力して追い詰めて、翌1234年に金は滅びた。
その後、モンゴルは一旦北に引き上げ、その後を宋軍は北上して洛陽・開封を手に入れた。しかしこれはモンゴルとの和約違反となり、 激怒したモンゴル軍は1235年に南進を開始する。この戦いにおいて孟?がモンゴル軍相手に大活躍し1239年に襄陽を南宋が奪還した。 その後は、しばらくは一進一退を繰り返すことになる。
やがて、開慶元年(1259年)に釣魚城の戦い(中国語版)が行なわれ、モンケ親征軍が出陣した。
滅亡へ
詳細は「モンゴル・南宋戦争」を参照
しかしモンケはこの遠征途中で病死する。このときにクビライが攻めていた鄂州に援軍にやってきた賈似道はこれを退却させた (この戦いでは賈似道とクビライとのあいだに密約があったと後にささやかれることになる)。
モンゴルを撃退した英雄として迎えられた賈似道は、その人気に乗って宰相になり、専権を奮う。賈似道は巧みな政治手腕を示し、 公田法などの農政改革に努める一方で人気取りも忘れず、その後15年にわたって政権を握った。
しかしモンゴル平原でアリクブケを倒し、権力を掌握したクビライが再度侵攻を開始し、南宋が国力を総動員して国土防衛の拠点とした襄陽を、 1268年から1273年までの5年間にわたる包囲戦(襄陽・樊城の戦い)で陥落させると、南宋にはもはや抵抗する力が無く、 賈似道は周りの声に突き上げられてモンゴル戦に出発し、大敗した。
徳祐2年(1276年)、モンゴルのバヤンに臨安を占領されて、事実上宋は滅亡した。このとき、張世傑・陸秀夫ら一部の軍人と 官僚は幼少の親王を連れ出して皇帝に擁立し、南走して徹底抗戦を続けた。祥興2年(1279年)に彼らは広州湾の崖山で元軍に撃滅され、 これにより宋は完全に滅びた(崖山の戦い)。
政治
中央官制のみの記事になっているが、これ以外では北宋とさほど大きな違いは無いので、その他の事については北宋#政治を参照のこと。
官制
南宋の官制は北宋の元豊体制(元豊の改革を参照)を基本的に引き継いでいる。
元豊体制での宰相は尚書左僕射兼門下侍郎・尚書右僕射兼中書侍郎の2人で、徽宗代にこの2つを大宰・小宰と改名されたが、 南宋になってから一時同中書門下平章事・参知政事が復活されたりし、最終的に孝宗の隆興元年(1163年)に左僕射を左丞相・右僕射を右 丞相として2人の宰相とし、副宰相として参知政事を付けた。
南宋の官制というよりは、南宋の政治史の特徴として「独裁宰相」の時代が非常に長かったことが挙げられる。 南宋初の秦檜・孝宗時代を挟んで韓?冑・韓?冑を殺した史弥遠・そして南宋末の賈似道である。この4人が政権を握っていた時代は 南宋150年のうち70年近くにわたる。もっとも、南宋は北宋時代に引き続いて出身地や思想・学問上の対立などが絡んだ党派対立が激しく、 こうした「独裁宰相」に対する悪評も反対派およびこれをもてはやす当時の民衆の感情に由来するところが大きく、 また諌官・御史台系の言論を職務とする官僚の進言によって皇帝がしばしば人事や政策をひっくり返してきた宋代において、 政敵の徹底的排除なくして政権を保つことができなかった実情も無視することはできない。南宋時代に長期政権を維持した 他の宰相(王淮・史嵩之・丁大全など)にも類似の傾向をみることができる[1]。
これ以外の点では元豊体制とほぼ変わらず、2人の丞相の下に来るのが実務機関たる六部(戸部・吏部・刑部・兵部・礼部・工部)である。 ただ唐代には人事権が吏部の元に集約されていたが、宋では高級文武官の人事は中書と枢密院、特に中書の手に握られていたことが 大きな違いである。
更に言えば戸部・吏部・刑部の三者に比して兵部・礼部・工部の三者の重要性が著しく劣るということは特筆すべきことと思われる。 兵部は枢密院が存続しているために実質的に取り扱うことは少なく、礼部・工部は元より重要性が低い。 そのため例えば礼部尚書として他の戸部尚書などと同格として扱われているものの実質的にはその権能は限られたものであり、 いわゆる「伴食大臣」となっていたのである。
一見すると「伴食大臣」を朝廷に置いておくことは無意味に思える。しかしこれら「伴食大臣」に実務能力は低いものの 硬骨な人物を置いておき、いわばこれを「御意見番」として取り扱うことが朝廷のバランスを取る上で一定の意味があったと 考えられるのである[2]。
国際関係
概説
南宋の外交相手として最も重要なのは北宋を滅ぼし華北を支配した金、そしてその金を滅ぼし最後は南宋を滅ぼした元(モンゴル帝国)である。 北宋時代に関係があった高麗や西夏などとは地理的に離れたことにより関係が薄くなる。逆に海上技術が進んだこと、 平清盛の登場などにより日本との関係は盛んになる。
宋を従えた金は高麗・西夏・大理国なども従え東アジアの覇者となった。しかしその経済的地盤は弱く、宋からの歳貢が無ければその 経済活動を支えきれず、その歳貢にしても宋からの輸入品に対する決済で使い果たされる状態であった。
宋と金とは約100年にわたって中国を二分していた。両国の間では金から宋に対しては馬・絹などが、宋から金に対しては 銀・銅銭・陶磁器・香料・書画・書物などが交易でやり取りされた。ここで特筆すべきことがこの交易品目は北宋代に 華北と江南でやり取りされていたものとほとんど同じであるということである。つまり北と南で治める国が異なるとはいえ、 江南の物資が華北を支えるという中国の経済システムはほとんど変わりなく、更に発展を遂げていたのである。 その後の元、更には明・清の経済システムも基本的にはこの延長線上にあるものである。
各国との関係

1127年、金軍は開封を包囲陥落させ、欽宗・徽宗以下官僚・皇族数千人を北へ連れ去り、開封には傀儡として宋の大臣張邦昌を皇帝に据え、 楚と号させることにした(靖康の変)。
金軍が引き上げた後、張邦昌は今後の対応を哲宗の皇后であった孟氏の薦めにより、皇帝を退位し欽宗の弟の趙構を南京応天府 (現在の商丘市)にて帝位に迎えた(高宗)。1132年に高宗は金の追撃を避けて杭州へと逃げ込み、ここを仮の首都として臨安と称した。
1130年に金は粘没喝の主導の下、宋の地方知事であった劉豫を傀儡の皇帝に据え、斉と号させた。金と斉は宋を何度も攻撃するが、 宋の側もある程度の体勢を整え、軍閥勢力を中心とした軍をもって金・斉軍に対抗したため膠着状態に陥った。 ここで粘没喝の政敵である撻懶は方針を転換、捕らえていた秦檜を解放し、宋を滅ぼすのではなく有利な条件での和約を望むようになった。
撻懶の思惑通り秦檜は宋の朝廷で力を発揮し和平論を進め、1138年に
斉は解体し、その領土は宋のものとする。
宋帝は金帝に対して臣礼をとる。
宋から金に銀25万両・絹20万匹を歳貢として送る。
などの条件で和約が結ばれた。
その直後に撻懶が粘没喝らにより殺され、和約は一旦破棄され、金軍は再び宋を攻撃するが、岳飛らの奮闘により戦線は 一進一退の様相を呈した。秦檜は早期の再びの和約を望んで岳飛ら軍閥勢力を押さえ込み、1141年に絹5万匹の増額・ 「宋が金に対して臣節をとる」などの条件変更で再び和約が締結された(紹興の和議)。
銀絹25万という額は巨額に思えるが、宋の財政規模からいえばさほど大したものではない。それよりも金に対して臣とし、 歳貢を送るとなっていることが重要である。遼に対しても弱い立場であった宋であったが遼に対して兄と一応上の名分を保持しており、 遼に対して送る財貨も幣(対等な相手に対する贈り物の意)とされていた。ところが金に対しては臣として仕えねばならず、 送る財貨も貢(主君に対する貢物の意)とされたことは名分を強く重んじる宋学的考えからは到底認めがたい物であり、 南宋を通じて北伐論は止むことが無かった。
1149年に金の3代皇帝熙宗を殺して新たに帝位に就いた海陵王は1161年に再び和約を破棄し、南宋へと侵攻した。 しかし強引に金国内を統制していたため遠征を契機として反乱が続出し、最終的に海陵王は殺され、新たに世宗が擁立された。 世宗は国内統制に忙しいため宋に対して
国境は現状維持。
金が君・宋が臣の関係から金を叔父・宋を甥の関係にする。
歳貢を歳幣に改め、銀絹それぞれ5万の減額。
とかなり宋に譲歩した和約を結んだ(乾道和約)。
宋の孝宗・金の世宗の2人の名君の下で両国の間は平和な時代を迎えたが、北方でモンゴルの動向が激しくなり、 金はモンゴルの侵攻に苦しむようになる。寧宗時期で専権を振るった韓?冑は金の窮状を好機と捉え、1206年に北伐を開始する(開禧用兵)。 しかしこの出兵は失敗に終わり、韓?冑の首、歳幣の銀・絹それぞれ10万の増額、賠償金300万などの条件で和約が結ばれた。
宋軍の侵攻は退けたもののモンゴルではチンギス・カンが登場し、その攻撃は年々強力になっていた。モンゴルの侵攻の中で金の下から 契丹人が離反、1214年に金の朝廷は攻撃を避けて開封へと遷都する。宋は弱体化した金に対する歳幣を停止し、金は宋を攻撃するが、 これを撃退した。
追い詰められた金に対してモンゴルは宋に共同戦線を持ちかけてきた。宋朝廷ではかつて金と結んで遼を滅ぼし、 自らも滅ぼされた海上の盟のことを思い出せとの慎重論もあったが、主戦論が大勢を占め、金への攻撃が決定された。 そして1234年、金の最後の皇帝哀宗は自殺し、金は完全に滅亡した。
モンゴル・元
金が滅ぼされるとその領土は蔡州と陳州とを結ぶ線を国境とし、東南を宋が西北をモンゴルが取る約束であったが、 宋朝廷はこの機会に開封を回復したいと望んで、盟約を反故にした。
背信に怒ったモンゴル皇帝オゴデイは宋に対する攻撃を行い、四川の大半を陥落させるが、宋側も抵抗し、戦線は膠着した。 更に1241年にオゴデイが崩御し、その後継を巡ってグユクとモンケの間で争いが起こり、最終的に1251年にモンケが反対派を粛清して 国内を治めた。
国内を安定させたモンケは弟のクビライに対して大理国の征伐を命じ、クビライはこれに応えて1253年に征服を完了。 モンケ自身も1258年に親征し、クビライ・ウリヤンカダイを別働軍として三方向から宋を攻める大戦略に出た。
しかし1259年にモンケが崩御。後継を巡ってクビライと末弟のアリクブケの間で争いとなり、1264年にアリクブケが降伏して クビライが勝利。その後しばらくはクビライは国内統制に力を取られるが、1267年になって宋に対する再侵攻を開始。 宋も抵抗を続けるが、1276年に臨安を占領され、更に1279年に最後の皇帝衛王も入水自殺し、宋は完全に滅亡した。 南宋の皇族は大都に送られ、丁重に扱われたが、一部の遺臣は陳朝に亡命した。
日本
日宋貿易も参照
長い間、宋が能動的・日本が受動的で進められていた日宋貿易であったが、日本国内の経済的発展により、 貴族たちの物質的豊かさに対する欲求は増加し、朝廷・大宰府による貿易統制は徐々に崩れていった。 その流れは平氏政権の成立とともに更に加速し、平清盛は日宋貿易を国の財政の根幹とするべく一時福原京に遷都した。
一方、宋側の態度は北宋時代と同じく民間交易は認め、それに課税して収入とするというものである。
交易される物品は宋から日本へは絹・陶磁器・薬品・書物・経典・銅銭など、日本から宋へは金・銀・真珠・硫黄・工芸品などである。
航海技術に不安のあった日本商船は最初は高麗へ訪れ、経験を積んだ後に南宋へと訪れていった。日本船が宋の記録に 初めて現れるのが紹興15年(久安元年、1145年)に「日本商人男女19人が温州に漂着した」[3])というのが最初で、 南宋末までに10数例がある。ただしこれは記録に残すような特別な事例がこれだけということであって、 実際の数はこれよりもはるかに多かったと推察される。
平氏政権が倒れ、鎌倉幕府が成立すると民間による交易は認めるが、清盛のように自ら交易に乗り出すことは無くなり、 不干渉の態度を取った。そのため民間交易は一層進展し、源実朝は宋の僧侶の話を聞いて宋へと渡ることを企図したといい、 当時宋へと渡ることの危険性がかなり減少していたことをうかがわせる。また、鎌倉幕府も御分唐船という 直営の交易船を出すようになったと言われているが、詳細については不明である。
鎌倉時代の中期頃になると幕府は海外交易に対して次第に統制をかけるようになり、建長6年(1254年)に 唐船は5隻までそれ以上は破却せよという命令を出している[4]。その命令の前後より宋はモンケの親征(1253年 - 1259年)を受けた。
咸淳2年(1266年、元至元3年、日本文永3年)には元から日本へ使節が送られているが、その主な目的は日本と南宋との繋がりを絶って、 南宋攻略への足がかりにすることにあったと考えられる。更にクビライの親征(1268年 - 1279年)に代わって、 1279年の崖山の戦いでついに滅亡した。
宋が滅んだ後、元寇などがあって日本と元政府との間は緊張状態にあったが、民間交易はなおもって盛んであり、 日宋貿易は基本的に日元貿易へと引き継がれた[5]。





なんぽくちょうじだい(南北朝時代)
北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。 この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。 同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、 この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南(長江以南)の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、 江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、 六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。 また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、 貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。 東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。 その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。 普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。 李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。







にじゅうしせっき(二十四節気)
1太陽年を日数(平気法)あるいは太陽の黄道上の視位置(定気法)によって24等分し、 その分割点を含む日に季節を表す名称を付したもの。二十四気(にじゅうしき)ともいう。
二十四節気は中国の戦国時代の頃、太陰暦の季節からのずれとは無関係に、季節を春夏秋冬の 4等区分する暦のようなものとして考案された区分手法のひとつで、一年を12の「節気」(正節とも) と12の「中気」に分類し、それらに季節を表す名前がつけられている。重要な中気である夏至・冬至の 二至、春分・秋分の二分は併せて二至二分(にしにぶん)と言い、重要な節気である 立春・立夏・立秋・立冬を四立(しりゅう)、二至二分と四立を併せて八節(はっせつ)という。 太陰太陽暦では暦と季節のずれを正すものとして用いられる。
二十四節気はほんらい中国の中原を中心とした地域の気候をもとに名づけられており、日本で体感する 気候とは季節感が合わない名称や時期がある。違いを大きくするものとして日本では梅雨や 台風がある。例えば夏至はまだ梅雨の真っ只中にあり蝉はまだ鳴き始めていない。小暑では蒸し暑さは 増すものの七夕を眺めるような晴れの空は期待できず、暑中ではあるのに地域によって梅雨寒と なることもある。大暑は「最も暑い時候」と説明されるが、盛夏は立秋の前後がピークとなる。 日本ではこのような事情を補足するため二十四節気のほかに、土用、八十八夜、入梅、半夏生、 二百十日などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取り入れた。なお、二十四節気や雑用は旧暦に 追記されて発行されていた。旧暦日付は年ごとに月がおよそ1朔日間(およそ29.5日)の範囲で誤差が 生じるため、二十四節気の日付は毎年異なる。それでも四立や八節に加えて一年の中の季節を分ける 目やすとしては十分であった。さらに各気各候に応じた自然の特徴が記述されるものとして二十四節気 をさらに約5日ずつに分けた七十二候という区分けもあり、二十四節気と併せて暦注などに記された。 これらは日付とは独立したわずかな季節変化を感じ取り、農事暦として利用したり旬を楽しむ生活暦 として使われた。
明治5年以降は太陽暦をもとにしたグレゴリオ暦(いわゆる新暦)が採用されたため二十四節気の 日付は毎年ほぼ一定となるようになった。一方で新暦は旧暦に対して年初の定義の違いで日付には いわゆる「月遅れ」が生じることなった。日付の月遅れによるそれまでの慣習との違い(例として、 盆の節会を行う日が新暦7月と新暦8月に別れてしまっている。旧暦7月の「文月」は「秋」になり、 二百十日は旧暦7月中旬から旧暦8月上旬になる)と、二十四節気の中国風の定義(上述の例)により、 現在でも若干の違和感を覚え、「暦の上では……・・・」と前置きして説明されることがある。
このような事情から2011年、日本気象協会は現代日本の気候に合わせた新しい二十四節気を創造する事 を目標とした準備委員会を設けた。一般からも意見を募り、2012年の秋頃には「21世紀の二十四節気」 を発表し、周知させていきたいという意向を示していた[1][2]。しかしこれまで培われた微妙な季節感 を混乱させるとして反対の声が多く寄せられたことから、2012年9月にこの計画は中止となった。
2016年10月31日、中国の「二十四節気」のユネスコ無形文化遺産への登録勧告が決定した[3]。




にっそうかん(日想観)
仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢおよび衆生、まさに心をもつぱらにし念を一処に繋けて、 西方を想ふべし。いかんが想をなす。おほよそ想をなすといふは、一切衆生、生盲にあらざるよりは、 有目の徒、みな日没を見よ。まさに想念を起し正坐し西向して、あきらかに日を観じて、 心をして堅住ならしめて専想して移らざれば、日の没せんと欲して、状、 鼓を懸けたるがごとくなるを見るべし。すでに日を見ること已らば、閉目・開目に、 みな明了ならしめよ。これを日想とし、名づけて初めの観といふ。




にんぽう(寧波)
浙江省に位置する副省級市、計画単列市に指定されている。長江デルタ南翼経済中心、浙江省経済中心。
沿海部の港湾都市として商工業が発達しているが、同時に古い歴史を誇り国務院から国家歴史文化名城に指定されている。 年間貨物取扱量が世界一の港ー寧波港の所在地。
日本において中国の地名は、北京や上海といった主要都市を除いては日本語読みで呼称されることが多いが、 寧波は慣用的に"ニンポー"と読まれることが多い。 市域は杭州湾南岸から三門湾に至る沿海部を占める。寧波旧市街は甬江河口から少し遡行した場所にある。 河口部右岸の北侖は深水良港となっている。沖合いには舟山列島(舟山市)が浮かび、外洋は東シナ海(中国語では東海)である。 西方は紹興市や台州市と接する。
温暖湿潤気候(Cfa)に属し、年間平均気温は17.2℃。
7000年前の稲作文化として名高い河姆渡遺跡を有し、春秋時代には越の地であった。戦国時代中期に楚に併合され、 紀元前222年秦に統一されて会稽郡が設置された。唐代の開元年間に明州と呼ばれ、南宋では慶元府、元代には慶元路と称された。 2度目の元寇、1281年の弘安の役では、江南軍10万、約3500隻が日本へ向け出港したが、帰ってきた者はわずか1割から2割ほどだった。 ただ古くから日本と交流のあった旧南宋人は日本で捕虜となった後も処刑されず助命され、九州などの宋人街などに住んでいた。 明建国間近の1367年、再び明州の呼称に戻り、清代に寧波府と称されるようになった。この呼称が現在でも受け継がれている。
唐代から日本、新羅、東南アジアの船が往来し、宋・元の時代にも日本の仏僧が遊学した。宋代より市舶司が設置された。 外国船の入港地が国ごとに決められていた明代には寧波が日本の指定港となり[1]、日明貿易(勘合貿易)が行われるが、 1523年の寧波の乱ののちに日本船の入港が禁止されると、倭寇や海賊の横行が激しくなり、16世紀半ばには朝廷から朝貢を拒絶された ポルトガル船が沖合いの双嶼(六横島)で密貿易を行った。16世紀末、「唐入り」(文禄・慶長の役)を試みた豊臣秀吉は、 中国征服の後は自らの居を寧波に構えようと考えていた。
1842年の南京条約で対外開港した。
また、日中戦争時には日本の731部隊によるペスト菌攻撃の標的となった場所としても知られている。1940年10月27日早朝の攻撃では、 低空飛行の飛行機から細菌をまく方法で行われ、この時使われたノミは、ペスト菌を持つネズミの血を吸い「ペストノミ」となったものだった。 ノミだけではうまく目的地点に到達しない恐れがあり、また着地のショックを和らげる必要もあって、 穀物や綿にまぶして投下した。11月3日までに37人が死亡し、華美病院の丁立成院長が、犠牲者の症状をペスト菌であると宣言している[2]。






ねんぽう(粘法)
隣り合わせの2句の2,4,6字目の平仄が互いに同じの場合を粘法といい、異なる場合を反法という。






はいこう(排行)
一族中の同世代の者(特に、兄弟・いとこ)を年齢の順序で並べた数。古くは伯仲叔季を用い、伯某仲某と呼び、 後世一般には、一(または大)二・三・--を用いて某二・某・三などと呼ぶ。「元二」「李十二白」


はいりつ(排律)
4句からなるものを絶句といい、8句からなるものを律詩、12句以上からなるものを排律(長律)という。 律詩を引き伸ばした、五言または七言の10句以上の偶数句からなる詩体。最初と最後とを除く他の聯(れん)がみな対句をなす。


はくすきえのたたかい(白村江の戦い)
663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、倭国・百済遺民の連合軍と、 唐・新羅連合軍との戦争のことである。
日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」と読まれることが多い。 「白村江」という川があったわけではなく、白江(現錦江)が黄海に流れ込む海辺を白村江と呼んだ[2]。 「江(え)」は「入り江」の「え」と同じ倭語で海辺のこと、また「はくすき」の「き」は倭語「城(き)」 で城や柵を指す[2]。白江の河口には白村という名の「城・柵(き)」があった[2]。ただし、大槻文彦の『大言海』では 「村主:スクリ(帰化人の郷長)」の「村」を百済語として「スキ」としている。漢語では白江之口と書く(旧唐書) 6世紀から7世紀の朝鮮半島では高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していたが、新羅は二国に圧迫される存在であった。
倭国は半島南部に領有する任那を通じて影響力を持っていたことが『日本書紀』の記録から知られている。大陸側でも、 広開土王碑400年条の「任那」の記述が初出である。『宋書』では「弁辰」が消えて438年条に「任那」が見られ、 451年条には「任那、加羅」と2国が併記され、その後も踏襲されて『南斉書』も併記を踏襲していることから、倭国が任那、 加羅と関係が深いことを示している。任那、加羅は、倭国から百済への割譲や新羅の侵略によって蚕食され、 562年以前に新羅に滅ぼされた。
475年には百済は高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落した。その後、熊津への遷都によって復興し、538年には泗?へ遷都した。 当時の百済は倭国と関係が深く(倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していた)、また高句麗との戦いに於いて度々倭国から 援軍を送られている[3]。
一方、581年に建国された隋は、中国大陸を統一し文帝・煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征(隋の高句麗遠征) を行ったもののいずれも失敗した。その後隋は国内の反乱で618年には煬帝が殺害されて滅んだ。そして新たに建国された唐は、 628年に国内を統一した。唐は二代太宗・高宗の時に高句麗へ3度(644年,661年,667年)に渡って侵攻を重ね(唐の高句麗出兵) 征服することになる。
新羅は、627年に百済から攻められた際に唐に援助を求めたが、この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった。 しかし、高句麗と百済が唐と敵対したことで、唐は新羅を冊封国として支援する情勢となった。 また、善徳女王(632年?647年)のもとで実力者となった金春秋(後の太宗武烈王)は、積極的に唐化政策を採用するようになり、 654年に武烈王(?661年)として即位すると、たびたび朝見して唐への忠誠心を示した。 648年頃から唐による百済侵攻が画策されていた[4]。649年、新羅は金春秋に代わって金多遂を倭国へ派遣している。
百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、百済義慈王は飢饉対策をとらず、 655年2月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなど退廃していた[5]。656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた 佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死した。日本書紀でもこのような百済の退廃について「この禍を招けり」と記している[6]。 657年4月にも干ばつが発生し、草木はほぼなくなったと伝わる[7]。このような百済の情勢について唐はすでに643年9月には 「海の険を負い、兵械を修さず。男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『冊付元亀』)として、防衛の不備、 人心の不統一や乱れの情報を入手していた[7]。
659年4月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、また同年「国家来年必ず海東の政あらん。汝ら倭客東に帰ることを得ず」 として倭国が送った遣唐使を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した[7]。
この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化の改新最中の倭国内部でも警戒感が高まった。大化改新期の外交政策については 諸説あるが、唐が倭国からは離れた高句麗ではなく伝統的な友好国である百済を海路から攻撃する可能性が出てきたことにより、 倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で二者択一を迫られることになる。 この時期の外交政策については、「一貫した親百済路線説」「孝徳天皇=親百済派、中大兄皇子=親唐・新羅派」 「孝徳天皇=親唐・新羅派、中大兄皇子=親百済派」など、歴史学者でも意見が分かれている。>
白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、 採用されなかった。
白雉4年(653年)・5年(654年)と2年連続で遣唐使が派遣されたのも、この情勢に対応しようとしたものと考えられている。
斉明天皇の時代になると北方征伐が計画され、越国守阿倍比羅夫は658年(斉明天皇4年)4月、659年3月に蝦夷を、660年3月には粛慎の討伐を行った。
660年、百済が唐軍(新羅も従軍)に敗れ、滅亡する。その後、鬼室福信らによって百済復興運動が展開し、 救援を求められた倭国が663年に参戦し、白村江の戦いで敗戦する。この間の戦役を百済の役(くだらのえき)という[8]。
660年3月、新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、蘇定方を神丘道行軍大総管に任命し、 劉伯英将軍に水陸13万の軍を率いさせ、新羅にも従軍を命じた[9][10]。唐軍は水上から、新羅は陸上から攻撃する 水陸二方面作戦によって進軍した[10]。唐13万・新羅5万の合計18万の大軍であった[1]。
百済王を諌めて獄死した佐平の成忠は唐軍の侵攻を予見し、陸では炭?(現大田広域市西の峠)、 海では白江の防衛を進言していたが、王はこれを顧みなかった[10]。 また古馬弥知(こまみち)県に流されていた佐平の興首(こうしゅ)も同様の作戦を進言していたが、 王や官僚はこれを流罪にされた恨みで誤った作戦を進言したとして、唐軍が炭?と白江を通過したのちに迎撃すべきと進言した[10]。 百済の作戦が定まらぬうちに、唐軍はすでに炭ケンと白江を超えて侵入していた[10]。
以下延々省略


はくていじょう(白帝城)
白帝城(はくていじょう)は中国重慶市奉節県の長江三峡に位置する地名。 かつて新末後漢初の群雄公孫述がこの地に築いた城が白帝城と呼ばれたことが由来。永安宮ともいう。
三国時代、蜀(蜀漢)の建国者劉備が夷陵の戦いで呉に敗れ、逃れたのが白帝城。劉備は後事を 諸葛亮に託し、この城で没した。『三国志演義』では、一度呉の将陸遜が夷陵追撃戦として 白帝城を攻撃したが、あらかじめ諸葛亮が仕掛けておいた石兵八陣により敗走する。
後の唐の時代の詩人李白は『早発白帝城』(早に白帝城を発す)という詩を残している。
2006年に三峡ダムの開発により島となった。2006年に中華人民共和国の全国重点文物保護単位に 指定された。

はくとうぎん(白頭吟)
卓文君は司馬相如との熱烈な恋愛で知られ、中国史上もっとも愛に忠実な女性だったということに なっている。
卓文君は漢の成帝の時代に、四川の巨商卓王孫の娘として生まれた。16歳にしてある男に嫁いだが すぐに死に別れ、父親の家に戻っていたとき、客分として宴会に招かれていた司馬相如の琴の音に感じ 入り、たちまちに恋に陥った。卓文君は恋情の炎に包まれるまま、父の反対を押し切り、 司馬相如とともに駆け落ちしたのであった。
貧乏な二人は生活の資を得るために、酒屋を開き、そこで卓文君もけなげに客をもてなす仕事をした。 父親はそんな娘の姿を目にして考えを改め、娘ら夫婦に相応の資金を与えたのである。
後に司馬相如は文才を以て武帝に認められ、要職に出世した。これも妻の力によるものだったと、 中国人は今でも考えている。
日本には山内一豊の妻が、夫の出世を助ける才女として巷間に伝わっている。卓文君は国を 異にするとはいえ、才女としての大先輩格といえるのである。
山内一豊が浮気をしたかどうかは知らぬが、司馬相如は他の女に心を奪われて、 妻を悲しませたことがあった。その折に、妻の卓文君が作ったという詩が、今に伝えられている。

白頭吟

                                     皚如山上雪  皚たること山上の雪の如く
  皎若雲間月  皎たること雲間の月の若し
  聞君有兩意  聞く君に兩意有りと
  故來相決絶  故に來りて相ひ決絶せんとす
  今日斗酒會  今日 斗酒の會
  明旦溝水頭  明旦 溝水の頭
  徘徊御溝上  御溝の上に徘徊すれば
  溝水東西流  溝水 東西に流る
私の身が潔白で二心ないことは山上の雪のようですし、清く明らかな気持ちは雲間に浮かぶ月の ようです、ところがあなたには他に思う人があると聞きました、それゆえ私はお別れを申しに 来たのです(皚、皎:ともに白く明らかなさま、)
今日こうしてあなたと別れの杯を交わす私は、明日には溝水のほとりをさまよう身となっていましょう、 そのお堀の上をさまよう私をよそに、お堀の水は淡々と流れるのでしょう(頭:ほとり、)

  淒淒復淒淒  淒淒として復た淒淒たり
  嫁娶不須啼  嫁娶に啼くを須ひず
  願得一心人  願はくは一心の人を得て
  白頭不相離  白頭まで相ひ離れざらん
  竹竿何嫋嫋  竹竿 何ぞ嫋嫋たる
  魚尾何徒徒  魚尾 何ぞ徒徒たる
  男兒重意氣  男兒 意氣を重んず
  何用錢刀爲  何ぞ錢刀を用ふるを爲さん
私は悲しい気持ちでいっぱいです、ですが決して声を出して泣いたりはいたしますまい、 私の願いは真心を持った人とともに、白髪になるまで添い遂げることでした(淒淒:物悲しいさま、 不須啼:泣くには及ばない、)
あなたの垂らす釣り糸の竹竿はなんとしなやかなことでしょう、その釣り糸に釣られて魚が 集まってきたのですね、男たるもの意気が大事、お金など何の役にも立たないのですよ、 (嫋嫋:しなやかなさま、徒徒:動き回るさま、錢刀:古代の小刀、金銭として用いられた)



ばかい(馬嵬)
楊国忠と対立した安禄山が反乱し(安史の乱)、756年長安に迫るや、楊国忠の勧めで 玄宗は蜀(四川)へ逃亡しようとし、貴妃および楊氏一族と少数の廷臣を引き連れ長安を脱出した。 しかし西方数十キロメートルの馬嵬(ばかい)駅(陝西(せんせい)省興平県)で警固の兵士たちが 反乱を起こし、国難を招いた責任者として国忠を殺し、さらに玄宗に迫って貴妃を 駅の仏堂で縊殺(いさつ)せしめた。38歳であった。兵士はようやく鎮まって帝を守って成都へ 向かった。長安奪回後、都へ戻った玄宗は馬嵬に埋められていた屍(しかばね)を棺に収めて 改葬させた。


ばくや(莫耶)
干将・莫耶(かんしょう・ばくや、干将は本来干將、莫耶は??とも)は、中国における名剣、もしくはその剣の製作者である夫婦の名である。 剣については呉王の命で雌雄二ふりの宝剣を作り、干将に陽剣(雄剣)、莫耶に陰剣(雌剣)と名付けたという。 〈(この陰陽は陰陽説に基づくものであるため、善悪ではない)。また、干将は亀裂模様(龜文)、莫耶は水波模様(漫理) が剣に浮かんでいたとされる(『呉越春秋』による)。なお、この剣は作成経緯から、鋳剣(鋳造によって作成された剣)である。 人の干将・莫耶については、干将は呉の人物であり欧冶子と同門であったとされる(『呉越春秋』による)。

この夫婦および子(赤、もしくは眉間尺)と、この剣の逸話については『呉越春秋』の闔閭内伝や『捜神記』などに登場しているが[1]、 後述するように差異が大きい。20世紀には魯迅がこの逸話を基に『眉間尺』(後に『鋳剣』と改題)を著わしている。 なお、莫耶、莫邪の表記については、『呉越春秋』が莫耶、『捜神記』が莫邪となっているが、日本の作品では、いずれも莫耶と表記する。

この剣にまつわる話の内容としては、書によって差異があるが、大きく分けると、この名剣誕生の経緯と、その後日談にあたる復讐譚に 分かれている。ただし『呉越春秋』には(現在伝わっている限り)復讐譚にあたる後日談は無い(後述する#呉越春秋における記述を参照)。 また、『呉越春秋』では製作を命じたのは呉王闔閭となっているが、『捜神記』においては、これは楚王となっている[2]。 なお、製作の過程については、昆吾山にすむ、金属を食らう兎の内臓より作られたとする話を載せるものも存在する(『拾遺記』)。 また、後世の作品、特に日本の物については、中国の物とはかなりの差異が生じている。

『呉越春秋』では、主にその製作経緯、過程が語られる。前述したとおり復讐譚は無いが、その代わりに、魯の使者がこの剣を見て、 呉の将来を予想し、物語は終わる。話の内容は以下のとおり。

闔閭が越(呉の宿敵として知られ、後に呉を滅ぼした国)から送られた三振りの宝剣を見て、干将に二振りの剣を作るように命じた。 干将は、最高の材料を集め(來五山之鐵精、六合之金英。五山とは泰山など五つの山のことで後世の寺とは別、 六合とは天地四方のこと。來は「とる」)、剣作りに最高の条件(候天伺地、陰陽同光、百神臨觀、天氣下降)を整え炉を開いた。 しかし、急に温度が低くなり鉄が流れ出なかった。そして三月たってもいっこうにはかどらなかった。そのような現象が起こったとき、 かつて彼らの師は夫婦で炉中に身を投げて鉄を溶かしたことがある。そこで妻の莫耶が自身の爪と髪を入れ、さらに童子三百人にふいごを 吹かせたところようやく溶けた。そして、完成した名剣のうち、干将は隠して手元に置き、莫耶を闔閭に献上した。 ある日、魯の使者である季孫が呉を訪れたとき、闔閭は彼に莫耶を見せ、与えようとした。季孫が鞘から抜くと、刃こぼれがあった。 これを見た季孫は、呉は覇者となるであろうが、欠点があれば滅亡すると予測し、ついに莫耶を受け取らなかった。

『捜神記』では、前述したように呉王闔閭ではなく楚王となっているほか、作成の工程については細かい記述はなく、 3年かかったとするのみであり、主にその後日談が語られる。話の内容は以下のとおり。なお『捜神記』では莫邪と記されている。
完成に三年かかってしまったために王は怒った。干将が楚王に莫邪を献上に向かうとき、莫邪は身ごもっていた。 干将は妻に「私は必ず殺されるだろう。もし生まれた子が男ならば、大きくなったら「出戸,望南山,松生石上,劍在其背 (戸を出て、南に山を望み、松の生える石の上、その背に剣あり)」と伝えよ。」と残した。王は献上された莫邪が二振りのうち 雌剣のみであるとわかるとさらに怒り干将を殺した。莫邪の子赤(眉間尺)は、成長すると莫邪に、父親の所在を聞いた。 母は父が楚王に殺されたことを教え、干将の言伝を赤に伝えた。その言伝より干将を手に入れた赤は、日夜敵討ちを思った。 王も夢によりこれに気づき、赤に懸賞金をかけたため赤は山に逃げ込み、泣いた。そこを通りかかった旅人が泣く理由を尋ね、 赤が事のあらましを告げると、旅人は「それには干将と貴方の首が必要である。それがあれば私が仇を討つ」といった。 これを聞いた赤は自身の首を刎ねた。死体は、旅人が「約束を守る」と言うとようやく倒れた。客は首を持って楚王にあい、 楚王はとても喜んだ。旅人が「これは勇士の首であるから湯で煮溶かさねばならない」というと王はそれに従った。しかし、 三日三晩にても赤の首は溶けるどころか湯の中から顔を出しにらみつけていた。旅人は「王が覗けば必ずや溶けるだろう」というと、 王はこれを覗き見た。そのとき旅人は剣で王の首を刎ね、また自身の首をも刎ねた。2つの首は湯の中に落ち、赤の首とともに煮溶け、 判別できなくなってしまった。そのため一緒に埋葬することにした。ゆえにこの墓は三王墓という。そして今もそれは汝南県和孝鎮の 宜春城にある。
今昔物語集における記述 『今昔物語集』巻第九第四十四に「震旦莫耶、造釼獻王被殺子眉間尺語(震旦(シナスタン=中国)の莫耶)、剣を造り王に献じ子の眉間尺を殺される話)」が記されている。『捜神記』と同じく後日談に沿ったものであるが、いくつか大きな違いが存在する。まず、莫耶が男性であるという設定が挙げられる(なお、莫耶の妻は、ただ妻と記されるのみである。また、作成した剣に名前は無い)。王については、ただ国王とするのみで、国についての言及は無い。 作成の経緯について、国王夫人が鉄の玉を産み、それを基に作ったとされている。また、王が怒った理由について、『捜神記』が一の理由としてあげている、製作期間が3年もかかったことではなく(製作期間3年の記述は『今昔物語集』には無い)、献上した剣が一振りのみ、雌剣であったこととなっている。また、雌剣であることが露呈した理由について、剣が音を立てており、その原因を国王が大臣に聞いたところ、これは夫婦剣であり、雄剣が存在しこの宝剣が雌剣である、と大臣が言ったためとなっている。 さらに、莫耶は王に処刑されたのではなく、大きな木の中に隠れて死んだとする。また、『捜神記』では山の中で眉間尺と会ったのは旅人となっているが、こちらでは国王の刺客となっている。そして、眉間尺の首を煮た期間は七日とされる。最後について、王は首を刎ねられたのではなく、煮え湯の中を見たら独りでに首が落ちたとされ、湯の中で争ったとある。それを見た刺客は王を有利にするため剣を煮え湯に投げ入れる。剣の力で二人の首は溶けたが、湯の中を見ていた刺客の首も湯の中に自然に落ちた、となっている。墓については『捜神記』と同様である。 太平記における記述 『太平記』巻第十三に「兵部卿宮薨御事付干将莫耶事(兵部卿宮死去のことと干将莫耶のこと)」が記されている[3]。『太平記』でも主に後日談について語られるが、内容としては『今昔物語集』との共通点が多い反面、『捜神記』と同様の記述に戻った部分も多い。具体的には、『今昔物語集』では具体的に名前が挙げられなかった王が楚王と記されていること、また干将、莫耶の設定が中国における形(夫婦)に戻っていること、製作期間が3年であったことが記されている。楚王夫人が鉄の玉を産み、干将莫耶はそれを基に製作したことは、『今昔物語集』と同じである他、首を煮た日数についても七日七晩であり、『今昔物語集』と同じくする。また、干将が処刑された理由については、『今昔物語集』に類しており、献上した剣が莫耶一振りのみ、雌剣であったこととなっている。ただし、莫耶が発していたのは「悲泣の声」となっている。 新たに加えられている記述としては、眉間尺について、面が三尺あって眉間一尺あったことからそう呼ばれたこと(これについて『今昔物語集』では面が三尺であったことは述べられていない)、復讐が終わったときに首になった眉間尺と客人が声を上げたことなどが話として追加されているほか、旅人は干将と旧知であったこと、眉間尺が首を切る際、干将の矛先三寸を喫切り、それで首を切ったことなどが捜神記とは異なっている。 また、『太平記』においてはその後がさらに語られ、干将の矛先三寸はのちに燕の皇太子である丹にわたり、その刺客である荊軻が始皇帝暗殺未遂の折につかった匕首こそ、これであるということ、後に張華と雷煥という人物が干将と莫耶を見つけるが、皇帝に献上するための輸送中に、延平津において自ら鞘から抜け、雄雌の龍となり河に沈んだことなどを語る[4]。 その他の作品における扱い 中国においてもこの二剣は名剣として記憶に残り、明代に成立した『封神演義』においても莫邪宝剣という名の宝貝(パオペイ)が登場し黄天化が使用している。また、20世紀に入って魯迅がこれを基に『鋳剣』を著わしたのは前述のとおりである。近年、日本でも『うしおととら』にこの説話(および、それを元にした設定)が使用されていたり、(上記の説話とほぼ関係なく)作品に名前が流用されていたりする(『Fate/stay night』『彩雲国物語』など)。 また剣の製作経緯において、莫耶が髪と爪でなく、自身を爐に投じた、という話として伝えられているものも広く見られる[5]。これは『呉越春秋』の当該箇所の記述、「於是干將妻乃斷髮剪爪,投於爐中」を、「干將の妻(莫耶)が髪を断ち爪を剪って、(それを)爐中に投じた」とするか「(莫耶が)髪を断ち爪を剪ちて(身を清め)、爐中に(自身を)投じた」とするか、の違いによる。


はくりょうたい(栢梁体)
漢詩の一体。1句七言の連句で、毎句脚韻をふむのを特徴とする古詩。漢の武帝が柏梁台を築いた時、 群臣に作らせた詩体に由来するといわれる。
明末・清初の顧炎武が《日知録》で偽作説を主張して以来,その信憑性を疑うむきが多くなった。

漢孝武皇帝元封三年作柏梁臺。詔群臣二千石有能為七言者乃得上坐。皇帝曰、日月星辰和四時。 梁王曰、驂駕駟馬從梁來。大司馬曰、郡國士馬羽林才。丞相曰、總領天下誠難治。大將軍曰、 和撫四夷不易哉。御史大夫曰、刀筆之吏臣執之。太常曰、撞鐘?鼓聲中詩。宗正曰、宗室廣大日益滋。 衛尉曰、衛周交戟禁不時。光祿勳曰、總領從官柏梁臺。廷尉曰、平理請?決嫌疑。 太僕曰、循飾輿馬待駕來。大鴻臚曰、郡國吏功差次之。少府曰、乘輿御物主治之。 大司農曰、陳粟萬碩楊以箕。執金吾曰、徼道宮下隨討治。左馮翊曰、三輔盜賊天下尤。 右扶風曰、盜阻南山為民災。京兆尹曰、外家公主不可治。詹事曰、椒房率更領其財。 典屬國曰、蠻夷朝賀常會期。大匠曰、柱枅薄櫨相枝持。太官令曰、枇杷橘栗桃李梅。 上林令曰、走狗逐兔張?罘。郭舍人曰、齧妃女脣甘如飴。東方朔曰、迫窘詰屈幾窮哉。 (『芸文類聚』巻五十六、詩)

日月星辰和四時  日月 星辰 四時に和す(武帝)
驂駕駟馬從梁來  驂駕 駟馬 梁従り来る(梁王)
郡國司馬羽林材  郡国の司馬 羽林の材(大司馬)
總領天下誠難治  天下を総領するは 誠に治め難し(丞相)
和撫四夷不易哉  四夷を和撫するは 易からざる哉(大将軍)
刀筆之吏臣執之  刀筆の吏 臣 之を執る(御史大夫)
撞鐘伐鼓聲中詩  鐘を撞き 鼓を伐ち 声 詩に中る(太常)
宗室廣大日益滋  宗室の広大 日に益ます滋し(宗正)
周衞交戟禁不時  周衛の交戟 不時を禁ず(衛尉)
總領從宗柏梁臺  従宗を総領す 柏梁台(光禄勲)
平理清?決嫌疑  清?を平理して 嫌疑を決す(廷尉)
修飾輿馬待駕來  輿馬を修飾して 駕の来るを待つ(太僕)
郡國吏功差次之  郡国の吏功 之を差次す(大鴻臚)
乘輿御物主治之  乗輿 御物 之を主治す(小府)
陳粟萬石揚以箕  陳粟 万石 揚ぐるに箕を以ってす(大司農)
徼道宮下隨討治  宮下を徼道して 討治に従う(執金吾)
三輔盜賊天下危  三輔の盗賊 天下 危し(左馮翊)
盜阻南山爲民災  盗 南山を阻として 民の災を為す(右扶風)
外家公主不可治  外家 公主 治むべからず(京兆尹)
椒房率更領其材  椒房 率更 其の材を領す(事)
蠻夷朝賀常會期  蛮夷の朝賀 常に期に会す(典属国)
柱枅?櫨相枝持  柱枅 ?櫨 相い枝持す(大匠)
枇杷橘栗桃李梅  枇杷 橘 栗 桃 李 梅(大官令)
走狗逐兔張罘〓  走狗 兎を逐って 罘〓を張る(上林令)
齧妃女脣甘如飴  妃女の脣を齧めば 甘きこと飴の如し(郭舎人)
迫窘詰屈幾窮哉  迫窘 詰屈 幾ど窮せる哉(東方朔)
※〓……「?(あみがしら)」の下に「思」



はくりょうだい(栢梁台)
前116年、漢の武帝が長安の西北に築いた、高さ数十丈の楼台。梁?(はり)?に香柏を用いたので この名がある。



はちおうのらん(八王乱)
中国の王朝晋(西晋)の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱である。 西晋は100年に渡る三国時代に終止符を打って全土を統一したが、その平穏はわずか 数十年で崩れ去った。この後、中国は隋が統一するまでのおよそ300年にわたり、 再び動乱の時代を迎える事となる。
汝南王司馬亮(?~291):司馬懿の3男。司馬師、司馬昭の異母弟。
楚王司馬?(271~291):司馬炎の5男。司馬衷の異母弟。
趙王司馬倫(?~301):司馬懿の9男。司馬亮の異母弟。
斉王司馬冏(?~302):司馬炎の同母弟・司馬攸の子。
長沙王司馬乂(277~304):司馬炎の6男・司馬?の同母弟。
成都王司馬穎(279~306):司馬炎の16男。司馬乂の異母弟。
河間王司馬?(?~306):司馬懿の弟・司馬孚の孫。
東海王司馬越(?~311):司馬懿や司馬孚の弟であった司馬馗の孫。
なお、「八王」の称は、成都王司馬穎に仕えた盧?(盧志の甥)が著した『八王故事』 (現在は散逸)に由来すると言う。
前漢の時代、初期には旧六国の末裔や功臣などを諸侯王に配し、続いて彼らを排除して皇帝の一族 (宗室・皇族)を諸侯王とする政策を採る。ところが呉楚七国の乱を契機として宗室 抑制政策が採られ、諸侯王は領国において中央が派遣した国相(後漢)・監国謁者(魏) などの厳重な監視下に置かれ、その政策は後漢・魏において強化された。
魏の末期、兄・司馬師の後を継いで晋王の地位に就いた司馬昭は、自己の一族を各地に封じて 魏までの幽閉同様の待遇を大幅に改善した。さらに彼らを都督に任じて要地に駐屯させ、 呉や北方民族に対抗するための軍権の一部を授けた。都督は魏の時代にも置かれていたが、 強力な軍権ゆえに王?や?丘倹・諸葛誕のように司馬氏に対して叛旗を翻す者が相次いだ。 反面、司馬氏も司馬懿が都督として蜀の諸葛亮の北伐を防いだことで権力掌握のきっかけを 築いた地位でもあった。そのため、晋では都督に一族を任じることでその反乱を防ぎ、 かつ呉や北方民族に備えようとしたのである。だが、一族に軍権を与えた事が、 八王の乱を招くきっかけとなったのであった。
司馬昭の子である司馬炎(武帝)は265年に晋の初代皇帝に即位した後、280年に呉を滅ぼして 天下を統一したが、統一後は次第に外戚や側近を重用して政治を乱していった。 また、皇太子である息子・司馬衷(後の恵帝)の暗愚ぶりを憂慮していた。 武帝の弟である斉王司馬攸は、伯父司馬師の養子になっていたことから司馬氏の嫡流を 主張できる立場であり、実父の司馬昭からも寵愛されて宮廷内外の人望が厚かった。 282年(太康3年)、武帝は側近の中書監の荀勗・侍中の馮?らの勧めによって司馬攸の全ての 役職を解いて領国への帰国を命じたところ、司馬昭の弟である扶風王司馬駿や王渾・曹志など 多くの朝臣がこれを斉王に皇太子を輔弼させるべきだとする輿論に反するものであるとして 思いとどまるように上奏した。だが、武帝はこれを帝室内の問題であると上奏者たちを処分した上、 病気の司馬攸を無理やり帰国させようとして途中で病死させてしまう(斉王攸帰藩事件)。
この斉王攸帰藩事件は、時の執政者(この場合は司馬攸を推進した皇帝側近)の方針に対して 士大夫の間の「輿論」の尊重こそ国家安泰の鍵とみる廷臣たちが批判したことから発生した 権力抗争であったが、この対立構図は執政者が外戚や皇族に変わっても事があるたびに 発生し続けた。これに都督を務める皇族諸王の軍権が結びつくことによって武力抗争に 転化したのが「八王の乱」であった。従って、斉王攸帰藩事件は武力抗争に至らなかっただけで 「八王の乱」の端緒になった事件であると言える。また「八王の乱」において、 実際には皇族諸王の政治的野心に基づく挙兵であったとしても、表向きは皇帝の擁護と 「輿論」による執政者への批判の声の尊重を旗印に挙兵しており、「八王の乱」においては、 「輿論」を大義名分に掲げた皇族の挙兵→皇族による旧執政者打倒と権力掌握→新執政者になった 皇族の権力の私物化とそれに対する「輿論」の批判→「輿論」を大義名分に掲げた 新たな皇族の挙兵という悪循環が繰り返され続けたのである。
武帝は呉の平定以降、天下統一を成し遂げた事に安心し、政務を蔑ろにして酒色に 溺れるようになった。その為、皇后楊?の父である楊駿が政務を取り仕切るようになり、 彼は自らを支持する者を取り立てて多くの旧臣を遠ざけた。これにより楊駿は弟の楊?・ 楊済と共に権勢を欲しいままにするようになり、彼らは『天下三楊』と称された。楊?・ 楊済はかねてより声望があって才能も有ったが、楊駿は何の才能も無くただ外戚という理由だけで 権力を握っていたので、官僚から忌み嫌われていた。
290年3月、武帝の病が悪化すると、彼は楊駿と大叔父の汝南王司馬亮の二人に後事を 託そうと考えたが、楊?は武帝の遺詔を楊駿一人に全てを託すという内容に書き換えた。 武帝が崩御して皇太子司馬衷(恵帝)が即位すると、楊駿の権勢はさらに振るい、 遂には皇帝の住居に住まうようになった。だが、朝廷では失政を連発し、多くの忠臣の 諫めにも耳を貸さなかったので、内外から怨嗟の声が集まるようになった。
恵帝の皇后賈南風は陰険で策謀を好む人物であり、朝廷で好き勝手に振る舞う楊駿の存在を 非常に疎ましく思っていた。また、もともと楊駿の娘である皇太后楊?とも折り合いが悪く、 側近の殿中中郎孟観と李肇の進言もあり、楊氏一派の誅殺を決意した。賈南風は宦官董猛・ 孟観・李肇と共に政変の計画を進め、さらに荊州にいる楚王司馬?を呼び寄せて仲間に引き入れた。
291年3月、孟観と李肇は恵帝の下へ赴いて楊駿の謀反を訴えると共に、詔を作り上げて 楊駿の罪をでっち上げ、宮中の兵に楊駿捕縛を命じた。楊駿は異変を知ると馬厩に逃亡するも殺され、 楊氏は三族皆殺しとなった。楊?は庶人に落とされて金?城に監禁され、後に殺害された。
楊氏一派が粛清されると、汝南王司馬亮と太保衛?が朝政を司ることになった。 彼らは賈氏の権限を抑え込んだので、賈南風はこれに不満を抱いた。 また、衛?については武帝の時代に恵帝の廃嫡を進言した事があったので、 特に強い恨みを抱いていた。そんな中、司馬?配下の岐盛は密かに「司馬亮と衛?は皇帝廃立を 企んでいる」と噂を流したので、賈南風は司馬亮と衛?を除く事を決めた。
6月、賈南風は恵帝に詔を作らせ、司馬亮と衛?の逮捕を司馬?へ命じた。司馬?はこれに従って 公孫宏と李肇に司馬亮府を包囲させ、清河王司馬遐に衛?の逮捕を命じた。司馬亮は李肇に 捕縛されて殺害され、衛?もまた司馬遐に捕らえられて誅殺された。夜が明けると太子少傅張華は 賈南風へ、独断で司馬亮・衛?を殺害した罪で司馬?を誅殺するよう進言した。 賈南風もまた司馬?が権力を握る事を危険視していたのでこれに同意し、今回の政変の罪を全て 司馬?に擦り付けた。これにより、司馬?は謀反の罪で捕らえられて処刑された。
こうして、賈南風はその一族と共に天下を欲しいままにする様になり、近臣が重職に就くよう になった。特に甥の賈謐・大伯父の郭彰の権勢は皇帝を凌ぐ程であり、当時の人は賈謐と 郭彰を併せて『賈郭』と呼び敬い、『後塵を拝す』という故事も生まれた。賈謐と郭彰の 奢侈な様は度を越え、屋敷は臣下の身分を越えた豪華さであり、自宅で宴会を催すと国中から 人が押し寄せる程であった。また、賈南風の淫虐は酷く、外で若い男を見つけると 宮中に招き入れて行為に及び、事が済むと口封じの為に殺されたという。 ただ、賈南風は政事については張華・裴?・賈模といった人物に全て委ねており 、彼らは賢臣であったので力を合わせて国政を大いに安定させる事に成功した。
皇太子司馬?の母は謝玖であり賈南風の実子では無かったので、賈南風はその存在を快く 思っていなかった。だが、賈南風には男子が生まれなかったので、秘かに妹賈午の夫韓壽の 赤子を宮中に入れると、これを自らの子として皇太子に立てようと目論んだ。 賈南風が司馬?を廃そうとしているのは朝廷では誰もが知る所であり、 重臣たちの間では密かに賈南風の廃位が幾度も議論されたが、結局実行には移されなかった。
299年12月、賈南風は司馬?に酒を飲ませて酩酊状態に陥らせ、恵帝と賈皇后を廃するという 内容の文章を書かせた。黄門令董猛がこの文章を恵帝に見せると、恵帝は司馬?へ死を下賜すると 宣言した。だが、重臣の張華と裴?は文章の偽作を疑って頑なに反対し、賈南風も張華らへは 一目置いていたので、ひとまず処刑を諦めて庶人に落とす事を決めた。300年1月、 賈南風は宦官の一人に、司馬?と謀反を図ったと嘘の発言をさせて自首させ、 司馬?を許昌宮に幽閉した。3月、かつて東宮(皇太子の住む宮殿)に仕えていた右衛督司馬雅・ 常従督許超は司馬?復位を目論み、強大な兵権を握る趙王司馬倫に協力を要請した 。司馬倫はこれを快諾したが、腹心の孫秀はあえてこの謀略を賈南風に漏らして司馬?を殺害させ、 これを大義名分として賈南風を廃して政権を掌握するよう勧めるとと、 司馬倫は同意してこれを実行した。賈南風はこの謀略を伝え聞くと驚愕し、黄門孫慮に命じて 司馬?を殺害させた。
ーーーー 八王の乱後[編集] 八王の乱の際、諸王は異民族の傭兵を戦場に投入した。一見磐石に思えた晋の急速な弱体化は、 内乱に参加した異民族に独立への野心を与えることとなる。やがて、それは八王の乱中の 304年における匈奴の首長劉淵の漢(前趙)の建国へとつながり、中国全土を巻き込む内乱 (永嘉の乱)へと発展していった(八王の乱の終盤は永嘉の乱が同時に進行しているが、 八王の乱に明け暮れる西晋はこれに対処する術をもたなかった)。
そんな折の311年3月、前述のように懐帝と司馬越が対立して討伐命令が出され、 逃亡先で司馬越が病死したことは漢軍を勢いづかせ、石勒は司馬越亡き後の西晋軍を攻めて大勝し、 その将士10余万を捕殺するという大戦果を挙げた。これにより西晋は抵抗力と統治力を完全に失い、 司馬越の死からわずか3か月後の6月に洛陽は陥落した[1]。懐帝は漢の都の平陽 (山西省臨汾市堯都区)に連行された後の313年1月に処刑され、懐帝の甥愍帝が長安で残党により 313年4月擁立されるも、この政権は長安周辺だけを支配するだけの地方政権でしかなく、 全国政権だった西晋は洛陽陥落により事実上死に体となった[2]。
愍帝も316年11月に漢の劉曜に攻撃されて投降し、平陽に拉致されて317年12月に殺されて完全に 西晋は滅亡した。こうして時代は五胡十六国時代へと突入していく[2]。



はてんこう(破天荒)
今まで人がなし得えなかったことを行うこと。天荒は、凶作、また、凶作などで雑草の生い茂ること。 荊州の地方で、毎年、科挙の合格者がなかったので、世人はこれを「天荒」と言っていたが、やがて 劉 (りゅうぜい)が合格したとき、人々が「破天荒」と言った故事。旧説では、天地未開の混沌とした 状態(天荒)を破り開く意。(大漢語林)



はんにゃ(般若)
佛教大辞典(中村元) 般若
Sanskrit dictionary(Macdonell Oxford) pragna



はんぽう(反法)
隣り合わせの2句の2,4,6字目の平仄が互いに同じの場合を粘法といい、異なる場合を反法という。






ふうゆし(風諭詩)
白楽天の生涯は四十四歳での江州左遷を境に大きく二つの時期に区分される。 前半は、身分の低い家に生まれながら奮励努力して科挙に合格し、官僚としての颯爽とした活躍をした時代だ。 その時代における白楽天の抱負は、天子の御意見番として、天下の情勢を奏上することであった。 これを白楽天は風諭詩という形であらわした。
風諭詩というのは、臣民の窮状や役人の理不尽ぶりについて、詩の形であらわしてそれを天子に読んでもらい、 政治を正しい方向に向けることを目的としたものだった。白楽天は、自分の使命はそこにあると感じて、 新楽府五十首や秦中吟十首などの風諭詩を精力的に作り続けたのであった。

ふえつのちゅう(斧鉞之誅)
重刑または極刑に処せられること。

ぶかんさんちん(武漢三鎮)
「鎮」は中心都市の意。武昌・漢口・漢陽3市の総称。武昌は政治、漢口は商業、漢陽は工業の要衝地。 現在は合併して武漢市を構成。
武昌という名は、後漢の末から三国期の初めに使われ始めました。それは、孫権が劉備と荊州を 奪うため、紀元211年に都を建業(今の南京)から鄂県まで移し、「以武治国而昌」 (武で国を治めて栄える)の中の「武昌」の意を採って都を「武昌」と変名しました。 また考古の見地からは、手工業や、造船、冶金、貨幣鋳造などが発達していた事もわかっています。 磁器も有名で、武昌の磁器は影青磁と呼ばれています。
一方で、武昌にある黄鶴楼は歴史の中で何回も倒壊再建を繰り返します。 三国時代からは10回も再建されています。再建の度に、各時代の建築風格と特色を体現してきました。 漢陽という名の由来は、漢水と密接に関わります。「水の北」は陽で「山の南」も陽であり、 「漢水の北」「亀山の南」に位置し、日照が充分あるため漢陽と呼ばれました。紀元606年、 隋時代大業二年、漢津県は漢陽県と変名されてから漢陽という名が使われてきました。 唐代では県の役所を漢陽市内に移したことから徐々に発展してきました。
漢陽のある鸚鵡洲一帯は、長江中流商船の集散地であり唐、宋、元、明の各時代では商業と 手工業でさらに発展しました。また一方で、有名な観光地でもあり、 漢陽にある帰元寺は武漢市内で最もよく保護されている仏教僧林です。 漢陽は武昌と並んで同時期に城を建て、約1800年の歴史があります。
漢口は歴史的には漢陽と同時期のペースで発展しました。明時代成化十年(紀元1474年)、 漢水は流れが変わり、亀山の北麓から長江へ入ることになった後から、漢口は独自に発展する ようになりました。ということで漢口には500年しか歴史がありません。
漢口は早い発展スピードで新興商業都市になり、その名声と発展スピードは武昌、漢陽を超えました。 明時代の末から清時代の初め頃、漢口は、河南朱仙鎮、广東佛山鎮、江西景徳鎮と並んで 全国四大名鎮と呼ばれていました。海外では「東方のシカゴ」と呼ばれました。
漢口は良港であり、貿易、運輸で大きく発達し、中国内陸河の最大な港となりました。 1905年湖広総督であった張之洞は、漢に張公堰を修築しました。この堰は後湖一帯の水位を下げ、 湖が陸地になり狭い漢口の土地面積の拡大に役立ち、漢口はさらに発展しました。
1927年、武漢国民政府は武昌、漢口(漢陽県を管轄)を合弁して武漢と名付けて首都にしました。 それに、「武漢」と名を定めました。現在の武昌、漢口、漢陽三鎮からなる武漢はほんの74年です。
1938年10月、武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)が日本軍によって陥落。 盧溝橋事件から始まった支那事変は、ここで本格的な戦闘が終わった。武漢三鎮後、 支那の各地方の治安はそれぞれの自治政府によって維持され、戦いは小康状態になった。 支那側では徹底抗戦か和平交渉かで対立が起き、汪兆銘の南京政府、蒋介石の重慶政府、 毛沢東の延安政府による三つ巴の抗争と内戦が主流となった。そこへ日本、アメリカ、ソ連が それぞれの勢力に加担し、内戦に加入した。
ふくすいぼんにかえらず(覆水不返盆)
太公望が周に仕官する前、ある女と結婚したが太公望は仕事もせずに本ばかり読んでいたので離縁された。 太公望が周から斉に封ぜられ、顕位に上ると女は太公望に復縁を申し出た。太公望は盆の上に水の入った器を持ってきて、 器の水を床にこぼして、「この水を盆の上に戻してみよ。」と言った。女はやってみたが当然出来なかった。 太公望はそれを見て、「一度こぼれた水は二度と盆の上に戻る事は無い。それと同じように私とお前との間も元に 戻る事はありえないのだ。」と復縁を断った(出典は後秦の時代に成立した『拾遺記』による)。
この話から一度起きてしまった事はけっして元に戻す事は出来ないと言う意味で覆水盆に返らずと言うようになった。 なお、四字熟語では覆水不返(ふくすいふへん)。
中国語の「盆」(pen第2声)は日本語の「お盆」ではなく、鉢、ボウル状の容器のことである。
ちなみにこの話は太公望の数多くの伝説の一つであって、必ずしも史実とは限らない(前漢の人物である朱買臣について、 同様の逸話があることなど)。
同義の別例として"覆水収め難し"、同じ意味を表す英語の諺に "It's no use crying over spilt milk." (こぼしたミルクを嘆いても無駄) がある。

ぶこうびょう(武侯廟)
武侯祠(ぶこうし)。中国・三国時代の人物である諸葛亮を祀った廟のこと。「武侯祠」という名は諸葛亮の諡である「忠武侯」 に由来する。同名の廟が中国各地にあり、以下のものが知られている。


ふじばかま(藤袴)
本州・四国・九州、朝鮮、中国に分布している。原産は中国ともいわれるが、万葉の昔から日本人に 親しまれてきた。8-10月、散房状に淡い紫紅色の小さな花をつける。
また、生草のままでは無香のフジバカマであるが、乾燥するとその茎や葉に含有されている、 クマリン配糖体が加水分解されて、オルト・クマリン酸が生じるため、桜餅の葉のような芳香を放つ。
中国名:蘭草、香草
英名:Joe-Pye weed;Thoroughwort;Boneset;Agueweed(ヒヨドリバナ属の花)
かつては日本各地の河原などに群生していたが、今は数を減らし、環境省のレッドリストでは 準絶滅危惧(NT)種に指定されている。また「フジバカマ」と称する植物が、観賞用として 園芸店で入手でき庭にも好んで植えられる。しかし、ほとんどの場合は本種でなく、 同属他種または本種との雑種である。


ぶしゅう(武周)
690年に唐の睿宗(えいそう)の生母である太后の武氏(則天武后)が,皇帝となって国号を周と改め, 唐朝を中断させたことをいう。病弱の高宗に代わって政務を決裁してきた武后は,朝廷における実権を掌握してしまい, 683年(弘道1)に高宗が亡くなると,武后の子である太子哲が即位して中宗となったが2ヵ月たらずで廃され, つぎに立った睿宗もまったくの傀儡(かいらい)にすぎなかった。 武太后は有能な密告者を官に取り立てて秘密警察の網の目を強化し,唐の宗室を排除しつくしたあげく, 中国上代の理想の世とされる周朝を再現せんとし,また愛人の怪僧薛懐義(せつかいぎ)らに《大雲経》 という仏典に付会した文章を作らせ,〈太后は弥勒(みろく)仏の下生なり,まさに唐に代わって帝位につくべし〉 と宣伝させたのである。


ふざんのうんう(巫山の雲雨)
宋玉の「高唐賦」の、楚の懐王が昼寝の夢の中で巫山の神女と契ったという故事から》男女が夢の中で結ばれること。 また、男女が情を交わすこと。巫山の雲。巫山の雨。巫山の夢。朝雲暮雨。


ぶつこつをろんずつひょう(論仏骨表)
中国唐代の韓愈が、鳳翔法門寺の真身宝塔(阿育王塔)に秘蔵され、30年に一度のご開帳の時に供養すれば国家安泰を得るという 仏舎利の伝承を信じた憲宗皇帝に対して諌めるために上った上表文である。
古文復興運動の先駆となった韓愈の、四六駢儷文を排した名文として、また、中国における排仏論を 代表する内容として知られている。
「論佛骨表 三ノ一 臣某言、伏以佛者夷狄之一法耳。自後漢時流入中國。上古未嘗有也。 昔者、黄帝在位百年、年百一十歳。少昊在位八十年、年百歳。??在位七十九年、年九十八歳。帝?在位七十年、年百五歳。帝堯在位九十八年、年百一十八歳。帝舜及禹、年皆百歳。此時天下太平、百姓安樂壽考。然而中國未有佛也。其後、殷湯亦年百歳。湯孫太戊在位七十五年、武丁在位五十九年。書史不言其年壽所極、推其年數、蓋亦倶不滅百歳。周文 王年九十七歳。武王年九十三歳。穆王在位百年。此時佛法亦未入中國。非因事佛而致然也。  漢明帝時、始有佛法。明帝在位纔十八年耳。其後、亂亡相繼、運祚不長。宋・齊・梁・陳・元魏以下、事佛漸謹、年代尤促。惟梁武帝在位四十八年、前後三度捨身施佛、宗廟之祭、不用牲牢、晝日一食、止於菜果。其後畢爲侯景所逼、餓死臺城、國亦尋滅。事佛求福、乃更得禍。由此觀之、佛不足事亦可知矣。 臣某言う、伏して以(おも)んみるに仏は夷狄の一法のみ。後漢の時より流(つた)わりて中国に入る。上古は未だ嘗て有らざるなり。 昔者(むかし)、黄帝位に在ること百年、年百十歳。少昊(しょうこう)位に在ること八十年、年百歳。??(せんぎょく)位に在ること七十九年、年九十八歳。帝?(ていこく)位に在ること七十年、年百五歳。帝堯位に在ること九十八年、年百十八歳。帝舜及禹、年皆百歳。此の時天下太平、百姓安楽にして寿考なり。然り而(しこ)うして中国に未だ仏有らざるなり。その後、殷の湯も亦た年百歳。湯の孫太戊(たいぼ)位に在ること七十五年、武丁位に在ること五十九年。書史にその年寿の極まるところを言わざれども、その年数を推(お)すに、蓋し亦た倶(とも)に百歳を減ぜず。周の文王年九十七歳。武王年九十三歳。穆王位に在ること百年。此の時仏法亦た未だ中国に入らず。仏に事(つか)うるに因りて然るを致すに非ざるなり。 漢の明帝の時、始めて仏法有り。明帝位に在ること纔(わず)かに十八年のみ。その後、乱亡相継ぎ、運祚(うんそ)長からず。宋・齊・梁・陳・元魏より以下、仏に事うること漸く謹みて、年代尤も促(せま)れり。  惟だ梁の武帝のみ位に在ること四十八年、前後三度身を捨てて仏に施し、宗廟の祭りにも、牲牢(せいろう)を用いず、昼日一食にして、菜果に止まる。その後、竟(つい)に侯景の逼(せま)るところと為り、台城に餓死して国も亦た尋(つ)いで滅ぶ。仏に事えて福(さいわい)を求め、乃ち更に禍いを得たり。此れに由(よ)ってこれを観れば、仏の事うるに足らざること亦た知るべし。 」




へいすいいん(平水韻) 近体詩の押韻に使われる106韻。一般に詩韻(しいん)と呼ばれるものはこの平水韻を指す。 『切韻』系の韻書を整理したもので、中古音の音韻体系を表している。上平声15韻、下平声15韻、 上声29韻、去声30韻、入声17韻の計106韻。
平水韻という名は平水(現山西省臨汾)という地名に基づくものであるが、その由来には2説あり、 平水で刊行された金の王文郁の『平水新刊礼部韻略』(1229年)によるというものと、 『壬子新刊礼部韻略』(1252年、現存せず。『古今韻会挙要』の序で言及)を著した劉淵が 平水出身であったというものがある。 2001年に敦煌莫高窟北区の石窟から出土した 『排字韻』残巻2葉は平水韻の106韻と合致しており、高田時雄は劉淵の本や『排字韻』を 王文郁の本の翻刻本であるとする[1]。
宋代の官韻書である『広韻』は206韻の体系を採っていたが、同用と言って隣り合う2つないし 3つの韻について押韻しあってもよいという規定が定められていた。この同用をまとめると117韻 (現行本では113韻に変更されている[2])になる。その後景祐6年(1037年)には同用規定13箇所に 変更が加えられ[2]、実質108韻になった。科挙試験用に簡略化した韻書である『礼部韻略』 (1037年)にはこの状態が反映されている。これを同用でなく最初から韻目を統合してしまい、 さらに上声の「迥」「拯」、去声の「径」「證」を併合して各1韻減らすと106韻になる。 この韻目は金の張天錫『草書韻会』や元の陰時夫『韻府群玉』でも採用された。 平水韻はこの後、近体詩の押韻の根拠として現在に至るまで用いられた。清代の『佩文韻府』にも 平水韻が使われている。
なお平声の字が多いため、平声は上下2巻に分けられ、それぞれ上平声、下平声と呼ばれる。 これは『切韻』以来の伝統で、単なる書物編成上の都合にすぎない。 平水韻は押韻に使える字を増やすために単に切韻系韻書の隣り合う韻を機械的にひとつにまとめただけ で、必ずしも中国語の実際の発音を反映していない。このため現実の音で同じ音がふたつの韻に 分かれたり、現実では違う音がひとつの韻に押し込まれたりすることになった。 たとえば十三元には「-en(根)・-un(村)・-an(翻)・-ian(言)・-uan(元)」 などのさまざまな韻母が含まれ、逆に同じ gu? という音でも「規」は四支、「帰」は五微、 「圭」は八斉であった。したがって詩を作るにはどの字がどの韻に属するかを暗記する必要があった。



べんぶん(駢文)
中国の文語文における文体の一つ。「駢体」または「駢体文」ともいう。散文・韻文に対立する 文体で、魏・晋のころに形成され、六朝時代から唐にかけて盛行した。
「駢」とは2頭の馬が並んでいることを表し、対句を基本とする文体であることを意味している。 「駢儷文」(べんれいぶん)あるいは「駢儷体」ということもあるが、「儷」(または「麗」) もまた夫婦が「ならぶ」という意味である。また1句の字数が、4字句または6字句を基調とするため、 「四六文」(しろくぶん)とも呼ばれた。「四六」の語は晩唐から使われはじめ、 宋から明にかけて使われた。「駢文」の名は用いられるようになったのは清代においてである。
これらを合わせて「四六駢儷文」または「四六駢儷体」と呼ぶこともある。 また「駢四儷六」ともいう。さらに駢文の中には、平仄など韻律面を整えたものもある。
例として、王勃「滕王閣序」の以下の部分においては、次のような対句や平仄の構造をしている。
馮唐易老 (平平仄仄) 名詞(人名)+副詞+動詞李広難封 (仄仄平平) 名詞(人名) +副詞+動詞屈賈誼於長沙 (仄仄仄-平平平) 動詞+名詞(人名)+介詞+名詞(地名) 非無聖主 (平平仄仄) 否定副詞+形容詞(数量)+名詞竄梁鴻於海曲 (仄平平-平仄仄)  動詞+名詞(人名)+介詞+名詞(地名)豈乏明時 (仄仄平平) 否定副詞+形容詞(数量) +名詞
内容的には典故や装飾的な修辞を多用する点に特徴がある。前述の「滕王閣序」では次のような 典故が用いられている。
馮唐 老い易く(前漢の馮唐が有能でありながら、老齢でも郎中署長という低い役職についていた 故事から)李広 封じ難し(李広は幾たびの戦功にもかかわらず、生涯諸侯に封じられなかった という故事から)賈誼を長沙に屈するは聖主無きに非ず(賈誼が時の政治をしばしば批判したことで、 廷臣たちに疎まれて長沙に左遷された故事から)梁鴻を海曲に竄(かく)すは豈に明時乏し からんや(梁鴻が時の宮廷を諷刺して「五噫詩」を書いたことから追われる身となり 、姓名を変えて斉魯の間に隠れ住んだ故事から)





ほうぜん(封禅)
帝王が天と地に王の即位を知らせ、天下が太平であることを感謝する儀式である。
始皇帝以前には72人の帝王がこの儀式を行ったと『史記』には伝えられている。その歴史は三皇五帝によって 執り行われたのを最初としているが、伝説の時代であるため詳細は不明である。始皇帝以後では、 前漢の武帝や北宋の真宗など十数人が、この儀式を行ったと伝えられている。

封禅の儀式は、封と禅に分かれた2つの儀式の総称を指し、天に対して感謝する「封」の儀式と 地に感謝する「禅」の儀式の2つ構成されていると言われている。
司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書第六)の注釈書である『史記三家注』によれば、
「正義此泰山上築土為壇以祭天,報天之功,故曰封.此泰山下小山上除地,報地之功,故曰禪. (『史記正義』には、泰山の頂に土を築いて壇を作り天を祭り、天の功に報いるのが封で、 その泰山の下にある小山の地を平らにして、地の功に報いるのが禅だ、とある。)」 『史記三家注』では続いて『五経通義』から「易姓而王,致太平,必封泰山, (王朝が変わって太平の世が至ったならば、必ず泰山を封ぜよ)」という言葉を引用している。
『史記』その物には、斉の桓公がこれを行おうとして、管仲が諫める場面があり、 管仲が古来封禅を行った帝王を列挙して説得するという記述で、 これが前述の始皇帝以前の封禅の有無を推論する際の論拠となっている。
秦の、始皇帝が皇帝になったのちの紀元前219年に、泰山で封禅の儀を行ったが、 このとき既に古い時代の儀式の知識は失われており、儒学者などを集めて封禅の儀式について 研究させたが、各自意見がまちまちでまとまらず、結局我流でこれを執り行ったと伝えられている。 その儀式の内容は秘密とされており、実際に何が行われたかはよく分かっていない。

歴代帝王封禅祭祀泰山一覧表
晋元明以外の統一王朝では、実施した皇帝がいる。

始皇?政 始皇28年(紀元前219年) 封泰山、禅梁父山
二世胡亥 二世皇帝元年(紀元前209年) 登封泰山

前漢
武帝劉徹 元封元年(紀元前110年) 封泰山、禅粛然山
元封2年(紀元前109年) 封泰山、祠明堂
元封5年(紀元前106年) 封泰山、祠明堂
太初元年(紀元前104年) 封泰山、禅蒿里山
太初3年(紀元前102年) 封泰山、禅石閭山
天漢3年(紀元前98年) 封泰山、祠明堂
太始4年(紀元前93年) 封泰山、禅石閭山
征和4年(紀元前89年) 封泰山、禅石閭山

後漢
光武帝劉秀 建武32年(56年) 封泰山、禅梁父山
章帝劉? 元和2年(85年) 柴祭泰山、祠明堂
安帝劉? 延光3年(124年) 柴祭泰山、祠明堂


文帝楊堅 開皇15年(595年) 壜設祭泰山


高宗李治 乾封元年(666年) 封泰山、禅社首山
玄宗李隆基 開元13年(725年) 封泰山、禅社首山

真宗趙恒 大中祥符元年(1008年) 封泰山、禅社首山

聖祖玄燁 康熙23年(1684年) 祭祀泰山
康熙42年(1703年) 祭祀泰山
高宗弘暦 乾隆13年(1748年)から乾隆55年(1790年)までの間に前後10回の祭祀泰山を行った。
文物
泰山(山東省泰安市)のふもとには、岱廟(=東岳廟)という道観(道教寺院)がある。 そこでは、北宋・真宗の「大宋東岳天斉仁聖帝碑」を始めとし、徽宗の「宣和重修東岳廟碑」、 李斯碑など、様々な封禅関係の遺物を観ることが出来る。
また、禅が行われた場所には主な所として、梁父山・社首山(=蒿里山)が挙げられる。 1931年(民国20年)、軍閥の馬鴻逵がここにあった道観を破壊したとき、唐宋代の禅に用いられた 玉函=(禅地玉冊と玉嵌片)が見つかった。玉函は、鴻逵と共にアメリカへ渡った後、 彼の没後の1970年、夫人が台湾の故宮博物院へ寄贈し、それが今日展示されている。




ほうそう(芳草)
比喩忠貞或賢德之人。
《楚辭・離騷》:“何昔日之芳草兮,今直爲此蕭艾也。”王逸注:“以言往日明智之士,今皆佯愚, 狂惑不顧。”宋 劉?《泰州玩芳亭記》:“《楚辭》曰:‘惜吾不及古之人兮,吾誰與玩此芳草?’ 自詩人比興,皆以芳草嘉卉爲君子美德。”




ぼうふう(防風)
夏王朝の始祖とされる禹(う)に処刑された中国神話の神。巨人だったといわれる。
神話によると、禹は皇帝となったとき会稽山(かいけいざん)(浙江省紹興近郊)に家来の 群神たちを召集した。このとき防風氏が会合に遅れて処刑されたが、その骨は一本で車が 満ちるほど大きかったという。
防風氏がどのような神か不明だが、名前から判断して風神だったとする説もある。 また、山の神だともいわれる。
後に、禹が各地を周遊すると防風氏の二人の臣下が敵討ちを試み、失敗し、 自ら胸に刀を刺して死んだ。禹は哀れに思い、二人を治療したが、 この二人が胸に穴の開いた貫胸人(かんきょうじん)の祖になったという伝説もある。
『述異記(じゅついき)』に呉や越の地方(江蘇・浙江省)にあった防風廟(びょう)の話がある。 それによると、防風氏の像は土や木で作られており、その姿は頭が龍、牛の耳があり、 目はひとつ、眉毛が一本に連なっているという。




ほうぼう(包茅)
南方的一種茅草,又叫菁茅。
古代祭祀時用以濾酒的菁茅。因以裹束菁茅置匣中,故稱。




ほくそう(北宋)
(960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開封を追われて 南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封であった。
北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、 その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、 区分しにくい分野を宋で解説することにする。
907年に唐が滅亡し、その後の五代十国時代の戦乱の時代の後、960年に趙匡胤により建てられたのが宋である。 太祖・趙匡胤から始まり、3代真宗の時代に遼からの侵攻を受け、これと和平を結ぶ(?淵の盟)。これによって平和は確保され 大きな文化の華が開いたが、一方では外国に支払う歳幣や弱体化して肥大した国軍の維持の為の財政の悪化など問題を抱えるようになる。 6代神宗の時代に王安石の手により新法と呼ばれる政治改革が試みられるが、これが政争の原因となり、混乱を招いた(新法・旧法の争い)。 8代徽宗の時代に新興の金と結んで遼を滅ぼすものの自らも金に滅ぼされ、南に逃れて王朝を再建した。 華北時代を北宋、華南時代を南宋と呼び分けている。この項目で取り扱うのは960年から1127年までの北宋である。
全盛期には中央アジアにまで勢力を伸ばしていた唐に対して、宋は遼(契丹)・西夏(タングート)という外敵を抱え、 対外的には萎縮していた時代と見られている。一方、国内では様々な面で充実を見、特に文化面においては顕著な進展が見られた。
具体的に唐と宋との間の変化として最も大きな変化は唐までの中国で政治・経済・文化の主たる担い手であった貴族層が完全に消滅し、 士大夫と呼ばれる新しい層がそれに代わったということである。
五代においては有力な家臣(武人)による帝位簒奪が相次いだ。対して北宋では、武人の権限が弱められ、士大夫がそれを統制し、 またその士大夫は官僚であることで士大夫なのであって皇帝を追い落として自ら皇帝となることは構図的にありえなかった。 これにより「(突き詰めると)全ての政治的権限および責任が皇帝に帰する」皇帝独裁制[注釈 1]が成立した。
貴族は血筋によって貴族であり、それ以外の者がどんなに努力しようが貴族にはなれない。宋代では科挙に合格できるならば どのような出身であれ、高位に上り詰める可能性が生じた。現実的には貧しい者が科挙に合格するのはまず不可能であったが、 それであってもその意義は大きく、このことにより一種の平等思想を生むことになった。 この「平等」を現代の「平等」と一緒くたにしてはいけないが、より開かれた意識が見られたのは確かである。
経済的には銅銭の発行額が桁違いに増え、また史上初の紙幣として交子が誕生した。
唐代の文化とはとりもなおさず「貴族文化」であって、その担い手も受け手も限られた階層の人間であった。 これに対して宋代においては文化の担い手も受け手も数が大幅に増え、多くの点で新機軸を生み出すことになったなどの変化 (これ以外にも変化は多い)がこの時代に起きた。
これらの変化は単に王朝の変遷というのみならず「中国史上で最も大きな変化があった」と思考できる学説がある。 内藤湖南が唱えた唐宋変革論という大日本帝国時代の帝国大学で研究された東洋史の学説である。
この項目では全般に渡って山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。 この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。

建国
唐の崩壊以後、中国は五代十国時代の分裂期に入り、北方の遼(契丹)などの圧迫を受けて混乱の中にあった。 その中で五代最後の後周の2代皇帝である世宗は内外政に尽力し、中国の再統一を目指していた。その世宗の片腕として 軍事面で活躍していたのが宋の太祖趙匡胤である。
趙匡胤
世宗は遼から領土を奪い、十国最大の国南唐を屈服させるなど統一への道筋を付けたが顕徳6年(959年)に39歳で急死。 あとを継いだのはわずか7歳の柴宗訓であった。このとき趙匡胤は殿前都点検(禁軍長官[注釈 2])の地位にあったが、 翌顕徳7年(960年)に殿前軍の幹部たちは幼帝に不満を抱き趙匡胤が酔っている隙に黄袍を着せて強引に皇帝に擁立し、 趙匡胤は柴宗訓から禅譲を受けて宋を建国した(陳橋の変)。(以後、趙匡胤を廟号の太祖で呼ぶ。以下の皇帝もすべて同じ)
このように有力軍人が皇帝に取って代わることは五代を通じて何度も行われてきたことであった。太祖はこのようなことが二度と 行われないようにするために武断主義から文治主義への転換を目指した。自らが就いていた殿前都点検の地位を廃止して禁軍の指揮権は 皇帝に帰するものとし、軍人には自らの部隊を指揮するだけの権限しか与えないこととした。また地方に強い権限を持っていた 節度使(藩鎮)から徐々に権限を奪い、最終的に単なる名誉職にすることにした。
更に科挙制度の重要性を大きく高めた。科挙制度自体は隋の時代に始まったものであるが、武人優勢の五代に於いては科挙合格者の地位は 低かった。太祖はこれに対して重要な職には科挙を通過した者しか就けないようにし、殿試を実施することで科挙による官僚任命権を 皇帝の物とした。
体制固めと平行して、太祖は乾徳元年(963年)より十国の征服に乗り出す。まず選ばれたのが十国の中の最弱国である湖北の荊南であり、 更に湖南の楚を征服して東の南唐・西の後蜀の連携を絶った。翌乾徳2年(964年)からは後蜀を攻撃して翌年にこれを降し、 開宝3年(970年)には南漢を開宝7年(974年)には南唐を降した。これにより中国の再統一まで北の北漢・南の呉越を残すのみとなったが 太祖は開宝9年(976年)に唐突に崩御。
後を継いだのは弟の趙匡義(太宗)であるが、この継承には不明な点が多く、太宗が兄を殺したのではないかとも噂された (千載不決の議)。真相はともかく太宗は兄の事業を受け継ぎ、太平興国3年(978年)には呉越が自ら国を献じ、 更に太平興国4年(979年)に北漢を滅ぼして中国の統一を果たした。
また太宗は兄が進めた文治政策を強力に推し進め、科挙による合格者をそれまでの10人前後から一気に200人超までに増やし制度の充実を図る。
五代末から宋初にかけて、世宗が敷いた路線を太祖が受け継ぎ太宗がそれを完成させたといえる。 宮崎市定はこの三者を日本の織田信長・豊臣秀吉・徳川家康にそれぞれなぞらえている[1]。

?淵の盟
太宗は太平興国9年(984年)に崩御し、その子の趙恒が跡を継ぐ(真宗)。真宗代には更に科挙が拡充され、毎年開催されるようになり、 一度に数百人がこれを通過した。太祖以来の政策の結果、皇帝独裁体制・文治主義がほぼ完成した。
しかし文治主義は軍事力の低下を招き、宋の軍隊は数は多くても実戦に際しては不安な部分が大きかった。景徳元年(1004年)、 北方の遼が南下して宋に侵攻してきた。弱気な真宗は王欽若らの南遷して難を逃れるという案に乗りそうになったが、 強硬派の寇準の親征すべしという案を採用して遼を迎え撃ったが戦線は膠着し、遼に対して毎年絹20万疋・銀10万両の財貨を送ることで 和睦した(?淵の盟)。また遼の侵攻と同時に西のタングート族は宋に反旗を翻していたが、こちらにも翌景徳2年(1005年)、 財貨を送ることで和睦した。
?淵の盟の際に遼に送った絹20万疋・銀10万両という財貨は遼にとっては莫大なもので、この財貨を元に遼は文化的繁栄を築いた。 しかし宋にとってはこの額は大したものではなく、真宗は「300万かと思ったが30万で済んで良かった」と述べたという。 この逸話が示すように唐代末期からの経済的発展は著しいものがあり、盟約により平和が訪れた後は発展は更に加速した。
一方、政界では国初以来優位を保ってきた寇準ら華北出身の北人士大夫に対して、王欽若ら華南出身の南人士大夫が徐々に勢力を伸ばしてきていた。 大中祥符元年(1008年)、真宗は王欽若や丁謂らの薦めに乗って泰山に於いて天を祀る封禅の儀、汾陰[注釈 3]に於いて地を祀る儀、 がそれぞれ執り行われた。
真宗は乾興元年(1022年)に崩御。子の趙禎(仁宗)が即位する。宋国内で塩の専売制が確立し、それまでタングートより輸入していた塩を 禁止としたことに端を発し、宝元元年(1038年)にタングートの首長李元昊は大夏(西夏)を名乗って宋より独立、宋との交戦状態に入った。 弱体の宋軍は何度か敗れるが、范仲淹などの少壮気鋭の官僚を防衛司令官に任命して西夏の攻撃に耐えた。中国との交易が途絶した西夏も苦しみ、 慶暦4年(1044年)に絹13万匹・銀5万両・茶2万斤の財貨と引き換えに西夏が宋に臣礼を取ることで和約が成った(慶暦の和約)。
これにより平和が戻り、また朝廷には范仲淹・韓琦・欧陽脩などの名臣とされる人物が多数登場し、宋の国勢は頂点を迎えた。 この頃になると科挙官僚が完全に政治の主導権を握るようになる。これら科挙に通過したことで権力を握った新しい支配層のことを それまでの支配層であった貴族に対して士大夫と呼ぶ。
強い経済力を元に文化の華が開き、印刷術による書物の普及・水墨画の隆盛・新儒教の誕生など様々な文化的新機軸が生まれた。 また経済の発展と共に一般民衆の経済力も向上し、首都開封では夜になっても活気は衰えず、街中では自由に市を開く事が出来、 道端では講談や芸人が市民の耳目を楽しませていた。仁宗の慶暦年間の治世を称えて慶暦の治という。
しかし慶暦の治の時代は繁栄の裏で宋が抱える様々な問題点が噴出してきた時代でもあった。政治的には官僚の派閥争いが激しくなったこと (朋党の禍)、経済的には軍事費の増大、社会的には兼併(大地主)と一般農民との間の経済格差などである。
仁宗は40年の長き治世の末嘉祐8年(1063年)に崩御。甥の趙曙(英宗)が即位する。英宗の即位直後に濮議が巻き起こる。 濮議とは英宗の実父である「濮」王趙允譲をどのような礼で祀るかということについての「議」論のことである。 元老たる韓琦・欧陽脩らは「皇親」と呼んではどうかと主張したが、司馬光ら若手の官僚は「皇伯」と呼ぶべきであると 主張し真っ向から対立した。この争いは長引き、英宗が妥協して事を収めた後も遺恨は残った。

新法・旧法の争い
王安石
結局、英宗は濮議の混乱に足を取られたまま治平4年(1067年)に4年の短い治世で崩御。子の趙?(神宗)が即位する。 20歳の青年皇帝神宗は英宗代に赤字に転落した財政の改善・遼・西夏に対する劣位の挽回などを志し、それを可能にするための 国政改革を行うことのできる人材を求めていた。
白羽の矢が立ったのが王安石である。王安石は青苗法・募役法などの新法と呼ばれる政策を行い、中小農民の保護・生産の拡大・ 軍事力の強化などを図った。しかしこの新法はそれまでの兼併・大商人勢力の利益を大きく損ねるものであり、 兼併を出身母体としていた士大夫層の強い反発を受けることになった。
新法を推進しようとするのは主に江南地方出身の士大夫でありこれを新法派、新法に反対するのは主に華北出身の士大夫でありこれを 旧法派と呼ぶ。新法派の領袖の王安石に対して旧法派の代表としては司馬光・蘇軾らの名が挙がる。 王安石は旧法派を左遷して新法を推進するが、相次ぐ反対に神宗も動揺し、新法派内での争いもあり、 王安石は新法の完成を見ないまま隠棲した。
神宗は王安石がいなくなっても新法を続け、その成果により財政は健全化した。それを元に神宗は元豊の改革と呼ばれる官制改革を行い、 西夏に対しての攻撃を行うも失敗に終わった。新法により表面上は上手くいっているかに見えたが、 その裏で旧法派たちの不満は深く根を張っていた。
元豊8年(1085年)、神宗が崩御。子の趙煦(哲宗)が即位する。このとき哲宗はわずか十歳であり、英宗の皇后であった宣仁太后が 垂簾聴政を行う。宣仁太后は中央を離れていた司馬光を宰相として新法の徹底的な排除を行わせた(元祐更化)。 司馬光は宰相になって1年足らずで死去、王安石はその少し前に死去している。宣仁太后時代は旧法派の天下であったが、 宣仁太后が元祐8年(1093年)に死去し、哲宗が親政を始めると再び新法が復活して新法派の天下となった。
この間、新法派・旧法派とも最早政策理念など関係無しに対立相手が憎いゆえの行動となってしまい、新法と旧法が度々入れ替わることで 国政は混乱した。一連の政治的争いを新法・旧法の争いと呼ぶ。

滅亡
元符3年(1100年)に哲宗は崩御。弟の趙佶(徽宗)が即位する。即位直後は皇太后向氏が新法派・旧法派双方から人材を登用して 両派の融和を試みた。しかし翌年に向氏が死去し、徽宗の親政が始まる。徽宗の信任を受けたのが新法派の蔡京である。 徽宗・蔡京共に宋代を代表とする芸術家の一人であり、芸術的才能という共通項を持った徽宗は蔡京を深く信任し、 徽宗朝を通じてほぼ権力を維持し続けた。
蔡京は旧法派を強く弾圧すると共に新法派で自らの政敵をも弾圧した。そして徽宗と自分の芸術のために巨大な庭石や庭木を遥か 南方から運ばせて巨額の国費を使い(花石綱)、その穴埋めのために新法を悪用して汚職や増税を行うという有様であった。 これに対する民衆反乱が頻発し、国軍はその対応に追われていた。その中でも最大の物が宣和2年(1120年)の方臘の乱である。 また中国四大奇書の一つとして知られる水滸伝は、この時代背景を元とした創作である。
一方、北方では遼の盟下にあった女真族が英主阿骨打の元で伸張し、遼はその攻勢を受けていた。阿骨打は女真族をまとめて1115年に金を建てる。 この伸張ぶりに着目した宋政府は金と手を結べば国初以来の遼に対する屈辱を晴らすことが出来ると考え、 重和元年(1118年)金に対して使者を送り金と共に遼を挟撃することを約束した(海上の盟)。 しかし同じ宣和2年に方臘の乱が勃発したことにより宋軍は出遅れてしまった。
翌宣和3年(1121年)に両軍は遼を攻撃、金軍は簡単に遼を撃破して遼帝天祚帝は逃亡した。しかし弱い宋軍は燕京に篭る耶律大石ら 遼の残存勢力にすら敗北し、宋軍司令官の童貫は阿骨打に対して燕京を代わりに攻めてくれと要請した。阿骨打の軍は簡単に燕京を攻め落とし、 燕京は宋に引き渡してその代わりに財物・民衆を全て持ち帰った。
五代以来の悲願である燕雲十六州の一部を取り返したことで宋は祝賀ムードとなる。さらに燕雲十六州全てを取り返したいと望む 宋首脳部は遼の残党と手を結んで金への牽制を行うなど背信行為を行う。金では阿骨打が死去して弟の呉乞買(太宗)が跡を継いでいたが、 この宋の背信行為に金の太宗は怒り、宣和7年(1125年)から宋へ侵攻。狼狽した童貫は軍を捨てて逃げ出し、同じく狼狽した徽宗は 「己を罪する詔」を出して退位。子の趙桓(欽宗)が即位する。
金軍は開封を包囲。徽宗たちは逃亡し、欽宗は李綱などを採用して金の包囲に耐えた。金側も宋の義勇軍の力を警戒し 、欽宗に莫大な財貨を差し出すことを約束させて一旦は引き上げた。このときに趙構(後の高宗)が人質となっている。
包囲が解かれた開封に徽宗が帰還する。金から突きつけられた条件は到底守れるようなものではなく、窮した宋は遼の残党と 接触するがこれが再び金の怒りを買う。1126年の末に金は開封を再包囲してこれを落とし、徽宗・欽宗は北へと連れ去られ、 二度と帰還することはできなかった。また、同じく4歳から28歳までの多くの宋室の皇女達が連行され、 金の王族達の妾にされるか(入宮)、洗衣院と呼ばれる売春施設に送られて娼婦とさせられた。[2]これら一連の出来事を靖康の変と呼ぶ。
その後、たまたま救援要請の使者として靖康の変時に城外にいた趙構が南に逃れて皇帝に即位し宋を復興する。これを南宋と呼ぶ。

政治
唐が各地に軍閥とも言える節度使の割拠を許し、続く五代十国時代の騒乱に至ったことに鑑み、世宗・太祖・太宗は、地方に強い力を持つ 節度使の勢力を殺いで中央を強化する「強幹枝弱」政策を取り、そして科挙を大幅に拡充し、文臣官僚制が完成の域に達した。 春秋戦国時代・魏晋南北朝時代・五代十国時代といった群雄割拠の状況は、これ以降の中華王朝では、近代にいたるまで見られなくなる。
宋代の支配体制は唐代の貴族層が五代十国の騒乱で没落した後に、士大夫と呼ばれる新しい層が中心となる。学問を積み、 科挙に合格して官僚となる事で、貴族のように血縁により尊崇されるのではなく、科挙の合格者を出して顕官に登る事で周囲の尊敬を集め、 地方の顔役的存在となり、財産を築く。反対に言えばどんなに財産を積んでいようと出世する人間がその一族から出なければ、 尊敬は受けられず、財産もいずれは消滅してしまう事になる。
この士大夫の権勢の源は国家の官僚であるということから来ており、貴族とは違って皇帝を離れて権勢を維持することは出来ない。 更に太祖はひとつの役職に対してそれに対抗する役職を新設するなど出来る限り一つの役職に権限が集中しないようにし、 簒奪劇が二度と起こらないように留意した。皇帝がこれらの士大夫出身の官僚を手足として使い国政に当たる体制は、 「皇帝専制」・「君主独裁」とも称される。ただ、その一方で、真宗の没後に年少若しくは病弱な皇帝が相次ぎ、宋皇室とは血縁関係のない、 皇太后及び太皇太后が皇帝の職務を代行し、政治を安定させたことは注目に値する。

官制
元豊以前
宋初からの元豊の改革までの官制は唐末から五代にかけて形成されていたいわゆる使職体制を受け継いでいる。唐の律令体制に於いては 極めて細密かつ完成された官制が整備されていたが、唐の玄宗期以降の急激な社会の変化に対して対応できず、実態との乖離が進んでいた。 そこで実態に即するために律令にて定められていない官(令外官)の使職が置かれ、律令の官は形骸のみを残し、実権は使職に移った。
唐滅亡後の五代に於いても新たな官が色々と付け加えられ、宋が成立した後も太祖・太宗は成立まもない国家が混乱することを恐れ、 節度使の権限を削るなど不可欠な所を修正はしたが根本的・体系的な官制作りには手を出さなかった。それに加えて寄禄官や職(館職) といった実際の職掌を示さない職の号があるために宋初の官制は歴代でも最も解りにくいといわれる。
中書門下
民政を司る。長官は同中書門下平章事(略して同平章事。2ないし3名)。同中書門下平章事を助ける参知政事(2名)。主に高級官僚の人事を行う。
枢密院
軍政を司る。長官は枢密使・副長官は副枢密使(又は知枢密院事・同知枢密院事)であり、その下に僉書枢密院事・ 同僉書枢密院事などの役職がある。
このうち、同中書門下平章事は宰相、参知政事・枢密使・副枢密使(知枢密院事・同知枢密院事)は執政と呼ばれ、 合わせて宰執と呼ばれる。数人の宰執が皇帝を前にして合議制で政策を決定する。つまり宰相といえども議論の場の中の一人に過ぎず、 権臣に皇帝の座を脅かされることを嫌った太祖の措置の一つである。
これ以外で重要な部署には以下のようなものがある。
三司
財政を司る。唐制の戸部、唐代に設置された使職の塩鉄部・度支部が合体して出来たものである。長官は三司使・各部ごとに三司副使が一人 ・判官三人が付く。
翰林学士
皇帝の命令を詔勅として文章化する役職。宋になって詔勅の数が増えたことから重要でないものを取り扱う知制誥が新設された。 翰林学士は宰執へのエリートコースとされた。
御史台
監察を司る。唐制から引き継いだものの中で実際の職掌を維持している稀有な部署。長官は御史中丞。
大理寺・審刑院
刑罰を司る。詳しくは#司法の節を参照。
唐の三省・六部・九寺・五監の役職は全てその名を残している。しかしこれらには実際の職掌は無く、単に官位・俸禄を示すものである。 これを寄禄官(官・本官などとも)と言い、これに対して実際の職掌は差遣という。またこれとは別に職(館職)がある。 館職は文章・学問に秀でた者に対して、試験を行って任命される差遣の一種で、これを帯びた者は昇進の速度が格段に早くなった。
元豊の改革
詳細は「元豊の改革」を参照
新法による改革を経て財政の充実を見た神宗親政期の元豊年間に官制の大幅な改革が行われた。
主な変更点を挙げると
三司の整理。経済に関するほとんど全てを司る三司は非常に巨大かつ複雑な機構と化していたが、王安石は制置三司条例司という部署を 作って三司の改革に乗り出し、三司の権限を司農寺・軍器監・将作監などの他部署に吸収させ、三司は単に経済関連の文書業務を 担当するものとした。元豊時にはこの残った三司を戸部に吸収させる。
名目的には中書・門下・尚書の三省を建て、それぞれの長官はそれぞれ中書令・門下侍中・尚書令であるが、これらの役職には誰も任命されず、 尚書左僕射に門下侍郎(門下省副長官)を兼任させて尚書左僕射兼門下侍郎、尚書右僕射に中書侍郎(中書省副長官)を兼任させて 尚書右僕射兼中書侍郎とそれぞれ称して宰相とした。また参知政事の代わりに尚書左丞・尚書右丞を設けて補佐とした。
唐制六部を形骸から実際の権限を持つものに復活させる。中書門下や枢密院の持つ人事権は吏部に、審刑院などの持つ裁判権は 刑部にそれぞれ吸収させた。
それまで同じ階梯でも複数あった寄禄官を一本化し、一つの階梯に一つの寄禄官が対応するようにした。

地方
11世紀の北宋
地方官制における最大の行政区分は州、その下に県がある。また特別な州として府(開封府など特に重要な州)・軍(軍事上の要衝) ・監(塩の生産地・鉱山・工場など多数の労働者が集まり、中央に直属する場所)がある。商業の要衝に作った集落を鎮という。
太祖は地方に軍事力を持って割拠していた節度使・観察使および刺史職を全て寄禄官とし、州の権限を知州に移し、 また知州の独走を防ぐために通判を付けた。当初は知州の決定は通判が同意しないと効力を発揮しないという定めになっていた。 しかし時代が下るごとにその地位を低下させ、州の次官となった。
知州の下には幕職官と曹官と呼ばれる官がある。節度使が地方に割拠していた頃、節度使はその領内の最重要な州の刺史を兼任した。 刺史としての官衙を州院といい曹官が属した。後に州刺史も節度使に倣い、その下に幕職官・曹官を抱えるようになる。 これが宋に入って知州が州の長官になるとそれまでは刺史によって任命されていた幕職官・曹官は中央によって任命されるようになり、 その間の区分もほとんど消滅した。幕職官としては判官・推官(両者とも裁判を扱う)など、曹官は録事参軍(庶務取り扱い) ・戸曹参軍(徴税・倉庫の管理など)といったものがある。後の徽宗時代に幕職官が廃されて曹官のみになるが、 そのすぐ後に金によって南走したため旧に復された。
県の長は知県ないし県令である。京朝官が県の長になる場合は知県といい、選人が県の長になる場合は県令という。 概ね知県は重要な州に、県令は小さな州に配される。知県ないし県令の下には県丞(次官)・主簿(事務官)・県尉(警察)などがあり、 これらも選人が任命される(京朝官・選人に付いては#科挙で後述)。
また州の監督機関として路があり、そこに置かれる役職は以下のようなものがある。これらの職の上に立つ路の長官は存在しない。 また路の区分は役職ごとに異なっており、例えば陝西は転運使では二路に安撫使では六路に分けられる。 路の役割はあくまで監督であり、州は路に属するわけではなく中央直属の機関である。 しかし時代が下るごとに路の重要性は増して次第に実際の行政機関に近くなり、後代の省の元となった。
転運使
路の運送を司り、路内の経済・民政に付いても監督する。
経略安撫使
路の軍事を司り、路のうちのもっとも重要な州の知州が兼任する。
提点刑獄
路の刑罰を司る。
提挙常平
王安石により作られたもので、新法実施のための諸事を行う。

科挙
殿試の様子。
隋の文帝により始められた科挙制度だが、科挙が真の意味で効力を発揮しだしたのは宋代だと言われる。唐では科挙を通過した者の地位は 概して貴族層が恩蔭(高官の子が恩典として与えられる任官資格)によって得られる地位よりも低く、 また科挙に合格していざ任官しようとしても官僚の任官・昇進を司る尚書吏部は貴族層の支配する部署であり、 科挙合格者は昇進においても不利になることが多かった。しかし宋代になって既存の貴族層が没落(もしくは五代十国時代に消滅) していたため、そのような事は無くなった。
宋代における科挙の主な変更点としては、まず殿試を行い始めた事である。それまでは地方での第一次試験である解試、 中央での第二次試験である会試の二種類があり、更にその上に皇帝の目の前で行われる殿試を作ったのである。 当初は殿試により落第する者もあったが、後には落第する者は基本的に無くなる。また唐までは主に詩賦が重視されてこれが 進士科とされていたが、王安石により進士科は経書の解釈とそれの現実政治への実践の論策を問うようになり、 それ以外の科は全て廃止された。これ以降は進士が科挙通過の別名となった。
科挙制度に置いては毎年の試験官がその年の合格者と師弟関係を結び、それが官界における人脈の基礎となる。 落第者のいない殿試が存在する意味もここにあり、皇帝との間で師弟関係を結ぶ事で皇帝に直属する官僚と言う意識を生み出すのである。 宋代は歴代でも非常に科挙の盛んな時代であり、ほぼ3年に1回行われ、一回に付き300-400人が合格した。
科挙に通過した後、寄禄官が与えられていない状態を選人という。選人は見習い期間中の職として地方官の仕事が与えられる。 地方で経験を積んだ後、中央に戻って中央の差遣と寄禄官を与えられる。この状態を京官といい唐九品制でいう所の従九品から従八品までが この階梯になる。正八品から従七品までを朝官といい、一緒にして京朝官という。更に正七品を員郎、従六品を郎中という。
科挙合格以外にも官僚となる道が無かったわけではない。一つは恩蔭制度、また科挙に何度が落第した者に対しては任官の権利が与えられる、 また大金を出して任官の権利を買うことも出来る、また地方にて長年勤めた胥吏は官僚としての地位が与えられる。 しかしいずれも進士と比べれば遥かに低い地位しか与えられず、国政に関わるような高位に上れるのは進士だけであった。
出自にかかわらず試験によって選抜する科挙制度は極めて開明的な制度であったが、試験偏重の弊害が宋代に既に現れていた。 これに不満を持った范仲淹や王安石は教育によって官僚育成を行うことを提案し、王安石によって実行された。 元々、開封には国子監と太学という二つの国立学校があったが、これらに所属するものには科挙の応募に有利であったので、 科挙が行われる直前になると入学者が殺到し、科挙が終わると皆退学するという状態で、教育機関としてはまったく機能していなかった。 王安石は学生を外舎・中舎・上舎に分け、春秋年二回の試験の優秀者は順次上に登らせ、上舎の合格者を任官させる方式を始めた。 これを三舎法という。後の徽宗期に大幅に拡充され、地方の府州県に於ける学校にもこれが適用されたが、 この時期には単なる人気取り政策に堕しており、後に科挙に復された。
また、科挙によって立身した官僚たちは己の存在感を示すために様々な政治的な意見や提案を行った。 それによって様々な政策が打ち出されていった反面、政争の頻発と宰相などの政権担当者の度重なる交替につながった。 北宋成立時に生じた幕僚出身の趙普と科挙出身の盧多遜の対立、真宗時代の北人(五代王朝出身者)と南人(旧南唐などの華南出身者)の対立、 仁宗時代の郭皇后廃后問題を巡って生じた慶暦の党議、英宗の実父趙允譲の待遇を巡って生じた濮議、そして神宗時代から北宋滅亡まで 続いた新法党と旧法党の対立と断続的に繰り返され、その傾向は南宋時代の対金政策や朱子学を巡る論争にも影響を及ぼした。 南宋におけるいわゆる「独裁宰相」の誕生にはこうした風潮を独裁的な権力の行使で解消しようとした側面があった[6]。

胥吏
北宋は科挙官僚の主導権が確立されたと共に、胥吏の存在もまた確立された時代であった。現代日本語では「官吏」と一くくりにされる 言葉であるが、宋以後の中国では官とは科挙を通過した官僚を指し、吏および胥吏とはその官僚の下にあって諸事に当たる実務者集団を指す。
胥吏は元々は官僚が仕事を行う際に、その下で動く者たちを民間から募集した徭役の一種として始まったものである。 このうち法律・徴税など専門性の高い者はその技術を徒弟制度によって受け継がせ、その役職を占有するようになっていった。 南宋代の記録であるが福州(福建省)では官が15人ほどに対して胥吏の数は466人とあり[8]、胥吏無くして行政は機能しない状態であった。
この胥吏は徭役が元であるから基本的に無給であり、収入は手数料と称した官僚からの詐取・民衆からの搾取によっていた。 搾取はかなり悪辣なものでありたびたび問題にされていたが、こと実務に関しては親子代々行っている胥吏に対して3年程度で 別部署へ移る官では胥吏に頼らなければ職務を実行することは出来ず、完全に胥吏のいいなりであった。 また胥吏は自らの地位を守るために官に対して収益の一部を渡しており、 「三年清知府、十万雪花銀」(3年知府をやれば、10万銀貯まる)と言われるような状態であった。
この状態に王安石は「胥吏に給料を支給する代わりに収奪を止めさせる」倉法という法を実行し、官と吏との合一を図ろうとした。 しかしこれは士大夫の自尊心を傷つける結果となり、大きな反対を受けて頓挫した。以後、清の終わりに至るまでこの 胥吏体制は続いていくことになる。

司法
宋代は司法制度が非常に発達した時代である。唐に於いて刑法に当たるものは律であるが、宋以後の大きな社会変化の中で硬直した 律を使い続けることは弊害が大きかった。そこで律が不適当と思われる場合には勅が出されて判決が変更され、 その勅に従って以後も進められていく。また過去行われた裁判の判例を後の裁判にも適用するようになった。 これを断例という。徽宗の崇寧4年(1105年)にはこの断例を纏めた物を出版している。
宋代の刑罰は死・配流(流罪、3000里・2500里・2000里)・配役(強制労働、3年・2年・1年)・脊杖(背中を杖で打つ、20から13まで) ・臀杖(尻を杖で打つ、20から7まで)の5種類である。五代の殺伐とした世の中で刑法も極めて厳しいものになっており、 後漢の時には「1銭を盗めば死刑」となっていた。宋に入って刑を軽くしていったがそれでも死刑にされる人数が膨大になり、 太祖はこれを救済するために死刑囚に対して自ら再審し、死刑が適さないとした者にたいしては配流に処した。また死刑以下の刑罰も 軽くして新たに折杖法という刑法を作った。但し軽くなったといっても唐律に比べればまだかなり重く、范祖禹は 「律に比べて勅の刑罰は三倍」と述べている。
宋代の司法の著しい特徴は警察・検察・裁判の三者がこの時代に既に分立していたことである。まず県に属する県尉と路・州に属する 巡検とが犯罪者の逮捕に当たる。これを巡捕という。捕らえられた者は獄(留置所)に降され、ここで獄吏による取調べが行われる。 これを推鞫という。取調べが終わり、犯罪事実が明らかになるとこれに対してどのような刑罰を行うべきかが審議される。 これを検断という。この過程を行うのは全て独立した部署であり、これらの役職を兼ねることは厳に禁じられた。
巡捕・推鞫・検断が終わると知県が判決を下すが、知県に許された権限は臀杖20までで、それ以上の刑罰を科す場合には上の州へと送る。 州では再び獄による取調べが行われる。州に於いては録事参軍・司理参軍がそれぞれ獄を持っており、 その結果によって判官・推官によって判決の原案が作られ、最後は知州によって判決が下される。後に裁判に誤りがあったと分かれば 判官・推官・録事参軍・司理参軍は全て連帯責任を負う。知州の権限は配流までであり、死刑の場合は中央へと送る。
州にて死刑が妥当とされた者のうち、死刑執行をためらう理由が無いと考えられる用件に付いては提点刑獄によって再検討するだけで良い。 それ以外の者は中央へと送られる。中央にてまず大理寺がこれを受け取り、書類の上で審査する(詳断)。大理寺を通過すると 次は審刑院に送られ、今度は直接本人に尋問するなどして再び審議される。意見がそれぞれ皇帝へと上奏され、皇帝による判決が下される。
これらの判決に対して不服がある場合には上告する権利がある(翻異)。
これら司法制度の整備により裁判は非常に多く行われるようになった。そのためこの時代には包拯に代表されるような 「名裁判官」が登場し、その活躍は街中の芸人によって語られ人気を博した。一方で訴訟ゴロの登場や訴訟の激化(健訟)を招いたが、 それだけ法と裁判が身近なものになったという証拠であろう。
兵制
宋の兵制は傭兵制であり、兵士は全て衣食住を政府から支給される職業軍人であった。宋軍は大きく禁軍と廂軍に分かれる。 禁軍は中央軍、廂軍は地方軍である。
唐末から五代にかけて藩鎮の持つ地方の軍事力は強大なものであった。これら藩鎮の兵士たちは中央で事が起こった際に節度使を 押し立てて皇帝とし、兵士がそのまま禁軍となった(侍衛親軍)。この侍衛親軍は皇帝を擁立した功績から多くが驕慢になり 、恩賞を約束されねば戦わない軍隊となり、軍内の老兵を整理することを許さなかった。このような状態を驕兵と呼ぶ。 これに対して後周世宗は新たな禁軍である殿前軍を設置し、これを強化することで軍事力の強化と皇帝権の確立を狙った。 この殿前軍の長官である都点検であったのが太祖である。
太祖が即位すると節度使から兵権を剥奪し、残った兵士のうち強兵を引き抜いて禁軍に組み入れ、残った弱兵たちは廂軍として地方に残した。 廂軍は実戦兵力としてはまず使われず、兵糧の運搬や土木工事などに使われ、満六十歳で退役し、退役後は俸給は半分に減らされた。 一つには他の仕事に就けない者を収容する福祉政策の意味合いと、無頼の徒を軍隊に収容することで治安維持的な意味合いがあった。
唐代では藩鎮の将帥と兵士たちの間に私的な繋がりが生じ、それが割拠の一つの原因となっていた。これに対して宋では 軍の駐屯地と軍の司令官を数年毎に替える更戍制を行い、司令官と兵士と地方の間に心的結合の出来ないようにした。 また一般に兵士には逃亡防止のために顔面に刺青が施されていたが、本来刺青は罪人に施されるものであり、宋においては 「良鉄は釘にならず、良人は兵にならず」というように兵士の社会身分は著しく低いものとなった。 これらの政策により中央に反抗する地方軍は存在しなくなったが、一方で軍の弱体化を招くことになり、 遼・西夏との関係は常に守勢に回らざるを得なかった。
また禁軍・廂軍の他に現地の民衆により編成された自警団的な郷兵、辺境の異民族を軍隊に組み入れた蕃兵がある。 郷兵は自らの郷里を守るということから士気が高く、蕃兵は精強であり、かつ両者とも維持費が安いことから重宝された。
税制
宋代を通じて唐・五代十国から引き継いで両税法が行なわれた。全国の戸を土地を持ち、税を納める戸である主戸、 土地を持たぬ客戸に分類し(主戸客戸制)、主戸は五等戸制の下に、五等のランクに分類され、夏と秋に穀物を徴収された。 しかし、現実に人々の重課になったのは、強制労働(実際にはしばしば銭による代納)である、職役(役)である。 主戸のうち財力に富む一等戸・二等戸は職役を負担したが、この負担はたいへん重いもので、しばしば家計を圧迫・破綻させる要因となった。
国際関係
契丹族によって建てられた遼であるが、国号は遼と契丹とで何度か入れ替わっている。ここでは民族名として「契丹」、 国号として「遼」に固定する。なお金との関係に付いては南宋で詳述する。
概説
中唐から晩唐にかけての唐帝国の衰退・滅亡、五代の騒乱という中国の混乱は東アジア世界全体にも大きな影響を及ぼし 、勢力図が激変することになる。北方ではモンゴルからトルキスタンまでに広く勢力を張っていたウイグル 可汗国が840年にキルギスによって滅亡。その間隙を縫って勢力を伸ばしてきたのが契丹である。西方では877年に吐蕃が崩壊。 青海地方ではタングートが勢力を伸ばす。南西では902年に南詔が滅亡。代わって大理国が興る。 南では長く中国の支配下にあったベトナムが独立し、呉朝が興る。東では新羅の支配力が衰え、938年に高麗によって統一される。 また渤海も国力を低下させ、926年に契丹により滅ぼされ、東丹国が作られる。日本でも935年に承平天慶の乱が起こり、 武士の時代に入った。これらは当時の世界の中心であった唐帝国の冊封体制の崩壊が影響を及ぼしたと考えられる[注釈 4].
その後、宋が中国を再統一するが、新たに作られた国際秩序は唐を頂点とする冊封体制に対し、宋と遼が二つの頂点となった。
宋の立場で言えば、最も重要な相手は遼(契丹)で、北宋建国時から対立状態にあったが、?淵の盟が結ばれて以降は概ね平穏に推移し、 これが遼滅亡の直前まで続く。遼に次いで重要なのが西夏であり、前身のタングート時代より宋に対して侵攻を繰り返しており 、遼とは逆に北宋滅亡まで安定的な関係を築くには至らなかった。このように北宋は建国より滅亡まで常に戦争状態にあり、 その財政はそのほとんどを軍事費が常に占める戦時経済であった。王安石の改革が必要になった主たる原因はこれである。
交易
経済の項で述べたように宋は極めて強い経済力を誇っており、周辺諸国にとって宋との交易は莫大な利益を約束されており、 周辺諸国の財政を支える存在となった。であるので契丹や西夏に対しては交易権はアメとムチのアメに当たる物であり、 交易をどれだけ認めるかは宋の重要な外交カードとなった。
陸路にて交易が行われる場所を?場といい、ここ以外で交易を行うことは厳に禁止された。海路にて交易を行う場合には市舶司が窓口となり、 ここを通さない交易は同じく禁じられた。?場の置かれた場所としては遼に対して雄州[注釈 5]・覇州[注釈 6]など4箇所・西夏に対して 鎮戎軍[注釈 7]・保安軍[注釈 8]の2箇所。市舶司が置かれた場所としては広州・泉州など数箇所に置かれた。
宋が各国から受け取る物としては馬・塩・金・木材などがある。特に馬は前述の通り宋は常に戦時体制であり、 国内では良馬が産出しないために重要視された。宋から各国へと輸出されるものとしては宋銭・茶・陶磁器・絹・穀物などである。
貨幣の項で述べたように宋国内では銭が不足しており、それに伴って宋銭の国外輸出は禁じられた。しかし密貿易によって大量に 輸出が続けられており、各国内でも通貨として宋銭が流通することになった。この結果、東アジア全体が宋銭によるひとつの 経済圏を作り出すに至った。
喫茶の風習は宋から周辺諸国へと広く伝わり、特に野菜が不足しがちな契丹・西夏では茶は貴重なビタミン源として生活に 欠かせないものとなっていた。
各国との関係

契丹族は4世紀ごろより遼河上流域に居住していたが、唐の衰退を契機として自立性を高め、916年に耶律阿保機の元で自らの国を建てた。 その後、東丹国・烏古などを滅ぼして勢力を拡大し、北アジアの一大勢力となった。
さらに南への進出を目指して五代王朝と争い、二代目耶律堯骨の936年には、石敬?の要請を受けて出兵。後唐を滅ぼして後晋を誕生させ、 これを衛星国とし、燕雲十六州の割譲を受けた。石敬?の死後、後晋が遼に対して反抗的な態度を見せたために946年に再び出兵してこれを 滅ぼすが、漢人の抵抗が激しかったために兵を引き上げ、その後に劉知遠が入って後漢を建てた。
951年に後漢は郭威によって滅ぼされて後周が建てられ、後漢の皇族の劉崇が北に逃れて北漢を建てる。遼はこれを支援して 幾度か後周を攻めるが成果を得られず、逆に後周に燕雲十六州の一部を奪われる。この頃より遼内部での抗争が激しくなり 皇帝の暗殺・擁立が繰り返され、また渤海の遺民たちが定安を興し、高麗も遼に対して反抗的になるなどして、 南へと干渉できる状況ではなくなった。
その隙を突いて後周およびその後を継いだ宋による統一戦が進められ、979年に宋の太宗が北漢が滅ぼしたことで中国の統一がなった。 宋の太宗は北漢を滅ぼした余勢を駆って遼へと侵攻してきたがこちらは撃退し、宋太宗が単騎で逃げ出すほどの惨敗となった。 その後、西北でタングートが勃興し、宋はこちらの対応に追われるようになる。
982年、遼で聖宗が即位する。聖宗は995年に定安国を滅ぼし、更に高麗を服属させて東を安定させた。また990年には宋と交戦していた タングートの李継遷が遼の支援を求めてきたのでこれを夏国王に封じ、宋に対する圧力を強めた。
999年、聖宗は宋を討つ詔を出し、その後の数年間は小規模な戦いが行われたが、1004年に20万人の軍をもって本格的な攻撃を仕掛けた。 宋朝廷では王欽若により金陵(南京市)遷都が唱えられたが、真宗は寇準の出した親征案を採用し、?州[注釈 9]にて遼軍と対峙した。 両軍はこう着状態となり、双方から使者が出され、和議が結ばれた(?淵の盟)。
この盟約では
国境は現状維持。
宋は兄、遼は弟の礼とする。
宋から遼に対して毎年銀10万両と絹20万匹を歳幣(幣は対等の贈り物の意)として送る。
などが定められた。この盟約は後の1042年に銀絹それぞれ10万ずつの増額されたが、それ以外は基本的に堅持され、 宋と遼の間は小競り合いは常にあったものの概ね安定した状況を迎えた。
この状態が数十年続いたが、1115年に満州で女真族が阿骨打の元で勃興して金を建て、遼を激しく攻撃するようになった。 これを見た宋の徽宗朝は燕雲十六州の奪還をもくろんで金と同盟を結んだ(海上の盟)。
この盟約により宋と金が遼を挟撃し、1125年に金軍により遼は滅びた。
西夏
タングート族は唐代より甘粛方面に居住しており、その勢力の中心となったのがオルドス地方南部の夏州に勢力を張る平夏部であった。 その首長である拓跋思恭は唐を援助した功績で国姓の李を授かっていた。宋政府は平夏の懐柔に努めて西平王の地位を与え、 概ね友好関係にあり、北漢討伐の際には平夏よりも兵が出ていた。
平夏部の支配地は農業生産に乏しいが、その代わりに塩を産出するのでこれを輸出してそれと引き換えに食料・茶・絹などを手に入れていた。 これは青白塩と呼ばれており、質が高く値も安いことから買い手には喜ばれた。しかし宋国内で塩の専売制が確立すると宋政府は青白塩を禁止し、 自らの官塩を強制的に民衆に買わせるようになった。タングート側は青白塩を認めるように何度も宋政府へ要求するが、 これを認められず次第に反抗的になってくる。
北漢滅亡後の980年に李継捧が地位を継ぐが、この継承には部内よりの反対が多く、その地位は不安定であった。 これに不安を感じた李継捧は自らの支配地を宋に献納し、開封にて暮らしたいと申し出てきた。太宗はこれを大いに喜び、 李継捧に対して莫大な財貨を与えて歓待した。しかし一族内の李継遷がこれに反対し、部内を纏め上げて宋に対して反抗の烽火を上げた。 李継遷は遼に援助を求めて夏国王の地位を貰い、オルドスを席巻し、1002年に霊州を陥落させて西平府[注釈 10]と改名して、 ここに遷都した。
1003年に李継遷が戦死して李徳明が跡を継ぐ。翌年には宋と遼とが?淵の盟により和睦し、単独では宋に当たり難いので 1005年に和議を結び、宋より西平王の地位を授けられ、毎年銀1万・絹1万・銅銭2万の歳賜を受けることになった。李徳明は遼からも同じ 西平王の地位を授かっており、両属の形をとっていた。宋と和平した李徳明は西のウイグルを攻める。
1031年に李徳明が死去してその子の李元昊が跡を継ぐ。李元昊はかつて父の李徳明より「我らが錦や絹を着ることが出来るのは宋の恩である」 と宋に背かないように諭されたときに「毛皮を着て牧畜に従事するのが我らの便とするところです。英雄の生は王覇の業にあります。 錦や絹がどうしたというのですか」と豪語したという大器雄略の人物である。その言葉通り、ウイグルを攻撃して河西地域[注釈 11]を 全て支配下に入れ、1038年に李元昊は皇帝を名乗り、国号を大夏とし、宋からの独立を宣言した。これ以後は西夏とする。
宋は李元昊の官爵を全て剥奪し、西夏との交易を全て禁止して、交戦状態に入った。国初以来の文治政策により宋の軍隊は弱体化しており、 宋軍は西夏軍に何度と無く敗れる。しかし宋との交易が途絶した西夏も経済的に苦しむようになり、両国ともに和平を望むようになり、 以下のような条件で1044年に和議が結ばれた(慶暦の和議)。
西夏は皇帝号を止めて宋に臣として仕える。
宋から西夏に絹13万・銀5万・茶2万の歳賜が送られる。その他に夏国主の誕生日などに下賜され、合計で絹15万3000・銀7万2000・茶3万となる。 しかし西夏側の最大の要求である塩の販売に関しては宋は要請をはねつけており、和議なったとはいえ西夏方面はその後も不安定であった。 この後五回に渡って対立と和議が繰り返されることになる。王安石時代の1072年には吐蕃を討ち、 ここに新たに熙河路を置いて西夏への牽制(けんせい)とした。しかし旧法党が政権を握るとこれは放棄され、 新法党が盛り返すと再び設置されといった具体に新法・旧法の争いは外交にも影響を及ぼした。
宋夏関係は不安定なままに推移し、結局宋が南へと逃れたことで関係が途絶し、西夏は金に服属するようになった。
高麗
朝鮮半島は892年に弓裔により後高句麗が興されて後三国時代に入るが、弓裔の配下にいた王建(太祖)が高麗を建て、 936年に全土を統一する。統一後すぐに太祖は五代王朝に対して朝貢し、宋が建つと正朔を奉じて冊封国となった。
太祖の統一戦と平行して遼が渤海を滅ぼしており、契丹が宋と争うようになると後背を気にした遼は993年より高麗へと侵攻し、 994年に高麗は鴨緑江以南の領土と引き換えに契丹の正朔を報じ、宋との関係は絶たれることになる。その後しばらくは宋と高麗の 関係は絶えたままであったが、神宗の1068年に宋からの非公式の使節が送られ、これに答えて高麗は宋に朝貢をするようになった。 こうして高麗は宋、遼と二重の外交関係を結び[12]、両国の対立を利用して[12]仲介貿易を行い、利益を獲得した[12]。
宋と高麗との間で頻繁に使者が往復し、宋から『文苑英華』・『太平御覧』、高麗からは『宣和奉使高麗図経』が互いに送られた。 また交易のための船も行き来し、北宋が金によって滅ぼされるまで関係は友好的に進んだ。
日本
日宋貿易も参照
907年の遣唐使廃止以降日本は対外的に消極的になり、一般人の対外渡航を禁止する半鎖国状態となっていた。 この後、基本的に宋と日本とは正式な国交は開かれないままであった。新法で財政が充実した神宗が外交でも積極策に出たことは上述したが、 日本に対しても朝貢を促す使者が送られた。日本側ではどう扱うかで逡巡していたが、最後には受け入れて宋に対して 返答の使者を送っている。しかし以後に続くことはなく両国の関係が本格的になるのは南宋になり平清盛が日宋貿易を大幅に拡大する 時以後になる。
民間の交易では宋側が積極的であり、宋が成立した後の978年に初めて宋船が日本を訪れた。主に寄港地としては主に博多であったが、 中には敦賀にやってくる船もあった。日本に来た外国船は大宰府の鴻臚館に収容し、衣食を供給する定めとなっていた。 しかし宋船の来航回数が多いと費用がかさむので年紀を定めて来航するようにさせた。宋船ではこれを守らずに来航するものも多かったが、 この場合はそのまま追い返してしまったようである。また広大な荘園を持つ貴族たちは「不入」の権を持つ荘園内で密貿易を行い、 大宰府もこれに手を出すことが出来なかった。
宋から日本に持ち込まれる物品としては香料・茶・陶磁器・絹織物・書籍・薬品などである。これらの決済に使われたのが主に 奥州産の砂金であり、日本から宋へはこれが最も重要な輸出品であった。他には硫黄・水銀などがあり、そして工芸品が重要な輸出品であり、 中でも扇が宋の士大夫たちに大変好まれたという。
この間、日本の商人たちは受動的な商売に限定されるをえず、中には密航して宋へと渡ろうとしたものもあったが、 発覚した者は徒罪や官職剥奪となった。しかし11世紀後半(宋の神宗・日本白河天皇)になると商人たちは大宰府の目をかいくぐり、 自ら船を出して宋を目指すようになった。ただしこの時代の日本の造船・航海技術は低く、東シナ海を横断することは危険が大きく、 始めは島伝いに高麗へ行き、そこで経験を積んだ後に宋へ赴くようになった。日本船が初めて宋の記録に現れるのは 北宋滅亡後の1145年である。
日本の一般人の海外渡航は禁じられていたが、仏僧だけは例外であった。北宋期に宋へと渡った僧は奝然・成尋などがおり、 奝然は太宗に召されて雨乞いの儀式を行い、また日本の天皇家が万世一系であると伝え、太宗がそれを羨んだという話が残っている。






もうせんそう(輞川荘)
長安の東南に位置する藍田県にある、藍田山と嶢山の間から流れ、渭水に注ぐ川である。王維は、 その源流の30唐里ほど南のところに、かつて宋之問が別荘としていた土地を買い上げ、自分の別荘を建てた。 近隣には多くの長安の名士たちが別荘を構えていた。これは、当時の道教と仏教の思想の融合した山間隠棲の風習にのったもので、 王維によって、その流行が促されたとされる。
王維は開元年間より住み始め、天宝9載(749年)頃にほぼ完成する。そこで、同じく別荘を構えていた銭起らと交際していた。 王維が清浄を好み、潔癖さを伝える説話も存在する。王維が友人の裴迪と交わした詩は「輞川川集」としてまとめられ、 20首が残っている。一貫して、清浄に対する憧憬と幽遠の表現がテーマとなっている。
王維の別荘は、北?・南?という宅院、文杏館・竹里館・臨湖亭という茅亭、華子岡・斤竹嶺という岡、鹿柴・木蘭柴という囲い、 漆園・椒園という園、辛夷塢・宮塊陌という道、孟城?という名跡、金屑泉という泉、欹湖という湖、 茱萸?・柳浪・欒家瀬・白石灘という名所があり、「輞川川集」に全て題材としてとられている。 これを画に写したものは「輞川川図」と名付けられ、転写されたものが世に流布し、唐末には各地で眺められ、 刺青として入れるもの、料理にそれを形作ったものもあったと伝えられる。




もくらん(木蘭)
中国における伝承文芸・歌謡文芸で語られた物語上の女性主人公。木蘭の姓は「花」「朱」「木」 「魏」など一定していないが、京劇では「花木蘭」とされる。
老病の父に代わり、娘の木蘭が男装して従軍。異民族(主に突厥)を相手に各地を転戦し、 自軍を勝利に導いて帰郷するというストーリー。
陳の釈智匠『古今楽録』に収められた『木蘭詩』(木蘭辞とも、作者)が記録された最も古い 文献とされる。
木蘭詩
『楽府詩集』[1]25巻橫吹曲辭5の「梁鼓角橫吹曲十二首」に木蘭詩二首が収められている[2]。 南北朝時代の北朝の民間民謡に由来するとされる。その注に「古今樂?曰 木蘭不知名 浙江西道觀察使兼御史中丞韋元甫續附入」と『古今楽録』の記事が記載される。
木蘭従軍故事は後代、詩歌や戯曲・小説の題材となった。戯曲では、明の徐渭が編んだ雑劇『雌木蘭』 などがある。また現在の京劇などでは『花木蘭』の題で演じられている。 小説では清初の?人獲(中国語版)『隋唐演義[3]』にも含まれている。






やこぜん(野狐禅)
禅宗において、禅に似て非なる邪禅のこと。「無門関」第2則の「百丈野狐」に出る語である。 野狐(やこ)は低級な妖狐の1つを意味する。野狐精(やこぜい)、野狐身(やこしん)、 また生禅(なまぜん)ともいう。
「仏法は無我にて候」として真実の仏陀は自我を空じた無我のところに自覚体認されるはずのもの なのに、徒(いたずら)に未証已証(みしょう・いしょう、いまだ証していないのに既に証覚を得た) という、独り善がりの大我禅者をいう。いわゆる魔禅の1つ。
「無門関」第2則の「百丈野狐」の公案には、前世に百丈山にいた老人が、かつて覚った者は 「因果に落ちない」と言い、「空」の境涯のみを持ち上げて因果の理法を無視したが為に、 五百生の間、野狐身の畜生道に堕したという話がある。この話からいったんの「空」の無相の境涯に 捉われて、真に妙有・妙用(みょうう・みょうゆう)の境地に達しないのに、自ら覚り終ったとする 独り善がりの増上慢(ぞうじょうまん)の禅をたとえて言ったものである。






やろうじだい(夜郎自大)
自分の力量を知らずに、いばっている者のたとえ。▽「夜郎」は中国漢の時代の西南の地にあった未開部族の国の名。 「自大」は自らいばり、尊大な態度をとること。 出典『史記』西南夷伝






ゆうせんし(游仙詩)
二七六年生れ 郭璞(かくはく)「仙に遊ぶ詩」。
放浪林沢外
被髪師巌穴
髣髴若士姿
夢相遊列缺

林沢(りんたく)の外に放浪(ほうろう)し
[世俗の外の林や沢をぶらぶらし]
被髪(ひはつ)して巌穴(がんけつ)を師とす
[髪をふり乱し岩穴を先生とする]
若士(じゃくし)の姿を髣髴(ほうふつ)し
[若士の姿をぼんやり思い浮かべ]
夢に列缺(れっけつ)に遊ぶを相(み)る
[天の裂け目辺りで遊ぶ夢を見る]

仙人は長寿の術を会得した人。その仙人が住む場所が仙界。
若士は中国北方の北海に住む、紀元前の仙人。
仙人の住む場所。それは林や沢の外、岩穴、天の裂け目。この場所は世俗の外。
仙人の心境。世俗の外は、物欲のない所。仙人は物欲と縁を断ち、無欲に生きる人。世俗を離れ、高尚な人。
仙人の姿。ふり乱した髪。ざんばら髪。全身毛だらけ、長い耳、顔色が変わる姿もある。
この詩で仙人と遊んだのは作者の郭璞。郭璞は仙人の姿をし、住む場所へ行き、夢の中で仙人の若士と遊んだ。
仙人と一緒の郭璞。心中ご満悦。俗人なる我ら。時にこんな心境になりたくなる!




ゆうびょう(有苗)

有苗即三苗,是古代一个部落。






ようかんさんじょう(陽関三畳)
唐の王維の絶句〈元二の安西に使いするを送る〉に基づく。起句の〈渭城の朝雨〉より《渭城曲》, 結句〈西の方,陽関を出づれば故人なからん〉から《陽関曲》ともいう。 唐朝の絶句を歌う風の一例。別離の歌として早くから有名で白居易(楽天)ら同じ唐代詩人の詩中にその名がみえる。 三畳については起句以外の3句を2度歌う,結句を3度歌うなど諸説がある。 のち歌詞を前後に付加して琴歌にした。現存最古の《浙音釈字譜》(15世紀)所収のもの以降, 十数種あるが《琴学入門》(19世紀中葉)のが最も流行している。 .




ようしゅう(揚州)
春秋時代に呉が広陵邑(こうりょうゆう)を建て、楚(そ)がこれを継ぎ、秦(しん)、漢では広陵県、 東晋(とうしん)以後は南(なんえん)州が置かれた。隋(ずい)代に揚州と改名、 交通の要地として成長、離宮もあった。唐もこれを受け、東アジアやアラブとの 海上交通が揚州を拠点とし、また北送する江南の米、塩などの集結地となって栄え、 「揚一益二」つまり四川(しせん)(益州(えきしゅう))の成都(せいと)と並ぶ華中の大都会となった。 日本に布教した律宗の僧鑑真は近くの大明寺に居住していた。
 唐末の兵乱で荒廃したが、節度使楊行密(ようこうみつ)(852―905)が揚州を都に 呉国を建てた。このころから揚州は江蘇沿海の淮南(わいなん)塩の集散地、 また北送される江南の米、絹などの積換え地となり、北宋(ほくそう)では転般倉、 南宋では総領所が置かれた。明(みん)・清(しん)では北辺の軍隊への補給に淮南塩からの 利益が利用され、山西(さんせい)、新安(しんあん)の大商人が揚州に集まってふたたび繁栄し、 学者、文人による文化的サロンもできた。『揚州画舫録(がぼうろく)』にその繁栄ぶり が詳しく記録されている。




ようしゅうのつる(揚州鶴)
昔、揚州の街に役人になりたいという人がいた。また別の人は大金持ちになりたいと言った。 次の人は鶴に乗って天に遊びたいと言った。ところが最後の人は、私は役人 になって腰に十万貫の金をまとい、鶴に乗って揚州の上空を飛び回って遊びたいと言った。
三人の願いを一身に叶えたいというあくなき欲望の主である。 この話は次の「蘇子瞻」という人の{緑筠軒}の詩に引用された。

於潛僧綠筠軒(宋・蘇軾)
可使食無肉,不可使居無竹。無肉令人痩,無竹令人俗。
人痩尚可肥,俗士不可醫。旁人笑此言,似高還似癡。
若對此君仍大嚼,世間那有揚州鶴。

肉がなければ食べられず、竹がなければ家建たず。
食べなければ痩せるし、家がなければ世に入れない。
これでは肥えたい、世に和したいと医者に頼むのはお門違いというものだ。
でも世間ではこのような馬鹿げた事を考える、まるで「揚州鶴」のような人がいるものだ。
(この話から、馬鹿げたあくなき欲望の事を「揚州鶴」と言うようになった)
{古文真宝}より




ようたい・おうたい(拗體)
近體詩の聲律。常格によらず、平仄に諧はぬものをいふ。絶句では第一・二の句に平起の式を用ひ、 第三・第四の句に仄起の式を用ひたもの。又、第一・第二の句に仄起式を用ひ、第三・第四に平起 の式を用いひたもの。ーーー(大漢和)






らくざんだいぶつ(楽山大仏)
峨眉山地域内の長江の支流、岷江(みんこう)、大渡河、青衣江が合流する地点にある。
近代以前に造られたものでは世界最大・最長の仏像であり、石像である[1]。顔は100畳分、岩山を掘り、90年かけて造られた。 高さは71メートル。東大寺の大仏の5倍にも及ぶ。当時、多くの大仏が国家によって造られたのに対して、 楽山大仏は民衆の力で作られた。
楽山大仏は、後述の韋皋(い こう)が編ませた『嘉州凌雲寺大像記』の伝えるところによれば、開元元年(713年)、 楽山周辺では塩が大量に取れ、年間の生産高は現在の価格に換算すると1千億円以上でその成功を仏様に感謝したいという気運が高まったことと、 当時頻繁に起こっていた塩を運ぶ大動脈である岷江の水害を大仏の力で治めてもらおうという願いから、 僧の海通が民衆の布施の下に寺院・凌雲寺に隣接する崖に石像を彫り始めた。
天宝2年(743年)、海通は大仏が完成する前に亡くなったが、剣南西川節度使であった韋皋が建設を受け継ぎ貞元19年(803年)に完成した。 川の合流地点に工事で出た大量の土砂を投入することにより、川底が浅くなり、海通の意図通りに水害は大幅に減ることとなった。
完成当時、大仏は「大仏像閣」と称する13層の木造の建造物に覆われ、法衣には金箔、胴には朱色が塗られていた。 さらに、湧水を外に逃がすための排水溝、そして雨水を効率よく逃す溝が掘られていた。 しかし、明代末期に建物は焼失、 大仏も風雨に晒されて色が落ち、雑草に覆われていった。
修復は1962年になってようやく行われた。 その際、像の胸の部分から明代に開けられたと見られる穴が発見され、 経典などを入れるためのものであったとの推測がなされている。最近では酸性雨によると思われる染みが見られる。
楽山大仏は1996年、比較的近隣にある仏教の一大聖地・峨眉山とともに、複合遺産「峨眉山と楽山大仏」の名でユネスコの世界遺産に登録された。
施設の大きさは全高(縦全長)約71m、像高(像本体の高さ)約59.98m(長さの比較資料:1 E1 m)。 近代以前に造られたものでは 世界最大・最長の仏像であり、石像である。 また、像高で第2位にあったバーミヤンの大仏(2体のうちの大きい方)が破壊された現在では、 これに迫る古仏は存在しない。
施設全高 約71m。 像高(像本体の長さ) 59.98m。 像幅(像本体の幅) 28.5m。 頭高(頭部の長さ) 14.7m、鼻の長さ 5.6m、口の長さ 3.3m、耳の長さ 7.0m(耳の穴には2人入れるという)、首の長さ 3.0m。 肩幅 28.0m、中指の長さ 8.3m、脚の長さ 10.5m、足の甲の長さ 8.5m。




らしんばん(羅針盤)
羅針盤(コンパス・方位磁石ともいう)とは磁石が南北を示すことを利用して船などの進路を測る 道具のことです。
少し高い山に登る時は必携です。その場合普通「羅針盤」とは言わず「コンパス」と言いますね。 道に迷った時にコンパスを使えば東西南北の方角がわかります。コンパスは丸い形をしていて 東西南北の文字が書いてあり、真ん中に針があります。方角を知りたい時はコンパスを平らな場所に 置きます。すると針がくるくる回って止まります。針の先に色が着いている方が北です。 そこで文字盤に書かれた「北」という文字を針先まで動かすと、東西南北が一目でわかるのです。 山で道に迷うと命にかかわる場合がありますが、コンパスはこの危険を減らしてくれます。 このすぐれものを発明したのは昔の中国人です。
11世紀に出版された沈括しんかつ(北宋時代の政治家・学者)の随筆『夢渓むけい筆談ひつだん』 (科学技術に関する話題が多い)に「磁針の中心に蚕の繭の新しい繊維を1本ロウで固定し、 風のない場所に吊り下げると、それは常に南を指す。針の中には北を指すものもある」 と書かれています。ヨーロッパで初めて羅針盤について書かれたのは12世紀の終わりに 出版されたアレクサンダー・ネッカムの『物の本性について』という本で、 「曇りの日や夜船の方位を知りたい時に磁石と針を触れさせると、針は円を描いてぐるぐる回り、 動きが止まると先が北を示している」とあります。この本が書いている羅針盤は船乗りが 中国人と交流する中でヨーロッパに伝わったものと考えられています。
羅針盤はかなり古くから中国に存在していましたが、航海に使われるようになったのは 9世紀から11世紀の間と言われます。では中国ではいつごろからこうした方位磁石が使われて いたのでしょうか。
中国では古くから「正しい方角」というものがとても重視されていました。地位の高い人は 「坐北朝南」(北側に座って顔を南に向ける)ことになっていました。この方角を測るものを 「圭表」と言いました。「圭表」とは地面に棒を垂直に立て、影の長さや位置を測って、 東西南北の方位や時間を知るためのものです。
西安で発掘された約6000年前の新石器時代の遺跡では住居の出口がみな南向きになっていました。 この頃からすでに古代中国人には方位知識があったと考えられています。
古代中国では磁石が鉄を吸いつける現象はすでに知られていました。『管子』『山海経』 『呂氏春秋』などにそうした記述がみられます。それらの中で「磁」には「慈」の字があて られていました。鉄が石に引き寄せられる様に親の慈愛を感じていたようです。
紀元前227年、後に始皇帝となる秦王は燕国の太子・丹が放った刺客・荊軻けいかに危うく 殺されそうになります。当時の凶器と言えば刃物…鉄です。天下を統一した後阿房宮という 大宮殿を立てさせた始皇帝はその門に工夫をほどこします。門に磁石をはめこんで、 中に入り込む者が金属を隠し持っていないかをチェックしたのです。刃物を持っていると 磁石に吸い付けられ捕まります。これを「磁石門」と言いますが、空港のセキュリティチェックと そっくりですね。人をくっつけるほど大きな磁石があったんでしょうか。磁石のカラクリを 知らない人はさぞ驚いたことでしょう。
中国の羅針盤というと不思議な写真が出てきます。四角い枠の中には円があり、その真ん中に 一方の先端が細いひしゃくのようなものが置いてある…。
このひしゃくのようなものは「司南」と言います。四角いものは「地盤」、円は「天盤」 と言います。天盤は手で動かすことができます。天盤と地盤には「甲乙丙丁…」とか 「子丑寅辰…」などの文字が等間隔で書かれています。このうち「子」は「北」、 「午」は「南」を意味します。
この盤の上にひしゃくの形をしたもの、つまり「司南」が乗っていて、これは静止状態と 先端が南を指すので「司南」と呼ぶのです。
この謎めいた物体は何に使ったかというと…占いに使ったのです。天盤を回して一定の 位置に止まった時そこにある文字から吉凶を占いました。
戦国時代(紀元前5~3世紀)の本『鬼谷子きこくし』(戦国時代に鬼谷が書いたと言われる 遊説に関する書)にこの「司南」についての記述があります。「鄭の人は玉をとりに行く時、 道に迷わないように司南を持っていく」。この司南は「指南」とも書きます。現代中国語で 「指南」は「指針・よりどころ・手引き・ガイド」のこと。日本語で「指南」は「指導する」 意味で使います。この「指南」は古代の「司南」つまりコンパス・方位磁石に由来を持つと 考えられます。
魅力的な形を持つこの司南ですが、磁力が弱く、重かったために使われることはあまりな かったそうです。
中国で紀元前から使われていた「司南」はひしゃくの形をしていました。これでは方向が正確には 示せません。そこで今使われているような「針」が開発されるのですが、 これも中国で発明されました。そしてここにも「占い」、つまり「風水」がかかわっています。 中国では家や墓を作る時、凶を避けるため、その土地の地形や方位、日取りが重視されました。 特に唐代になると前代から行われていた科挙制度がいっそう発展し、農村出身者が科挙に合格 するようになります。彼らは農村を出て都会で官僚となって活躍し、老年になると引退、 再び農村に戻って美しい自然の中に隠居用の家を建てようとするのですが、老境に至った彼らは 官僚時代の儒教思想より荘子や老子、そして道教思想の方がなじむようになります。 こうして唐代では風水思想が盛んとなり、家を建てる時の場所や日取り選びに 風水を重視するようになりました。
晩唐の書で風水に関する文献『管氏地理指蒙』に「磁石針」が出てきます。 「磁石には母親の本性があり、針は鉄から作る。磁石と鉄の母子性はこれによって感応し、 互いに通じるようになる。鉄で作った針はその母性をいっそう高める。 磁石の針は軽くまっすぐで、その指し示す方向は正しくなければならないが、 やや偏っている…」
科学書というより占いの書じみていますが、この中では「磁石に針を使っている」ことと、 「磁石の示す方向と地理的方向にはズレがある」ことが書かれています。地理的北極と 磁気的北極とではわずかにずれていて、これを「偏角へんかく」と言うのですが、 8世紀から9世紀頃中国ではすでにこの「偏角」が発見されていたことがわかります。 ヨーロッパで偏角が知られるようになるのは15世紀と言われていて、これらの知識に関して 中国がいかに早かったかがわかります。
風水など占いのために使われていた羅針盤ですが、北宋になると航海に使われるようになります。 それまで太陽や星に頼っていた航海術ですが、曇りや雨になると羅針盤なしにはどうにもなりません。 唐代、日本の僧侶・円仁の『入唐求法巡礼行記』には海上で悪天に遭遇した時の様子が描かれています。 方向がまったくわからなくなり、ある人はこちらが北だと言い、ある人は北西だと言い、 大混乱に陥ったと書いてあります。
羅針盤は北宋時代に船の航海に使われるようになり、元代には航海に不可欠な機器となりました。 遣唐使の時代多くの船が海の藻屑となりましたが、羅針盤があれば防げたものもあったことでしょう。
明代の鄭和ていわ(明代の宦官にして武将)の大航海はよく知られています。 1405年鄭和は時の永楽帝の命を受け、240隻を連ね、西太平洋・インド洋の30数か国を訪れました。 1433年までに前後8回に渡って航海をし、1414年にはアフリカからお土産としてキリンを中国に 連れ帰っています。こうした大航海を可能としたものの一つに羅針盤の活躍があったことは 言うまでもありません。


らんでんかん(藍田關)
今位在中國陝西省境?的藍田縣,建於公元前221年秦統一天下之時,當時因面臨嶢山得名嶢關, 公元前206年劉邦率領楚軍越過嶢關奪取關中,北周時,改名青泥關,隋代改名藍田關, 該名沿用至今。藍田關為古都長安、咸陽東南的門?,為?代兵家必爭之地。
藍田(ランデン)
陝西省西安市の南東約30kmにある県。前4世紀,秦の孝公のときに県が設置されたのに始まる。 長安を取り巻く要衝の一つとして,唐代に至るまでほぼ京兆に属した。 藍田の南東にある嶢(ぎよう)関(藍田関)に秦軍と対峙した漢の高祖劉邦が, 張良の奇計を用いて大いに秦を破り,藍田から咸陽に入って関中一番乗りを果たすとともに, 秦の2世皇帝の降服をうけたことは著名な史実である。ところで〈玉の美なるものを球といい, その次なるを藍という〉と称するように,県内に美玉を出すことより藍田の名がおこった。




らんにゃ(蘭若)
大漢和辞典
佛教語大辞典(中村元) 蘭若 阿蘭若
Sanskrit dictionary(Macdonell Oxford) aranya






りくちょう(六朝)
中国史上で建康(建業)に都をおいた、三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳の総称。
呉の滅亡(280年)から東晋の成立(317年)までの時代を含め、この時代(222年 - 589年)を 六朝時代(りくちょうじだい)とも呼び、この時期の文化を特に六朝文化(りくちょうぶんか) と称することもある。
六朝時代は、中国における宗教の時代であり、六朝文化はこの時代に興隆した宗教を基に花開いた。 一方では、後漢代に盛行した神秘的傾向の濃厚な讖緯の説・陰陽五行説の流れの延長上に 位置づけられる。また、後漢末より三国に始まる動乱と社会の激変に伴う精神文化の動揺が、 従来の儒教的な聖人を超越した原理を求める力となったものと考えられる。
儒教では、魏の王弼が、五行説や讖緯説を排した立場で、経書に対する注を撰した。それと同時に、 老荘思想の影響を受けた解釈を『易経』に施したことで、その後の晋および南朝に受け入れられる こととなった。その一方で、北朝では、後漢代の鄭玄の解釈が踏襲され、経学の南北差を生じさせるに 至った。
魏晋の貴族社会は、清談が尊重された時代であり、王弼や何晏が無為の思想に基づいた清談を行い、 それが「正始の音」として持て囃された。次いで、竹林の七賢が、思想的・文学的な実践によって、 それを更に推進した。その後、郭象が老荘の思想(玄学)を大成した。
仏教の伝来は、後漢代のこととされる。但し、伝来当初は、外来の宗教として受容され、 なかなか浸透しなかった。六朝代になると、後漢以来の神秘的傾向が維持され、老荘思想が盛行し、 清談が仏教教理をも取り込む形で受け入れられたことから、深く漢民族の間にも受容されるに至った。 そこで重要な役割を果たしたのは、仏図澄、釈道安であり、道安は鳩摩羅什の長安への招致を進言し、 その仏教は門弟子である廬山の慧遠の教団に継承された。慧遠は「沙門不敬王者論」を著し て、覇者の桓玄に対抗した。
道教は、後漢代の五斗米道に始まる。その教団が三国の魏によって制圧されると、一時、 その系統は表には現われなくなるが、4世紀初頭に、葛洪が現われ、『抱朴子』を著わして不老不死を 説く道教の教理体系を整備した。この時代の道教信徒として知られるのは、書聖の王羲之である。 その系統は、南朝梁の時代の陶弘景に受け継がれ、茅山派(上清派)道教の教団が形成された。 一方、北朝では、寇謙之の新天師道が開創され、やはりその制度面での整備が、仏教教理も吸収する 形で行なわれた。



りっし(律詩)
漢詩における近体詩の代表的な詩型の一つ。8句から成る。
原形となる詩型は、南北朝時代、南斉の永明期に活躍した沈約・謝?らの詩人によって作られはじめている。 時代が下るにつれて韻律の規則が次第に整備されて、完成されたのは唐代の8世紀前半である。
格律(句数・字数・平仄・押韻・対句といった格式や韻律のこと)の制約を厳しく受けるのでこの名がある。 一句が5文字の五言律詩と7文字の七言律詩がある。たまに六言律詩もある。
2句1組で「聯(れん)」を構成している。律詩は8句なので、4つの聯から成る。順に首聯(起聯)、頷聯(前聯)、頸聯(後聯)、尾聯(結聯) と呼ばれる。頷聯と頸聯はそれぞれの2行が対句になるという決まりがある。
また、押韻は偶数句の句末でなされ、第1句は押韻してもしなくてもよい。換韻はなされない。各字、各句、各聯同士で平仄に 一定の規則がある。

<大漢和辞典> 「律詩」 尚書堯典 「聲依永、律和聲」から出たもので、聲律、格律(リズム)がある詩の意である。



りつりょう(律令)
東アジアでみられる法体系である。律は刑法、令はそれ以外(主に行政法。 その他訴訟法や民事法も。)に相当する。律令国家の基本となる法典。成文法。
律令の基本思想は、儒家と法家の思想である。儒家の徳治主義に対して、法家は法律を 万能とする法治主義である。古代中国には、国家や社会秩序を維持する規範として、 礼、楽、刑(法)、兵(軍事)があった。儒家は礼・楽を、法家は刑・兵を重んじた。 刑の成文法として律が発達し、令はその補完的規範であった。次第に令の重要性が増して、 律から独立し行政法的なものになった。
律令は魏晋南北朝時代に発達し、7世紀?8世紀の隋唐期には最盛期を迎え、当時の日本や 朝鮮諸国(特に新羅)へも影響を与えた。この時期の中国を中心とする東アジア諸国では 共通して、律令に基づく国家統治体制が構築されていたといわれることもあるが、 唐と同様の体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである[1]。 このような統治体制を日本では律令制(または律令体制)というが、中国にはこのような 呼称は存在しない[2]。なお、律令制のあり方は各国により異なる部分もあった。各国の律令制は、 およそ8世紀中期?9世紀ごろに相次いで崩壊または弛緩していった。
律令制という制度は、律令や格式などの法令群により規定づけられていた。 これらの法令群の概念を総称して律令法という。つまり、律令法の作用を受けて 、律令制という制度が構築されていたのであり、両者は密接な関係にあったと言えるが、 両者は別個の概念であり混同しないよう注意しなければならない。東アジア各国で 制度としての律令制が崩壊・消滅してしまった後も、法典としての律令法は多かれ少なかれ 変質しながらも存続していき、法令としての効力をある程度保っていた。



りどうり(履道里)
洛陽 里巷名。 唐 白居易 所居処。《旧唐書・白居易伝》:(居易)於 履道里 得故散騎常侍楊凭宅,竹木池?, 有林泉之致。” 清錢謙益 《徐武静生日??八百字》:“重来 履道里 ,旋? 善和坊 。”亦省作“ 履道 ”。 唐 白居易 《晩帰府》詩:“晩从 履道 来歸府,街路?長尹不嫌。”。



りそう(離騒)
《「離」は遭う、「騒」は憂え。憂えに遭(あ)う意》「楚辞」の代表的な長編詩。中国の戦国時代、 楚(そ)の屈原の詩で、讒言(ざんげん)によって王に追放され、失意のあまり投身を決するまでの心境を 夢幻的にうたったもの。



りゅうがくしょう(留学生)
唐代の科挙には「賓貢科」というものがありました。
言ってみれば「外国人枠」であり、阿倍仲麻呂の他にも新羅の崔致遠・崔彦撝や渤海の烏光賛などが及第しています。 彼らは賓貢進士(賓貢)と呼ばれたのですが、位階は低く官職も卑職である事が多かったようです。 唐の科挙関連の史料は少ないので、試験内容はよく解らない事が多いのですが
・進士の中でも区別されていること
・官吏登用後の位階、官職が総じて低かったこと
などから、賓貢科の試験内容も比較的に易しかったのではないかと推測される事が多いです。
世界帝国と形容される事もある唐においても、周辺民族は「蛮夷」と見做される事は多かったと思います。 詩人であり漢土生まれではありますが破斯人(ペルシア人)だった李珣が賓貢科を受験しているのはその証です。 このように見下されていた外国人と雖も「中華の文化を学び王朝に仕えたいという感心な人間ならば受け入れても良い」 という鷹揚さが唐朝にはあったように思います。
これによって、外国人用の試験の難易度は低くするという措置は採られていたのかもしれませんね。
元なども再開した科挙においては漢人・南人・蒙古人にそれぞれ枠があり、支配階級である蒙古人の 試験が一番易しく及第者も多かったという、ちょっとセコい逸話があります。
そもそもが阿倍仲麻呂(唐名は晁衡)は科挙を受験したり及第していたわけではなかったのではないか という意見もあるほどですが、賓貢進士の中では異数の出世をしている事は確かです。
安南節度使や?州大都督を歴任しており最終的な位階は「従二品」にまでなっているのですが、 これは外国人としては大出世であると思います。
貴族制と科挙制度が混在していた為だと思うのですが、これはやはり阿倍仲麻呂の実務能力や人柄を 含めた「実力」が認められたという事なのでしょう。
隋から始まり武則天の時代に実効力を持ち宋代に完成を見た科挙制度ですが、 隙のない国家制度と人材を誇っていた唐で官吏として出世した事は正に「バケモノ級」の 阿倍仲麻呂の実力の証ではなかったでしょうか。
後の空海もそうですが国際的な活躍をした日本人であったと私は思います。



りょう(遼)
遼朝(りょうちょう)ともいい、内モンゴルを中心に中国の北辺を支配した契丹人(キタイ人)耶律氏(ヤリュート氏)の征服王朝。 916年から1125年まで続いた。中原に迫る大規模な版図(現在の北京を含む)を持ち、かつ長期間続いた最初の異民族王朝であり、 いわゆる征服王朝(金・元・清が続く)の最初とされる。ただし、後の3つの王朝と異なって中原を支配下にはおいていない。
建国当初の国号は大契丹国(イェケ・キタイ・オルン、Yeke Khitai Orun)で、遼の国号を立てたのは947年である。さらに983年には 再び契丹に戻され、1066年にまた遼に戻されているため、正確には947年以前と983年から1066年までについては遼でなく契丹と称すべきであるが、 便宜上まとめて遼とする。
現在の内モンゴル自治区の東南部、遼河の上流域にいた契丹族の耶律阿保機(太祖)が907年、契丹可汗の位について勢力を蓄え、 916年に天皇帝と称し年号を神冊と定めたのが遼の起こりである。太祖耶律阿保機は西はモンゴル高原東部のモンゴル族を攻め、 926年東は渤海を滅ぼして東丹国を建て、満州からモンゴル高原東部までに及ぶ帝国を作り上げた。
さらに2代耶律徳光は五代の後晋から華北の北京・大同近辺(燕雲十六州)の割譲を受ける。この時に渤海旧領とあわせて多くの農耕を主とする 定住民を抱えることになった。このため、遼はモンゴル高原の遊牧民統治機構(北面官)と宋式の定住民統治機構(南面官)を持つ二元的な国制を発展させ、 最初の征服王朝と評価されている。
宋の太宗は燕雲十六州の奪還をもくろんで、北伐軍を起こしたが、遼は撃退した。しかし遼の側でも、この時期には皇帝の擁立合戦が 起きて内部での争いに忙しく、宋に介入する余力はなかった。6代聖宗は内部抗争を収めて、中央集権を進めた。1004年、再び宋へ 遠征軍を送り?淵の盟を結んで、遼を弟・宋を兄とするものの、毎年大量の絹と銀を宋から遼に送ることを約束させ、和平条約を結んだ。 これにより、遼と宋の間には100年以上平和が保たれた。
その後は宋から入る収入により経済力をつけたことで、国力を増大させ、西の西夏を服属させることに成功し、北アジアの最強国となった。 また、豊かな財政を背景に文化を発展させ、中国から様々な文物を取り入れて、繁栄は頂点に達した。しかし遼の貴族層の中では贅沢が 募るようになり、建国の時の強大な武力は弱まっていった。また服属させている女真族などの民族に対しての収奪も激しくなり、恨みを買った。
女真は次第に強大になり、1115年には自らの王朝金を立て、遼に対して反旗を翻した。遼は大軍を送って鎮圧しようとするが逆に大敗し、 遼の弱体を見た宋は金と盟約を結んで遼を挟撃し、最後は1125年に金に滅ぼされた。このとき、一部の契丹人は王族の耶律大石に率いられて 中央アジアに移住し、西遼(カラ・キタイ)を立てた(他に王族の耶律淳の北遼や13世紀に成立した旧王族耶律留哥の東遼などもある)。
遼の政治体制は、遊牧民と農耕民をそれぞれ別の法で治める二元政治であり、契丹族を代表とする遊牧民には北面官があたり、 燕雲十六州の漢人や渤海遺民ら農耕民には南面官があたる。原則的に、北は契丹族や他の遊牧民族には固有の部族主義的な法で臨み、 南は唐制を模倣した法制で臨んだ。
北面官の機関には北枢密院・宣微員・大于越府・夷離畢院・大林牙院などがあり、北枢密院が軍事・政治の両権を一手に握っている 最高機関となっている。この機関は太祖の勃興時には存在せず、後から南面官の役職と同じ名前で作られたものである。 当初は大于越府が最高機関であったが、北枢密院が作られてからは有名無実化し、名誉職のようなものになった。
南面官の機関は南枢密院を頂点とし、三省六部や御史台と言った唐制に倣った役職が置かれて統治されていた。 ただし南枢密院は北枢密院と違って軍権は持っておらず、民政の最高機関である。
この二元政治は、聖宗期を過ぎた頃から契丹族内での中国化が進んだため、実情に合わなくなった。これを宋の体制に一本化しようとする派と 契丹固有に固守しようとする派とで争いが激しくなり、滅亡の原因の一端となった。
遼の兵制は、北では国民皆兵制であり、これが基本的に国軍となる。南では郷兵と呼ばれる徴兵制を取っていたが、 これは地方守備軍に当てられており、指揮権は南面官にはなく、各地方の長官が持っていたとされる。南軍も時に北軍に従って 遠征軍に入ることもあった。
中国(遼)と日本との間には正式な国交はなかった。しかし、『中右記』によれば寛治6年(1092年)9月13日の記事として、 明範という僧侶が契丹(遼)に渡って武器を密売して多額の宝貨を持ち帰った容疑で検非違使から取り調べを受けている[1]。続いて、 嘉保2年(1094年)5月25日、前大宰権帥の正二位権中納言藤原伊房が前対馬守藤原敦輔と謀り、国禁の私貿易を行った。発覚後、伊房は 従二位に降格の上、敦輔は従五位下の位階を剥奪された[2]。
なお、平将門が「実力者が天下を治める」典型例として遼の太祖を挙げている。



りょうしゅう(涼州)
中国にかつて存在した州。現在の甘粛省、寧夏回族自治区一帯に設置され、 現在では甘粛省の別称となっている。
漢代
紀元前110年に全国を13州に分割し、各州に刺史を置いた際に涼州が設置された。 隴西、武都、金城、安定、北地、武威、天水、張掖、酒泉、敦煌の10郡国を管轄した。
前漢末の混乱期には隗囂が割拠したが馬援らにより平定されている。後漢が成立すると隴県を 州治とした。194年(興平元年)に州西部に新に雍州を設置している。
唐代
唐朝が成立すると武威郡が涼州と改称された。唐代は吐蕃との間で発生した戦闘において 最前線となり、唐と吐蕃による統治が交互に繰り返された。
涼州詞
涼州を舞台にした「涼州詞」が多く作られているが、中でも有名なのが王翰による七言絶句である。
  葡萄美酒夜光杯(ブドウ酒を玉の杯に注いで飲む)
欲飲琵琶馬上催(飲もうとすると馬上で琵琶を掻き鳴らす)
酔臥沙場君莫笑(酔っ払って砂漠[1]に倒れ伏そうとも笑わないでくれ)
古来征戦幾人回(昔から戦場に出てきたうちのいったい幾人かが無事帰れたことか)
起句では、西域から伝わった「葡萄美酒」、すなわちワインや「夜光杯」といったエキゾチックな 小道具が登場する。古来、涼州は天山山脈を越えてヨーロッパへ通ずる東西路の交通の 要所(河西回廊)であったため、珍しいものが伝わっていたことに由来する。 同じ理由から涼州は国境防衛の要地でもあり、異民族との戦場になることも多かった。 そこに「馬上催」という落ち着かなさの原因があるのかもしれず、 結句に「幾人帰」と戦に向かう厳しさと不安が詠われるのである。




るりちゃん(琉璃廠)
琉璃廠は北京の平和門にあります。書物によれば、明、清朝の際、ここに琉璃瓦を焼く工場があった とのことです。清朝中期になって、その工場は移転したものの名前だけ残ったというのが地名の由来の 真相のようです。
清の乾隆帝の時、中国では科挙制度が盛んに行われていました。たくさんの試験に落ちた者は、 故郷に帰る前に旅費のねん出の為、持ってきた書物、墨、硯などをこの街で売りました。次第に、 ここには書画や書道を売る人が増え、祖先が残した千金の財産を食いつぶしてしまった貴族の子弟も 生計を立てるために、家にある書画骨董を売りに出しました。
そうやって琉璃廠は、とうとう伝統文化作品の取引場所になりました。現代中国画の巨匠である斉白石 もこの街によって無名の画家から中国画の大家として評価されるようになりました。
現在、琉璃廠は文化人たちが集まる場所と言われることもありますが、実は違います。平日だと街には 人の気配があまりないのですが、正月になるととても賑やかになります。骨董屋も書画店も、 通りに面露店を出し、普段あまり見せない書画骨董をお披露目します。自然に人々が押し寄せ、 買い物をしなくても楽しいひとときになります。
琉璃廠は七、八百年以上の歴史を迎え、最初の工場から今日の今の「文化街」になりました。 琉璃廠は北京の深い内に隠れた特別な文化的気質を残しているのです。




れん(聯)
2句1組で「聯(れん)」を構成する。律詩は8句なので、4つの聯から成る。 順に首聯(起聯)、頷聯(前聯)、頸聯(後聯)、尾聯(結聯)と呼ばれる。 頷聯と頸聯はそれぞれの2行が対句になるという決まりがある。



出典
(大漢和)ーーー諸橋轍次著「大漢和辭典」

ろうらん(楼蘭)
中央アジア、タリム盆地のタクラマカン砂漠北東部(現在の中国・新疆ウイグル自治区チャルクリク) に、かつて存在した都市、及びその都市を中心とした国家である。 「さまよえる湖」ロプノールの西岸に位置し、シルクロードが西域南道と天山南路に分岐する要衝に あって、交易により栄えた。紀元前77年に漢の影響下で国名を?善 (中国語名併音shan shan・日本語名ぜんぜん)と改称したが、楼蘭の名はその後も長く用いられ 続けた。4世紀頃からロプノールが干上がるのとほぼ時を同じくして国力も衰え、 やがて砂漠に呑み込まれたが、1900年にスウェーデンの探検家ヘディンによって遺跡が発見された。
楼蘭と呼ばれる都市、またその名を持つ国家がいつ、どのようにして成立したのかは定かではない。 古くは新石器時代から居住が始まったことが考古学的に確認されており、いわゆる「楼蘭の美女」 として知られるミイラは、纏っていた衣服の炭素年代測定によって紀元前19世紀頃の人物であると 推定されている。しかし、文献史料に楼蘭の名が現れるのは『史記』匈奴列伝に収録された 手紙の中で触れられているのが最初(紀元前2世紀)であり、その間の歴史は空白である。 その手紙は匈奴の君主である冒頓単于が前漢の文帝に宛てて送ったもので、 この中で冒頓単于は月氏に対して勝利し、楼蘭,烏孫,呼掲及び近隣の26国を平定したと 宣言している。この手紙は文帝の4年(紀元前176年)に送られたものであるため、 楼蘭は少なくとも紀元前176年以前に形成され、月氏の勢力圏にあったこと。 そして紀元前176年頃匈奴の支配下に入ったことが推定されうる。 『漢書』西域伝によれば、西域をことごとく支配下にいれた匈奴は焉耆、危須、尉犁の間に 僮僕都尉を置き、楼蘭を含む西域諸国に賦税し、河西回廊に数万の軍勢を置いてその交易を支配した。
小国は大国の間にあり
紀元前141年に漢で武帝が即位すると漢は対匈奴積極策に転じた。この時期に匈奴を攻撃するために 西方に移動していた月氏(大月氏)と同盟を結ぶことを目的として張騫が派遣され、 彼の往路の見聞の中で楼蘭にも触れられている。また張騫はその行き帰りで二度匈奴に 捕えられており、当時西域に匈奴の支配が広く行き届いていたことがうかがわれる。
漢は紀元前121年に衛青と霍去病の指揮で大規模な対匈奴の軍事行動を起こした。 彼は紀元前119年には漠北の匈奴本拠地を攻撃して大きな戦果を上げた。この結果、 漢は本格的に西域経営に乗り出した。紀元前115年の河西四郡設置は漢の西域進出の端緒ともいえる。
こうして西域の交通路を抑えた漢は西域諸国や更に西方へと遣使や隊商を数多く 派遣するようになった。しかし、大挙増大した漢の人々(中には新興の交易市場に活路を見出した 貧民も多かったといわれている)と西域諸国との間ではトラブルが頻発し、 西域諸国では反漢感情が増大した。特に楼蘭と姑師は、漢の進出を嫌い匈奴と接近して 漢使の往来を妨害するなどの挙に出た。これを憂慮した漢の武帝は紀元前109年、従驃将軍趙破奴と、 楼蘭に遣使として派遣された経験を持つ王恢に命じ、数万人を動員して楼蘭と姑師に軍事介入を 行った。騎兵700騎とともに先行した趙破奴の攻撃を受けて楼蘭は占領され、国王が捕えられた。 このため楼蘭は王子の1人を漢に人質として出し漢に服属した。ところが西域の要衝楼蘭の漢への 服属は匈奴にとっては座視できない事件であった。間もなく匈奴も楼蘭を攻撃したので、 楼蘭は匈奴へも人質として王子を送り貢納を収めた。
こうした漢と匈奴の西域を巡る争いは長く続き、楼蘭の政治はその動きに激しく左右された。 やがて再び漢の軍事介入を招く事件が発生した。武帝は大宛の汗血馬を入手することを望んで 代価の財物を持たせて使者を大宛に送ったが、大宛は漢使の態度が無礼であるとしてこれを追い返し、 その帰途に大宛の東方の郁成城でこれを襲撃して殺し財物を奪った。 これは漢の大規模な報復を招き、漢は将軍李広利の指揮の下で2度にわたって大軍を派遣した (紀元前104年 - 紀元前101年)。 この漢の大宛遠征の際に楼蘭王は再び漢に捕えられて武帝の詰問を受けることとなり、 武帝は楼蘭が匈奴にも人質を送り服属している事を責めた。楼蘭王はそれに答えて 「小国は大国の間にあり、両属せねば安んずることは出来ない」と答え、 両属を認めないならば漢の領土に土地を与え移住させて欲しい旨を伝えたという。 武帝はこれを聞いて納得し、楼蘭王は帰国を許された。 以後、漢は楼蘭方面の軍勢を強化し続けたため、匈奴の影響力は次第に後退していく。
?善国
紀元前92年に上述の楼蘭王が死去したため、楼蘭は漢に人質として出していた王子の 帰国を要請したが、彼は漢で法律に触れて宮刑に処せられていたために漢は帰国を許可しなかった。 このため別の人物が王となり、彼も漢の下に王子尉屠耆を人質として出し、 匈奴にも王子安帰を人質として送った。しかし、この新王も間もなく死去すると、 匈奴に人質として出されていた王子安帰が帰国して王座を得た。 これに対し漢は入朝を要求して使者を送ったが、安帰王の後妻らは漢が人質として出した王子を 帰国させないことを理由として反対し、結局入朝しなかった。 そして相変わらず続く漢使とのトラブルもあり、楼蘭では次第に漢の使節を殺害するという 事件も起きるようになった。
漢は紀元前77年に大将軍霍光の指示によって平楽監傅介子に親匈奴派の安帰王を暗殺させ、 人質として長安にいた王弟尉屠耆を新たな国王とした。また国名を「?善」と改称させ、 漢軍が楼蘭に駐屯することになった。そして尉屠耆に対し宮女を妻として与え、 印章を与えた。ここでわざわざ「?」という新字を作って楼蘭の名を改称させ、 印章と妻の授与は楼蘭王国が漢の傀儡となったことを如実に示すものである。 特に国内への漢軍駐屯については、尉屠耆が自分の立場の弱いのを心配して自ら漢に 依頼したと伝えられる。漢軍は尉屠耆王の進言によって伊循城に駐屯することになり、 ここは間もなく西域南道における漢の拠点の1つとなった。
楼蘭が漢の支配下に入って間もなく、匈奴の僮僕都尉であった日逐王が漢に降るという事件が 発生した(紀元前60年)。この結果漢は西域南道に加えて西域北道の全域を支配するに至り、 新たに西域都護を置いて鄭吉を都護とした。以後漢の西域支配は王莽によって前漢が終焉するまで 継続し、?善と名を改めた楼蘭も傀儡王国としてその支配下にあり続けたと考えられる。
西域の動乱
漢の繁栄による東西貿易の発展は西域の経済を大いに潤した。26ないし36国といわれた 西域諸国は前漢末には55国に増加している。これは既存の王国が細分化したのではなく、 交易の活況に伴って新たなオアシス都市国家が形成されたものであると言われている。 漢の力による政治状況の安定もこういった経済の活況に拍車をかけた。
こういった中で漢では王莽のクーデターによって新たに新が成立した。王莽の西域政策は 現地で不評だったといわれ、楼蘭を含む西域諸国の大半(莎車国を除く)は再び匈奴(北匈奴)に 帰順した(ただし、間もなく新は倒れ後漢が成立する)。 しかし、北匈奴は西域諸国が漢の支配下にあって貢納がなかった事を責め、 「未納」となっていた貢納品を取り立てたために西域諸国は再度漢に服属することを求 めるようになった。また、西域諸国の中でも最も強勢を誇った莎車国(現在のヤルカンド県)の 王賢は、当初?善王安などと共に後漢に朝貢を行い、その結果光武帝から西域都護の印綬を受けたが、 敦煌太守裴遵が「夷狄に大権を与えるべからず」としてこの印綬を奪った。 このため賢は漢と敵対するようになり、独自に大都護を称し、北匈奴の影響力を排除して 西域諸国を服属させたが、重税を課したために西域の18国が漢への帰順を求めたという。 これらの事情により西域諸国では漢の支援を求める機運が高まった。
しかし漢の光武帝は国内の不安定を理由に積極的な介入に出る事はなかった。 敦煌太守裴遵はあたかも漢が新しく西域都護を派遣するかのように偽装工作を行ったが効果はなく、 賢は漢の介入の無いのを確信して、漢に近い?善国に対し漢との国境の交通路を封鎖するように 命令した。しかし中継貿易で国を成す?善国にとってこれは従える命令ではなく、 ?善王安は莎車国の使者を惨殺して命令を拒否した。これに対し賢は?善を攻撃して1000人あまりを 虐殺したと伝えられる。?善国王安は南の山岳へと逃れ、重ねて漢の支援を要請した。 しかし光武帝が再び兵を送ることは出来ないという返信を送ったため、 ?善国は他のいくつかの諸国と共に匈奴との同盟を再開した。
?善国(楼蘭国)最大勢力範囲。1世紀頃に形成され、途中変動しつつもこれに近い領域は 3世紀頃まで維持された。
西暦61年に莎車王賢が于?国(現在のホータン市)との争いの中で暗殺されると西域の 政治情勢は一変した。莎車国の支配下にあった諸国は殆どが独立して相互に争ったが、 ?善国はこの争いの中で数ヶ国を併合して西域の一角に勢力を築くことに成功した。 同じ時期に于?国,車師国(現在のトルファン市),亀茲国(現在のクチャ県),焉耆国 (現在の焉耆回族自治県)などが強国として割拠した。この時期に?善国で作成された漢文文書には、 昔ながらの名前である楼蘭が使用されていることが確認されている。
後漢の西域経営
勢力を拡大した?善国はロプノール湖畔から西は精絶国(チャドータ)まで、 西域南道沿いの領域を東西900km余りに渡って支配するまでになり、1世紀末頃から全盛期を迎えた。 交易も活発になり、発見された遺物はこの時期の経済的繁栄を明らかにしている。 この?善国の繁栄は長く3世紀まで続くことになるが、必ずしも順風満帆の時代であったわけでは なかった。その国力の増大によって政治的地位は上昇したが、 漢や匈奴に比して弱小であることには代わりはなかった。やがて漢の介入が本格化すると、 ?善国はその覇権を認めざるをえなくなった。
光武帝の跡を継いだ明帝(57年-75年)の時代になると、再び漢が西域に本格的に介入するように なった。西暦73年に漢は匈奴への攻勢に打って出たほか、ほぼ同じ時期に西域にも出兵して 車師国が制圧された。西方の見聞を残した甘英を派遣したことで名高い班超が活躍したのも この時期であり、彼に纏わる逸話は?善国(楼蘭)がなおも複雑な立場に置かれていたことと、 その立場の弱さを示す。『後漢書』班超伝によれば、73年に班超が36人の部下とともに ?善国に派遣された際、?善王の広は当初班超を丁重にもてなした。しかし匈奴の使者が ?善国に訪れると、広は匈奴使の心証を悪くするのを恐れて班超の待遇を落とした。 匈奴使のために待遇が悪化したのを聞いた班超は憤激し、ある日の夜、密かに 匈奴使の帳幕(ゲル)を焼き討ちしてその使者33人と家来100人余りを虐殺した。 この時の彼の言葉として知られているのが「虎穴に入らずんば虎子を得ず」である。 翌朝匈奴使の首を突きつけられた広は驚愕し、ひたすら漢に対する忠誠を約束して許しを 請うことになった。この結果、?善国は再び漢に王子を人質として出すことになった。 更に班超は西域諸国の大半を支配下にいれ、この功績によって西域都護に任じられて 31年余りにわたって西域経営に従事した。?善国はその覇権下で王統をつないだ。 後漢の西域経営は班超の死後若干の断絶の後、123年には班超の息子班勇によって継続された。 班超にしても班勇にしても、投入した兵力は少なく、時折の本国からの援軍を除けば西域諸国の 兵を用いて軍事活動に充てていた。
この時期以降、?善国は後漢の従属下にあって主だった反抗や事件も少なかったらしく、 中国側の記録にはあまり登場しなくなる。しかし考古学的見地から、経済的な繁栄は後漢の 影響下にあっても継続したと考えられる。
カローシュティー文字の時代
2世紀前半以降、楼蘭(?善国)に関する記録が乏しい時代が続く。上述の如くこの時代の ?善国は後漢の影響下にあって経済的には繁栄した。2世紀後半に入ると、後漢末の動乱 (いわゆる三国時代)のため、西域への中華王朝の影響力は低下した。 このため漢籍に?善国の情報が求められなくなるが、3世紀前半に入ると?善国自身が記した 文書史料が豊富に出土するようになる。これらはプラークリット語の一種であるガンダーラ語 をカローシュティー文字で記したものである。こういった文書の様式や、 その中に登場する王号がクシャーナ朝のそれに類似することなどから、 ?善国(楼蘭)がクシャーナ系の移住者によって征服されたという説もある。 実態は全く不明であるが、中華王朝の影響力の低下やクシャーナ朝の隆盛に伴って 、楼蘭が西方の文化の影響を強く受けたことが推察される。このカローシュティー文字文書 の解析から、この時期の?善国がロプノール周辺から精絶国に至る領域を維持していたことが 知られている。一方で漢文で書かれた実用文書も多数発見されており、三国時代の騒乱の間も 漢人商人らは?善国を訪れて交易に従事していたこともわかる。
ただし、こういった文書書類は商業文書や命令書、徴税記録等が大半で政治的事件の記録は乏しく、 3世紀の?善国の政治史はあまりわかっていない。わずかに知りうるのは、当時?善国は、 西隣の于?(ホータン、当時の文書ではコータンナ)と国境を巡って争っていたことと、 チベット系である羌の一派といわれているスピの侵入と略奪に悩まされたことなどである。 一方でこういった実用文書類から、?善国の国政や社会についての知見は、 この時代に関する物が多くを占める。
?善国の滅亡
やがて、三国時代の動乱も終結し、晋が中国を統一した3世紀後半には晋が漢と同じように 西域へ影響力を拡大したと見られ、楼蘭で出土した漢文文書の中には晋代の物と見られる 戸籍の断片が発見されている。晋は間もなく華北の支配権を失い、 いわゆる五胡十六国時代が到来した。この時代に涼州の支配者となった前涼は西域への 勢力拡大を図った。335年、前涼の将軍楊宣の攻撃を受けた?善国は、亀茲国などと共に前涼に入朝し、 時の?善国王元孟は女を献じたという。前涼は西域長史を置いてこの地方への統制を強めた。 以後、?善国は恒常的に河西の支配者に入朝を続けた。
前涼は前秦によって滅ぼされたが、?善国王休密?は自ら西域都護の設置を求めて382年に前秦に 入朝した。休密?の次の王、胡員?は前秦と後秦の戦いにおいて前秦に援軍を送っている。 422年には?善国比竜が北涼に入朝した。
しかし北涼は後に?善国の敵となった。439年に北魏の北涼侵攻が始まると北涼は敗北し、 その支配者沮渠無諱や沮渠安周は敦煌を経由して高昌へ後退しようとした。この結果、 その途上の重要拠点である?善国(楼蘭)を制圧しようと目論み、441年に安周が?善国を攻撃した。 楼蘭は最初の攻撃を撃退したが、翌年には沮渠無諱も数万の軍勢を持って?善国に殺到し、 敗北を悟った?善国王比竜は4000家余りとともに且末(チェルチェン)へと逃れた。 『魏書』によればこれは楼蘭の人口の約半数に上る数であったという。
本国には公子真達が残り、北涼の下で一応王号を称したが、北涼の?善占領によって交易路が 封鎖されるのを恐れた北魏は将軍万度帰の指揮の下で445年に?善を占領し、 ?善国王真達は連れ去られた。そして448年に交趾公韓牧が?善国王に封じられた。 その統治は郡県に対するそれと変わらなかったと伝えられる。こうして独立王国としての ?善国(楼蘭)の歴史は完全に終了した。楼蘭の都市は7世紀頃までは存続していたといわれているが、 もはや往時のように複数の西域諸国を統治下に置くようなことはありえなかった。
楼蘭の位置
楼蘭の名は史料や時代によって異なる用いられ方をした。楼蘭はオアシス都市の名であったが、 その国名が漢によって?善と改められた後も、楼蘭の名はその「地方」を現す語として 使用され続けた。また?善国内で作られた漢文文書の中には楼蘭の名を継続使用しているものもある。 楼蘭時代の遺跡が探検家スヴェン・ヘディンやオーレル・スタインらの活動によって発見され、 発掘調査が行われるようになった後、同地から発見された漢文文書の分析によってスタインが L.Aと名づけた都市遺跡が楼蘭の王城であるという説が唱えられた。この説は現在でも有力説の 一つであり、また現在、「楼蘭」、「楼蘭遺跡」、「楼蘭故城」などと呼ばれる場合にはほぼこの L.A遺跡を指す。しかし、L.A遺跡は3世紀頃に形成された都市であり、少なくとも前漢代の記録に 登場する「楼蘭」とは同一でないともいわれている。楼蘭王国の王都としての楼蘭の位置は未だ 諸説入り乱れる分野である。
楼蘭の名称
楼蘭という漢字表記は、現地名であるクロライナ(クロラインナ Kroraina, Kroraimna)の 音訳である。3世紀のカローシュティー文字文書では、王都を意味する語として用いられており、 元来都市の名であったものが国全体を指す語として用いられるようになった後も、 王都を指す語として継続使用されていたことが知られる。一説にはその原名はインドの地名に 由来するとも言われる。
一方漢によって命名された?善という名前は、一説には漢にとって「善い国」という意味で 「善善」とし、同じ字が続くのを避けるために新字を作って「?善」としたといわれる。 または楼蘭の南部を流れたチェルチェン河(チェルチェン・ダリヤ)の名をとったものである ともいわれる。
王城の名称
この楼蘭(クロライナ)とは別には、王都を指す言葉として?泥という言葉があった。 『漢書』などでは?善国の首都としてこの名を用いている。これはカローシュティー文字文書に 登場するクヴァニ(クハニ Kuvani, Kuhani)の音訳であると考えられ、 城砦を意味する語が王都の意味に転用されて用いられたものである。また、 カローシュティ文字文書の中にはマハームタ・ナガラ(Mahamta Nagara)という言葉で 王都を呼んでいるものもある。これは「大きな都市」を意味する語であり、 やはり後に王城を意味する語として転用された。
国制
楼蘭の国制に関する知見はその多くをカローシュティー文字文書や現地で作成された 漢文文書に依存する。こういった文書類が多く見つかっているのは主に3世紀頃であるため、 この時代についての研究が進んでいる。以下に述べる国制の概要も基本的には3世紀の記録に 基づいて復元されている。
中央
楼蘭はその記録が残る全時代を通じて国王を頂点とする国家であった。しかし、 国王の権力がどの程度強力なものであったのか、又は制約されていたのかはまだ不明な点が多い。 少なくとも現存する史料からは、高位役人の人事権を国王が掌握していたらしいことがうかがわれる。 王妃はしばしば周辺国との政略結婚によって楼蘭王と結婚した。 漢から宮女が与えられて楼蘭王の妻となったことが『漢書』に記録されている他、 3世紀頃には隣国の于?(ホータン、またはコータンナ)の王女が王妃として迎えられた。 于?国と?善国は国境を巡って争っていたが、一方で?善王妃となった于?の王女が、 故郷へ里帰りした事なども記録にのこっており、当時の外交交渉の複雑さを今に伝える。
中央政府の官制は『漢書』西域伝には?善国王を頂点として輔国公、郤胡公、?善都尉、撃車師都尉、 左右且渠、撃車師君、訳長という官名が記録されている。 この時期の官職を知る事の出来る現地史料は乏しく、詳細は不明であるが、 3世紀の官職についてはカローシュティー文字文書類からかなり詳細に知る事が出来る。 そこからわかる楼蘭の官僚機構は『漢書』西域伝の記録よりも遥かに複雑であるが、 時代の開きがあるため単純比較は難しい。
3世紀の楼蘭(?善国)には、大王(マハーラーヤ Maharaya)の下で最も高位の役人として キツァイツァ(Kitsaitsa)がいた。キツァイツァ職にある者の署名は各種の公文書に必ず存在し、 各種の裁判で判決を下していた事が知られている。キツァイツァに次ぐ高位官職としてカラ (Kala)があり、この役職には王子(マハーラーヤプトラ Maharayaputra)がついていた。 一説には王子の称号ではないかともいわれる。他にオグ(Ogu)、グスラ(Gusura)、 キュヴァライナ(Cuvalayina)などの役職があり、これらの職権などについては未だ不明点が多いが、 各州の長官よりも上位に置かれる高級官吏であった。こういった高級官吏には、 王から荘園(キルメ Kilme)が与えられ、彼らはそこから得られる収入で生計を立てた。
地方
楼蘭(?善国)の地方統治については、文書史料が多く出土しているチャドータ(精絶) についてのものが良く知られている。チャドータには、地方長官(チョジボー Cojhbo)が置かれた。 チョジボーの任免権は基本的には国王にあったと考えられている。3世紀のチャドータの 長官ソームジャカに当てた王の命令書などが多数出土しており、その中には 「大王はチャドータの全権をソームジャカに与えたのであって、何人もソームジャカに 背いてはならない。」と記したものもあり、地方長官(チョジボー)が、 担当地域の全権を握っていたと考えられる。王の使者の護衛等は各地方の長官が、 それぞれの担当地域内で受け持ち、責任を持った。
各州に対し王はダルマ(法)に基づいた決定を行うよう度々指示を出しているが、 ここでいうダルマとは各州の伝統的な慣習に基づいたものであったと言われ、 特に民事事件に関しては領域内に必ずしも統一した法律のようなものは制定されなかったと考えられる。
チョジボーの下にはトームガ(Tomga)、アプス(Apsu)、ソータムガ(Sothamga)、タスチャ(Tasuca)、ヴルヤガ(Vuryaga)、チャムクラ(Camkura)等の役人がいた。この中でもソータムガ(徴税官)はしばしばチョジボーと並んで文書に登場し、重要な役人であったと考えられる。他に、徴税に携わる役職がいくつもあった。 税制
カローシュティー文字文書の中には徴税に関する文書が数多く含まれている。?善国(楼蘭)が 支配した各地方の長官(チョジボー)に対して国王が徴税を命じる文書や、 税の着服を非難する文書などである。地方長官は、配下の徴税官(ソータムガ)を 使ってその担当地域から税を徴収した。税は物納が基本であり、穀物、ワイン、 ラクダ、ウマゴヤシ、バター、羊、フェルト、カーペットなど様々な種類の物品が徴収された。 こうした税として集められる物品は20種類を超える。最も主要な税は穀物とワインであり、 それぞれ都市の役所などに一旦集められた後、機を見て中央へと送付された。ラクダ税は、 国の使節や駅伝のためのラクダの供出であった。これには借り賃が支払われたが庸役の 一種であったと考えられる。また各地で徴収された税はラクダを使って中央に運ばれたため、 ラクダの飼料としてウマゴヤシが徴収されたのである。
各オアシスはナガラ(都市 Nagara)とアヴァナ(村 Avana)によって構成され、 ナガラとアヴァナは更にサダ(百戸 Sada)とプラデサム(地方 Pradesam)などに細分されていた。 これが徴税の最小区分であり、納税額の計算はこれらを基礎として行われた。 また税の徴収は王領(ラージャデー rajade)と荘園(キルメ Kilme)とで別々に行われたが、 詳細はよくわかっていない。
こういった徴税の処理において最も問題となるのが、役人による横領や着服、未納、 そして輸送中の略奪被害などであった。現存する税務文書の殆どが滞納に対する督促状や、 着服した官吏の罷免を命令する文書などであることは、こういった問題に当時の?善国 (楼蘭)中央政府が如何に苦慮したかを現代に伝える。税の未納が発覚すれば基本的には 未納分全てが徴収対象となった。
宗教
楼蘭は早い段階から仏教の強い影響を受けた。楼蘭の仏教についての知見も、 やはりカローシュティー文字文書が多数出土する3世紀の事情がよく知られている。 3世紀の楼蘭(?善国)の仏教は極めて組織化されていた。僧団(サンガ)は楼蘭支配下の 各オアシス毎に設立されていたが、これらは中央の大僧団によって統制されていた。 このことはマヒリ王治世下で首都の僧団がチャドータ(精絶)の僧団の風紀が乱れていることを 叱責し、新たな規則を定める文書が出土していることから知られている。チャドータ以外の 事情についてはあまり知られていないが、チャドータに関する限り、 仏僧の風紀の乱れがしばしば問題になっていたようである。400年に楼蘭を訪れた 中国の僧侶法顕は、?善国に4000人の僧侶がおり、悉く小乗を学んでいたと記している。 この時代の楼蘭は既に全盛期を過ぎており、3世紀には更に規模の大きかった可能性もある。
楼蘭の領域各地からは夥しい数の仏教遺物が出土している。チャドータやミーランなどからは ストゥーパや仏教壁画、仏像が発見された。これらの中には若干のヘレニズムの影響が 見られるものも存在し、また絵の製作者の名前と報酬額が記された文書も発見された。 その製作者の中にローマ風の名前であるティタサ(ティトゥス)が発見されたことは、 楼蘭に見られるヘレニズムの影響と相まって興味深いものである。仏教以外の痕跡として、 アテナやエロス、ヘラクレス像を刻印した封泥も発見されている。スタインらはこうした 楼蘭に見られるグレコ・ローマン風やイラン風の美術品を見た感動を記し、 「トルキスタンというよりはローマ領シリアや、他のローマ東方領の邸宅跡にいるようだった」 と語っているが、こういった西方の宗教がどの程度楼蘭で一般的であったのかは明らかではない。
後世の記録と発掘
李延寿は「北史」の中で、かつての楼蘭として?善について記述しているが、 これは都市としてではなく国家としての楼蘭を指しているのであり、 その内容は別の都市に関するものであるとする説が強い。
また、7世紀に玄奘三蔵がインドからの帰途、廃墟となった楼蘭に立ち寄ったと『大唐西域記』に 記されているが、これも都市としての楼蘭なのか、あるいはその頃には廃城となった旧?善国の別の 都市なのか不明である。
中央アジア探検
近代的な調査は19世紀のヨーロッパ人探検家による調査によって始まる。 その始まりは1893年10月から行われたスウェーデンの探検家、ヘディンによる中央アジア探検である。 最初の探検では水不足のために一時は探検キャラバンが壊滅し彼自身も死の淵を彷徨うこともあった 難旅行であったが、ヘディンは1897年3月まで西域各地を回った。 そして2度目の探検旅行が1899年6月に開始され、翌1900年3月23日、楼蘭遺跡を偶然発見した。 その翌年彼は楼蘭を再訪し若干の調査を行った。
詳細は「スヴェン・ヘディン」を参照
ヘディンの私的な探検旅行とほぼ同時期にタクラマカン砂漠を調査する探検隊がもう1つ存在した。 それはイギリス領インド帝国の考古学調査局が派遣したオーレル・スタインが率いる探検隊であった。 スタインの探検隊に先立つ1889年にイギリス領インド帝国に勤務していたイギリス軍人バワー大尉は、 かつてイギリス人の案内人を勤めていたヤルカンドの商人デルグライシュが、 カラコルム峠で商売上のトラブルによって殺されたため、その犯人の調査を命令されていた。 犯人を追ってクチャまで達したバワー大尉は、そこで現地人が廃墟から拾ってきたという古写本を 購入し持ち帰った。(蛇足であるがこの時の殺人犯はその後サマルカンドで捕えられた。)
バワー大尉の持ち帰った古写本を調査したウェーバーや、ヘルンレといった学者達は直ちに これが価値ある考古学遺物であることを認め、インド政庁に写本の収集を依頼した。 インド政庁はこれを受けて各地で写本の収集を始め、またこの噂を聞いたロシア帝国の カシュガル領事ペトロフスキーも古写本の収集を始めた。そしてこういった古写本の 中にそれまでほとんど知られていなかったカローシュティー文字文書が見つかったため、 ヨーロッパの学会において中央アジアの探検調査の重要性が認識されるに至った。
こうした中でスタインの探検隊も1900年から西域へと派遣され大きな成果を上げた。 この時は直接楼蘭の首都は調査していないが、ニヤの町で現地人イブラヒムが見つけた 木簡を見て重要性を認識し、彼の案内でニヤ遺跡(チャドータ 精絶)の調査を行い100枚を 超える木簡文書を発見した。そしてこの中に楼蘭王が出した命令書を見出したのである。 スタインは同時期にヘディンが楼蘭遺跡を発掘していることは全く知らなかったが、 インドに戻った後この発見を知った彼は2度目の調査を企画し、1906年12月には楼蘭の遺跡を調査し、 数多くの古文書を発見した。
詳細は「オーレル・スタイン」を参照
1908年には日本の大谷探検隊(第2次)が楼蘭を訪れた。西本願寺の大谷光瑞は非常な情熱を持って 数次にわたる中央アジア調査を企画し、彼によって派遣された橘瑞超は楼蘭故城を訪れた。 この時の調査によって『李柏文書』と呼ばれる有名な文書が発見されている。 彼は1911年にもかつての楼蘭王国の領域を訪れて壁画などを収集した。
日本の探検隊はその後長く途絶えたが、ヘディンやスタインは繰り返し楼蘭の調査を行っている。 彼らの調査は当時新しく成立した中華民国政府や文献の国外流出に怒る中国人学者達の強い 反対を受けて難航したが、全ての調査に中国人を同行させることで同意を取り付けたり、 道路建設のための調査依頼を受ける形での調査を行った。こうした苦労に報いるに十分な発見が 1934年にヘディンによってなされた。新疆で発生していた回族の反乱のために彼は拘禁されていたが、 偶然にもロプノール地方で灌漑の可能性の調査を命ぜられ現地の調査を行う事ができた。 このとき彼は女性のミイラを発見したのである。この発見に興奮した彼はそのミイラに 「ロプの女王」と言う名をつけたが、実際にこのミイラが女王のミイラであったかはわからない。
番組『シルクロード』の取材と中国の調査
この時の調査以降、第二次世界大戦や国共内戦、更に中国の共産化などのため、 暫くの間楼蘭の調査は途絶えた。再び楼蘭に大規模な調査隊が訪れるのは1979年の事である。 これは日本のNHKと中国の中央電視台による共同制作番組『シルクロード』の取材によるもので、 この時中央電視台の要請によって中国人学者による調査隊が組まれたのである。 このとき新たに女性のミイラが発見されている。翌年には更に大規模な調査が行われ大きな 成果を上げた。この調査では初めて楼蘭の水源も明らかとなっている。 その後も大規模な調査が繰り返し行われ、多くの知見が得られた。
1986年以降は新疆文化庁によって恒常的に調査が行われ、膨大な量の遺物が収集されている。 1988年の日中共同調査では早稲田大学教授の長澤和俊やジャーナリストの轡田隆史も 楼蘭故城の調査にあたり、外国人としては54年ぶりの楼蘭調査となった。しかし、 現在は外国人による調査がほとんど許可されないため、中国人学者の手によって行われている。




わいん(和韻)
漢詩で、他人の詩に和し、同一の韻を用いて詩を作ること。原作と同一の字を同一の順に用いる次韻、順にこだわらずに用いる用韻、 同一の韻に属する他の字を用いる依韻の3体がある。